top of page

白色伝導

1 地下室で眠る人

 

 男は夢を見いる。がらんとした地下室の真ん中でひとり、椅子に腰かけて、目を開けたまま夢を見ている。彼の前には水槽がある。鉄製の黒い四脚の台の上に乗せられた、さいころ型の大きな水槽。天井から差し込む光線が水の中を青白く照らしている。粗い珊瑚砂が敷き詰められ、マツバイやパールグラスやウォーターコインといった水草がゆらめいていた。がらんとした地下室には、その水槽のほかに何もない。

 ひとつの生き物が水の中を泳いでいた。ひたすらに白く、滑らかなその皮膚は、地下室の青白いライトに照らされて妖しく不思議な色をまとっている。その体のどこにも目や鼻や口らしき器官は見当たらない。鰓も手足も呼吸器も見当たらない。それは真っ白な風船のようにも見える。

 生き物は自由に泳いだ。その遊泳によって生き物は水中に文字を書こうとしいた。少なくとも彼にはそんな風に見えた。まっすぐ急速に泳いでいくつも直線を描き、しなやかに旋回する動きで曲線を何本も描いた。

 もちろん彼にはその文字は読めない。

 気がつくと地下室には雨の匂いが立ち込めていた。ずっと昔にどこかで降った雨の匂いだった。白い生き物を眺めるとき、彼にはよくそういうことが起こる。古い失くした記憶がよみがえるのだ。正確に言うとよみがえるような気がするのだった。そうした記憶はあまりにおぼろげなので、ほとんど夢と見分けがつかない。しかし彼にとってはどちらも同じようなものだった。現実から遠ざかった薄暗い地下室で、いつもそうして彼は過去をめぐった。

 数分前までは風船のような形をしていた生き物は、今では台形に近い形状に変わっていた。先ほどよりもやや膨らんでいるような気もした。

 さらに長い時間が経過したあと、彼は夢から覚めた。生き物はとっくに泳ぐのをやめていて、水草の陰にうずくまっていた。その体は丸めたティッシュペーパーのように縮んでいた。

 すでに夜になっていた。地下室には窓はもちろん時計さえもない。それでも彼は夜の訪れを知ることができる。

 

 彼は下関市西部の小さな町の一角に位置する家にひとりで住んでいた。かつては祖父母と両親も一緒に暮らしていたのだが、みんな死んでしまって、今では彼一人きりである。家は築七十年を超えた古い一軒家で、屋根も外壁も塀も古びて黒ずみ、ほとんど朽ちかけている。部屋は多くない。台所と狭い居間、縁側のある仏間と浴室とトイレ、あとは部屋が二つ。北側の一室を彼は自室として使用していたが、そこで過ごす時間は多くはない。家にいるとき、多く時間を彼は地下室で過ごす。

 なぜ家に地下室などがあるのかというと、生前に父が欲したからだ。父は地下を好んでいた。地下という状況を愛しているのだと、父は息子である彼に何度も口にしたことがある。それだけの理由で父は家に地下室を増築したのだった。がらんとした四角い、暗い地下室に、父は時々閉じこもった。その間、入り口のドアには鍵がかけられていて、誰も出入りできなかった。そこで父が何をしていたのか彼は知らない。とにかく父は単なる物置やワインセラーとして利用するために地下室を作ったのではなかった。

 彼にとっても子供のころから地下室はお気に入りの場所だった。昼間、父が仕事に出かけているときには、彼は地下室に自由に出入りすることができた。彼はその中で特に何もしない。壁にもたれてぼんやりするだけでも、彼は十分満足を覚えることができた。まるで宇宙船の中にいるような気分がした。

 縁側のある仏間は家の中で彼が地下室に次いで好きな場所である。縁側は南西を向いていて家の中で最も日当たりがよい。彼は縁側に寝そべって読書することを好んだ。ところで彼が読む本は小説か漫画本か絵本に限られている。それ以外の本を開くことはなかった。彼は物語の形をとっている書物だけを欲した。

 縁側は狭い庭に接している。庭はガラクタで埋め尽くされている。かつて彼の母が、ごみやがらくたの類を庭に集めて置くことを好んでいたのだ。壊れた椅子、壊れた扇風機、壊れたオーヴン・トースター、古本や古雑誌、どういうわけかドアまであった。これは母がトイレのドアがあんまり昔っぽくて気に入らないという理由で業者を呼びつけ交換してもらい、不要になった古いドアがそのまま庭にほうり出されていたのである(業者に古い方を引き取ってもらうこともできたのだが、母はどういうわけかそれを拒絶した)。ドアは他の雑多ながらくたと一緒に塀に立て掛けられていた。あくまで母に言わせるとではあるが、それらのがらくたの配置には秩序と法則があるらしい。彼や彼の父が、少しは庭を整理するべきではないかと提案したりすると、母は、でたらめに積み上げているのではないのだということをその度に主張したものだった。母はそのようにして自分なりのやり方で庭を「彩っている」のだということだった。細やかで神経の行き届いた「オブジェ」(母はがらくたをそのように呼んだ)群の配置によって、庭はまるで博物館やテーマパークのように賑やかに活気づいているではないか、と母は言った。

「見てみいね」と母は言ったものだった。「こんなに鳥たちが集まって来る。猫も。動物が集まるのは、この庭が楽しいからなんよ」

 母は庭についてはとても頑固だった。かたくなに意見を曲げようとはしなかった。父が見かねて庭を片づけようとしたとき、母はひどく怒り、ほとんど取り乱してしまった。そして母はいつになく強い口調で父の行為に対して苦言を呈した。

「私が父さん(彼の父のこと)の音楽の趣味にけちつけたことないやろ? 私が山ほどあるあのCDを勝手に捨てたりしたら、怒るやろ? それと同じ。私の庭に手出しせんで」

 父はいわゆる「ハード・ロック」というジャンルの音楽を愛好していて、その手のCDは確かに父の部屋の大部分を占領していた。そして母はその手の音楽を毛嫌いしていた。母がそんなにきっぱりとした口調で父に対して意見したのはそのときだけだった。

 そんなわけで庭はがらくたに埋め尽くされていった。彼も、彼の父も、母が庭に作り出したと信じている小世界の美的価値を信じることができない。しかしそれらのがらくたのおかげなのかは不明だが、確かに母の言う通り野鳥や野良猫は実に頻繁にその庭を訪れた。実際に母が作り上げた「テーマパーク」は結構な集客力を備えていたのだ。鳥は木に集まるものとばかり思っていた彼は、木など細い幹のものが一本あるだけのその庭に、多くの鳥が集まることが意外だった。庭を眺めるたびに何かしらの鳥が目についた。おかげで彼はいくつかの野鳥の名前を覚えるまでになった。鳥たちは積み上げられたがらくたの上を跳ねるように歩いたり、あちこち飛び移ったりしていた。いちどやってくるとなかなか去らなかった。

 鳥に比べれば数は少ないけれども庭には猫もやって来る。たいていは年を取って落ち着いた猫だった。彼らはがらくたの隙間の暗がりのような場所に寝そべって眠っていることが多かった。猫が現れると、鳥たちは飛び去ってしまう。

 近所の人がこの荒廃した庭を見たらどう思うか、という考えも母にはなかった。母は特に頑固な性格というわけでもないのに庭に関してだけは彼や彼の父がどんなに言っても一歩も譲らず、決してがらくたを積み上げることをやめなかった。母は好きなことであればとことんまで突き詰める性格をしていた。母はもともと手先が器用で、手芸や押し花が得意だったし、何より絵が上手で、その作品が下関の地域情報誌に掲載されたこともあった。つまりそれなりに芸術家的な傾向を有していたのである。

 彼は母の死後も庭に手をつけなかった。庭は芸術家として母が残した作品であると彼はみなした。庭は荒廃した状態のまま長く放置されていた。

 

 母が死んだのは彼が15歳のときだった。6月のある朝、目を覚まして台所に入ったとき、彼はなぜか血の匂いを嗅いだ。両親の姿はなく、朝食の用意もされていなった。彼は家中を探しまわったが、どの部屋も無人だった。庭にも誰もいなかった。最後に彼は地下室に向かった。階段を降り切ったところにある入り口のドアがわずかに開いていて、その隙間から明かりが漏れていた。ドアを開けようとして、彼はドアノブに付着した大量の血に気づいた。彼は息を呑みながらも、ドアに手をかけて地下室の中を覗いた。床一面に血が広がった部屋の真ん中に、ひとりの人間がうつぶせに倒れていた。それが母であることはすぐにわかった。

 血の匂いが地下室にいっぱいに立ち込めていて、その匂いが彼を混乱させた。彼はすぐに背を向け、震える脚で階段を駆け上がった。地上に戻ると意味もなく家の中を歩き回りはじめた。思考が実を結ぶことなく混沌とした状態のまま彼の頭の中をめぐっていた。ようやく父のことに思いあたったのは、それから十数分が経過してからのことだった。父の姿は依然としてどこにもなかった。外に出て車庫入れを見に行ってみると、父の車はそこにはなかった。

 彼は再び家に入り、台所の椅子に腰かけて、気を落ち着けようとした。おそらく父は車で警察に行ったのだ、血を流して倒れている母を発見して、そのことを知らせに行ったのだ、と彼は考えた。しばらくの間、彼はそう信じて待った。落ち着かなく体のあちこちを動かしながら椅子に座って外から車の音が聞こえるのを待った。

 そのまま30分ほどが経過した。その30分間、彼はまるでいつも母親が作る朝食が出来上がるのを待つときのように、台所のテーブルに向かって腰かけていたのだった。よく考えてみれば警察を呼ぶのなら車で行く必要はない、と彼が思い当たったのは、ずいぶん後のことだった。それなら電話をかければいいのだ。わざわざ車に乗っていく必要はない。もし呼びに行くにしたって、交番は歩いて家から五分ほどの距離にあるのだから、わざわざ車に乗っていく必要もない。思考能力が鈍っていたのか、そんな当たり前のことに彼はそれまで気がつかなかった。

 彼は立ち上がって電話機を手に取り、110番を押した。

 やがてパトカーが家にやって来た。彼は到着した警察官に事情を話しながら、ずっと取り乱して、泣き続けていた。分別のつく年頃になっていたとはいえ、突如として降りかかったその悲惨な事態に対して冷静に振舞えるほど、彼は成熟してはいなかった。

 彼の母は腹部をナイフのような刃物で刺されていた。死因は出血多量だった。凶器は見つからず、父親は姿を消したままだった。車だけでなく、父親の所持品の多くがなくなっていた。財布と通帳や免許証などといったものが紛失していた。殺害されたのはおそらく真夜中の時刻だということだった。

 警察官は彼にいろんな質問をしたが、彼に答えられるようなことはほとんど何もなかった。彼は何も知らなかったし、何も見ていなかった。両親の様子は事件の前日も普段と何も変わったところはなかった。喧嘩をしたような様子もなく、普段通りに言葉を交わしていた。いつも通りの何事もない平穏な夜だった。彼は十一時過ぎに眠り、その眠りは朝まで一度も妨げられなかった。夜中に不審な物音を耳にしたりといったこともなかった。

 地下室には大人の男のものと思しき足跡が残っていて、それは地下室から階段を伝って玄関まで続き、車庫入れにも残っていた。それは父の足跡であるとほぼ断定された。

 直ちに父の行方の捜索が開始された。三週間後、200キロほど離れたある市で、父の車が見つかった。濃い緑色のゴルフは山の入り口の雑木林のようなところに乗り捨てられていた。運転席のシートには手で拭ったような血の跡があった。鑑定の結果それは母の血液のDNAと一致した。しかし父の行方は依然知れないままだった。

 一夜にして両親を失った彼はその後一人で生きていくことになった。身を寄せられる親族がいないことはなかったが、彼はそれまで住んでいた家に住み続けることを選んだ。父親が姿を消したままだったので、母親の保険金は彼が代理人となって受け取った。それに加えて母が残したわずかな預金が彼のものになった。彼は高校一年生になったばかりだった。

 伯母に当たる父の姉がときどき彼の家を訪れて、身の回りの世話や、わずかながら経済的な援助をしてくれた。彼はそうした環境のもとで高校に通い、卒業した。卒業後は市内の印刷工場に就職した。別に彼は印刷工になりたかったわけではなかった。彼にとって職業選択の自由などないに等しかった。

 収入は多くはなかったが、一人でつつましく暮らすぶんには特に不自由はなかった。彼は私生活においてめったにお金を使わない。服もろくに買わないし金のかかる趣味や道楽もない。

 そのようにして数年が経過した。彼の暮らしは単調で規則正しかった。週に五日か六日の労働、それ以外の時間は外出することもなく、たいてい地下室にこもっていた。友人も恋人もいない。多くの時間を彼は家の地下室で一人で過ごした。

 母親の死体が取り払われ、床の大部分を覆っていた血は拭き取られたが、コンクリートの床には血の跡が染みとなって残った。母の死後もこの家に一人で住み続けることを選択したのはあるいはこの地下室の存在のためだったのかもしれないと彼は時々思う。自分はこの地下室から離れたくなかったのだ。またこの家にとどまって父の帰りを待っていたいという思いもあった。奇妙なほど、彼は自分を置いてどこかに消えた父に対して、怒りや怨みのような感情を抱いていなかった。いつかこの家に帰ってくるだろうという漠然とした予感を、何の確証もないのに、抱いて暮らしていたのだった。

2 ため池の生き物

 彼が住む町には多くのため池がある。灌漑用として古くから利用されていたもので、それらの池はたいてい森や雑木林の奥や、山のふもとといった場所にあった。幼い頃から、彼は一人で森の奥や田んぼのはずれにある人けのないため池に行ってはそこで長い時間を過ごした。彼は池に対して親しみのような感情を覚えていた。池には動きがなく、静かで、またどこか何かにじっと耐えているような、あるいは何かを待ち構えているような雰囲気がある。様々な秘密を人知れずそのうちに隠し持って口をつぐんでいる人のような感じがある。

 ある池のそばで、彼は骨を見つけたことがあった。池の外周を歩き回っているときに彼はそれを見つけた。いろいろな種類と大きさの骨が、草で覆われた地面の上に無造作に散らばっていたのだった。つまようじのように細い骨もあれば、彼の手首と同じぐらい太いがっしりした骨もあった。小さな動物の頭蓋骨と思しき破片もあった。いくつかの骨は錆びたみたいに赤黒く汚れていた。

 いくつかの清潔そうな骨を手に取ってみた。それは硬く、稠密な感じがして、想像よりも軽かった。そのうちの手ごろな大きさのものを一本持って、池の水で洗ってみると、骨はさらに白くなった。彼はしばらくその白さに見とれていたが、だんだん怖くなった。たくさんの骨の中には、人骨も含まれていたのではないだろうか。だしぬけにそんな考えが浮かんだのだった。

 突然強いが吹いて、木の葉が擦れて音を立て、池の水面に波紋が生じた。秋の終わりの夕方のことで、木々は燃えるような赤や山吹色に染まってあたりにそびえていた。池の半分は夕日に染まっていたが、光の届かないもう半分はぞっとするほど黒々として見えた。

 彼は突然身震いした。そのあと、彼は長くは池のほとりに止まらなかった。その池に近寄ることは二度となかった。

 寂しい場所で一人で過ごすことを愛する性向からもうかがえるように彼は幼いころから内向的な性格だった。孤独を好み、孤独になるためにあちこちのため池に出向いた。外出といえばそれぐらいのものだった。狭い町のことなので、そんな風に出歩く姿を彼は学校の同級生たちに目撃されることがあった。どこへ行くのかと尋ねられると、彼はいつも野鳥観察だと答えた。いかにも野鳥を愛しその観察を生きがいとしているのだという風を装うために望遠鏡とカメラを持ち歩きさえした。もちろんそれは嘘であり演技だった。彼は一人でため池に行くことを他人に知られたくなかった。たいていの同級生は野鳥観察と聞いてつまらなそうな顔をして去って行く。彼らは鳥になど興味を持たないのだ。

 ある日彼は図書館の郷土史の資料に付属していた町内の地図を眺めていて、あるため池の存在を知った。町にあるため池の中で二番目に広大な面積を持ち、細長い三つの池が一つにつながったような形をしていた。それはまるで三本指の恐竜の足跡のように見えた。

 もちろん彼はそこに行きたいと思った。どうしても行かなければならないと思った。彼は地図をコピーして持ち帰った。

 地図で見るとその池はほとんど山奥にあった。どれだけ見てもそこに至る道筋が地図上には見いだせない。そもそも道が存在するのかさえ不明だった。それでも彼は次の日曜日になるとその場所を目指して出かけた。それは彼の家から歩いてに十分ほどの距離にあった。地図を頼りに歩きながら、彼はいつしか田んぼのあぜ道を進んだ奥にある雑木林に差し掛かっていた。

 想像した通りにそれはほとんど道なき道を進むような行軍だった。道とも見えないような、かつては道だったに違いないのだが、すで利用されてもいないと思しきその池に続く道を通る人間などもういないのだろう、草木は伸び放題でふみならされてもいない。彼は草や木の枝やをかき分けながら苦労して進んだ。そしてようやく池についた。彼は三つの細長い湖を現実に目にしていた。それは彼の目の前に、深々と生い茂る草木を挟んでひっそりとたたずんでいた。文字通り隔絶された場所だった。音といえば風と鳥の声のほかにはなく、もちろん彼のほかに人間は誰もいない。ひっそりした水面は鉛色をたたえていた。

 尖った三本の爪の隙間の陸地にも木々が深々と生い茂っている。池の外周もほとんどは木々に囲まれていて、歩けそうな場所はほとんどなかった。歩き回ることができるのはその巨大な爪型のうちの南端のほんの一部に過ぎなかった。一度には全体を見渡すこともできない。

 彼はその池が気に入った。まさに自分が探し求めていた場所だと思った。五月の新緑は鮮やかで、春の日差しが注ぐ濁った池はきらきらと光を反射し、鳥があちこちで鳴き交わしていた。そういう明るさの背後に、彼は確かに池が隠し持っている不穏な秘密の存在を察した。

それはただの池ではない、この隔絶した場所で、かつて確かに何か不穏な出来事が起こったはずだ。誰にも知られることのない忌まわしく古い記憶が、泥と藻に覆われた池の底に沈んでそのままになっているはずだ。彼はそうした妄想にとらわれた。その妄想は暗く陰鬱で陰惨で、彼は自らの妄想に対する恐怖のために体が冷えてゆくのを感じた。しかしそのためにこそ、その冷たい感覚がより強く彼をその池に惹きつけた。

 それ以来彼は何度もその爪跡型の池に通った。彼は自分だけの秘密の場所を持っていることを喜んだ。彼はその場所で人類が死滅した後の世界に一人残されたようなほぼ完全に近い孤独感を味わうことができた。その気分は辛くも寂しくもなく、むしろ心を落ち着かせるものだった。そして彼が未知なる白い生き物と出くわしたのはその池においてだった。

 

 それは高校卒業を目前に控えたある冬の午後のことだった。いつものように池のほとりで過ごしていたとき、彼は池のふちに何か白いものが浮かんでいるのを見た。鳥でも魚でもなく、猫でも犬でもなく、骨でもなく、まして生きている人間でもない、何かとても白い小さな物体だった。形と色と大きさから、彼はバレーボールを思い浮かべたが、しかしどう見てもそんなものではなかった。表面には汚れも縫い目のようなもなく、そもそも白すぎた。まるで空間に白い穴が開いたみたいに見えた。それはほとんど目に痛みを感じさせるほどの白さだった。そんなに完璧で純粋で無垢な白色を彼はそれまで見たことがなく、そのために彼はしばらく奇妙に混乱して、予測のつかないような不慮の事態に襲われてた人のように動揺していた。精神をかき乱すほどに白いその物体の正体を確かめるために、彼は恐る恐るそれに歩み寄った。池のふちに立ち、屈んで手を伸ばしてみたが、手は届きそうもなかった。彼は辺りを探し回って手ごろな長さの木の枝を拾ってきて、それを白い物体に近づけた。

 尖った枝の先が触れて、表面を柔らかく押した。枝の先が物体にかすかにうずまった感触があった。やはりボールなどではない、と彼は改めて思った。彼はそのまま引っ掛けるようにして物体を引き寄せた。それは今や彼の足元の水面に、手を触れられる距離にあった。間近で見てもそれはやはり真っ白で、そして何なのかわからないままだった。

 彼は木の枝を地面に捨てて白い物体の前に屈み、人差し指の先端で軽くつついてみた。物体の表面が指先の形に小さくくぼんだが、数秒ほどで元に戻った。それはやはりひどく柔らかく、滑らかだった。

 少し迷った後で、彼は今度は両手で丸い物体に触れた。その両端を支え、そのまま持ち上げるようにした。それは容易に持ち上がって水面を離れ、その全体があらわになった。それは全くボールのように球形をしていた。そしてひどく柔らかいのに、しっかりと形を保っていた。まるで巨大なマシュマロのよう、しかしマシュマロよりさらに柔らかい。まるで茹ですぎたお餅みたいに、つまんだり引っ張ったりしたら、思うままにどんな形にでも変えられそうな感じがある。それでいながらそこにはゴムのようなどこか固く冷たい感じがあった。重みはほとんど感じなかった。

 彼は両手で支えたまましばらく観察していた。目の前で見るその白色の眩しさに、彼の頭はくらくらしていた。そのとき、物体が手の中でかすかに動いた。その白い球形の内部で、何かが脈打つような、あるいはかすかにうずくような感触が、彼の手のひらに伝わった。あるいはそれは気のせいだったのかもしれない。それはあまりにかすかで、ほんの一瞬のことだった。しかし彼は反射的に手を引っ込めた。白い物体は真下の水の上に落ちて、飛沫が飛び散った。

 彼は思った、この白い物体は生きているのだ。えらも背びれも、手足も尻尾も目も口も見当たらないけれども、確かに生きている。

 再び池に戻った「生き物」はぴくりともせず水面の同じところに浮かんでいた。彼はそのあとは何もせず、池から立ち去った。

 

 彼は通信販売で一辺が1メートルもある巨大なさいころ型の水槽と、それを支えるための鉄製の台を購入した。それらを彼は地下室に運び込み部屋の中央に設置した。今も床に残る、ちょうど母がその上に倒れていた血だまりの跡の染みと重なるように。それからホームセンターで購入した珊瑚砂と水草を底に敷き詰め、池と同じ水質の水を満たした。そしてある小雨の降る日曜日に、網と釣り竿とクーラーボックスとを持って、再び爪跡型のため池へと向かったのだった。

 生き物を捕獲するのに苦労はなかった。その日も生き物はちゃんと水面に浮かんでいた。一応持ってきておいた網や釣り竿などを使う必要はなかった。彼が手を伸ばすと生き物は待ち構えていたかのようにその手に抱えあげられ、抵抗することなく、水を満たしたクーラーボックスの中に収められた。彼はクーラーボックスに池の水をすくって少し足して、そのあとしばらくの間生き物の様子を観察したが、変わった様子は見られなかったので、そのままふたを閉めた。そして家に引き上げたのだった。

 家の地下室でクーラーボックスを開けると、生き物はずいぶん小さく縮んでいた。バレーボール大だったそれはビー玉ほどの大きさにまで縮まってしまっていた。少し不安になった彼が、指先でつついてみたところ、生き物はまりもみたいに浮かんだり沈んだりを繰り返した。どうやら死んではいないようだったので、彼はとりあえず安心し、そのまま生き物をクーラーボックスから出して、水槽に移した。

 ビー玉のようだったそれは、水槽に入って数秒の後に、少しずつ膨らんでまたバレーボール大にもどった。それからさらに、ごく自然に当り前のように形を変えはじめた。球形から少しずつ細長い棒のようになり、その棒はどんどん細長くなって、それからぐにゃりと折れ曲がって両端が繋がって輪を作り、その状態のまま再び外周が膨張をはじめ、輪の内側の穴はすっかり塞がれてやがてピザのように平べったい形となり、そのあとさらに膨らんでまたもとの球形に戻った。そのような動きが水槽の中で何度も繰り返された。彼は生き物が縮んでいたのは衰弱していたためではなかったことを知った。それは自由に身体の大きさを変えられるのだ。

 生きている、と改めて彼は思った。それも大そうダイナミックに、表情豊かに、はちきれそうな生命力で生きている。彼は生き物から目が離せなかった。生き物はやがて水の中をゆっくり移動しはじめた。それは実に多彩な泳ぎ方をしたし、泳ぐ間にも形は一定せず、泳ぎ方も実に多彩で、水中を漂ったり、弾丸のように素早く移動したりした。

 生き物が何を餌とするのか不明だったので、彼はホームセンターに行って水槽飼育用のいろんな餌を買ってきて与えてみた。生き物はそれらすべてを残らず食べた。食べるというよりは取り込むという感じだった。餌を投げ入れると、彼は白い体を広げながら近づき、包み込むようにすっぽりとそれを覆ってしまう。そのあと生き物はしばらくその場にじっとしている。次に動き出したときには餌は影も形もなくなっている。彼は試しに肉類や野菜や果物、ドッグフードとかキャットフード、家の庭で摘んだ花とか草とか木の実とか果物とかを手当たり次第に与えてみたが、生き物はみんな同じようにそれらを体内に取り込んでしまった。後には何も残さず、綺麗に呑み込み消化してしまう。

 生き物の食事の様子を見るのは愉快だった。そのさまはひどく奇妙で、しかも旺盛な食欲を感じさせる。そしてひとかけらも残らずに体内に取り込んでしまうところが何とも言えず彼の気に入った。餌を投げ入れるたびに彼は生き物を食い入るように見つめた。

 生き物が消化していることを知ったのは、それが排泄するところを見たためである。丸くなって水槽の底の砂の上にうずくまった生き物の体の下から、生き物と同じほどの大きさの球形が現われる。最初に見たとき、彼は生き物が分裂したのではないかと思ったが、新しく生まれた方の球形は白くはなかった。それは角度を変えるごとにいろんな色に見える、不思議な色合いをしたシャボン玉のような物体だったが、中身は空洞ではないようだった。空洞ではないのにひどく軽いようで、虹のような色彩をたたえながらそれは水面に向かってゆっくりと浮かんでいった。そのような物体が一つか、時には二つも三つも生き物の身体から排出された。多くのものを体内に取り込んだ時ほど、生き物は多くの泡を排出した。

 生き物は水槽の中でいろんな泳ぎと変形を披露した。伸縮自在なその体は、泳ぐときには自在に様々な形に変形する。大きさも厚みも変化する。紙みたいに薄く広がったり、蛇のようにねじれたり、千切れそうなほど細い髪の毛みたいな糸状になったりした。そして広い水槽の隅から隅まで、それは実に愉快そうに泳ぎ回ったのである。マシュマロめいた身体は実に様々な形に自由に変化する。もう二度と元には戻らないのではないかと思うほどに変化する。しかしどんなに複雑な形に変形しても、最後には必ず球体に戻る。遊泳の終わりには、生き物はそのときの形のままゆっくりと水底に沈み、砂の上に着地する。でたらめにこね回した粘土のような形をしたいびつな物体は、そのまま全体が溶けるようにいくつもの切れ目や割れ目がくっつき、やがて球形に戻る。そのまま水槽の隅や物陰で丸まって小さくなって生き物は眠る。

 生き物の白さは比類のないものだった。彼が過去に見たいろんな白いもののなかで、それは間違いなく最も白いものだった。他のどこにもない白さだった。きめの細かい真っ白な表面には汚れもくすみもなく、まるで発光するようだった。穢れのないという表現はこのためにあるのではないかと思えるような白さ。完璧な白色、それはまるで無垢とか純粋とかいった概念を色で表したかのよう。彼はこの世にこの白い生き物がもつ白さを上回る白さなどどこにも存在しないことをすでに確信していた。そして彼は世界でただ一人自分だけがその白さを知っていることについて、誇りのようなものを抱いている自分に気づくのだった。

 時々彼は明かりを消して真っ暗闇の中で過ごすこともあった。そのような中でも彼は白い生き物の姿を目にすることができた。白い表面は実際に光を放っているのかどうか、彼にはよくわからなかった。とにかく彼は闇のなかでもそれを目にすることができたのだった。彼は闇と同化した水の中でもその白い生き物の姿を見失うことはなかった。

 生き物を飼育するようになってから彼はため池めぐりをやめていた。その行為はもう彼には必要なかった。

3 みかん色の自動車の女

 成長した彼はすでにナイーヴで非社交的なかつての少年ではなくなっていた。孤独を愛する性向は未だ根強く残っていながら、いつしか彼はごく自然に、まっとうないち「社会人」として振舞う術を習得していたのである。彼に対する近所の人々からの評判は大変良かった。彼は背が高く、髪の毛はいつもきれいにセットされていて、衣類には皺ひとつなく清潔だった。風采もよく愛想もよく礼儀正しかったので、たいていの人は彼に良い印象を抱くことになる。両親との交友のあった一部のごく親しい近所の人たちのほかには、彼のそのような過去と背景を知らなかったし、想像だにしなかった。暗い過去をしのばせる片鱗も見せなかったので、たいていの人には彼は両親の愛情を十分に受けて物質的な不自由など何一つなく育った好青年として映った。

 あらゆる人に対して愛想よく振舞いながらも、彼は誰とも個人的に親しく付き合うことはなかった。高校を卒業して以来友人も恋人も作らず、誰の家にも招かれず、誰も家に呼ぶこともなく、多くの時間を地下室で一人きりで過ごす。彼の周りに張り巡らされた壁、いや、それほど強固なものでなくても膜のようなものは、彼とわずかにでも接点を持ったことのある者には、確かに感知しうるものだった。確かに愛想もよくハンサムだし、頭もよさそうだ。しかし何を考えているのかわからない。口にする言葉が本心であるかどうかもわからない。程度の差はあれ彼と言葉を交わした人々は一様にそんな印象を抱いた。

 彼自身もまた自らを包む「膜」のようなものの存在を認識していた。その存在を感じたのは両親を亡くしてからのことだった。そしてそれが年月が経過するほどに分厚くなっていることも自覚していた。他人が目に見えない膜の存在を感じ取って、それで彼にどこかよそよそしい、あるいはさらに言えば胡散臭いという印象を持ったとしても、彼は気にしなかったし、仕方のないことだとも思った。むしろそんな風に彼は他人に遠ざかっておいてくれることを望んだ。簡単に言うと放っておいてほしい。

 母を亡くして父が行方不明になってから、そういう近所の人たちは気の毒がっていろいろと支援してくれたり親切にしてくれたりした。彼はそういう心遣いに感謝しながらも、そしてそれは確かに現実的に彼にはずいぶんありがたいものだったのだが、ある時期、それは彼が就職してから二年が経過したころのことだったが、彼はもうそれ以上の手助けや同情は不要であるという旨を、言葉を選びつつ、しかしはっきりと告げたのだった。つまりとある近所の中年の女性は純粋な好意からときどき一人暮らしの彼のもとに米や果物などを提供することがあったのだが、彼はそれを断ったのだった。

 お気持ちは大変ありがたいのですが、これ以上お世話になり続けることは自分としても申し訳なく、それにおかげさまでなんとか自分自身で生活を賄うことができるようになったので、今後の支援は不要である、そういったことを彼は述べて、人の好い中年の女性のほうが彼に対していろいろと異議を申し立てたのだが(「あら、うちは全然迷惑じゃないんよ。うちの畑じゃあ果物もいくらでも取れるし、田んぼでお米も作ってるし、余っているからもらってくれたほうがむしろ助かるんよ」)彼女の家は農家であり、畑まで持っていた。彼は一貫して申し出を固辞した。彼女のほうも驚くべき粘り強さで食い下がったのだが、彼もまた考えを変えることはなかった。結局女性のほうが折れてしまった。

 それによって彼と近所の人々との交流は事実上途絶えたと言ってよかった。誰とも親しく付き合うこともないまま、彼は風采がよくミステリアスな隣人として、近隣の人々からは居ながらにして無視されるような存在になった。彼は自分が地域社会のつまはじきもののような存在にならないように気を配っていたし、したがってある程度は近所付き合いのようなものを意識して愛想を振りまかなければならない場合もある。不必要に「浮いた」存在になること、平穏な空気を乱す可能性がある、と周囲に思われることは、彼が最も避けたいことだった。周囲とは可能な限り不干渉の状態を保ち、なおかつ、不自然に目立ったりすることなく自然に地域社会に属すること、それこそが彼の望む状態だったのである。そして今や彼はそれを実現した。

 多くの時間を彼は一人きりで過ごす。時々社交上の付き合いで飲みに行ったり食事に行ったりすることはあったが、彼が他人に対して自ら働きかけてどこかに誘ったりすることはなかった。同僚の中でも一部の鋭い人は彼という人間を覆う膜のその分厚さは、彼が注意深く隠している内面の異常な思想や傾向や性質を隠すためではないかと想像したが、しかしそれは単なる想像にとどまった。仕事でも優秀だったし身なりも清潔だったし気の利いた冗談も言う、そんな彼と接するうちに誰もがみな、自分が抱いた印象は単なる錯覚だったのだと思い込んでしまうのだった。

 しかしそういう彼が注意深く用心深く隠している膜の内側にあるものに対して、過度に興味を持ってしまう人も現れる。何人かの女性にとっては、彼の「膜」こそが彼の魅力をなすものとして映ったようで、彼のことを「ミステリアス」などと評して好意的に理解し、彼に対して平均以上の関心と好意を向けた。彼は女性に対しても親切で公平だったし、前述のとおり見栄えもよいので、女性に相手にされないはずもなかった。彼は18で就職してから30歳を過ぎるまでに、仕事の同僚やあるいは生活の中で接点のあった女性たちからから「愛の告白」(そういう大げさな言葉が似つかわしいほど彼女たちの思いは真剣で熱烈なものだった)を受けていた。

 彼はそれらの女性の誰に対しても積極的な思いを持たなかったが、だからといって無下に退けたりすることもしなかった。それは親切心や優しさのためというよりはむしろ、ひどい断り方をして逆恨みされたり噂になったり言いふらされたりして彼が求めるところの平穏な状態を乱されることを避けるためだった。それで彼は事を荒立てないやり方でそう言った女性たちに応じた。彼は断ることなく愛の告白を受け入れ、何か月か、あるいは一年近くも交際をしたのちに、穏当なやり方で別れるという方法をとったのである。彼は自ら女性たちに別れを告げる必要さえなかった。しかるべき時が来れば彼女たちは、あんなに熱を上げて入れ込んでいたはずの彼女たちは、自ら彼のもとを去ってゆくのだった。彼女たちはたいてい誰もが同じことを彼に対して思う。つまり交際してもなお彼を覆う「膜」は謎のままであり、分厚いそれに阻まれ続けてその内側にまで入って行ける感じがしない。当初魅力的だと感じていたミステリアスさは、むしろ気味の悪さへと変わってゆく。彼女たちはしばしば真剣に彼が人間ではなく宇宙人とか人造人間とかロボットとかそういうものではないかと思うこともあった。真の意味での心の交流のようなものは一度も存在しなかったし、これから先も同じだろう。女性たちが感じた印象とはたいていそのようなものだった。確かに見栄えは良いし親切だし気も利くし、申し分のない男性だけれど、本当に何を考えているのかはわからない。まさかとは思うけれど彼はこの人当たりの良い仮面の下に飛んでもなく異常なおぞましい何かを抱えているのではないかしら? 彼は交際していた女性たちでさえ自宅には入れなかった。その理由について彼は彼女たちに「幽霊が出るから」とか、あるいはそれに類似した理由をもって説明した。自らの過去については、必要な場合にのみ部分的に話した。母が死んで長らく一人きりで暮らしてきたこと。面倒なので父の不在については詳細は語らず適当に話を作った。母の死に方についてもはっきりとは語らず、もちろん女性たちだって掘り下げて聞き出そうとしたりはしない。そのことと幽霊話をそれとなく結び付けて話すこともあった。でも僕は寂しくはないんだよ、だって時々家の物置やふろ場に、母は現れるからね、あれは幽霊なのかな? 呼び方は何だっていい、僕はだからいつも母に見守られているんだよ、などと彼は言った。

 そのような話を聞かされた女性たちは反応に困った。そういう話をするときの彼は普段のように穏やかではなくどこか熱っぽく、微かに興奮しているような様子でもあったし、口調と表情は冗談とも本気とも取れないものだった。何人かの女性は冗談だと思って笑った。すると彼はそのまま黙り込んでしまう。彼は腹を立てるとそんな風にふさぎ込む。

 また何人かの女性は、幽霊がいてもいいから家に行きたい、と主張した。しかし彼は断固としてそれを拒絶した。幽霊は危険だから、と彼は言った。なぜ幽霊が危険なのか彼女たちには理解できなかった。しかし彼は何を問われてもその理由を押し通し、そして本当に家にいれてくれない。そのことが理由で彼の下を去って行った女性ももちろんいる。

 彼は決して女性たちを名前で呼ばない。何か月経っても彼は女性のことを「君」としか呼ばなかった。そういったことも彼女たちの気持ちを遠ざける原因となった。

「私のことが好きじゃないの」、女性たちはしばしばそんなことを言った。

 好きだよ、と彼は答える。そのような問いかけにうんざりしていることはおくびにも出さずに。その声の平板さと無機質さはむしろ彼女たちを傷つけることになる。彼はそのことももちろん理解している。

 しかし簡単には引き下がらない女性もいる。それは彼の家の近所に住む彼より一つ年下の女性だった。上山さんとこのサキちゃん、と彼はかつて母親が彼女のことをそう呼んでいたのを記憶していた。彼自身は彼女のことを何と呼んでいたかは忘れてしまった。おそらくその頃から名前では読んでいなかったのだろう。上山サキとは幼いころには一緒に遊んだりしていたが、彼が小学校高学年になった頃にはすでにほとんど没交渉となっていた。やがてろくに顔も合わせなくなり、彼女はそのまま高校を卒業して広島の大学に進学し、そのままその土地で就職したらしい。しかし最近になって再び彼は彼女の姿を近所で見かけるようになっていた。

 彼は上山サキのことを覚えていたが、大人になった彼女を目にしても、特に何の印象も抱かなかった。子供のころ一緒に遊んだことをおぼろげに思い出すばかりだった。その記憶も特に懐かしむというほどのものでもない。女性としての上山サキには特に秀でた魅力があるわけでもない。彼女はフグに似た顔立ちをしていた。目が丸く、頬も丸く、顔全体が丸いのだった。口は横に大きくて唇は潰れたみたいに平べったくめくれ上がっている。しかしどういうわけかスタイルは良かった。胸は大きく、肩や腕は女性らしい優美な曲線を帯びていた。いつも後ろで束ねている黒い髪も長くてつややかで綺麗だったので、後ろから見たり、遠目から眺めたりする分には、悪くなく見える女性なのだった。

 大抵日曜日の午後に彼は上山サキの姿を見かけた。その時間帯に彼女は毎週欠かさず家の前の車寄せで車を洗っていた。甘夏みかんのような色をした軽自動車である。ずいぶん愛おしそうに、愉快そうに、時には鼻歌を歌ったり、何か話しかけていたのを見たような記憶もある。そのおかげで彼女の軽自動車はいつも汚れひとつなく甘夏みかんの鮮やかな色を保ち続けていた。車というのはそんなに頻繁に洗うものなのだろうかと彼は不思議に思った。彼は運転免許を持っていなかったのでもちろん車を所持した経験もなかった。両親が昔乗っていた車のことを思い出しても、そんなに頻繁には洗車していなかった気がする。彼の父と母が自分の車を自分で洗っているところなど、彼は見た記憶がなかった。上山サキがその車を愛し、何よりも大切にしていることは、彼にも理解できた。

 日曜日の午後は彼にとっては散歩をするための時間帯だった。だから散歩の行きや帰りに、たいてい洗車中の彼女と出くわすことになる。いつも上山サキが彼に気付き、「こんにちは」と愛想よく声をかけてきた。彼の方はそれに応えて、ただ無言で軽く頭を下げる。それ以上のやり取りはなく、彼はそのまま通り過ぎる。

 しかし彼は上山サキが自分を見つめる目つきに、何か普通ではないものを感じていた。それはいわゆる好意的な眼差し、それもやや熱烈な好意を向けるまなざしだった。女性からのそういった視線を浴びることは彼にとってさほど珍しいことではなかったし、彼はそれに気が付かないほど鈍感でもない。おそらく彼女は広島から帰ってきて久しぶりに彼の姿を目にして、かつての「近所のお兄ちゃん」の成長した姿を見て、なにか特別な感情を抱いたのだろう。顔を合わせるたびに彼女は馴れ馴れしくなり、少しずつ距離を詰めようとする姿勢がうかがわれた。そのうちに、ただの挨拶だけではなく「どこに行ってたの」とか「今日は仕事じゃないの」とか立ち入った質問を加えるようになった。そのフグに似た顔つきには興味と好意に満ちていた。彼女は大そう感情が顔に出やすいタイプであるようだった。日曜日に彼が散歩に出ないで家にこもっていたりすると、わざとらしく長い時間、すでに洗い終えた車の前で時間を潰すような様子が見られた。彼はそんな様子を家の窓から見ていた。何かしら彼女は自分に近づく機会を探っている。彼の上山サキに対する態度は、ほとんど無愛想なまま一貫して変わらなかったが、彼女はそんなことは気にしていないようだった。むしろ彼女は、彼の不愛想な態度を、自分に対して照れて恥ずかしがっているためだ、と解釈しているようだった。彼女の態度や言葉つきからそのことは何となく伝わった。彼女は自らの「恋」が美しく成就することを信じているらしい。

 

 ある日曜日の午後、彼の家のインターフォンが鳴った。

 インターフォンが鳴った場合、彼は必ず応対することにしている。たとえそれが新聞の勧誘であろうと宗教の勧誘であろうと、彼は必ず玄関先に出るか、あるいはインターフォン越しに応対した。そして彼らの言い分に耳を傾け、そののちに丁寧に拒絶の意を伝える。相手がどれだけしつこくても、あるいは高圧的でも、彼は決して感情的にはならない。そして一切相手の言い分に耳を貸さない。ある時には帰れという意味のことを丁寧な言葉づかいで言い続ける。ある時には勧誘者の新聞社が、あるいは宗教組織が、いかに欺瞞と誤謬に満ちたものであるかを論理的に滔々と説明する。たいていの人々はあきらめるというよりはどちらかというと気味悪がって帰ってゆくのだった。

 そんなわけでその天気の良い日曜日の午後に彼の静寂を突如として破ったそのインターフォンに対しても、もちろん彼は応対した。その時彼は地下室にいたのだが、そこに備え付けられたモニターによって来訪者のあることを知った。画面には一人の女が映っていた。彼はつい二週間前に交際が破局を迎えたばかりの七歳年上の同僚の女性かと思って少し身構えたがそうではなかった。それは上山サキだった。

 彼は受話器を手にして、一応儀礼的に、どちら様でしょうか、と言った。

「私よ。わかるやろ? 向かいの上山サキ」

 何だってこの女はいきなり訪ねてきたのだろうと思いながらも、彼は丁重に用件を尋ねた。

「用事なんてないよ。ちょっと立ち寄ってみただけ。ねえ、ちょっとお話でもしようよ。積もる話もたくさんあるし。お土産も持ってきたんよ」

 彼は上山サキとの間に話すべき話題など一つも思い当たらなかったが、彼女はその態度から察するに容易に立ち去りそうもなかったし、また彼女の来訪の真意がいまだうまくつかめないままだったので、直接玄関まで出向くことにした。彼は階段を上がって地下室を出た。

 門の外に立っていた上山サキは、家から出てきた彼を見て笑顔を浮かべた。

「少しお話でもしたいなと思って。はい、これお土産」と言って彼女は包装紙でくるんだ四角い箱を彼に差し出した。彼はそれを受け取った。それはどうやら「ゴーフル」というお菓子であるようだった。

 彼は改めて用件を尋ねようとしたが、彼女はそれを許さなかった。つまり彼女はのべつまくなしにしゃべり続けた。「ねえ、最近どうして暮らしてたん。ご家族はお元気?(彼女、すぐに思い出して)あ、ごめんなさい。ねえ、私最近広島から戻って来てね、今はこっちに住んどるんよ。両親と一緒に。ちょっと身体を壊してね。ねえ、あなたずいぶん立派になって、垢ぬけて見違えるようになったね。昔はどことなく影がある感じやったし、背もそんなに高くなかったしねえ、でも面白いね。こんなに成長してもまだ、子供のころのあなたが見えるみたい(彼女はクスクスと笑った)。ちょっと話したくなってきてみたの。ねえ、私のこと覚えとるやろ?」

 覚えているよ、と彼は言い、彼女の名前を口にした。

「良かった。私だけが覚えてて、あなたは誰かわかっていないままなんじゃないかと思ったから。ねえ、今あなた何をして暮らしてるの? ああ、印刷工場で働きよるん。へえ、工場で働く人みたいに見えんねえ。私のイメージではもっと荒っぽい人がやる仕事やと思ってたけど。あなたみたいな人もおるんんやね!」

 最近の工場はシステマチックでなおかつ清潔であり、そこで働く人は必ずしも肉体労働しかできない荒くれものばかりではないということを彼は話した。そして自分が働く工場の仕事について簡単に説明した。彼は週に五日か六日、工場に通う。それは創造的な仕事ではない。その場所では人間は機械となることを要求される。少なくともそれに近いほうがより優秀であるとされる。彼は工場労働のそんな非人間性を気に入っていた。絶えずあらゆる機械が作動し、人間もまた機械のように動作するその空間を、愛するようにさえなっていた。そこにいつも漂っているインクの匂いは彼の気持ちを落ち着かせる。彼の工場は主に地域に配布するチラシやダイレクトメールやフリーペーパーの類の印刷を受け持っている。

「へえ、じゃあよくポストに入ってるあのチラシみたいなの、あなたの工場で印刷しよるん」

 そういうことになるね、全部ではないけど、と彼は言った。

 上山サキは感心したように何度か頷いた。「そりゃそうよね、あんまり考えたことなかったけど、ああいうものでもやっぱり、誰かがレイアウトを組んで、紙面をデザインして、校正して、工場で印刷して出来上がるんやもんね。何だかまるで、勝手にひとりでにどんどん湧き出てくるものみたいに思いよったけど、そんなわけないもんね」

 言いたいことはわかるよ、と彼は言った。

「私はね、こないだまで広島で薬剤師として働きよったんやけどね、病気で続けられなくなったの。なんだか神経がおかしくなってね。何が原因なのか自分でもよくわからんのやけど、仕事中にいきなり喉が痛くなったり、顔だけがカーッて熱くなったり、息苦しくなったりして、その度に具合が悪いからって休憩したりして。ストレスとか不安とかいろんなことが絡まりあってそうなったのかもしれんけどね。ストレスの原因ぐらいは、まったくないっていうわけじゃなかったから。仕事は好きやったんやけどね」

 彼は時々相槌を打ちながら、話し続ける彼女を眺めていた。突然の訪問に対して、いくらか迷惑とおっくうさを覚えてはいたが、そのような態度はもちろん表面に出さなかった。概して彼は女性を無下に退けたりはしない。まして上山サキに対しては、いちおう近所付き合いのことも考えて、なおさらそんな態度はとれなかった。彼は彼女を懐かしむ言葉をいくつか口にしたし、ずいぶん綺麗になったね、とお世辞さえ言った。それに対して彼女は「あら」と言って笑みを浮かべ、彼の肩を軽く叩くといった仕草をした。見たところ彼女はいかにも健康そうに見えた。とても厄介そうな神経の病気など抱えているようには見えなかった。

 上山サキはそのあとも喋りつづけ、彼は適当に相槌を打っていた。そのあとで彼女は言った。

「ねえ。ちょっと散歩にでも行かん? 天気も良いし」

 彼は彼女が家に上がり込むつもりなのではないかと身構えていたので、その申し出を聞いてむしろほっとした。そのために、本当は何か理由をつけて追い払ってしまうつもりだったけれども、それはやめて、彼女の誘いに応じてしまったのだった。

 彼と彼女は並んで町を歩いた。狭く静かで人口の少ない町のことなので、日曜の午後とはいってもほとんど誰ともすれ違わない。見るべき場所もまた特になく、彼らはかつて一緒に遊んだ空き地や公園の周辺を歩いた。そんな場所のうちのいくつかはすでに全く別の場所に変貌を遂げていた。空き地には家が建てられたり、あるいは今では子供が遊べないように封鎖されているところもあった。

 ある公園の前を通りかかったときに上山サキが言った。「ねえ覚えてる? ここの砂場で私一人でぼんやりしてたの。お母さんにひどく怒られて、なんであんなに怒られたんかは忘れたけど、そのときにね、あなたが来て、たぶんあたしが元気なくて心配したんやろうね、お菓子のおまけみたいな人形を私にくれたの。どう見ても女の子向きの人形じゃなかったけどね。戦隊ヒーローのフィギュアみたいなやつ。そのあとで、あなたはすぐ帰ってしまったけど、私は嬉しかったんよ。それで悲しい気分が少し晴れたの。その変な人形は、今でも私の大切な宝物……、と言いたいところやけど、実際は失くしてしまった。時々思い出して捜すんやけど、どこにもないんよ。でもあのとき、あなたは優しいなって思った」

 彼は身に覚えのない出来事によって褒められていることに奇妙な気分になった。本当に自分がそんなことをしたのだとしたら、なかなかどうして俺は結構な紳士じゃないか! と彼は思った。

 そのあとも彼女はいろんな場所を通りかかるたびに思い出話を語った。「ねえ、この広場に昔子犬がたくさんおったの覚えてる? あのときあなたもいたよね。近所の子供がみんないて、なんでかわからんけど、それでみんなで子犬と一緒に遊んだんよね。あの子犬たち、なんかもう、おかしくなりそうなほど可愛かった。連れて帰りたかったけど、うちは犬飼えんやったからね……」とか「この坂道で昔弟が転んでね、そのときに血がたくさん出て、その血のあとが、そのあとずっとアスファルトに残っとったんよ」とか「この家の塀にボールをぶつけて遊びよったらね、若い女の人が出てきて、怒られるんかと思ったらそうじゃなくて、一緒に遊んでくれたんよ。そのあとしばらく友達みたいになった。あとで引っ越して行ったけどね」とか、子供の頃のいろんなことをよく覚えていて、それらのうちのいくつかは彼も共有していた記憶だったので、聞きながら彼もまた思い出が掘り起こされるような気分だった。彼は相槌を打ちながら彼女の記憶力に感心していた。すでに彼にとって子供の頃のことはおぼろげな記憶でしかなかった。

 やがて彼らは川にたどり着いた。川は昔のままで、自然の多い土地のことなので、都会の川のようにごみが浮かんでいたりひどく濁ったりはしていなかった。日差しがキラキラと水面に反射して白っぽく光り、その下で魚が泳いでいた。

 彼女は「わあ懐かしい」と言って欄干から身を乗り出して川面を見下ろした。

「ねえ、子供のころは、ここから川を見下ろすとずいぶん高く感じたのに、こんなに実際は低かったんやね。道も、なんだか昔に比べると狭く感じるし」

 そうだね、と言って彼もまた川を覗きこんだ。彼女が言う感覚は、理解はできたものの、彼は大人になってからも何度もこのあたりを通っていたので、すでに彼とは無縁のものだった。

 小石を拾って次々に川に投げこんでいた彼女は不意に彼の顔を見て言った。「あなたって今も一人で暮らしているの? 結婚とかしてないの」

 彼は一人で暮らしていると答えた。

「へえ、じゃあ食事とか掃除とか洗濯とかはどうしてるの? 彼女にやってもらってるの?」

 彼女なんていないし、全部自分でやっている、と彼は答えた。

「でも仕事しながら家事までみんな一人で完璧にやるのって大変やろ?」

 そんなこともないよ、そういったことには慣れているし特に苦痛でもないから、と彼は言った。

「いいえ、きっと大変よ。特に男の人の食事なんて、どうせ栄養バランスとかカロリーとか何も考えてないやろうし」

 確かに彼はそういったことは考えたことがなかった。そもそも彼は食に対して全く興味がなく、必要最小限の食事でも満足できるタイプだった。場合によっては食事を抜くことだってあった。彼がそう言うと、彼女はもっともらしくうなずくのだった。

「ほら見なさい、そんな暮らしをしていたらいつか身体を壊しますよ。何か力になってあげられるといいんだけど。そうだ! 私が料理を作って持って行ってあげるわ。どうせ家も近いんやし、それに私こう見えても料理が得意なんよ。いろんな人からお墨付きをもらってるからね」

 いや本当に、どうかお構いなく、と彼は言った。

「遠慮せんでええんよ。私も毎日じっとしているわけにもいかんし、生活に何か張り合いのようなものが必要だってお医者さんにも言われてるんよ。あなた、朝は何時に起きるの」

 だいたい六時には起きる、と彼は言った。

「じゃあ私がその時間に朝ご飯を作って運んであげる。お昼のお弁当もつけて。ねえ、いい考えやろ?」

 気持ちはとても嬉しいのだけれど君にそんな負担をかけるのは申し訳ない、と彼は言った。

「あらやだ、『君』だなんて! なんでそんなに他人行儀なん。昔みたいにサキちゃんって呼べばいいのに。君なんて呼び方する人、ドラマの中にしかいないと思ってた。でもそれも悪くないね。ドラマのヒロインになったみたい。それにね、私には負担でも何でもないんよ。どうせいつも早起きやし、朝はやることがないし、両親は無理するなっていうんやけど、家にいるだけで何もせんのもあれやし、だから食事とか私が作ることもあるんよ。つまり慣れているの。一人分の食事が増えることなんて何でもないんよ」

 僕は胃がとても小さくてあまりたくさん食べられないのだ、残すようなことになったら悪いし、と彼は言った。しかし彼女は引き下がりそうもなかった。

「そんなこと気にせんでええんよ。幼馴染のよしみじゃない。胃が小さいのはこれまでちゃんとした食事をしてこなかったからやろ? 私の料理やったらきっとたくさん食べられるよ。今まで食べてくれた人みんなそう言ってくれたんだから」

 彼女があまりに熱心なので、彼はだんだん断る気力を失ってきた。今では彼の頭にはかつての「サキちゃん」の姿がはっきりとよみがえっていた。確かに昔から彼女はこんな風に積極的で、親切ではあるのだがやや押しつけがましいところを備えた性格の女性だったことを思い出したのだった。自分が正しいと信じたことを疑わないし、特にそれが誰かのためになると判断した場合には、ほとんど強引なほど押し通して実現させてしまう。考えようによっては慈愛に満ちた性格ともいえるが、たいていの場合はありがた迷惑のようになっていた。これまで彼が交際した女性の中には、これほどまでににアグレッシヴな性格の女はいなかった。昔と変わらないその強引な性格を保持したまま、見た目は子供の頃とはずいぶん違って大人びた女性として成長を遂げていた上山サキを眺めながら、彼は不思議な気分になった。

 おそれくは生まれ持ってのフェアネスのために、彼はそれ以上拒み続けることができなかった。彼女は神経の病気なのだし、こんなに望んでいるのなら受け入れたほうがいいのではないか、確かに彼女が言う通り、自分に不利益なことは何もないのだ、と考えたのだった。それで彼は、君がそうしたいのなら好きにすればいいよ、とついに言ってしまった。

 彼女は彼の顔を見て「本当? ありがとう」と言った。そして少し微笑んだ。

 

 上山サキと別れた後、彼は、やはり彼女の提案は彼女が気まぐれで口にした思い付きであって真剣ではなかったのだろう、と考えるようになり、一夜明けたころにはその考えはほとんど確信になっていた。もちろんそれならそれで、彼の生活はこれまでと変わらないのだし、何も困ることはない。しかし次の月曜日の朝、本当に朝の六時過ぎにインターフォンは鳴ったのだった。

「おはようございます。朝ごはんと昼食のお弁当、お持ちいたしましたよ」上山サキは笑みを浮かべながら、わざとらしく丁寧な口調で言った。お盆には作りたてで湯気を立てる朝食が乗っていた。弁当箱まで持っていた。

 ああ、おはよう。あの……、と彼は言った。

「どうしてそんなにびっくりしているの?」

 ああ、いや、まだ起きたばかりだったから。それに本当に持ってきてくれると思わなくて、と彼は言った。

「本当にってどういうこと? 昨日のことが嘘だったを思ってたの? 失礼しちゃうわ。とにかく、今日はご飯と卵焼きとお味噌汁と漬物、あなたがあんまり食べないっていうからそんなにたくさんは作らんやったよ。それでいいんでしょ? あとこっちがお弁当ね」

 彼は恐縮して、丁重にお礼を言った。

 彼女は笑った。「相変わらず他人行儀なんやね。久しぶりに会って話すから、昔の感覚が戻ってこんのやろ? そういう人っておるよね。ちょっと会わないと接し方を忘れるっていう人。ねえ、すぐに食べるでしょ? あがっていい? 台所まで持って行ってあげる」

 いや、いい、自分で運ぶから、ありがとう、と言って彼は彼女からお盆と弁当箱を受け取った。そして改めてお礼を言った。

 しかし彼女は立ち去らずになおも玄関先で立ち尽くしていた。「掃除とかアイロンがけとか、必要ないん? よければ私がやってあげるけど」

 本当にそういうことはみんな自分でやるのでいい、と言って、彼はなるべく穏当に断り、ドアを閉めようとした。彼女は名残惜しそうにしていたが、やがてあきらめて帰って行った。彼は彼女の侵入を水際で食い止めたのだった。

 それから彼はお盆を台所のテーブルに運び、朝食を食べた。彼はいつも朝食はパン一枚とかそういったもので済ませていたので、ふだんに比べるとその朝食はずいぶん豪華なものだった。そして料理はシンプルでありながら確かにおいしかった。朝食を終えると彼は食器を洗い食器乾燥機に入れた。それから家を出て仕事に向かった。

 彼は10キロ離れた印刷工場に毎日自転車で通う。その自転車のカゴに、今日は上山サキが作ったお弁当箱が乗せられることになった。自転車にまたがって家を出ると、上山サキが彼女の家の前で彼を待ちうけていた。

「いってらっしゃい」と彼の姿を見て彼女は言った。うん、と彼は言って自転車をこぎはじめた。その態度や顔つきから察するに、彼女は一日にしてすでにずいぶん彼に接近したつもりでいるらしかった。

 

 午後七時に帰宅した彼は入浴を終えたあと、彼は地下室にこもっていた。まだ夕食はとっていなかった。昼食には十分な量を食べた。昼食に食べた上山サキの作ったお弁当は、彼の口に合ったし、量も多かった。その弁当のおかげかどうか、彼は空腹を感じてはいなかった。もともと彼は空腹という状態にあまり注意を払わなかった。食事を抜くことは珍しいことでなかった。長い間空腹でいても、そのことに気づかないこともある。

 そういえば弁当箱を鞄に入れっぱなしにしていた、と思い出した彼は、地下室から出て階段を昇ってドアを開けた。そのとき彼は玄関のに人が立っているのを見た。上山サキだった。

 彼は何が起こったのかわからずしばらく固まったようになった。なぜこの女がここにいるのか、なぜ断りもなく玄関をくぐっているのか? インターフォンが鳴った記憶はなかった。彼女は両手に中身がいっぱいに詰まったビニール袋を提げていた。いろんな食材が透けて見える。

 彼女が言った。「こんばんは。夕食を作りに来たの」

 彼はしばらくその言葉の意味について考えていた。彼は唐突な彼女の出現に驚き戸惑っていて、なかなか思考をまとめることができなかった。

何のことかな、と彼は言った。

「夕食、まだなんやろ? 作ってあげるよ」

 夕食の約束なんてしたっけね、と彼は言った。

「どっちでもいいやん、そんなこと。それとももう食べ終わったん?」

 彼は首を振った。今日はもう食べないつもりだったのだ、と言った。

「あら、よくないよそういうの。ちゃんと三食食べんとね。それに朝の食器とお弁当箱も返してもらわないといけんし、そのついでに作りにきたんよ」

 食器なら洗って明日返すからいい、と彼は言った。

「ねえ、お弁当食べてくれたやろ? おいしかった?」

 うん、おいしかった、と彼は言った。そんなやりとりの間に、彼女はすでに靴を脱ぎ、家に上がり込んでいた。

「ところであなたは何をしていたの? その奥は何の部屋?」

 彼女はいま彼が出てきたばかりの地下室へ続くドアを指差して尋ねた。彼は、ここは物置だと答えた。

「どうして物置なんかから出てくるん、夜の七時に」

 彼はとっさに古本の整理をしていたのだと嘘をついた。彼女は納得したように何度か頷き、それから当たり前のように廊下を歩きだした。よほど彼は彼女の肩を掴んで押し返そうかと思ったが、不必要に彼女の身体に触れることに気が引けたし、それが何かのはずみで暴力的な行為になってしまいかねないことを怖れた。そしてそもそも彼女はそういう行為を許さないほど素早く、彼が迷っている間に、すでに彼を追い越して台所へ向かって歩きはじめていたのだった。

 いや、本当に放っておいてくれないかな。食事なら本当に大丈夫だし、自分でなんとかするから、と彼は言った。

「遠慮せんでいいんよ。ぜんぜん手間でも何でもないんやし」、彼女が足を止める気配はない。

 君はどうやって家に入ったんだ、鍵はかかっていたはずだ、インターフォンも鳴らなかったし、と彼は彼女の背中に向けて言った。しかし彼女はすべてを無視した。そしてすでに台所の入り口をくぐっていた。彼は初めて家へ他人の侵入を許してしまったことに、当惑していた。かつての女たちには家の所在地さえ教えなかったのに、この女はそれをはじめから知っている分だけ、彼には不利だった。

 そしてこの期に及んでもなお、彼は女性に対して強く出ることができない。出て行けとか帰れとか強い口調で言うことは彼にはできないことだった。それは優しさというよりはおそらく怖れからいていた。彼はこれまで数人の女性と関係を結んでおきながらいまだに女性に対して怖れのような感情を捨てきれずにいる。それは怖れというよりは得体の知れない感じというほうが近いかもしれなかった。いまだに彼は女性を、森の奥に突如として現れた神秘的な鶴でも見るような気持ちで、眺めることがある。

 そしてフグに似たアグレッシヴな女はすでに台所に入っていた。上山サキはテーブルにどさりとビニール袋を置き、それからひとしきり台所や、隣の居間を眺めまわしていた。「へえ。本当に、結構綺麗にしているんですね」と彼女は呟き、それからおもむろに料理を作り始めた。彼は仕方なく椅子に腰かけた。

 上山サキは手際よくご飯を沸かし、味噌汁を作り、ハンバーグとサラダとおひたしを作った。三十分後には料理はすべて出来上がっていた。彼は席に着き、向かいに座った上山サキの視線に見守られながら夕食をとった。彼女が作ってくれた「ハンバーグ定食」も文句のつけようのない味だった。彼はあっという間に平らげてしまった。

 おいしかった、ありがとう、と彼は言った。上山サキは満足げにほほ笑んだ。

 彼女はそのあとも2時間ほど家に居座った。食事を三食ともごちそうになってしまった以上、それも非常においしかったのだし、早く帰れとかいつになったら帰るのとは言い出せず、彼は結局そのまま何となく彼女の滞在を許したまま、彼女が作ってくれてコーヒーまで一緒に飲むことになった。そのあと彼女は、彼が制止するのも聞かずに、家のあちこちを掃除しはじめた。彼は仕方なくあきらめてなすがままにしていた。

別に気にする必要はない、何にしても地下室のことさえ露見しなければいいのだ。これまで彼が誰にも家に人を上げなかったのは地下室の存在を知られたくなかっただけなのだから、何もそこまで神経質になる必要もなく、要するに上山サキに地下室の存在を知られなければ問題はないのだ、と考えることにしたのだった。

 九時を過ぎて、ようやく彼女は「そろそろ帰らなくちゃ」と言った。

 彼はうなずき、その通りだよ、と言った。

「また明日来るね。明日のおかずは何がいい? コロッケとかどう」

 彼はそれでいいと言った。そして彼女に別れを告げて、家の外に半ば押し出すようにした。

 今度来るときはどうかインターフォンを鳴らしてほしい、と別れ際に彼は言った。決して今日みたいに勝手に上がりこむようなことはしないでほしい。そうでないと泥棒とか不審者かと思って、ひどく慌ててしまうからね。

 彼女は悪びれる様子もなく彼の顔を見ながら、「あなたでも慌てることなんてあるんやね」と言った。「でもわかった。今度からはちゃんとインターフォンを鳴らすから。さっきだって一応ノックはしたんだよ。でも返事がなかったし、戸が開いてたから、中に入って呼んでみたの。あなたと私の仲だからいいかなと思って」

 彼は改めて別れを告げた。彼女が去っていくのを確かめて彼は戸を閉めて鍵をかけた。

 本当に自分は鍵をかけていなかっただろうか、と彼は自問し、そのことははっきり思い出せなかった。日常的に無意識にやっている行為なので記憶がない。しかしこれまで、自分が鍵をかけ忘れたことなどあっただろうか? とても信じられない気がする。しかし彼女は現に家に上がり込んでいたのだ。いくらなんでもあの女が鍵に何かピッキングのようなことを施したりとか、そんなことをしてまで侵入するとは考えられない。結局わからないままだった。彼はそのことについてはそれ以上深く考えないことにした。

 

 それからも毎日上山サキは彼に食事を送り届けてくれた。あまりにしつこく、また熱心なので、だんだん彼はいちいち遠慮したり拒んだりする押し問答をするのが面倒になってきたし、それに彼にとっても、食事のことを考えなくて済むようになるのは決して有難からぬことでもなかった。上山サキは平日には毎日やって来た。彼の仕事が休みである週末には、食事を作りはしなかったが、時々昼間に掃除にしに来ることはあった。約束した通り、黙って家に上がり込むようなことはなくなったが、それでも彼は地下室のことが彼女に露見しないように注意を払わなくてはならなくなった。

 あるとき上山サキが言った。

「ねえ。あなたって一人のとき何しよるん」

 部屋に閉じこもって本を読んだりゲームをしたりしている、と彼は答えた。これはこのような質問を受けた場合のために用意しているいつも通りの返答である。

「でもこの間の夜、あなたの家の前を通りかかったときに、どこも明かりがついていなかったよ」

 カーテンを閉ざしているし、それに明かりは小さな読書灯ぐらいしか灯さないから、と彼は答えた。

「ふうん。あなたって、けっこう『インドア派』なんやね! いつもそんな風に過ごしているの? どこかに出かけたりとかせんの?」

 生活必需品の買い物ぐらいだね、あとは近所を散歩するぐらいだよ、と彼は言った。

「何だか変化のない生活なんやねえ! そんなんで退屈しないのかしら」

 僕にとっては自然なことだから、と彼は答えた。

「じゃあさあ、今度の日曜、どっか行かん? たまには遠出してみるのもいいでしょうよ。私が運転するから」

 いいよ、と彼は答えた。彼は経験によってこの女の申し出は拒絶しないほうが良いということを学んでいた。拒んで彼女が素直に引き下がることはなく、それどころか前のように勝手に家に上がり込んだりとか突飛で予想のつかない行動に出ることが多かったので、彼はよほど不都合がない場合には大抵の誘いかけや要求は受け入れるようになっていた。何にしても地下室のことさえ露見しなければよいのだ。

 どこへ行くつもりなのか、と彼は尋ねた。

「どこにもいかないよ。ただのドライブ。町をぶらぶらするんだよ。それでよさげなところで降りてのんびりしたり、一緒に喫茶店でお茶したり食事をしたりするの」

 彼はまあいいか、と思ったのでそれも受け入れた。それで彼らは次の日曜日にドライヴをする約束をした。

 

 12月の初めの日曜日、上山サキは甘夏みかんのような色をした車で彼を迎えに来た。彼が助手席に乗り込むと、彼女は「出発」と言って車を発進させた。

 薄曇りの肌寒い日だった。彼はしばらく窓の外を眺めていた。上山サキは楽しそうに鼻歌を歌っていた。

 君は神経の病気らしいけど、車の運転はしても平気なのか、と彼は尋ねた。

「運転ぐらいはできるよ。別に発作みたいなのが起きるわけでもないもの。しょっちゅうこうやってあちこちドライヴしよるんよ」

 体調を崩してどれぐらいになるの、と彼は尋ねえた。

「そうやねえ、一年ぐらいかな。最初の頃はひどかったんよ、息切れみたいに呼吸が苦しくなったり、動悸がしたり、本当に壊れて止まってしまうんじゃないかっていうほど、心臓がカタカタいうの。そういうのは怖いよ」

 大変だったんだね、と彼は言った。

「そういうのがだんだんひどくなって、仕事中にも症状が出るようになって、病院に行ったけどはっきりと悪いことなんかないっていうし、それで神経がおかしいんだろうって言われて、しばらく仕事を休んで安静にしてなさいって言われた。それで私は言うとおりに仕事を休ませてもらってたんやけど、両親に話したらしばらくこっちに帰ってのんびりしなさいっていうから、結局辞めて帰ってきたんよ」

 今は体調は大丈夫なの、と彼は尋ねた。

「うん。下関に帰ってきてからはね、ずいぶんよくなった。やっぱり仕事のせいやったんかねえ。でも今でも時々、前みたいな症状が襲うことはあるよ。何もできんくなったりしてね。そうやって気まぐれに悪くなったり平気やったりするから、あんまり他人の理解を得られんのかもね。仕事してた時でもね、私がしんどくて休んでるとよく文句言われたり白い目で見られたりしたよ。あんた別に悪いとこなんかなさそうみたいやけどねえってみんな言うんよ。そういうのもしんどいんよねえ」

 上山サキが運転する車は海沿いの道路を経て南下して下関の南西部へと差し掛かり、関門海峡沿いの道路を通っていた。海響館という名前の水族館があるあたりである。彼女は観覧車が近くにあるショッピングモールの駐車場に車を止めた。

「ちょっと海の近くを散歩しましょうよ」と彼女は言った。それで彼らは車を降りて関門海峡を眺めながらうろうろした。狭い海峡にかかる関門橋の下を漁船が行き来していた。風は冷たかったが、それでもあたりにはけっこう人がいて、海を眺めたりどこかで買ったたこ焼きを食べたりしていた。

「ねえ、関門海峡って広場みたいやね」

 彼は意味がよくわからなかったので、もごもごと無意味な音声を聞こえるか聞こえないかの大きさで発するだけの曖昧な返事をした。

「昔から思いよったんよ、対岸がすぐ向こう側にあるし、波は穏やかやし、広場みたいだなって。特に朝日に照らされて白っぽく見えるときとかによくそう思った。こんな風にだだっ広くて何にもない広場があったら、楽しいやろうなあって」

 彼らは海沿いをひとしきり散歩したあと、寒くなったので近くにあったスターバックスに入って一休みした。そのあとで彼女が「海響館に行きましょう」と言った。

 特に拒絶する理由もなかったので、彼は同意した。それでスターバックスを出た二人は歩いてすぐのところにある海響館に向けて歩き始めた。

「私海響館ってまだ行ったことないんよ。あなたは?」

 僕もない、と彼は答えた。

「地元に住んでると、意外と行く機会ってないよねえ。こないだ聞いたんやけど、市民なら普通の半分の料金で入れるらしいよ。一人千円なんやって。いかんと損やねえ。そう思うやろ?」

 そうだね、と彼は答えた。

 それから彼らはチケット売り場に行き、下関市民であることを証明するために、彼女は免許証を、彼は健康保険証を提出してチケットを購入し、館内に入場した。

 海響館は下関にある最大級の施設であり、たくさんの水生生物が飼育されている。彼らはイルカやペンギンやマンボウやらなどを見た。ピラルクの巨大さと見た目を上山サキは怖がり、ろくに見もしなかった。しかし仲のよさそうに寄り添って泳ぐ二頭のスナメリは食い入るように見てなかなかその前から離れなかった。下関の名物であるフグもいた。いくらか間の抜けたような顔をしているくせに尾に猛毒をはらんだその魚。一口にフグとはいっても実にさまざまな形や色や模様をしたフグが存在することを彼は知った。四角いものや丸いもの、とても小さなもの、ずっと砂に隠れているもの、驚くほど複雑な模様を備えたもの、泳がずに砂の上でじっとしていながら口をぱくぱくさせるだけのものもいた。上山サキはそれらのフグを一匹ずつ熱心に眺めていた。

「私フグって好きなんよ、食べても美味しいし」と彼女は水槽の中のフグをまじまじと見つめながらそう言う。「あなたは?」

 自分も好きだ、と彼は答えた。

「フグに顔が似てるって言われたこともあるよ。今考えると馬鹿にされたみたいやけど、でもそんなに嫌な気はせんやったね」

 彼は頷いた。

「でも私は毒なんて持ってないけどね」彼女は含み笑いのような表情を浮かべていた。

 彼らは館内を何周もして1時間半ほど過ごした。

 

 海響館を出ると、彼らは関門海峡を眺めながら駐車場に向かって歩いた。「楽しかったね」と彼女は言った。

 そうだね、と彼は答えた。

「ねえ、たとえばもし地震か何かが起こってさあ、海響館が壊れたりしたら、あそこにおった生き物たちはどうなるんやろうね」

 彼は彼女の顔を見た。どうしてそんなことを考えるのか、と彼は尋ねた。

「さあ、なんでかね。ふと思ったんよね。マンボウとかピラルクとかが海に放り出されたら、どうなるんやろうって。ねえ、どうなると思う? こんな海であんな魚たちが生きていけるんかな」

 水族館はしっかりとした震災の対策をしているし、ああいう水槽は意外と頑丈らしいよ、地震があっても水槽が壊れることは稀らしい、関西や東北の震災のときにも、水族館の水槽はびくともしなかったらしいから、と彼は言った。

「じゃあ魚たちが関門海峡に放たれるっていうことはないん」

 可能性は低いだろうね、ただ電気の供給が断たれたり機械に異常が生じたら、影響が及ぶかもしれないけれどね、と彼は言った。

 彼女はしばらく黙って何か考え込んでいる様子だったが何も言わなかった。それから二人は車に乗って家に帰った。

 

 そのようにして彼は上山サキと穏当な交際を続けながら日々を過ごした。彼女が作った食事を食べ、毎日仕事に行き、それ以外の時間のほとんどすべてを地下室で過ごす。彼は地下室にいるときの自分の姿をこれまでほかの誰にも見せたことがない。地下室は彼にとっての聖域だった。生き物を飼育するようになってから、彼は地下室のコンクリートの床と壁と天井とをペンキで余すところなく真っ白に塗りつぶした。床のコンクリートに残っていた母の血の染みの跡はそれによって隠れた。さらに彼は地下室に特別なライトアップを施した。入り口とは反対側にある壁の両端の、天井との境目のあたりに照明を取り付け、そこから注ぐ光線が水槽を照らすようにした。青白い光をたたえたがらんどうの部屋、彼は地下室自体が一個の巨大な水槽のように見えることを望み、そういう色と明るさの照明を選んだ。部屋の隅までは光が届かず、また水槽に光が当たることもなく、それでいて部屋全体がぼんやりと見渡せる程度の明るさ。彼はもっとも白い生き物の白色を美しく際立たせる理想的な薄暗さをそこに作り出した。部屋は青白く、その照度は段階ごとに設定することができる。彼はいつも自分の指先が辛うじて見える暗さに保った。

 白い部屋の真ん中にキューブ型の水槽が祭壇のように鎮座している。ポンプが立てるこぽこぽという音のほかに音は何もない。

 彼は木製の簡素な椅子に腰かけて、生き物が自由に形を変えながら泳ぐのを眺める。とても長い時間、ときには一日中そうすることもある。彼は意識を巨大なマドラーでかき回されるような感覚を覚える。失われた記憶や思いが押し寄せ、彼はその洪水に溺れ、ときには押し流されてしまう。彼は長い間その奔流の中にいる。それは実際に脳が揺れているかのような強く、圧倒的な感覚だった。彼はじっとそれに耐える。やがてそれが過ぎ去ってしまうと、彼はすべてが洗い流された後の何もない平原に一人で立つような、浄化された気分を得る。

 両親がいなくなってから数年間、彼の精神状態はずいぶん危険な状態にあった。母の死と父の失踪により突如として天涯孤独となった彼は、悲しみと絶望と混乱があまりに深く、家でじっとしていることすら苦痛だった。制御しきれないほどの激しい衝動に襲われることもあった。何かを破壊したり、自らを傷つけたりしたくなる衝動である。実際に彼は物を破壊したり、血が出るまで胸や手首を掻きむしったりしたこともあった。勉強にも意識を集中させることができず、いくつかの得意科目のほかは、たいてい惨憺たる成績だった。彼が大学受験を断念せざるを得なかったのは経済的な理由ばかりではなかった。

 白い生き物を飼うようになってからは彼の精神は安定した。地下室にこもって生き物が泳ぐ様を眺めていると、悲しみも衝動もいつの間にか消えてしまっていた。それはあらゆる感情を中和し浄化した。水槽の前に座り白い生き物の泳ぎを眺めることは彼にとって祈りに似た行為だった。祈ることが彼の精神を安定させ、彼の正気を保っていた。地上での生活をとどこおりなく行うことができるのは、白い生き物のおかげだと信じていた。

 我に返ったとき、生き物は泳ぐのをやめて水槽の隅で丸くなっている。小さくなって、眠っているように動かない。それで彼の祈りの時間は終わる。

 それは誰にも立ち入られない時間だった。彼は毎日何時間も地下室で祈った。どれだけ月日が経過しても、白い生き物の真っ白でつややかな表面には翳り一つ生じなかった。

 

 上山サキはすでに彼のいっぱしの恋人のような気分でいた。言葉の端々から彼にはそのことが感じられた。彼女の食事の提供はまだ続いていた。彼は自分の分まで余分に食費がかかってしまうことを懸念し、そのことを伝えたが、彼女は気にしないでいいと言った。

「そんなこと気にせんでええんよ。うちはああ見えてお金持ちやし、両親もあなたはご両親がいなくて大変やろうからあんたも親切にしてやり、って普段から言われてるからね。それで私は言ってやったわ、『彼が私の料理が毎日食べたいって言うから、私は毎日作って持って行ってあげよるんよ。あの人はあたしのことをずいぶん気に入ってるみたい。料理も上手で可愛いって、いつも言ってくれるし』って言ったら、お母さんは、『そりゃあいいことしたわねえ。あんたもそろそろ結婚を考えんといかんものね! あの人は見た目もいいし、しっかりしてるし、あんたにお似合いだよ!』って言ったの。つまりね、私たちは両親の公認の仲なんよ! だから遠慮なんてしなくていいの」

 そう言って彼女はキャアアアハハアと楽しそうに笑うのだった。彼は、彼女が勝手に彼の発言を捏造して彼女のお母さんに伝えていたことよりも、いきなり出てきた結婚という言葉に驚いていた。もちろん彼には上山サキとの結婚の可能性など頭に少しもなかった。そもそも彼は誰とも結婚などするつもりはなかったし、誰かと一緒に暮らすなど考えられないことだった。かつて彼が付き合っていた恋人たちのうちの何人かは、結婚を考えているような素振りや言動を見せたが、彼はいつも見ないふりをした。だいたい彼はある程度の年齢を過ぎてからは、女性と交際する際には、自分は誰とも結婚するつもりはないのだということを、あらかじめ伝えておくようにしていた。彼は自らについて、他人と共同で生活するのに必要な能力や精神性や配慮や心構えがもともと欠落しているし、さらにほかにも多くの数多くの人に言えない問題を抱えていて、そうしたことが結婚や共同生活を困難に、というより不可能にしている、と説明するのだった。かまわない、という女もいれば、その時点で愛想をつかす女もいた。しかしいずれにしても彼女たちはしかるべき時間が過ぎれば向こうから去って行った。

 上山サキにもそのことを伝えるべきだろうか? それにしても彼女は本当に自分との結婚など真剣に考えているのだろうか。彼女が彼に対して好意を持っていることは、彼にも伝わってはいたものの、まさか結婚のことなど持ち出されるとは彼も考えてはいなかった。上山サキは母親に吹き込まれたというその考えに、明らかに興奮し、色めき立っていた。それも悪くない、と思ったらしかった。結婚という言葉を聞いて、そうだ、自分はそうしたことを考えてもおかしくない年頃なのだ、と思い当たってしまったのだ。こんなに仲が良くて料理まで作ってあげているのだから、すでにそれは結婚生活に似ていなくもないし、このまま夫婦になったってさほど不思議ではないのだ、と彼女は考えている。そのことは彼女の様子からうかがえた。彼女はすでに婚約が成立してしまっているかのように浮かれていた。とても楽しそうに、まるで未来の夫の身の回りの世話をするのが楽しくて仕方がないとでもいった風に、食事だけでなく、頼みもしないのに彼の家の中を掃除したり、衣服にアイロンをかけたりするようになっていた。

 彼は部屋を掃除しながらあちこち動きて回る上山サキを見ていた。黒いニットの上着とジーンズを身に着けた彼女は、箒と塵取りを手に持ち、腰をかがめて床を掃いては塵取りで拾い集めるという行為を繰り返していた。改めて観察してみると、彼女の体型はその性格や顔立ちに似合わず、女性らしい豊かな曲線に富んだ魅力的なものだった。腰の上のあたりから臀部にかけて腰骨が緩やかに膨らみ、肉付きの良い太ももはジーンズを張りつめさせていた。いささか間の抜けた印象のあるフグに似た顔立ちが隠れる角度から見ると、それなりのひとかどの健康的な美女に見えなくもなかった。彼はソファに腰かけたまま、半ば感心して彼女を後ろや横から眺めていた。彼女の魅力はいびつだった。美人扱いされることはまずないだろうが、その肉体は間違いなく平均より優れた部分を備えている。その体つきと、首から上のおどけたフグのような顔は、それぞれ別人のもののようだった。どうしてこんなにアンバランスなのだろう、と彼は思った。それにどうしてこの女はこうして自分の家で、我が物顔にふるまっているのだろう。いつの間に彼女はこんなに自分の生活圏に闖入するようになったのだろうか? 彼女をこのままにしておいていいのか、油断してあまりに接近させすぎてしまったのではないのか、そのうちに地下室に近づいてしまわないとも限らない。きっぱりと拒絶するべきだろうか? 家には来ないでほしい、上がりこまないでほしい、と告げるべきだろうか。しかし彼は、おそらくそんなことは自分には言えない、と思った。彼女に正面きって、邪魔だから帰ってくれ、もう来ないでくれ、などと告げるのは気が引けた。彼は自分が憐み深い人間だとは思わないが、そこまで冷たくもなれない。彼女はとても楽しそうにしていて、その様子に嘘も演技もないように見える。そして彼女は最近まで神経を病んでいたということだし、そうした女性が、こうまでリラックスして楽しそうなら、それをあえて乱すことはないのではないかと思えた。それに食事を作ってくれたり、掃除してくれたりすること自体は、決して不都合なものでもないのだ。

 上山サキは塵取りの中身をゴミ袋の中に流し込むようにして捨てた。そして彼のほうを向いて言った。

「ねえ、どうしてこの家、掃除機ないんよ? 箒で掃除するの、大変やろうに」

 音が好きじゃないんだよ、掃除機が立てる音が耐え難いんだよ、と彼は言った。すると彼女はパンと手を叩いて、顔をほとんど輝かせた。

「ああ、わかるわ! そういう感覚は共感できるわ。私もね、神経の調子が特に悪かったときには、いろんな音に我慢がならなかったことがあるもの。実をいうと私も掃除機が嫌いなんよ。あなたが言う通り、あれはうるさい。うるさすぎるわ! 子供のころ、お母さんが掃除機をかけはじめると、外に逃げてたもの。それに何だか無遠慮な、どこかわがままそうな感じがするし。あれは家電の中でも、一番傍若無人にふるまっているわ! 場所も取るしね。最近は音の出ん掃除機もあるらしいけど、でもやっぱり邪魔やしねえ。あんなものを家に置きたくないっていうのはわかるわ。それに箒と塵取りって手間かかるけど、私も好きなんよね。綺麗になっているという感じが目に見えて実感できるし。ねえ、もしかしたら、あなたも私と同じ病気なのかもしれんね。私たちは同じ運命なのだわ」

 上山サキはキラキラ輝く丸い目で彼を見据えながらそんなことを言った。実際のところ、彼女は彼の前ではたいそう元気に見えたし、とても神経を病んだ女だとは思えなかった。結婚のことが話題にあがってからは、特に元気になった。彼女にとって結婚の問題は笑いごとでも冗談でもなく真剣なものあるらしい。そんな彼女に、自分は誰とも結婚などするつもりはないのだ、などとは、彼には言い出せなかった。しかしあえてそんなことを口にしなくても、どうせ彼女だって過去のほかの女たちと同じように、ある程度の時間が過ぎれば自然と彼のもとを離れてゆくだろうと、彼は考えていたので、彼女の上機嫌をあえて今乱す必要もなかろうと思った。

 彼女の毎日の料理やお弁当はさらに手の込んだ心を尽くしたものになり、夕食を作りに来る日はさらに増えた。彼に飽きたり失望したり、彼のはっきりしない態度に不満を覚えたりするような様子は、上山サキにはまだ見られなかった。

4 地下より深いさらに地下

 彼が地下に惹きつけられるようになったのは父からの影響である。彼が父から受け継いだ主たるものとといえば、突き出た咽喉仏と、二面性のある性格と、地下に対する偏愛だった。父はかつて地下を愛するその思いだけで自宅に地下室を作ったのだ。かつて彼が子供の頃には、父はサラリーマンとして働いていたが、若いころにはアルバイトで地下に関係する仕事ばかり選んでいたという。彼はそんな話を父から直接聞いた。父は地下にまつわる過去のいろんな体験を息子である彼に話した。愉快な話、滑稽な話、怪談のような話があった。そんな話を語る父の咽喉仏は活発に動いた。話を聞きながらいつも彼は、父の喉元のでっぱりを見つめていたものだった。それはまさに中に何か生き物がいるかのように動き、収縮していたのだ。父について思うとき、真っ先に頭に浮かぶのはその尖った咽喉仏だった。

「地下道のずっと奥のほう、お父さんたち作業員のライトも届かないずっと遠くに、時々ね、何かが潜んでいるのがわかったよ。そんな気がするとかじゃないんだよ、本当にそこにそれはいたんだ。実際にお父さんは見たことがある、ある時お父さんは、ずっと前に死んだはずのおばあちゃんの姿を見たことがあったよ。つまりお前にとってのひいばあちゃんだね。おばあちゃんは下水が流れる川の側道に腰かけて、何をするでもなくじっと、流れる下水を見つめていたんだ、お父さんのほうに気づきもしなかった。一緒にいた作業員もおばあちゃんのその姿を見ていたらしいよ。お父さんにはその人が自分のおばあちゃんに見えたんだけど、ほかの連中も、いや、あれは自分の祖母だったと口々に言うんだね。つまりそこにいたみんなにとって、それは自分のおばあさんに見えていたんだよ」

 父は下水道で蝙蝠を拾った話を語った。「その蝙蝠はどういうわけか、壁にへばりつくようにして死んでいた。どうしてそんなことを思い立ったのか、自分でもわからないけど、見つけるや否やお父さんはその死骸に手を伸ばして掴んで、こっそり自分の作業服のポケットに入れたんだ。そして家に連れて帰ったんだよ。当時、お父さんはアパートで一人暮らしをしていたんだけど、台所の流しに蝙蝠の死骸を置いてよく見てみると、それは確かに、もちろん間違いなく死んでいた。お父さんは明るいところでまじまじと蝙蝠なんて見たことはなかった。それは台所の蛍光灯の下で、マントみたいな羽を重ね合わせるように閉じて横たわっていた。小さな真っ黒な頭についた二つの小さな目は閉じていた。真っ黒で、意外なほど、不自然なほど綺麗で、清潔そうに見えた。何だか作り物みたいに滑らかな毛並みだった。それが生き物であることが、かつて生きて動いていたことが、なんだかうまく信じられないような気がした。あまりにも見慣れない生き物だったからかもね。そしてなんだか奇妙な匂いがした。それは一般的な動物の死骸の匂いとは似ていなくて、なんだか煙に似た匂いだった。お父さんが子供のころ、住んでいた家の近所で火事があって、そのときのもくもくと立ち込める灰色の煙を思い出させる匂いだったんだ。お父さんは死骸を水で綺麗に洗って、それからアパートの近くを流れていた川べりの土に埋めたよ」

 そして父が各地の地下道を渡り歩いた話。「地下道で迷ってみたかったんだ。子供のころから、お父さんはよく迷子になっていたよ。ちょっと普段行かないようなところに行くと、お父さんはいつも迷子になっていたからね。もちろん、自ら進んで迷子になったんだけどね。迷子になるのが好きだっんだたよ。風景がまったく別のものに変わるような、あの感覚が好きだったんだ。今思うと親にはずいぶん迷惑と心配をかけただろうな。大人になってもそれは変わらなくて、一人でいろんなところに行けるようになってからは、巨大な地下街があるような都会へ行って、地下街を心行くまでさまようんだ。大都市の地下街は、ほとんど迷宮のようだから、迷うのには少しも苦労しない。でたらめに少し歩くだけですぐにどこがどこだかわからなくなってしまう。当時は高度成長の真っただ中で、日本の地下街は急激に発展し、拡張を続けていた。人口が密集した大都市では地下に人を呼び込まない限り地上は人で身動きもできなくなってしまうんだよ。増え続ける人口をどうにかするために、地下を開発しなくてはならなかったというわけだ。それで、まるで『ゲド戦記』に出てくるみたいな地下迷路が大都市の地下にできあがった。子供の頃、お父さんはあの地下迷路の地図を見るのが大好きだったよ。つまり迷うにはうってつけの場所だったってわけだ。しかしもちろん都会の地下道をどれだけ歩いたところで、宝物庫には決してたどり着けないんだけどね! ただ圧倒的な虚無感に襲われるだけだよ。二度と地上の光を目にすることはできないのではないかという恐怖を味わうだけだよ。でもそんな気分が好きだったんだな。それを味わうために地下で迷っていたんだからね」

 幼い彼にとっては、父の話はどれも奇妙に聞こえた。どの話にもたいてい結論もなければ教訓もない。メッセージもなければ落ちもない。父はただ地下という場所がいかに謎と神秘に満ちた恐ろしく魅惑的な場所であるかを語るばかりだった。何を目的として父が幼い彼にそんな話を聞かせなくてはならなかったのかは不明だったが、しかし彼は父から聞いた話を何度となく反芻しながら、妖しげな地下世界の魅力にどうしようもなく取りつかれていった。

 父が母に出会ったときの話もあった。「お父さんがお母さんに初めて会ったのはね、地下じゃなくて、それとは対極にある場所、つまり高いビルの屋上だったよ。面白いだろう? お母さんは全く『地下的』な人じゃなかったからね。つまり地下をあえて好むような性質を備えていなかったから、むしろ高いところが何より好きというタイプだったよ。観覧車とかジェットコースターとか塔とかね。どこかに行くと必ずどこか見晴らしの良いところに行って町を眺めるんだよ。そういう人だった。つまり我々は正反対な好みを持った二人だったんだ! そんなのがどうしてくっついたんだろうね。いわばモグラとトンビと結婚するようなものだよ。なんだかわからないけど気が合ったんだな。話が合ったんだよ。まあお父さんは鳥の中ではトンビはかなり好きなほうだよ」

 あるとき彼はもっとも気になっていたことを父に尋ねた。つまり、いつも父は一人で地下室にこもって、いったい何をやっているのか。それは子供のころの彼にとって最大の謎だった。父にまつわる最も大きな謎と言ってもよかった。父の答えは以下のようなものだった。

「地下より深いさらに地下のことを思うんだよ」と父は言った。

 彼も父が言ったその言葉を繰り返した。地下より深いさらに地下。

「そうさ。人間によって作られた地下道や地下鉄や地下街よりも、もっとずっと地中深くにあるところだよ。その場所、というか領域について、思いをはせるんだ。地下室にこもって、一人静かに、床に座禅を組むみたいに座ってね」

 当時の彼にとってそれは要領を得ない答えだった。よくわからないながらも彼は尋ねた。地下より深いさらに地下には何があるのか、と彼は尋ねた。

「巨大な国があるんだよ。まだ誰も人間が訪れたことのない未知の国だよ。怖ろしく巨大で、いくつもの国や大陸をあわせても及ばないぐらいの大きな国なんだよ。そしてそこには、深海魚みたいな未知のグロテスクな生物とか、あるいは地震を起こす巨大ナマズとかが棲んでいる。その国の住人であるそうした生き物たちが地下世界にはうごめていいるんだ。夢のような国だよ。つまりね、お父さんはそういう生き物たちの気配とか、息吹みたいなものを感じているんだよ。感じようとしているんだよ」

 彼はいつも地下室に入るたびに、「祈り」を行うたびに、父の言葉を思う。地下より深いさらに地下。その変な語順の一節が彼には忘れられなかった。

 彼が地下に惹きつけられるようになったのは父からの影響である。彼が父から受け継いだ主たるものとといえば、突き出た咽喉仏と、二面性のある性格と、地下に対する偏愛だった。父はかつて地下を愛するその思いだけで自宅に地下室を作ったのだ。かつて彼が子供の頃には、父はサラリーマンとして働いていたが、若いころにはアルバイトで地下に関係する仕事ばかり選んでいたという。彼はそんな話を父から直接聞いた。父は地下にまつわる過去のいろんな体験を息子である彼に話した。愉快な話、滑稽な話、怪談のような話があった。そんな話を語る父の咽喉仏は活発に動いた。話を聞きながらいつも彼は、父の喉元のでっぱりを見つめていたものだった。それはまさに中に何か生き物がいるかのように動き、収縮していたのだ。父について思うとき、真っ先に頭に浮かぶのはその尖った咽喉仏だった。

「地下道のずっと奥のほう、お父さんたち作業員のライトも届かないずっと遠くに、時々ね、何かが潜んでいるのがわかったよ。そんな気がするとかじゃないんだよ、本当にそこにそれはいたんだ。実際にお父さんは見たことがある、ある時お父さんは、ずっと前に死んだはずのおばあちゃんの姿を見たことがあったよ。つまりお前にとってのひいばあちゃんだね。おばあちゃんは下水が流れる川の側道に腰かけて、何をするでもなくじっと、流れる下水を見つめていたんだ、お父さんのほうに気づきもしなかった。一緒にいた作業員もおばあちゃんのその姿を見ていたらしいよ。お父さんにはその人が自分のおばあちゃんに見えたんだけど、ほかの連中も、いや、あれは自分の祖母だったと口々に言うんだね。つまりそこにいたみんなにとって、それは自分のおばあさんに見えていたんだよ」

 父は下水道で蝙蝠を拾った話を語った。「その蝙蝠はどういうわけか、壁にへばりつくようにして死んでいた。どうしてそんなことを思い立ったのか、自分でもわからないけど、見つけるや否やお父さんはその死骸に手を伸ばして掴んで、こっそり自分の作業服のポケットに入れたんだ。そして家に連れて帰ったんだよ。当時、お父さんはアパートで一人暮らしをしていたんだけど、台所の流しに蝙蝠の死骸を置いてよく見てみると、それは確かに、もちろん間違いなく死んでいた。お父さんは明るいところでまじまじと蝙蝠なんて見たことはなかった。それは台所の蛍光灯の下で、マントみたいな羽を重ね合わせるように閉じて横たわっていた。小さな真っ黒な頭についた二つの小さな目は閉じていた。真っ黒で、意外なほど、不自然なほど綺麗で、清潔そうに見えた。何だか作り物みたいに滑らかな毛並みだった。それが生き物であることが、かつて生きて動いていたことが、なんだかうまく信じられないような気がした。あまりにも見慣れない生き物だったからかもね。そしてなんだか奇妙な匂いがした。それは一般的な動物の死骸の匂いとは似ていなくて、なんだか煙に似た匂いだった。お父さんが子供のころ、住んでいた家の近所で火事があって、そのときのもくもくと立ち込める灰色の煙を思い出させる匂いだったんだ。お父さんは死骸を水で綺麗に洗って、それからアパートの近くを流れていた川べりの土に埋めたよ」

 そして父が各地の地下道を渡り歩いた話。「地下道で迷ってみたかったんだ。子供のころから、お父さんはよく迷子になっていたよ。ちょっと普段行かないようなところに行くと、お父さんはいつも迷子になっていたからね。もちろん、自ら進んで迷子になったんだけどね。迷子になるのが好きだっんだたよ。風景がまったく別のものに変わるような、あの感覚が好きだったんだ。今思うと親にはずいぶん迷惑と心配をかけただろうな。大人になってもそれは変わらなくて、一人でいろんなところに行けるようになってからは、巨大な地下街があるような都会へ行って、地下街を心行くまでさまようんだ。大都市の地下街は、ほとんど迷宮のようだから、迷うのには少しも苦労しない。でたらめに少し歩くだけですぐにどこがどこだかわからなくなってしまう。当時は高度成長の真っただ中で、日本の地下街は急激に発展し、拡張を続けていた。人口が密集した大都市では地下に人を呼び込まない限り地上は人で身動きもできなくなってしまうんだよ。増え続ける人口をどうにかするために、地下を開発しなくてはならなかったというわけだ。それで、まるで『ゲド戦記』に出てくるみたいな地下迷路が大都市の地下にできあがった。子供の頃、お父さんはあの地下迷路の地図を見るのが大好きだったよ。つまり迷うにはうってつけの場所だったってわけだ。しかしもちろん都会の地下道をどれだけ歩いたところで、宝物庫には決してたどり着けないんだけどね! ただ圧倒的な虚無感に襲われるだけだよ。二度と地上の光を目にすることはできないのではないかという恐怖を味わうだけだよ。でもそんな気分が好きだったんだな。それを味わうために地下で迷っていたんだからね」

 幼い彼にとっては、父の話はどれも奇妙に聞こえた。どの話にもたいてい結論もなければ教訓もない。メッセージもなければ落ちもない。父はただ地下という場所がいかに謎と神秘に満ちた恐ろしく魅惑的な場所であるかを語るばかりだった。何を目的として父が幼い彼にそんな話を聞かせなくてはならなかったのかは不明だったが、しかし彼は父から聞いた話を何度となく反芻しながら、妖しげな地下世界の魅力にどうしようもなく取りつかれていった。

 父が母に出会ったときの話もあった。「お父さんがお母さんに初めて会ったのはね、地下じゃなくて、それとは対極にある場所、つまり高いビルの屋上だったよ。面白いだろう? お母さんは全く『地下的』な人じゃなかったからね。つまり地下をあえて好むような性質を備えていなかったから、むしろ高いところが何より好きというタイプだったよ。観覧車とかジェットコースターとか塔とかね。どこかに行くと必ずどこか見晴らしの良いところに行って町を眺めるんだよ。そういう人だった。つまり我々は正反対な好みを持った二人だったんだ! そんなのがどうしてくっついたんだろうね。いわばモグラとトンビと結婚するようなものだよ。なんだかわからないけど気が合ったんだな。話が合ったんだよ。まあお父さんは鳥の中ではトンビはかなり好きなほうだよ」

 あるとき彼はもっとも気になっていたことを父に尋ねた。つまり、いつも父は一人で地下室にこもって、いったい何をやっているのか。それは子供のころの彼にとって最大の謎だった。父にまつわる最も大きな謎と言ってもよかった。父の答えは以下のようなものだった。

「地下より深いさらに地下のことを思うんだよ」と父は言った。

 彼も父が言ったその言葉を繰り返した。地下より深いさらに地下。

「そうさ。人間によって作られた地下道や地下鉄や地下街よりも、もっとずっと地中深くにあるところだよ。その場所、というか領域について、思いをはせるんだ。地下室にこもって、一人静かに、床に座禅を組むみたいに座ってね」

 当時の彼にとってそれは要領を得ない答えだった。よくわからないながらも彼は尋ねた。地下より深いさらに地下には何があるのか、と彼は尋ねた。

「巨大な国があるんだよ。まだ誰も人間が訪れたことのない未知の国だよ。怖ろしく巨大で、いくつもの国や大陸をあわせても及ばないぐらいの大きな国なんだよ。そしてそこには、深海魚みたいな未知のグロテスクな生物とか、あるいは地震を起こす巨大ナマズとかが棲んでいる。その国の住人であるそうした生き物たちが地下世界にはうごめていいるんだ。夢のような国だよ。つまりね、お父さんはそういう生き物たちの気配とか、息吹みたいなものを感じているんだよ。感じようとしているんだよ」

 彼はいつも地下室に入るたびに、「祈り」を行うたびに、父の言葉を思う。地下より深いさらに地下。その変な語順の一節が彼には忘れられなかった。

5 父の死

12月の半ば過ぎのある夜、彼の家の電話が珍しく鳴った。受話器を取ると、下関警察署からの電話だった。電話の主が、父の名前を告げるのを聞いて、思わず彼は受話器を握りなおした。彼の父のものと思しき遺体が見つかった、と電話の主は彼に告げた。

 彼は詳しい話を聞いた。その遺体は愛媛県の松山市の山中で発見された。木々の隙間に仰向けに倒れた状態で見つかったという。遺体が所持していた財布の中に、失効した免許証があり、そこには彼の父親の氏名と、失踪当時の住所、つまり下関市の、現在彼が暮らしている家の住所が記載されていた。

 彼は愛媛県松山市という土地についてしばらく考えを巡らせた。父の故郷は下関市で、かつてはあちこちを転々としていたことは確かだが、松山に暮らしていたという話は聞いたことはない。四国が父の話に出てきたこともなかった。息子である彼もその土地を訪れたことはない。つまり縁もゆかりもない土地だった。そんな土地で父の死体が発見されたという知らせを聞いて、彼は何かの間違いかいたずらではないかと思った。

 電話の主は彼に、遺体の確認のために四国まで行くことが可能かどうか尋ねた。彼はどういうわけか迷った。彼は父の死を、事実として確認したくない気がした。この先もずっと父は行方不明のままなのだろうと、彼はいつしか考えるようになっていたし、そうなることをどこかで望んでもいた。今も父はどこかで生きていて、どこかの地下を、地下より深いさらに地下のどこかを、さまよっているのだろうと考えることは、彼に救いのような感覚をもたらしていた。

 しかしいまさらそんなことを言っているわけにもいかない。彼は現場に赴くことにした。

 

 次の日、彼は仕事場の工場で有給休暇をもらう手続きを行った。そしてその翌日に四国へ向けて出発した。

 上山サキが小倉のフェリー乗り場まで車で送ってくれた。車の中で彼は父について彼女に話した。

 それほど悲しくはないよ。だってもうずっと長い間、父が不在のまま過ごしてきたのだからね。生きているだろうという望みはとっくに捨ててしまっていたよ。覚悟はできていたんだ。それに、母を殺したのは父なんだからね。確たる証拠があるわけじゃないけど、認めたくないけど、でもたぶんそうだよ。残念ながらそうなんだよ。父は母を殺して逃げたんだ、まだ子供だった僕を一人残してね。彼はそんなことをしてはならなかった、と彼は言った。

「本当に、あなたのお父さんがやったの?」と彼女は言いにくそうに尋ねた。「あなたのお父さんには何度か会ったことあるけど、すごく優しかったよ。それにあなたのお母さんとも、とても仲よさそうやったやん。何だか親しい友達同士みたいやった」

 僕だってそう思っていたよ、動機も何もわからない、でも状況が父が殺したことを示していたんだ、足跡も残っていたし、第三者の指紋はほかにはないし、家が荒らされた形跡もない、僕だって信じたくはなかった、でもそう考えるしかないんだ、その可能性しかないんだ、殺したのは父だよ、どんなに信じられなくたって、人を殺しそうに見えなくたって、きっとそれは事実なんだ、と彼は言った。半ば自分に言い聞かせるような言い方だった。

 そのあとは二人ともあまりしゃべらなかった。やがて小倉に着いた。彼は上山サキにお礼を言って車を降りた。

「帰って来たら知らせて。また迎えに来るね」と彼女は言った。

 帰りは自分で帰るから大丈夫だよ、君にも迷惑だろうし、と彼は言った。

「遠慮せんでええんよ。迷惑なんかじゃないし。じゃあまた二日後に、ここでね」

 彼は彼女の厚意に対して改めて礼を言った。彼女はみかん色の軽自動車と共に去って行った。

 

 雑魚部屋のような二等室の隅の一角に腰かけて、彼はずっと父と松山市との関連について考えていた。どう考えても四国の愛媛県と父とを結びつける接点は彼には思いつけなかった。かつて父が話したいろんな話から得た事実では、父は青年期の一時期に東京と大阪に住んだことがある。四国のことは話に出てこなかったし、親類が四国に住んでいるという話を聞いたこともなかった。

 頭の中で答えのない問いかけがぐるぐると回転していた。周囲ではほかの乗客が話をしたり、廊下を歩き回ったり、スマートフォンの画面を睨んだり、眠ったりしていた。窓の外は暗く、海も景色も何も見えない。彼は布団を敷き、その上に寝っ転がった。長く、退屈な、心を躍らせる要素の何もない旅だった。何度も彼は喉の奥で唾を飲み込んだ。かすかな船酔いの予感を彼は覚えていた。いろんなことを考えようとしたが、思考は吐き気に邪魔されて一つもまともな形をとらなかった。眠くはなかったし、眠りたいとも思わなかったが、ほかにすることもなかったので彼は仕方なく目を閉じた。すると半ば引きずり込まれるように、あっという間に彼は眠ってしまった。

 目を覚ますとすでにフェリーは停止していた。彼が上体を起こすと、すでに周りには誰もいなかった。大勢いた乗客はほとんど降りてしまっていて、部屋には彼ともう一人、小柄な中年の男性しかいなかった。その男性も、すでに荷物を抱えて部屋から出ていくところだった。何だか奇妙なほどに静かだった。彼は起き上がって布団をたたみ、ロッカーから荷物を出した。そして出口へと向かった。

 朝の空はいちめん濃い灰色の空に覆われていて薄暗かった。今にも雨が降りそうだった。フェリー乗り場を出ると、彼はバスに乗って市街地へと向かった。曇り空のためか、街の景色は何もかもがくすんだ灰色をまとっているように見えた。

 遺体が安置されている松山市内の病院に着いた。受付で名前と用件とを名乗ると、すぐに彼は霊安室に案内された。がっしりとした体格の医師が彼の応対をした。ドアを開いて霊安室の中に入るとそこにはドライアイスのような冷気がたちこめていた。医師が遺体を示した。遺体は銀色のステンレスの台の上に横たえられていた。彼は傍らに立って、遺体の顔を覗き込む。その男はひどく小柄だった。髪の毛は頭部にまばらに残っているばかり、頬は鋭くこけていて、薄い皮膚はその下の骨にぴったり張り付いている。無数の細かい皺が顔じゅうに刻まれていた。反射的に彼は、これは誰か知らない人間の遺体だ、と思った。父ではない。あらゆる特徴が父とは異なっている。父はこんなに小柄ではなかった。こんなに皺だらけでもなかった。しかし彼が父を最後に見たのはもう10年以上前のことである。10年も経てば誰だって変化する。彼は遺体の咽喉仏を見た。彼にとって父を象徴するものだった、あの長い首から何かの間違いのように飛び出した咽喉仏を探し求めたのだった。彼が記憶しているあの鋭角的な隆起はそこにはなく、ただ控えめな、小さなこぶのようなものが、縄の跡が残った首の皮膚に、わずかに盛り上がっているばかりだった。

 医師が遺体が発見された現場の状況について説明した。死因は窒息、首に縄が巻き付いた状態で、木や枯草や土やらで分厚く覆われて地面に横たわっていた。どういうわけか、縄は刃物のようなもので切られていた。縄のもう片方の切れ端は5メートルほど離れた木の枝に結び付けられていた。遺体に外傷はなかった。なぜ縄が切られていたのは定かではないが、現場の状況から見て自殺に間違いはないとのことだった。

「ジャンパーのポケットの中に、硬貨がいっぱい詰まっていたということです」と医師が言った。「500円玉から1円玉までまんべんなく、総額にして3040円分の小銭が、両のポケットにいっぱいに入っていたということです」

 彼の中で違和感が積み重なっていった。何かがひどく、決定的に間違っている、そんな確信のようなものが築かれつつあった。自分は騙されて、あるいは何かの手違いのようなものがあって、全く別人の死体に父親のものだとして引き合わされているのだ。そんな考えが彼の頭に浮かんだ。

 父には見えない気がします、と彼は言った。

「しかし下関警察署に残っているあなたのお父さんの指紋と、ここにある遺体の指紋は一致しています」と医師は言った。それから医師は遺体のズボンのポケットに入っていたという財布と、免許証を彼に示した。そこには紛れもない父の本名が書かれていた。誕生日も一致していた。顔写真も父のものだった。生前の、どこか不機嫌そうな顔で写真に写った父。とっくに失効した免許証だった。この遺体の男はそれを持ち続けていたらしい。彼は再び遺体に目をやる。彼の内部のずれのようなものは、解消されるどころかさらに増大していた。

 彼は遺体の咽喉仏から目を離せない。こんな形ではなかったと彼は思う。父の咽喉仏はこんなものではなかった。もっと大きく飛び出していたし、鋭く尖っていた。

 彼はその場に立ち尽くしたまま、しばらく無言で目を閉じていた。瞼の裏では生きていたころの父の咽喉仏が、引っ込んだかと思うとまたすぐ突き出たり、わずかに上下したりする映像が描き出されていた。そして様々な記憶が頭の中を通過していった。彼は誰かに名前を呼ばれたみたいにそれからいきなり目を開いた。そして改めて遺体を見た。そして彼は悟った。そうだ、認めなくてはならない。この小柄な干からびた遺体の男が、まぎれもなく自分の父親だということ。この首からわずかに盛り上がった控えめな隆起は、かつては生き物のように生き生きと動いていたあの父の咽喉仏の、死んだ姿なのだということを。

 

 彼は死体検案書と死亡届を松山市役所に提出し、火葬許可証を受け取った。それから現地の葬儀社に手配して、火葬の日取りを決めた。松山に滞在するのは二日間しかないなので急いでほしいと告げると、火葬は翌日に行われることになった。そうした手続きで一日が忙殺された。その日、彼は一日食事をとらなかった。一度たりとも食欲を感じなかった。そのことは死んだ父と対面したこととは関係がない。彼にとって食事をとらない日は、そんなに頻繁ではないにせよ、そう珍しいことではなかった。父の死とは関係ないはずだ、と彼は考えていた。午後になってもうこらえきれないとでもいうように雨が降り出し、それは相当に強い雨だった。雨は勢いを失うことなく夜中まで降り続けた。

 次の日も朝から曇っていた。彼はバスに乗って火葬場に行った。立会人は葬儀社の人間のほかには誰もいない。がらんとした火葬場をうろうろしながら彼は父の遺体が燃えるのを待った。火葬は30分ほどで終わった。父の亡骸は白い大きな台の上にバラバラの骨と化して乗っていた。彼はまだ熱が残る骨を箸で拾い集めて桐の箱に詰めた。彼は火葬場の係員に促されるまま、最後に父の咽喉仏の骨とされる骨をつまんで、骨壺に入れた。それは白く分厚い輪のような形をしていた。反射的に彼は地下室の水槽の生き物のことを思い出した。係員が骨壺の蓋を閉じて、それを桐の箱にしまった。彼は箱を受け取ってスーツケースに詰めた。

 この地で行うべきことはもうなかった。彼は火葬場を後にしてバスに乗ってホテルに戻った。簡単な食事をして部屋に戻り、シャワーを浴びると、すぐに眠ってしまった。

 滞在の最後の日、彼は警察署に電話をかけて、父の遺体が発見されたという山の名前と場所を尋ねた。電話を切ると、スマートフォンを操作して地図ソフトを起動し、教えてもらった住所を入力して目的地を表示させた。地図ソフトなしにはよそ者にはまずたどり着けそうもないような辺鄙な場所に、その山は位置していた。

 ホテルを出た彼は歩いて松山駅に向かった。駅前のバス停からバスに乗り、15分ほど乗車したあとで降りた。そしてまた歩きはじめた。歩くうちに彼は市街地からどんどん離れて、あたりには古びた民家と、田や畑しか見えなくなった。空は曇ったままで、時折冷たい強い風が吹いた。彼はコートのボタンをいちばん上までとめた。彼は絶えずスマートフォンで現在地を確認しながら歩き続けた。20分ほど歩いた後で、ようやくその山の入口と思しき地点にたどり着いた。入り口には山の名前が記された立札が立っていた。

 低く、なだらかな、容易に頂上までたどり着けそうな山だった。中腹と山頂近くに鉄塔がそびえていた。彼は登り始めた。もちろん登山を楽しむなどといった気分ではなかった。スーツケースを抱えて山を登るのは容易なわざではなかったので、貴重品だけ携えて、ケースは山の入り口付近の茂みに隠して置いておくことにした。こんな場所で盗む人はいないだろうし、盗まれて困るものも特にない。

 枯れ枝が靴の下でぽきぽきと音を立てて折れる。彼は山を登り続けたが、遺体が発見された正確な位置までは知らなかったし、そもそもその位置を特定することが目的ではなかった。彼は立ち止まることなく、息を切らしながら歩き続けた。人の姿は一度も見かけなかった。

 やがて頂上に着いた。そこもやはり無人だった。山頂はちょっとした公園のようになっていて、地面は平坦な草むらで覆われ、ベンチが一脚置かれていた。小さな石碑があり、表面に細かく何かびっしりと文字が刻まれていた。標高を示す立札がその片隅に立っている。

 彼はベンチに腰かけ、ポケットに入れていたペットボトルのお茶を飲んだ。木々の隙間からは、冬の曇り空の下に広がるくすんだような灰色をした小さな町が見下ろせた。風が強く吹きすさび、冷えた汗とともに彼の身を震わせた。しかし寒さは今の彼にとって大きな問題ではなかった。そのことも気にならないほど、彼は目の前の景色に注意を奪われていた。ミニチュアのように見える眼下の建物や電信柱や自動車などすべての物体の輪郭は、霞んだように、滲むようにおぼろげだった。彼が見つめていた、あるいは見ようとしていたものは、そうした風景ではなく、彼の視界に生じていた正体不明のズレだった。最初に父の遺体と対面した時にも覚えた、あの違和感のようなものが、彼の中によみがえっていた。彼はそのズレの感覚がどこから来るのかを知ろうとしていた。

 彼は長い時間そのまま山頂にとどまった。雲がときどき割れて空をのぞかせたが、その穴はすぐにふさがった。彼は立ち上がって草むらの上を歩き回ったり、空を眺めたり、木々を眺めたりして、またベンチに座る、といったことを繰り返した。視界のズレが消え去ることはなかった。今すぐ地下室にこもって生き物を見たいと思った。家の外で彼が地下室の生き物のことを考えるのはめったにないことだった。彼はベンチの背もたれに体を預けて目を閉じ、瞼の裏に生き物の姿を描き出そうとした。

 そのあと、彼はもう体をほとんど動かさなかった。眠ったようにそのままずっと目を閉じていた。

 突然鋭いしゃがれたような声が聞こえて、彼の半ば眠ったような意識を揺り起こした。瞼の裏のイメージは砕け散るように消えた。目を開けてあたりを見回すと、鳥の形をした黒いシルエットが町のほうへ向けて飛び去っていくのが見えた。目を覚まさせたのは鴉の鳴き声だった。

 彼は大きく一つ息をついて立ち上がると、また山を下りはじめた。

 

 その日の午後七時に彼は松山観光港からフェリーに乗り込んだ。着替えて布団に体を横たえると、彼はすぐに眠った。夢も見ない、例によって泥に沈むような眠りだった。

 フェリーは翌朝に小倉の小倉に到着した。小倉港を出て少し歩くと、上山サキの明るいみかん色の自動車が道路沿いに停車しているのが見えた。彼女は約束通りに迎えに来てくれていたのだった。彼は車に乗り込んだ。

 上山サキは彼の旅行については何も尋ねず、ただ何か別の話をひっきりなしに続けていた。彼は依然として眠気が覚め切っていなかったので、彼女が何を話しているのかほとんど理解していなかったが、久しぶりに聞くその声は、不思議に心地よく感じた。彼はまどろみに近い状態でぼんやりしたまま遠くから届くかのような彼女の声を音楽を聴くように聞いていた。彼は相槌を打ったり、打たなかったりした。

 途中で上山サキは「マクドナルド」に立ち寄り、テイクアウトでポテトとハンバーガーとコーラを注文した。それを彼に渡し、食べるように言った。ほとんど命令のような口調だった。

「食べなさい。あなたなんだかひどく疲れた顔してるから。なんだかやつれて見えるし」

 食べたくない食欲がない、と彼は言ったが、そういう時にはジャンク・フードがいいのだ、と彼女はよくわからない主張をして、半ば無理やりに食べさせようとした。それで彼は気が進まないながらもフライドポテトをつまんで一つだけ口に入れてみたのだったが、その一口によって、自分がどれだけ腹を空かせていたかを知った。数分ののちには食べ物はみんな彼の胃の中におさまってしまっていた。そんなに充実してマクドナルドのポテトやハンバーガーを食べたことはなかったと彼は思った。

 やがて車は彼らが住む町に着いた。上山サキは彼女の家の前に車を駐車した。彼は上山サキにいつになく熱心に感謝の意を伝えた。それは送り迎えをしてくれたことだけでなく、マクドナルド食品のおいしさを教えてくれたことに対する感謝の念も含まれていた。

「ゆっくり眠るのよ」と彼女は言った。彼は頷いた。そして彼らはそれぞれの家に戻った。

 実際に彼はその日彼女の言うとおりにぐっすりと眠った。ほとんど一日中。

 

 彼は父の遺骨を祖父や祖母が眠る坂の上の墓地の墓石に納めた。初七日の法要が済んで、それで父の死に関して彼がやるべきことはほとんど終わった。

 地下に一人でいるとき、生前の父の幻影がしばしば彼を襲った。幻となった父は生前のように彼にいろんな話を聞かせてはくれなかった。ただ黙って部屋の隅に立ち尽くすのみだった。水槽越しに父の姿を見ることもあった。水槽を挟んで両側に彼は父と向かい合って立っていた。二人の間では例の白い生き物が優雅に泳ぎ続けていた。

 やはりまだ父はどこかで生きているのではないかと彼は思う。あの死骸はやはり別人のものだったのだ。誰が縄を切ったんだ? なぜ父は小銭をいっぱいポケットに詰めていなくてはならなかったのか。どうして失効した免許証を持ち続けていたのか。やはりあれは父ではなく、よく似た別人を父の死体に仕立て上げたのだ。しかしいったい誰が、何のために? どうしてそんなことをする必要があるんだ。どうして父がそんな目に遭わなくてはならないんだ? 彼の頭の中はそのようにいろんな謎や不毛な思考で入り乱れていた。

 白い生き物はもちろん、何もかも知ったことではないとでもいうように、泳いだり眠ったりしていた。彼が投げ入れた適当な食べ物を残さず綺麗にその体内に飲み込み、そして輝く虹色の排泄を行った。

 

 年が明けた。1月の半ばに一度雪が降って積もった。彼はずっと一人きりで過ごし、その間何度か上山サキの訪問を受けた。彼女はどことなく、以前よりもさらに親切になっていた。どうやら彼女は彼の境遇にいたく同情していて、いつものいくらか過剰で強引なやり方で、彼を元気づけ励まし慰めようとしているみたいだった。そして彼のほうも、彼女の親切を以前ほどにはありが

12月の半ば過ぎのある夜、彼の家の電話が珍しく鳴った。受話器を取ると、下関警察署からの電話だった。電話の主が、父の名前を告げるのを聞いて、思わず彼は受話器を握りなおした。彼の父のものと思しき遺体が見つかった、と電話の主は彼に告げた。

 彼は詳しい話を聞いた。その遺体は愛媛県の松山市の山中で発見された。木々の隙間に仰向けに倒れた状態で見つかったという。遺体が所持していた財布の中に、失効した免許証があり、そこには彼の父親の氏名と、失踪当時の住所、つまり下関市の、現在彼が暮らしている家の住所が記載されていた。

 彼は愛媛県松山市という土地についてしばらく考えを巡らせた。父の故郷は下関市で、かつてはあちこちを転々としていたことは確かだが、松山に暮らしていたという話は聞いたことはない。四国が父の話に出てきたこともなかった。息子である彼もその土地を訪れたことはない。つまり縁もゆかりもない土地だった。そんな土地で父の死体が発見されたという知らせを聞いて、彼は何かの間違いかいたずらではないかと思った。

 電話の主は彼に、遺体の確認のために四国まで行くことが可能かどうか尋ねた。彼はどういうわけか迷った。彼は父の死を、事実として確認したくない気がした。この先もずっと父は行方不明のままなのだろうと、彼はいつしか考えるようになっていたし、そうなることをどこかで望んでもいた。今も父はどこかで生きていて、どこかの地下を、地下より深いさらに地下のどこかを、さまよっているのだろうと考えることは、彼に救いのような感覚をもたらしていた。

 しかしいまさらそんなことを言っているわけにもいかない。彼は現場に赴くことにした。

 

 次の日、彼は仕事場の工場で有給休暇をもらう手続きを行った。そしてその翌日に四国へ向けて出発した。

 上山サキが小倉のフェリー乗り場まで車で送ってくれた。車の中で彼は父について彼女に話した。

 それほど悲しくはないよ。だってもうずっと長い間、父が不在のまま過ごしてきたのだからね。生きているだろうという望みはとっくに捨ててしまっていたよ。覚悟はできていたんだ。それに、母を殺したのは父なんだからね。確たる証拠があるわけじゃないけど、認めたくないけど、でもたぶんそうだよ。残念ながらそうなんだよ。父は母を殺して逃げたんだ、まだ子供だった僕を一人残してね。彼はそんなことをしてはならなかった、と彼は言った。

「本当に、あなたのお父さんがやったの?」と彼女は言いにくそうに尋ねた。「あなたのお父さんには何度か会ったことあるけど、すごく優しかったよ。それにあなたのお母さんとも、とても仲よさそうやったやん。何だか親しい友達同士みたいやった」

 僕だってそう思っていたよ、動機も何もわからない、でも状況が父が殺したことを示していたんだ、足跡も残っていたし、第三者の指紋はほかにはないし、家が荒らされた形跡もない、僕だって信じたくはなかった、でもそう考えるしかないんだ、その可能性しかないんだ、殺したのは父だよ、どんなに信じられなくたって、人を殺しそうに見えなくたって、きっとそれは事実なんだ、と彼は言った。半ば自分に言い聞かせるような言い方だった。

 そのあとは二人ともあまりしゃべらなかった。やがて小倉に着いた。彼は上山サキにお礼を言って車を降りた。

「帰って来たら知らせて。また迎えに来るね」と彼女は言った。

 帰りは自分で帰るから大丈夫だよ、君にも迷惑だろうし、と彼は言った。

「遠慮せんでええんよ。迷惑なんかじゃないし。じゃあまた二日後に、ここでね」

 彼は彼女の厚意に対して改めて礼を言った。彼女はみかん色の軽自動車と共に去って行った。

 

 雑魚部屋のような二等室の隅の一角に腰かけて、彼はずっと父と松山市との関連について考えていた。どう考えても四国の愛媛県と父とを結びつける接点は彼には思いつけなかった。かつて父が話したいろんな話から得た事実では、父は青年期の一時期に東京と大阪に住んだことがある。四国のことは話に出てこなかったし、親類が四国に住んでいるという話を聞いたこともなかった。

 頭の中で答えのない問いかけがぐるぐると回転していた。周囲ではほかの乗客が話をしたり、廊下を歩き回ったり、スマートフォンの画面を睨んだり、眠ったりしていた。窓の外は暗く、海も景色も何も見えない。彼は布団を敷き、その上に寝っ転がった。長く、退屈な、心を躍らせる要素の何もない旅だった。何度も彼は喉の奥で唾を飲み込んだ。かすかな船酔いの予感を彼は覚えていた。いろんなことを考えようとしたが、思考は吐き気に邪魔されて一つもまともな形をとらなかった。眠くはなかったし、眠りたいとも思わなかったが、ほかにすることもなかったので彼は仕方なく目を閉じた。すると半ば引きずり込まれるように、あっという間に彼は眠ってしまった。

 目を覚ますとすでにフェリーは停止していた。彼が上体を起こすと、すでに周りには誰もいなかった。大勢いた乗客はほとんど降りてしまっていて、部屋には彼ともう一人、小柄な中年の男性しかいなかった。その男性も、すでに荷物を抱えて部屋から出ていくところだった。何だか奇妙なほどに静かだった。彼は起き上がって布団をたたみ、ロッカーから荷物を出した。そして出口へと向かった。

 朝の空はいちめん濃い灰色の空に覆われていて薄暗かった。今にも雨が降りそうだった。フェリー乗り場を出ると、彼はバスに乗って市街地へと向かった。曇り空のためか、街の景色は何もかもがくすんだ灰色をまとっているように見えた。

 遺体が安置されている松山市内の病院に着いた。受付で名前と用件とを名乗ると、すぐに彼は霊安室に案内された。がっしりとした体格の医師が彼の応対をした。ドアを開いて霊安室の中に入るとそこにはドライアイスのような冷気がたちこめていた。医師が遺体を示した。遺体は銀色のステンレスの台の上に横たえられていた。彼は傍らに立って、遺体の顔を覗き込む。その男はひどく小柄だった。髪の毛は頭部にまばらに残っているばかり、頬は鋭くこけていて、薄い皮膚はその下の骨にぴったり張り付いている。無数の細かい皺が顔じゅうに刻まれていた。反射的に彼は、これは誰か知らない人間の遺体だ、と思った。父ではない。あらゆる特徴が父とは異なっている。父はこんなに小柄ではなかった。こんなに皺だらけでもなかった。しかし彼が父を最後に見たのはもう10年以上前のことである。10年も経てば誰だって変化する。彼は遺体の咽喉仏を見た。彼にとって父を象徴するものだった、あの長い首から何かの間違いのように飛び出した咽喉仏を探し求めたのだった。彼が記憶しているあの鋭角的な隆起はそこにはなく、ただ控えめな、小さなこぶのようなものが、縄の跡が残った首の皮膚に、わずかに盛り上がっているばかりだった。

 医師が遺体が発見された現場の状況について説明した。死因は窒息、首に縄が巻き付いた状態で、木や枯草や土やらで分厚く覆われて地面に横たわっていた。どういうわけか、縄は刃物のようなもので切られていた。縄のもう片方の切れ端は5メートルほど離れた木の枝に結び付けられていた。遺体に外傷はなかった。なぜ縄が切られていたのは定かではないが、現場の状況から見て自殺に間違いはないとのことだった。

「ジャンパーのポケットの中に、硬貨がいっぱい詰まっていたということです」と医師が言った。「500円玉から1円玉までまんべんなく、総額にして3040円分の小銭が、両のポケットにいっぱいに入っていたということです」

 彼の中で違和感が積み重なっていった。何かがひどく、決定的に間違っている、そんな確信のようなものが築かれつつあった。自分は騙されて、あるいは何かの手違いのようなものがあって、全く別人の死体に父親のものだとして引き合わされているのだ。そんな考えが彼の頭に浮かんだ。

 父には見えない気がします、と彼は言った。

「しかし下関警察署に残っているあなたのお父さんの指紋と、ここにある遺体の指紋は一致しています」と医師は言った。それから医師は遺体のズボンのポケットに入っていたという財布と、免許証を彼に示した。そこには紛れもない父の本名が書かれていた。誕生日も一致していた。顔写真も父のものだった。生前の、どこか不機嫌そうな顔で写真に写った父。とっくに失効した免許証だった。この遺体の男はそれを持ち続けていたらしい。彼は再び遺体に目をやる。彼の内部のずれのようなものは、解消されるどころかさらに増大していた。

 彼は遺体の咽喉仏から目を離せない。こんな形ではなかったと彼は思う。父の咽喉仏はこんなものではなかった。もっと大きく飛び出していたし、鋭く尖っていた。

 彼はその場に立ち尽くしたまま、しばらく無言で目を閉じていた。瞼の裏では生きていたころの父の咽喉仏が、引っ込んだかと思うとまたすぐ突き出たり、わずかに上下したりする映像が描き出されていた。そして様々な記憶が頭の中を通過していった。彼は誰かに名前を呼ばれたみたいにそれからいきなり目を開いた。そして改めて遺体を見た。そして彼は悟った。そうだ、認めなくてはならない。この小柄な干からびた遺体の男が、まぎれもなく自分の父親だということ。この首からわずかに盛り上がった控えめな隆起は、かつては生き物のように生き生きと動いていたあの父の咽喉仏の、死んだ姿なのだということを。

 

 彼は死体検案書と死亡届を松山市役所に提出し、火葬許可証を受け取った。それから現地の葬儀社に手配して、火葬の日取りを決めた。松山に滞在するのは二日間しかないなので急いでほしいと告げると、火葬は翌日に行われることになった。そうした手続きで一日が忙殺された。その日、彼は一日食事をとらなかった。一度たりとも食欲を感じなかった。そのことは死んだ父と対面したこととは関係がない。彼にとって食事をとらない日は、そんなに頻繁ではないにせよ、そう珍しいことではなかった。父の死とは関係ないはずだ、と彼は考えていた。午後になってもうこらえきれないとでもいうように雨が降り出し、それは相当に強い雨だった。雨は勢いを失うことなく夜中まで降り続けた。

 次の日も朝から曇っていた。彼はバスに乗って火葬場に行った。立会人は葬儀社の人間のほかには誰もいない。がらんとした火葬場をうろうろしながら彼は父の遺体が燃えるのを待った。火葬は30分ほどで終わった。父の亡骸は白い大きな台の上にバラバラの骨と化して乗っていた。彼はまだ熱が残る骨を箸で拾い集めて桐の箱に詰めた。彼は火葬場の係員に促されるまま、最後に父の咽喉仏の骨とされる骨をつまんで、骨壺に入れた。それは白く分厚い輪のような形をしていた。反射的に彼は地下室の水槽の生き物のことを思い出した。係員が骨壺の蓋を閉じて、それを桐の箱にしまった。彼は箱を受け取ってスーツケースに詰めた。

 この地で行うべきことはもうなかった。彼は火葬場を後にしてバスに乗ってホテルに戻った。簡単な食事をして部屋に戻り、シャワーを浴びると、すぐに眠ってしまった。

 滞在の最後の日、彼は警察署に電話をかけて、父の遺体が発見されたという山の名前と場所を尋ねた。電話を切ると、スマートフォンを操作して地図ソフトを起動し、教えてもらった住所を入力して目的地を表示させた。地図ソフトなしにはよそ者にはまずたどり着けそうもないような辺鄙な場所に、その山は位置していた。

 ホテルを出た彼は歩いて松山駅に向かった。駅前のバス停からバスに乗り、15分ほど乗車したあとで降りた。そしてまた歩きはじめた。歩くうちに彼は市街地からどんどん離れて、あたりには古びた民家と、田や畑しか見えなくなった。空は曇ったままで、時折冷たい強い風が吹いた。彼はコートのボタンをいちばん上までとめた。彼は絶えずスマートフォンで現在地を確認しながら歩き続けた。20分ほど歩いた後で、ようやくその山の入口と思しき地点にたどり着いた。入り口には山の名前が記された立札が立っていた。

 低く、なだらかな、容易に頂上までたどり着けそうな山だった。中腹と山頂近くに鉄塔がそびえていた。彼は登り始めた。もちろん登山を楽しむなどといった気分ではなかった。スーツケースを抱えて山を登るのは容易なわざではなかったので、貴重品だけ携えて、ケースは山の入り口付近の茂みに隠して置いておくことにした。こんな場所で盗む人はいないだろうし、盗まれて困るものも特にない。

 枯れ枝が靴の下でぽきぽきと音を立てて折れる。彼は山を登り続けたが、遺体が発見された正確な位置までは知らなかったし、そもそもその位置を特定することが目的ではなかった。彼は立ち止まることなく、息を切らしながら歩き続けた。人の姿は一度も見かけなかった。

 やがて頂上に着いた。そこもやはり無人だった。山頂はちょっとした公園のようになっていて、地面は平坦な草むらで覆われ、ベンチが一脚置かれていた。小さな石碑があり、表面に細かく何かびっしりと文字が刻まれていた。標高を示す立札がその片隅に立っている。

 彼はベンチに腰かけ、ポケットに入れていたペットボトルのお茶を飲んだ。木々の隙間からは、冬の曇り空の下に広がるくすんだような灰色をした小さな町が見下ろせた。風が強く吹きすさび、冷えた汗とともに彼の身を震わせた。しかし寒さは今の彼にとって大きな問題ではなかった。そのことも気にならないほど、彼は目の前の景色に注意を奪われていた。ミニチュアのように見える眼下の建物や電信柱や自動車などすべての物体の輪郭は、霞んだように、滲むようにおぼろげだった。彼が見つめていた、あるいは見ようとしていたものは、そうした風景ではなく、彼の視界に生じていた正体不明のズレだった。最初に父の遺体と対面した時にも覚えた、あの違和感のようなものが、彼の中によみがえっていた。彼はそのズレの感覚がどこから来るのかを知ろうとしていた。

 彼は長い時間そのまま山頂にとどまった。雲がときどき割れて空をのぞかせたが、その穴はすぐにふさがった。彼は立ち上がって草むらの上を歩き回ったり、空を眺めたり、木々を眺めたりして、またベンチに座る、といったことを繰り返した。視界のズレが消え去ることはなかった。今すぐ地下室にこもって生き物を見たいと思った。家の外で彼が地下室の生き物のことを考えるのはめったにないことだった。彼はベンチの背もたれに体を預けて目を閉じ、瞼の裏に生き物の姿を描き出そうとした。

 そのあと、彼はもう体をほとんど動かさなかった。眠ったようにそのままずっと目を閉じていた。

 突然鋭いしゃがれたような声が聞こえて、彼の半ば眠ったような意識を揺り起こした。瞼の裏のイメージは砕け散るように消えた。目を開けてあたりを見回すと、鳥の形をした黒いシルエットが町のほうへ向けて飛び去っていくのが見えた。目を覚まさせたのは鴉の鳴き声だった。

 彼は大きく一つ息をついて立ち上がると、また山を下りはじめた。

 

 その日の午後七時に彼は松山観光港からフェリーに乗り込んだ。着替えて布団に体を横たえると、彼はすぐに眠った。夢も見ない、例によって泥に沈むような眠りだった。

 フェリーは翌朝に小倉の小倉に到着した。小倉港を出て少し歩くと、上山サキの明るいみかん色の自動車が道路沿いに停車しているのが見えた。彼女は約束通りに迎えに来てくれていたのだった。彼は車に乗り込んだ。

 上山サキは彼の旅行については何も尋ねず、ただ何か別の話をひっきりなしに続けていた。彼は依然として眠気が覚め切っていなかったので、彼女が何を話しているのかほとんど理解していなかったが、久しぶりに聞くその声は、不思議に心地よく感じた。彼はまどろみに近い状態でぼんやりしたまま遠くから届くかのような彼女の声を音楽を聴くように聞いていた。彼は相槌を打ったり、打たなかったりした。

 途中で上山サキは「マクドナルド」に立ち寄り、テイクアウトでポテトとハンバーガーとコーラを注文した。それを彼に渡し、食べるように言った。ほとんど命令のような口調だった。

「食べなさい。あなたなんだかひどく疲れた顔してるから。なんだかやつれて見えるし」

 食べたくない食欲がない、と彼は言ったが、そういう時にはジャンク・フードがいいのだ、と彼女はよくわからない主張をして、半ば無理やりに食べさせようとした。それで彼は気が進まないながらもフライドポテトをつまんで一つだけ口に入れてみたのだったが、その一口によって、自分がどれだけ腹を空かせていたかを知った。数分ののちには食べ物はみんな彼の胃の中におさまってしまっていた。そんなに充実してマクドナルドのポテトやハンバーガーを食べたことはなかったと彼は思った。

 やがて車は彼らが住む町に着いた。上山サキは彼女の家の前に車を駐車した。彼は上山サキにいつになく熱心に感謝の意を伝えた。それは送り迎えをしてくれたことだけでなく、マクドナルド食品のおいしさを教えてくれたことに対する感謝の念も含まれていた。

「ゆっくり眠るのよ」と彼女は言った。彼は頷いた。そして彼らはそれぞれの家に戻った。

 実際に彼はその日彼女の言うとおりにぐっすりと眠った。ほとんど一日中。

 

 彼は父の遺骨を祖父や祖母が眠る坂の上の墓地の墓石に納めた。初七日の法要が済んで、それで父の死に関して彼がやるべきことはほとんど終わった。

 地下に一人でいるとき、生前の父の幻影がしばしば彼を襲った。幻となった父は生前のように彼にいろんな話を聞かせてはくれなかった。ただ黙って部屋の隅に立ち尽くすのみだった。水槽越しに父の姿を見ることもあった。水槽を挟んで両側に彼は父と向かい合って立っていた。二人の間では例の白い生き物が優雅に泳ぎ続けていた。

 やはりまだ父はどこかで生きているのではないかと彼は思う。あの死骸はやはり別人のものだったのだ。誰が縄を切ったんだ? なぜ父は小銭をいっぱいポケットに詰めていなくてはならなかったのか。どうして失効した免許証を持ち続けていたのか。やはりあれは父ではなく、よく似た別人を父の死体に仕立て上げたのだ。しかしいったい誰が、何のために? どうしてそんなことをする必要があるんだ。どうして父がそんな目に遭わなくてはならないんだ? 彼の頭の中はそのようにいろんな謎や不毛な思考で入り乱れていた。

 白い生き物はもちろん、何もかも知ったことではないとでもいうように、泳いだり眠ったりしていた。彼が投げ入れた適当な食べ物を残さず綺麗にその体内に飲み込み、そして輝く虹色の排泄を行った。

 

 年が明けた。1月の半ばに一度雪が降って積もった。彼はずっと一人きりで過ごし、その間何度か上山サキの訪問を受けた。彼女はどことなく、以前よりもさらに親切になっていた。どうやら彼女は彼の境遇にいたく同情していて、いつものいくらか過剰で強引なやり方で、彼を元気づけ励まし慰めようとしているみたいだった。そして彼のほうも、彼女の親切を以前ほどにはありがた迷惑のようには感じなくなっていた。彼は以前よりも気安く上山サキの家への立ち入りを許した。縁側で窓を開け放ったまま昼寝をしているところに門から入ってきてそのまま家に上がり込んでも、それほど強く注意しなくなったし、彼女がひどく長居しても、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか、とは言わなくなった。

 彼は自分が上山サキにだけは比較的やすやすと家への侵入を許してしまったのは、彼女がある懐かしさを喚起させるからだということを悟った。それはかつて彼の両親がまだ健在だった頃の、彼がまだ穏やかな庇護下にあった頃の、幸福で平和な時代への懐かしさだった。そんな日々を一緒に過ごした「サキちゃん」に対する感情は、いくらか凍てついた彼の心をわずかに溶かしはした。つまり彼女は彼の「膜」をいくらか薄くさせた。それまで彼は、自分では過去の恋人たちに対するのと同じように上山サキと接しているつもりでいたが、実際には彼女たちといるよりもずっとリラックスしていることに気づいた。どれだけ自分を律しているつもりであっても、子供時代の幸福を象徴する彼女に対しては、普段ならあらゆる外部からの侵入を固く阻む心の中にある要塞も、少しばかりその厳重な警備を緩めてしまっていたのだった。

た迷惑のようには感じなくなっていた。彼は以前よりも気安く上山サキの家への立ち入りを許した。縁側で窓を開け放ったまま昼寝をしているところに門から入ってきてそのまま家に上がり込んでも、それほど強く注意しなくなったし、彼女がひどく長居しても、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか、とは言わなくなった。

 彼は自分が上山サキにだけは比較的やすやすと家への侵入を許してしまったのは、彼女がある懐かしさを喚起させるからだということを悟った。それはかつて彼の両親がまだ健在だった頃の、彼がまだ穏やかな庇護下にあった頃の、幸福で平和な時代への懐かしさだった。そんな日々を一緒に過ごした「サキちゃん」に対する感情は、いくらか凍てついた彼の心をわずかに溶かしはした。つまり彼女は彼の「膜」をいくらか薄くさせた。それまで彼は、自分では過去の恋人たちに対するのと同じように上山サキと接しているつもりでいたが、実際には彼女たちといるよりもずっとリラックスしていることに気づいた。どれだけ自分を律しているつもりであっても、子供時代の幸福を象徴する彼女に対しては、普段ならあらゆる外部からの侵入を固く阻む心の中にある要塞も、少しばかりその厳重な警備を緩めてしまっていたのだった。

6 庭を片付ける

土曜日の午後、彼は縁側に座って庭を眺めていた。母が死んで以来、庭はそのままになっている。そこを埋め尽くしたがらくたを、彼はただの一つも処分していなかった。すべてそのままの形で放置されていて、ときどき落ち葉を掃いたり、雑草を抜いたりするぐらいだった。それは母を悼むとか母の思い出を手つかずのまま残しておきたいとかそういった理由からではなかった。彼はいつしか、母が残したままの散らかった状態こそがこの庭の正しい在りようなのだと考えるようになっていたのだった。要するに庭はがらくたで埋め尽くされているべきだ、と考えていた。その混沌としたありさまがいつしか彼の目に自然に映るようになっていた。縁側から庭を眺めると心が落ち着くような、安らかな気持ちを覚えるようにさえなっていた。あるいはそれはがらくたのおかげではなく、庭を訪れるカラフルな野鳥たちのおかげかもしれないし、単に縁側でのんびりするという行為の本来的な心地好さのためかもしれない。彼にはわからない。いずれにしても縁側は地下室に次いで彼の好きな場所だった。

 するといつものように上山サキがひょっこりと庭に姿を現した。彼女はいろんなところからまるで猫のように突然現れる。最近ではインターフォンも鳴らさない。彼は窓を開けた。

「ここにおるやろうと思った。たいていこの時間、ここにおるもんね。寒くないん?」

 ストーヴがあるから平気だよ、と彼は言った。

 彼女は靴を脱いで上がり込み、ストーヴを挟んで縁側の彼の隣に座った。彼は窓を閉めた。二人は並んでしばらく庭を眺めていた。

「ねえ、あれなんていう鳥?」と彼女は言って、壊れた椅子の背もたれにとまっていた腹部がオレンジ色の毛で覆われた鳥を指さした。

 ジョウビタキ、と彼は答えた。ジョウビタキはしばらくそこにとまってしきりに尾を揺すっていたが、およそ5秒後に飛び去ってしまった。

「ねえ、どうしてあなたの家の庭って、前から思ってたんやけど、中は綺麗なのに、庭はこんなにごちゃごちゃしてるん?」

 これは単なるがらくたの山じゃなくて、母が残した作品なんだよ、だから手をつけずにそのままにしてあるんだ、と彼は言った。

「でもさあ」と彼女は言う。「気持ちはわかるけど、片付けた方がいいと思うよ。だってこんなにがらくたが放置されてたら、まるで空き家みたいに見えるもの。こないだあなたが四国に行ってたとき、家を空けとったやろ、あの時私思ったの、人がいないとこの家は空き家みたいだなあって。窓が閉まってて明かりもついてなくて、おまけに庭がこんなありさまだからね。空き家と思われたら、危ないこととかいろいろありそうやし……気を悪くしたらごめんね?」

 彼は少し考えたが、そのあとで、いや、君の言う通りだと思う、と言った。そして彼もまた心のどこかでがらくたをずっとこのままにしておくわけにはいかないと考えていたことに、そのとき思い当たった。誰かにそれを言われるのをずっと待っていたような気がした。

 君の言う通りだ、この庭はこのままにしておくわけにはいかない、このままであるべきではない、と改めて彼は言った。

 確かに空き家のように見えてしまうのは望ましいことではない。浮浪者が住処にしたり、悪戯好きの悪童たちが忍び込んだりする可能性だってないとは言えない。そもそも庭というのは不要な物を置くための場所ではないのだ。母の「作品」だとしても、やはりこの状態はまともではない。このたくさんのがらくたを勝手に動かそうが片付けようが、それについて文句を言う人はもういないのだ。

 それでも彼はしばらく迷っていた。しかしついに心を決めた。

 片付けよう、と彼は言った。

 上山サキは頷いた。「私も手伝うよ。じゃあさっそく、やっちゃいましょう、今すぐ」

 その日の昼下がりはがらくたの撤去と庭の清掃にあてられることになった。彼と上山サキは廃棄物で作り上げた前衛芸術作品のような積み上げられた粗大ごみの山を一つ一つ崩していった。庭の、彼が何年も見たことのなかった、いや、恐らく生まれて初めて目にした部分の土が露わになった。彼が物心ついたときからずっと、その部分はがらくたで隠れていたのだ。土は黒く湿っていた。一つ一つ山が崩れてゆく。二人は小さながらくたは「燃やせないごみ」の袋に入れ、大きながらくたは後でまとめて粗大ごみに出すために門のそばに積み上げていった。長い時間をかけて、その大仕事が終わったときには、すでに夕方になっていた。

 がらくたが撤去された庭はちょっとびっくりするほど広々として見えた。その変わりようは、想像したよりもはるかに劇的で、ほとんどうろたえてしまうほどのものだった。作業を始めるまでは、彼は片付いてがらんとした庭を眺めるときには、おそらくある種の寂しさや喪失の感覚を抱くだろうと予想していたのだが、実際に感じたのはむしろ安堵だった。

 片付けの作業の最中にも、全てが終わって片付いた庭を眺めるときにも、彼は母の「作品」を破壊してしまうことに対する罪悪感も、それが永遠に失われることへの寂しさも感じなかった。いつか行わなければならなかった作業を予定通りに行っているだけだという冷静な意識のみがあった。

 彼は上山サキにお礼を言った。そして彼女が好きな「シルベーヌ」と日本茶を振舞った。上山サキは縁側に腰かけ、広くなった庭を眺めながら、おいしそうにお菓子を食べ、お茶の入った湯飲みを両手で持って飲んだ。

「鳥たちは、これからも庭に遊びに来てくれるかねえ」と彼女が言った。

 わからない、と彼は答えた。

 

 庭の混沌が解消されて、彼は家が別のものに生まれ変わったように感じた。家の内部の空気まですっかり入れ替わったみたいな気がした。上山サキも同じようなことを言った。

「あなたの家、何だか明るくなったね。やっぱりこうしてよかったんよ。あなたのお母さんの、思い出が消えてしまったのは、悲しいことかもしれんけど、でも庭はやっぱり綺麗にしておくべきだよ」

 彼は同意した。

 一人になると、上山サキが何気なく言ったその言葉に、彼は考え込んでしまうこともあった。こうして死者の影が少しずつ自分の周りから消えてゆく。母と父がかつてこの家に生きて生活していたことを示す痕跡は時間の経過とともに確実に薄れ、いつかは跡形もなくみんな失われてしまうのだろう。その代わりに生き続ける者が新たに家に痕跡を刻みつける。彼もまた気づかないうちに家にいろんな跡を残しているはずだ。しかし彼が死ねばその跡もまた消える。そのあと家を引き継ぐものはもういない。彼は子孫を残すつもりがなく、そもそも結婚するつもりさえなかった。その確信は彼の中にほとんど遺伝子に組み込まれた呪いのようにずっと昔から存在していた。意識もまだまともでない頃、おそらく幼稚園児ぐらいの頃からすでに、彼は自分は生涯結婚することも子供を産んで育てることもないと信じていた。その未来をすでに知っていた。

 ときどき彼は自分が死んだ後の家について思う。特に地下室で生き物を眺めているようなとき。死ねば後に残るのは地下室付きの家だけ、彼の生活の痕跡は誰にも顧みられることのないまま、風化して行くのだろう。家は売られて見ず知らずの他人のものになるか、あるいは取り壊されてしまうだろう。

 今のところ彼には死ぬつもりはない。死がリアルなものとして迫りくる年齢でもなかった。健康には問題らしい問題もなく、誰かに命を狙われているわけでもなく、自殺願望もなく、自転車で家と工場を往復するだけの生活なので事故に遭う可能性も高くはない。経済的に困窮して餓死するという恐れも今のところはなさそうだった。普段から彼は可能な限り自分を死なせないように用心深く生活していた。彼は白い生き物を後に残して一人で死ぬようなことはしたくなかった。死ぬ前にそれはどこかに逃がすか何かしておかなくてはならない。いつか然るべきタイミングで、生き物をもとの場所に、あの爪跡型のため池に返さなくてはならないと考えていた。しかしその然るべきタイミングを見計らうのは容易なことではない。自分がいつ死ぬかなど予期できるはずもないのだった。いくら用心したところで、道端で背後からいきなり頭のおかしい通り魔に襲われたらなすすべはないし、また地震や台風などといった災害の被害に遭ってあっけなく命を落としてしまう可能性もある。

 自分がどこかよそで死んで、そのあとも無人の地下室の水槽の中で何も知らずにひとり生き物が泳ぎ続ける情景を想像すると、彼は何となく心安らぐ気がした。しかしそれを現実にするわけにはいかない。彼は生き物を自分以外の誰の目にも触れさせたくない。できたら彼は地下室で死にたいと思う。生き物と心中するのも悪くないかもしれない。その場合、彼らの死を最初に知るのは誰になるのだろう。

 

 上山サキの存在はいつしか彼の生活の中で大きな比重を占めるようになっていた。彼女が彼と親しくしていることを、自分の両親も祝福してくれているのだ、とある時上山サキは言った。

「お母さんもお父さんも、あなたのことをずいぶん気に入ってるんよ。若いのにしっかりしてて、一人で立派に生活していてえらいって」

 彼はその話を聞いて意外に感じた。特に彼女の父親までもが彼のことを気に入っているという話については疑いさえ覚えた。彼は上山サキの父親とこれまで何度か顔を合わせたことがあったが、自分が良い印象を与えていると感じたことはなかった。

「だからね、今度私の家で、家族みんなと一緒に食事でもしないかっていう話もあるんよ」と彼女は言った。

 まあ、時間があればね、と彼は言った。しかしすでに頭の中ではその申し出を断るための言い訳を探し始めていた。それはあまり気の進まない提案だった。彼は特に上山サキの両親が嫌いなわけでも悪い印象を持っているわけでもない。ただ単に、自分の生活とは縁のない場所にいる人たちだと考えていた。上山サキの家は裕福である。彼女の父は銀行の取締役だか専務だか、とにかくずいぶん高い地位にあるということだった。髪の毛はくまなく綺麗に真っ白、眼光は鋭く、背が高くがっしりとした体格の彼女の父親は荘重な印象があった。上山サキの父親とは、彼は短い挨拶以上の言葉を交わしたことはない。数少ないそんな機会においても、上山サキの父親は彼にはろくに目もくれずにただ会釈を返すだけだった。おそらく自分など視界に入れる価値もない人間だとみなしているのだろう、と彼は考えていた。

 上山サキの母親は、父親とは正反対に愛想がよくお喋り好きで、よく近所で井戸端会議のようなことを行っているのを目にしていた。母親は彼に対してもまるで同年代の友達か何かのように気安く話しかけた。娘である上山サキは明らかに母親の影響を色濃く受け継いでいる。実際に上山サキは母親とひどく仲が良く、頻繁に二人で出かけたりしていたらしい。さらにいつだったか上山サキは、自分は母親に憧れていてあんなふうになりたいのだ、と彼に言ったことさえあった。彼女は母を愛し敬っているのだ。

 上山サキの母親に話しかけられたときには、彼はもちろん愛想よく振舞った。笑顔さえ見せた。それでも彼は、母親に対していつもある種の警戒心のようなものを解かなかった。母親は親切な気のいい人で、明るくて他人の悪口を言ったりすることもなく、娘が尊敬するのも無理はない人柄をしていた。しかし、あくまで彼の基準から見れば、上山サキの母親もまた娘と同様に、やや馴れ馴れしすぎた。彼が暮らす小さな町においては、いまだに「近所」や「世間」のようなものが根強く生き残って機能していて、そして上山サキの母親は、そういう空気が実に性に合うらしかった。彼は「近所」からあまり孤立しないよう一応は気を遣っていたが、集落全体が一個の家族であるような近しい人間同士の距離感には違和感を覚えたし、それにあまり馴染みたくもなかった。おそらく上山サキの母親は彼のそんな思いは理解しえないし、おそらく想像もつかないものなのだろう。彼女は「近所」や「世間」の気安さと居心地の良さは誰にとっても良いことで利益をもたらすものだと信じて疑わない人に見える。

 上山サキの両親はそういう人たちだった。そんな人たちと夕食を共にするなんて、彼にはいったいどんな話をすればよいのか見当もつかない。

 

 ある朝、彼は上山サキの母親とごみ捨て場でり出くわした。そのとき彼は、娘のことで感謝しているという意味のことを母親から伝えられた。

「サキがあなたのことを、ずいぶん気に入っとるみたいなんよ」と上山サキの母親は見るからに人のよさそうな丸い顔(その顔の形も彼女の娘に正しく遺伝していた)に、にこやかな笑顔を浮かべながら彼に言った。

「最近あの子ね、いつもあなたの話してるんよ。久しぶりに会ったら、ずいぶん立派になっててびっくりしたって言ってね、あなたと仲良くなってからはずいぶん元気になって、昔みたいに明るくなってね、表情も生き生きして、だからね、私たちはあんたに感謝しとるんよ」

 感謝されるようなことは何もしていません、と彼は言った。

「そんなことないんよ。あんたと会うまではあの子も大変やったんよ、病気でずいぶん苦しんどってね、それも症状の外に表れん病気やけえ、私たちもどうしてええかわからんでね。いっときは、あの子本当に苦しそうで、週に一回、車を洗うときのほかには、ベッドに横になるばっかりっていうときもあったんよ。だからね、サキに親切にしてくれるだけでも私たちにしたらありがたいんよ。あの子と仲の良かった友達も、今はみんなよそにおるけえねえ、友達付き合いみたいなのもなくなっとったし。ねえ、あなたもあの子のことを気に入ってくれているんでしょう」

 サキちゃんはいい子ですよ、と彼は言った。

「あら、あんたもそう思う? そう、あの子はいい子なんよ。いい子過ぎて、神経を壊してしもうたんかねえ……一度私、あの子がまだ広島におった頃にね、あの子のアパートに行ったことがあるんやけど、そのときはね、顔を合わせるのは一年ぶりぐらいやったんやけど、なんだかずいぶん元気がなくて、やつれててねえ! これがうちの娘やろうかと思ったぐらい弱々しく見えたんよ。それで、そんなに苦しいんやったら仕事なんかやめなさいって言ってね、アパートを引き払って半ば強引にこっちに帰って来させたんよ。だってそうやろ、娘がそんなにつらそうにしてるのに、どうしてよその土地に一人で置いておけますか?(彼女は丸い顔を紅潮させながら半ば叫んだ)それに、広島であの子が付き合ってた男が、またひどい男でね! といっても私は会ったことはないんやけど、後になってサキが話してくれたところではね、何でも借りたお金を返さんやったり、あの子のアパートから勝手にいろんなものを持ち帰ったり、そのこともサキを苦しめとったみたい。だからね、あの子はああ見えても苦労してるんよ」

 あのフグに似た呑気そうな上山サキにも、そのような知られざる、意外に複雑そうな過去があったのだということを彼は知って、鉄のような冷たく固い心の持主である彼も、そのときには上山サキに対して初めて、微かな共感のようなものを覚えなくもなかった。

7 上山サキが地下室を見つける

ある夜、彼は台所で上山サキが作った夕食を食べていた。彼女は彼の夕食を作るために彼の家へ自由に出入りするようになっていた。最初のうちは週に二、三度だったが、今ではほとんど毎日のように通いつめ、週末にもやって来た。しかしそれなりに育ちの良い彼女は夜間にはさほど長居することはなく、たいてい9時前には帰って行った。どれだけ親しくなっても、上山サキは彼との間に一定の距離感を保とうとしていて、そうした態度を婚前の淑女としての「たしなみ」だと考えているようだった。

 室内には無機的な電子音楽が流れていた。ところで彼は機械が演奏する音楽しか聴かない。人の声や人が演奏する音が入った音楽は聴かない。人間の歌唱や演奏にどうしたって生じる感情や気分の表出、そしてそれが生みだすリズムの揺らぎやブレや不正確さといった要素に対して、彼は嫌悪に近い感じを覚えてしまう。どうしても我慢ができないのだった。

 彼は珍しくひどく空腹を覚えていて、そして上山サキが作ってくれたハンバーグがとてもおいしかったこともあって、ほとんど何も考えず夢中になって食べ物を口に運んでいた。彼が食べている間、上山サキは席を外していた。彼女がどこで何をしているかも考えることなく、彼は食事に没頭していた。

 やがて上山サキが台所に戻ってきて彼に声をかけた。

「ねえ、物置の鍵ってどこにあるん?」 

 彼は箸をおき、口の中のものを咀嚼して飲み込んだ。

 物置の鍵? 何のこと? と彼は言った。

「あの地下にある物置。あそこに入ろうと思って」

 何のために、と彼は尋ねた。

「工具箱を探しよったんよ。あの地下の部屋って、物置なんやろ? あそこは物置だって、あなたこないだ言ってたやん。それでドアを開けてみたんやけど、そこには物置じゃなくて、階段があったから、ちょっとびっくりしたけどね、それで階段を降りてみたんやけど、下のドアに鍵がかかってたから入れんやった。あの地下の物置に、工具箱があるんやろうなと思って」

 彼は湯飲みを手に取り、ゆっくりとお茶を飲みながら、頭を働かせた。つまり彼女は階段を下りて、地下室のドアを見つけたのだ。しかしそのドアは施錠されていたために開けられなかった。彼女は地下室の内部に足を踏み入れたわけではない。まだ何も露見してはいない。彼はひそかに胸をなでおろした。彼女は地下室を見つけたが、地下室を物置だと思い込んでいるだけだ。一階の玄関前の、階段の入り口にあたるドアには、彼は鍵をつけていなかった。上山サキがそのドアに注意を向ける様子はこれまで一度もなかったので、彼はいくらか油断していたのだった。いずれ鍵をつけようと思っていたのに、そのままになっていたのだった。もっと急ぐべきだったと彼は思った。今夜のように、彼女が何かを探すためにあのドアに手をかける、という状況は、決して予期できないものではなかった。大いに起こりうることだったのだ。

 彼は冷静になろうと努めた。慌てる必要はないのだ。彼は湯飲みをテーブルに置き、どうして工具箱が必要なのか、と彼女に訊ねた。

「プラス・ドライバーがいるんよ。トイレのドアの蝶番のねじが緩んでたから、直そうと思って。で、ドライバーってたいてい工具箱に入れるやろ」

 そういう細かいことに、彼女は実によく気がつくのだ。彼女の過剰な親切心をやや煩わしく思ったが、特に何も言わなかった。彼は椅子から立ち上がって隣の居間に入り、タンスの引き出しからプラス・ドライバーを取り出した。

「そんなところにあったんやねえ」と彼女は言った。そしてドライバーを受け取り、トイレへと向かった。

 

 再び台所に戻ってきた彼女は、もとの引き出しにドライバーを戻し、彼と向かい合って座った。彼はすでに食事を終えて、ぼんやりとしながらお茶を飲んでいた。音楽も止んでいた。彼女はテーブルの反対側から、彼の顔をじっと見つめていた。何となく、彼は彼女と目を合わせないようにした。

 

「ねえ、あの地下室って……」と上山サキが言って、すぐに口をつぐんだ。彼にはそれだけで、彼女が言いたいことがわかる気がした。おそらく彼女は、彼の母親のことを思い出したのだ。彼の母親は地下室で死んでいるところを発見された。その事件は滅多に犯罪など怒らないこの街をかなり騒がせたので、広く知られていた。当時中学生だったはずの上山サキだって覚えていたって不思議ではない。彼女はそのことを思い出したが、遠慮してその質問を最後まで発することができなかった。

 彼は彼女の目を見て、しかし何も言わなかった。というより何を言えばよいかわからなかった。彼が何かを隠していることを、上山サキはおそらく察している。彼女がどんなことを考えているのかは不明だが、彼が地下室を誰にも見せない理由とは、彼女には想像もつかないものだろう。衝動的に彼はすべてを打ち明けてしまおうか、と思いに駆られた。しかしいったいどうやって、どんなふうに切り出せばよいのだろう。ありのままに話したとして、彼女は信じるだろうか? 説明するよりも、地下室に彼女を案内して、そこにあるものを見せたほうが早い。彼女はそこにあるものを見てどう思うだろう。その反応を見てみたい気もしたが、しかしやはりまだ、そうするには抵抗があった。地下室に彼が閉じ込めている秘密は、やはり自分一人だけのものにしておきたかった。

 上山サキはそれ以上追及しなかったので、物置の問題はそれきりになった。9時になる前に彼女は家に帰って行った。


 

 一人になった彼は地下室にこもった。青白い部屋の中で白い生き物はいつもどおり優雅に泳いでいた。巨大な立方体の水槽は異なる世界から切り取られてこの地下室に運びこまれた真四角の空間のようだった。生き物は何もかもを無視して、彼という人間も、地下室が人に露見することについての彼の不安も、世界に渦巻く憎しみも、宗教間の対立も、戦争も、現代人が抱く内面の混沌も、宇宙の膨張も、一切を無視して、悠然と水の中を泳いでいる。彼はいつもその超越的な姿を眺めることによって救いに似た気分を得ていた。彼はほとんど精神的にそれに依存していると言ってよかった。生き物の存在が彼を正気に保ち地上での生活における彼を支え真っ当な社会につなぎとめていた。彼は自分が意識しないままに様々な感情を生き物を見つめることによって中和していた。かつて母を亡くしたときや父が失踪したときに抱いた、混乱も嘆きも悲しみも絶望も、そのまっさらで滑らかな白い表面が吸い込んでくれていたのだった。自分自身の正気を保つために俺はこの生き物を飼育していたのだ、彼はそんなことを思う。そして改めて、地下室のことは誰にも知られてはならない、たとえ上山サキに対しても、という思いを新たにした。

 

 時刻は夜中に近かった。彼は全く油断していた。あまりにも上山サキの存在に慣れすぎ、またあまりに彼女を見くびっていた。「祈り」を終えたあと、地下室を出ようとして振り返った彼は、地下室の入口のドアがひとりでに開くのを見た。驚いて目を見張ると、開いたドアの隙間から人影が現れて、地下室に入ってきた。それは上山サキだった。

 彼はその瞬間に、文字通り呼吸が止まった。幻を見ているのではないかと思った。祈りを終えた後の、朦朧でありながら妙に澄んだ意識の中で、上山サキの姿はどこか現実感を欠いたものとして映った。彼女は寝ぼけて起きてきたばかりのような顔をしてそこに立っていた。どうして彼女がここにいるのか、先ほど夕食を作り終えて帰って行ったばかりではなかったか? しかしその姿は幻でも夢でもなく紛れもなく現実だった。彼女は地下室に入ってきた。そして首を動かして室内を見渡すようにした。

「すごおい、素敵なお部屋ね」それが彼女の第一声だった。彼女はそのまま彼のほうに歩み寄ってきた。

 どうして君がここにいるの、と彼は言った。たったそれだけのことを、つかえながら、喉から絞り出すような声で尋ねたのだった。

「うん、ちょっと忘れ物をしてね。マフラーを置き忘れたのに気付いて戻ってきたの。インターフォンなら、ちゃんと鳴らしたんよ? でも返事がなかったし、鍵も開いとったから、上がらしてもらったんよ。すぐ出るつもりやったからいいかなと思って。そしたら、家の明かりはついているし、あなたの靴も玄関にあるのに、あなたがどこにもおらんから、ちょっと心配になってね。あちこち探してるうちに、この部屋のことを思い出したの」

 青白い光に照らされた彼女は幽霊のように見えた。確かに彼女は手にマフラーを持っていた。しかしインターフォンが鳴っただろうか? もし鳴っていれば、地下室に備え付けてあるモニターが音を鳴らすはずだった。彼はその音を聞いた記憶がない。しかし単に聞こえていなかっただけということはありうる。というのも祈りに没頭すると一時的に聴覚が遮断されることがあるのだ。

 上山サキは彼の前に歩み寄り、わずかに微笑みを見せた。

「ごめんね、勝手に入って」

 ああ、と彼は言った。

「でもここ、やっぱり物置には見えんね。どっちかっていうと、水族館みたい」

 彼女の声には、勤めて明るく振舞おうとするような、無邪気な感じの響きがあった。

 彼は黙っていた。彼女はそのまま水槽に近づいた。いまさら彼には何もできることはなかった。彼女はガラスに顔をつけるようにして、興味深げに中を覗き込んでいる。屈んだ姿勢の彼女の影が床に映っていた。今、水の中で動くものと言えば、見えないほどわずかに揺らめく水草だけだった。二人とも声を発さず、ポンプの小さな音だけが暗い部屋に響いていた。

「ねえ、何もおらんよ? 中で何か飼っているんやないん」

 彼は無言のままだった。

「何にもないやん。ゴムボールしかない。ねえ、なんで水槽にゴムボールなんか沈めとるん」

 彼女はガラスの表面を中指の関節で小さくコンコンと叩いた。それに反応したかのように、彼女がゴムボールと呼んだものが、そのままの形でふわりと水中に浮かび上がった。その球体は少しずつ膨らんで、それまでの倍ほどの大きさになり、そのまま水槽の中をゆっくりと漂いはじめた。それは時計の秒針よりも緩慢なスピードで、水槽の中に水平に巨大な円を描くように泳いだ。

 上山サキは黙って見つめていた。惑星の運行を思わせる球体のその動きを見つめながら、彼女は特に表情らしい表情を浮かべなかった。彼女のその表情は以前に海響館で海の生き物たちを見つめていたときと同じだった。未知の生き物を目にしているはずなのに、それほどまでに冷静でいられる彼女を見て、彼は少し感心しさえした。ついに上山サキに秘密を知られてしまった彼のほうが、よほど動揺していた。

 生き物は直径の異なるいくつもの目に見えない円を水中に描き出した。数分ほどして生き物は泳ぐのをやめ、また水の底に向けてゆっくりと沈み出した。白い体が空気が抜けるみたいにしぼんでゆく。珊瑚砂の上に着地する頃には、それは元のゴムボール大よりさらに一回り小さくなっていた。生き物はそれきりぴくりとも動かなかった。

 上山サキは屈んでいた姿勢を戻した。「ふつうのクラゲじゃないみたいね」

 ああ、と彼は言った。

「もう動かんの?」

 夜だから、もう眠るんだよ、今の泳ぎは、君への挨拶みたいなものだよ、と彼は言った。

「そうなん。じゃあ、お邪魔して悪かったみたいね」

 彼女はなおも腰を曲げて砂の上の生き物から目を離さなかった。僕らもそろそろ戻ろう、と彼が言うと、彼女はどことなく立ち去りがたそうにしていたが、やがて水槽から離れた。

 階段をのぼりながら彼女が言った。「でもあなたクラゲなんて飼ってたのに、何で今までそのことを隠してたん? 何で今まで見せてくれんやったん?」

 うん、気味悪がるだろうと思って、と彼は言った。

「そんなことないよ。私あのクラゲ気に入った。あんなクラゲ、海響館にもおらんやったよ。どこで拾ったの? どこで見つけたの?」

 ちょっとね、と彼は言った。彼がそういうあいまいな答え方をするのは珍しいことではなかったので、上山サキも慣れているのか、それ以上は追及しなかった。

「すごく綺麗やったね。ねえ、また見に来ていい?」

 いいよ、と彼は答えた。


 

 上山サキは彼の予想に反して、地下室についても、モエムと呼ばれるようになった白い生き物についても、一切質問しなかった。誰かに言いふらしたりもしていないようだった。

 地下室も生き物の存在も、今では上山サキに知られてしまったが、彼はそのことをもはや受け入れていた。その気分は半ばあきらめだったが、もう半分は肯定的なものでもあった。上山サキなら別にいいか、という意識が彼の中にあったことは事実である。彼は自分でそのことを意外に思った。

 上山サキは、彼女がクラゲだと思い込んでいる白い生き物に対しても、彼に対するのと同じように献身的に、また愛情をこめて接していた。彼女はホームセンターに行って熱帯魚や金魚を飼育するためのえさを大量に購入してきたりした。

「『ナフコ』の店員に聞いても、クラゲの飼育の仕方なんか知らんっていうんよ。だから適当にいろいろ買ってきた」

 餌の心配はしなくていいよ、と彼は言ったが、彼女は耳を貸さない。生まれながらに面倒見がよく世話焼きである彼女の親切さ、というかおせっかいは、ひとたび気に入ってしまえば、その対象がクラゲであろうと何だろうと、同様に発揮されるらしかった。

 実際のところ餌の心配をするなと彼が言ったのは、そういうことは自分がやるから必要ない、という意味ではなかった。生き物には文字通り特定の餌など必要なかったのである。それは何も食べずに生きることができるという意味ではなく、その反対で、白い生き物はありとあらゆるものを食べた。リンゴとかバナナとかはそのまま丸呑みしたし、ドッグフードだろうがキャットフードだろうが、肉だろうが魚だろうが、骨付きの鶏肉だろうが古くなった野菜だろうが、食べられそうなものなら普通生き物が食べるようなものなら何だろうと飲み込んでしまう。その生き物は完全な雑食であるようだった。だから彼は餌について深く考えたことがなかった。適当に余った食材など放り込んでおいても、それでこと足りていた。

 彼女は小さな貝とかエビとかカニとか魚とか虫とか、とりあえず水生生物が食べそうなものを釣具屋などで買ってきては白い生き物に与えた。生き物はそれらをみな体に取り込んでいた。生き物に変わった様子は見られず、特に不都合もなさそうなので彼は彼女の好きなようにさせておいた。

「ねえ、この子を眺めている間は、私はすべてを忘れられる」

 ある時彼女はそんなことを言った。「なんかね、普段当たり前にやっていることのやり方がわからんくなるときがあるんよ。例えば呼吸の仕方とか、瞬きの仕方とか、唾の飲み込み方とか、そういうのが。ひとたび意識しだすとどんどんわからなくなっていって、そういうことの頻度が多すぎたり、少なすぎるようになったりするの。そういうのが私の症状でもあったんやけど、でもここでこうしてクラゲを眺めてると、すごくリラックスできる。すごく自然でいられる。なんだか自分が空っぽになるみたい。それがすごく心地よいの。当たり前のことが当たり前にできるのって素晴らしいことだわ。ねえ、ありがとう」

 ありがとうって何が、と彼は言った。

「私にこの場所に入るのを許してくれたこと。おかげでなんだか、救われたような気がする」 

 彼は特に許した覚えはなかったが、すでに状況はそれと同じことだった。それに上山サキが口にしたようなことは、かつて彼が感じ、そして今も同じように感じ続けていることだったので、彼は共感したし、それゆえに何も言えなかった。

「ねえ、名前はなんていうの」

 名前? (と彼は聞き返した)

「このクラゲの名前。名前あるんやろ?」

 白い生き物には名前などなかった。彼は名前の必要性など一度も感じることのないまま生き物と共に長い年月を過ごしていた。名前なんてないよ、と彼は言った。

「そんなのひどい! 長く飼っているのに、ずっと名前のないまま過ごしてたん? ひどい、あんまりだわ! なんてかわいそうなんでしょう。おおよしよし、意地悪な飼い主に名前も付けてもらえんで、あんたも気の毒にねえ(彼女はガラス越しに生き物に話しかけた)。じゃあ私が名付け親になってあげる。どんな名前がいいかねえ……」

 上山サキは考え始めた。彼は名前を付けることに反対する積極的な理由があるわけでもなかったので、例によって黙っていた。彼女は一人でぶつぶつと何かいろんな音を口ずさんでいたが、やがて言った。

「じゃあ『モエム』」

 モエム、と彼もその言葉を口に出してみた。

「そう、モエム。なんだかこの子の見た目と雰囲気に似合う響きじゃない? モエム、モエム……」

 どういう意味なの、と彼は尋ねた。

 彼女は首を振った。「響きがいいでしょ。それだけ。響きの良さだけ」

 彼は頷いた。

 モエム、モエム、と繰り返しながら彼女は指先でガラスをとんとんと叩き、モエムと名付けられた生き物は触角のように細く伸ばした体の一部を水槽のガラスにくっつけたり離したりした。女と生き物によるそれらの動作は、それからおよそ15分ほど続いた。

 

 上山サキとの交際がはじまってすでに8か月ほどが過ぎていた。彼はそんなに長く女性との関係をつづけた経験はなかった。つまり彼女は彼にとっての未知なる領域へと踏み込んできていたのだった。それでも上山サキは今だ彼に対して愛想を尽かせるようなそぶりも見せない。彼女の態度は嘘みたいに最初のころと変わらなかった。彼が交際したことのある女性はみな、長くても半年、早い時は数週間ほどで、何らかの理由をつけて一方的に身を引いていったので、彼は自分から女性に別れを切り出したことがなかったし、その方法も知らなかった。しかしもし別れを告げたとして、上山サキとの関係を完全に断ち切ることは難しい。彼と彼女の住居は目と鼻の先なので、別れたところで頻繁に顔をあわせることは避けがたい。さらに彼は、もう来ないでほしい、君とは会いたくない、と彼女に告げることを想像すると、意外なほどの抵抗を感じた。そのような感覚はもちろん、彼にとっては初めてのことだった。どんな女性であろうと彼はその関係を壊したくないなどと思ったことはなかった。

 彼の「祈り」の習慣は変わらなかった。祈りの途中に地下室に上山サキが現れても、彼は水槽の前を離れなかったし、祈りを中断することもなかった。彼女は時々彼の隣に立って一緒に黙ってモエムを眺めることもあった。

 上山サキはペットのようにモエムに接していた。彼にとってはもちろんその生き物はペットなどでは決してない。ペットと飼い主という関係は当てはまらない。もしそうなら、ただ泳ぎを眺めるだけの行為を「祈り」と呼んだりはしない。彼はモエムと名付けらえた生き物に対して、神聖で宗教的な存在に向けるのにふさわしい視線を注いでいた。

 そういう意識の相違はあっても、二人がその白い生き物に向ける思いは、おそらくそう大きく異なるものではなかった。

8 最初の溶解

 上山サキは彼女のみかん色の自動車をたいそう大切にしている。何しろ彼女は実に多くの時間を洗車に費やしていた。何度も彼は彼女が家の前で車を洗う光景を目にした。そして洗車中の彼女は、いかにも満ち足りた様子でその行為を楽しんでいた。まさしく愛情こめてという表現が相応しい丁寧さでボンネットを磨き、ルーフを磨き、ガラスを拭き、タイヤの汚れを払う。その間唇がわずかに動くこともあり、おそらく何か言葉をかけたりもしているのだろう。洗車という行為を通じて彼女は、人間同士が抱擁したり愛撫したり、あるいは口づけしたりするのと同じように、車とコミュニケーションを行っていたのだった。そんなときの上山サキの顔つきはうっとりとしている。

 彼をしばしばドライヴに誘われ、彼の方も断ることはまずなかった。二人はいろんな場所を訪れた。赤間神宮、壇ノ浦、火の山、海峡タワー。上山サキがかつて通っていた高校を見に行ったり、ただ海沿いの道路や、山道を延々と走ったりした。下関市外に出ることはなかった。

「私この車にもう7年も乗ってるんよ。広島におった頃から」ある日のドライヴの途中、上山サキが言った。

 ずいぶん気に入っているみたいだね、と彼は言った。

 彼女は頷く。「なんていっても色がええわあね。一目見たときから気に入ったんよ、この色。曇りのない鮮やかなオレンジ色! 一人で運転しよるときはね、よく車に話しかけるんよ。すると答えてくれるの」

 彼は笑った。

「あ、信じとらんやろ? でもほんとよ。話しかけたら答えてくれる。私にはそれが聞き取れるんよ。今日は調子が悪いって車が言ったら、あんまり遠くまで行かんようにしたりね。それにこの車は、これまで何度か私を助けてくれたよ。一度ね、安岡のへんを走りよったときやけど、川沿いの狭い道路があって、そのときちょっと具合が悪くなって、例の病気でね、それで息が苦しくなって何となく熱っぽくもあったんよ。それでも運転しよったらカーヴを曲がりきれんでガードレールにぶつかりそうになった。もうだめ、ぶつかると思ったその時にね、どうなったと思う?」

 さあ、と彼は言った。

「この車は空を飛んだんよ」

 この女は何を言っているのだろうという顔をしながら彼は運転席の彼女を見た。

「そんなバケモノを見るみたいな目で見んでよ。本当の話よ。つまりもうだめ、川に落ちると思った次の瞬間には、私と私の車は、川の対岸側の道路を走っとったんよ」

 彼は黙っていた。

「その道を、何の問題もなく走っとったんよ。まるで瞬間移動したみたいに。もちろん怪我もしてないし、少し先で路肩に車を停めて調べてみたけど、車にも異常は何にもない。だからね、私の車は、ぶつかると思ったガードレールをすり抜けて、川を飛び越えて、反対側の道路に降りて、それから普通に走行を続けてたってこと。どう思う? すごいやろこれ」

 君は病気の発作か何かのために一時的に記憶が消えていたのではないか、と彼は言った。つまり君はあまりに無我夢中で混乱していて、必死でハンドルを切ってガードレールを避けたことを覚えていないし、そのあとも、実際には自分で運転して橋を渡って対岸の道路に移動したのに、興奮とショックとが神経を刺激していて、それで記憶に一時的に不具合が起ったのではないのか、そういったことを彼は言った。

「あのねえ、確かに私は神経がおかしくなったりはしたけど、別に『発作』なんてものが起こるわけやないんよ。そういうはっきりしたわかりやすい病気じゃないの。だからこそ大変なんやけどね。それに、これまでそんな風に記憶が飛んだことなんて一度もないし。だから私はこの車が空を飛んで助けてくれたんやと信じてる。主人の危機だって思って、川とガードレールを飛び越えたんだよ」

 車が川を跳び越えたところを目撃した人の証言とかはあるの、と彼は言った。

「そんなものあるわけないやん。見てる人がおったとしても、その人を探す方法もないし。それは私と車だけが知っている秘密。運転中に起きた、そういう説明のつかないことって、他にもいろいろあるんよ。だからね、私とこの子(彼女はハンドルを指でトントンと叩いた)とは、特別な関係で結ばれているの」

 普段平日にも上山サキは一人でもあちこち市内をドライヴしているらしい。彼女は労働をする必要がなく、時間はありあまるほどにあって、毎日ふらふらしていても両親にうるさく言われたりもしないようだった。それでほとんどの時間をドライヴに費やしていた。地図に彼女のみかん色の車が走った道を線を引いていったら、ほとんど下関市の全土を塗りつぶすかもしれない。

 

 2月が終わろうとしていた。ある週末、彼は上山サキが運転する車に乗って下関を北上していた。山口県の北西部の海に浮かぶ小さな島、角島に行ってみようと上山サキが彼を誘ったのだった。

「そういやあなた、免許って持っとらんの」と道中の車内で上山サキが尋ねた。

 持っていない、と彼は答えた。

「車がないと、いろいろと不便やないん? 通勤とか、買い物とか」

 自転車があるから平気だよ、と彼は答えた。実際のところ彼はどこへ行くにも自転車で移動した。それはふつうは老人や非力な女性が使うような電動自転車で、後方に白いプラスチック製の大きな籠がついている。その籠は彼が自分で取り付けた。水槽用のいろんな品物の買い出しの際に荷物の運搬のために必要だったのである。そのほかにも食料品やいろんな荷物を運ぶのにその籠は便利だった。もちろん見栄えは良くない。彼のような比較的若い男性が、そのようなものを乗り回すのはちょっとした見ものだったが、もちろん彼は周囲の目など気にしなかった。彼は身だしなみには気を使ったが移動手段に関しては利便性を最優先させた。

「でも自転車より車のほうがずっと楽じゃない? 一番近いスーパーでも、けっこう距離あるし、あなたの工場だって家から五キロぐらい離れてる。私、毎日よく自転車であそこまで出かけるなあって、感心しよったもん」

 欲しいと思える車がこの世に一つもないんだよ、と彼は答えた。

 これまでにも何度も同じようなことをいろんな人から言われたことがあった。どうして車を持たないのか、運転しないのか。そうした質問に対する彼の答えは、いつも違っていた。人を轢いてしまうのが怖いだとか、車の内部の狭い密室に耐えられないだとか、しょっちゅうよそ見をして鳥などを目で追う癖があるので危険だとか、そういったものだった。人々はそんな答えを聞いて、特に何も言わなかった。おそらく呆れられているのだろうと彼は思っていた。

 欲しい車がない、というのはそのときはじめて行った返答で、上山サキはそれを聞いてなぜか笑った。しかしそれでもずいぶん好意的な反応のように彼には思えた。しかし彼は冗談を言ったわけではない。これまでに人に言った理由と同じく、それもまた本心である。欲しいと思える車はない。色も形も、どれもたいていどこかに気に入らない部分がある。多くの人は少しの気に入らない部分は妥協するのかもしれない。しかし彼は、どうやってもそんな気に入らない外観のものにお金を払う気になれないのだった。

 車は海沿いの道路を走っていた。ある交差点を曲がると海の向こうまで伸びる長い真っ直ぐな橋が視界に現れた。そのまま車は橋に差し掛かる。晴れた海は日を浴びてきらきらと銀や緑や青といった色を浮かべながら輝いていた。車は数分で橋を渡り切り角島に上陸した。

 観光シーズンではないにもかかわらず島はあちこち人でにぎわっていた。気温は低かったが、空にはまともな雲はひとつもなく、どこまでも青く澄んでいた。青い海がいつも車の窓に映っていた。彼女は道に沿って鼻歌を歌いながら車を走らせている。

「ねえ島って面白いね。どっちに走っても海に行き着くんよ」

 そうだね、と彼は言った。

「思った以上に素敵な場所だわ! 下関にこんなところがあったんやね。あなたは、角島に来たことあった?」

 彼はないと答えた。

「私もなかったんやけど、来てみてよかったね。いいところだわ」

 彼も同意した。

 上山サキは海水浴場の近くの駐車場に車を停めた。車を降りた二人は海の方へ向かって歩いた。

「ふむう……これが日本海というものか」と彼女は崖沿いに立って呟く。「やっぱり関門海峡とは違うわ! この海も日本と大陸との間の海峡に過ぎないかもしれないけど、ちゃんと海っていう感じがするもの。『広場』感がないっていうかね。すぐ向こうに対岸の陸地が見えたりしないせいだね、きっと」

 彼らは歩いて島の北端にある角島灯台へと向かった。白と灰色の中間のような色をした灯台は雲のない空に突き出すように真っ直ぐにそびえていた。視界は遮られることなく彼方の水平線まで伸びた。確かに開放的な眺めだった。

 彼と上山サキはひとしきり灯台の周辺を散歩した。砂浜を歩いていたとき、彼女は地面から何かを拾い上げた。何度か同じ動作を繰り返した後、彼女は彼に向けて微笑み、「モエムにお土産を持って帰るの」と言った。彼女が手を開いて拾ったものを示した。いろんな色と大きさの貝殻が手のひらの上に並んでいた。白い扇形をした貝殻、紙のように薄い亜麻色の貝殻、スナック菓子みたいなぎざぎざのついた貝殻。

「あの水槽、すこし寂しいからね。もっと華やかにしないと。あなたも拾いなさいよ」

 彼は言われるがままに二つか三つほどの貝殻を拾った。彼女は貝殻だけでなく、綺麗な形をした小石もいくつか拾っていた。

 やがて夕方になった。彼らは岬の淵に立ち、太陽が海の西側に向けて沈みゆく光景を眺めた。岬には他にも多くの人がいて、夕焼けを眺めたり、スマートフォンや一眼レフカメラで景色を撮影したりしていた。太陽は燃え盛りながら空中に静止した隕石のようだった。

「あれが本当に隕石やったら、このあたりは大変なことになるやろうね」と上山サキが言った。

 このあたりというか、きっと全地球的に大ごとになるよ、と彼は言った。

 凪いだ海は鉄に似た色と質感を帯び、海面に白っぽい光の線が揺らめいていた。隕石のような太陽の周辺から放射する光の輪が空の大部分をオレンジに染めていた。時間が経つにつれ空は少しずつ薄い青と紫とに飲み込まれ、オレンジ色は領域を狭めていった。火の玉みたいな太陽が海と空とを照らしていたが、光に力はなく、やがて巨大な輪はすっかりすっかり水平線に隠れてしまった。いつしかあたりの景色はすべて夜のはじめの暗い群青色に覆われていた。隕石は墜落した! 二人はそのさまを見届けてから、駐車場に戻った。

 

 地下室の水槽の前に立った上山サキは角島で拾った貝殻と石を水に投げ入れた。はじめモエムは、それらを食べ物と間違えて飲み込もうとした。つまりその白い体全体で包み込もうとした。上山サキはそれを見て驚き、ガラスを軽く叩いてモエムに注意した。それから彼女は、まるで子供を相手にするように、噛んで含めるような言い方でモエムに説明していた。これは食べ物じゃないんよ、水槽を綺麗に、華やかにするために入れるの。あなたが寂しくないようにね……、だから食べちゃダメだよ。

 モエムに言葉が通じたのかどうかはわからない(彼は声をかけたことなどなかった)。しかしやがてモエムは体を開き、包み込もうとしていたものを体から離した。小石と貝殻は最初のままの姿で水底に沈んでいった。その後、彼女が続けて投げ入れた貝殻や小石に対しては、生き物は反応を示さなかった。そのようにして水槽には新たな装飾が追加された。上山サキは満足げだった。

「これでモエムも退屈せんでええねえ」と彼女は言った。

 ある土曜日の午後、またしても上山サキが彼の家にいきなりやって来た。そのとき彼は地下室ではなく一階にいて、台所の床にこぼしてしまったコーヒーを、雑巾で拭いているところだった。インターフォンが鳴ったので、雑巾を絞り手を洗ってから玄関に行くと、外から上山サキの声がした。彼は戸を開いた。

「モエムに贈り物を持ってきたの」と上山サキは言った。そして玄関をくぐり、すぐに地下室へ降りて行った。今では彼女はまるで自分の家のように彼の家を闊歩するようになっていた。彼は放っておいて掃除を続けようかとも思ったが、やはり彼女のあとをついて行った。「贈り物」が何であるのかが気になったのである。

 地下室に入った上山サキはまっすぐ水槽に向かった。そばに置いてあった木製の椅子の座面の上に乗り、水槽の上部にある蓋を開いて、握っていたものを隙間から水の中に落とした。その物体は水の中をゆっくりと沈んで珊瑚砂の上に横向きに転がった。彼は彼女の背中越しにその物体を見た。それは小型の地球儀だった。人間の拳ほどの大きさの濃いブルーのガラス製の球体の表面に五大陸が刻まれている。地球儀の北極点と南極点を支える弓型の銀色の金属のフレームが底部の黒い直方体の台座とつながっていた。

「昨日拾ったんよ。ごみ捨て場にあった『燃やせないごみ』の袋の中で見つけて、こっそり袋を開けて、頂いて持って帰ったの。一目で気に入ったんよ。綺麗やし、モエムもきっと気に入るやろうと思って」

 君はこうやっていろんながらくたを持ち込んで水槽に捨てるつもりか、と彼は言った。

「あら、がらくたって何よ。それに捨てたんじゃなくて、私はモエムが気に入るやろうと思ったんよ。そんな言い方せんでもええやろ? それにこの地球儀にがらくたっていう言い方はふさわしくない。見てよ、こんなに綺麗なんよ」

 それならそれで、もっとちゃんと配置するべきだ、そんな無造作に投げ込むだけでは飾りにもならない、見ろ、地球儀は変なところに横向けに転がってしまっている、あれではモエムが球体を回転させて遊んだりすることもできない、と彼は言った。

「別にええやん、回転させて遊ばんでも、それに私が気に入ったのはあの地球の部分のガラス球の色なんやし、別に遊んでもらうためじゃないもの。モエムに地球や地球儀のことが理解できるわけないよ! あの半透明の青色の球が、真っ白なモエムと並んだら、素敵やろうなって思ったんよ」

 とにかくこれからは何か水槽に入れるにしてもまず一言断ってからにしてほしい、今みたいに拾って来た物をいきなり投げ入れるようなことはしないでほしい、と彼は言った。

 上山サキは面白くなさそうな顔をしてはいたが、しぶしぶといった様子で頷いた。

 モエムはそれまで水槽の箱の中で大きく円を描くようにゆっくりと泳いでいたのだが、彼と彼女が言い合いをしているうちに、泳ぐのをやめていた。

「見て、モエムが……」と言って上山サキが水槽を指さした。モエムはゆっくりと水底に向かって降りて行こうとしていた。彼と彼女が黙って見つめていると、やがてモエムは白い体を広げて、それはまるで蝙蝠が羽を広げるように見えたが、白い表面の全体で、地球儀の上に覆いかぶさった。それから広がった白い端の部分がゆっくりと閉じてゆき、布がひとりでに丸まるみたいに球形へと変化した。地球儀はそうして丸くなったモエムの体の内側にすっかり隠れてしまった。それはモエムが餌を食べるときの動作と似ていた。

「もしかして、呑み込んでしまうつもりかしら」

 彼にもそのように見えたが、果たしてモエムはガラス球や金属などといったものを体内に取り込むことが可能なのかどうか、彼は知らなかった。そういった物質を餌として与えたことはもちろんなかった。生き物は丸まった状態で静止していた。彼と彼女は無言で見守っていた。

 数分が経過してモエムが動き始めた。丸い形から布状へとゆっくりと戻り、端の部分がふわりと砂から浮かびあがった。いつも食事を終えた後であれば、モエムは砂の上に何ひとつ残さないのだが、そのときは異なっていた。モエムの体の下から何かが覗いた。青いブルーのきらめきで、それは先ほど見たガラス製の地球儀の球体と同じ色だった。地球儀はまだそこにあるのだ、と彼はなぜか安堵しながら思った。しかしやがてモエムの全身が水底から離れ、それまでその下に隠れていた物体が完全にあらわになると、彼と上山サキは同時に息を呑んだ。ある異常な、見たこともないような物体が砂の上に転がっていた。その物体はもはや地球儀としての形をとどめていなかった。地球を象っていたガラス球は、透き通った瑠璃色のどろどろと化していた。表面に刻まれていた大陸はすっかり消えてしまっていた。球体を支えていたフレームも、その下の黒い台座も同じように溶けたみたいに液状化して、それらの色がみんな混ざり合っていた。まるで恐ろしい高熱に触れて融解したかのように見えた。そしてその溶けかけのような状態で、物体は静止していた。それはやはりもとのガラスや金属と同じく固い物質で、液体化しているようには見えなかった。砂の上に転がっていたのはそのようなものだった。かつての地球儀としての形象はすっかり失われていた。

「溶けちゃってる」と上山サキが言った。まさしく彼も同じ印象を抱いた。確かに地球儀は溶けたように見えた。溶けて、溶ける途中の状態のまま再び固まったもののように見えた。二人ともその物体をしばらく見つめていた。彼の頭は鈍い混乱に襲われた。小さな地震でも起きているかのように、わずかに視界が揺れている感じがした。その揺れ動く視線の中心には青と銀と黒が混じりあった得体の知れないかたまりが常にあった。彼は長い間黙っていた。上山サキは四方から水槽を覗き込みながら、その溶けたような物体を興味深げに観察していた。

「何が起きたんやろう? 前にもこんなことってあったん?」

 彼は首を振った。

「これって、あの地球儀が溶けてしまったってことでしょう」

 生き物が分泌する消化液のようなものが溶かしたのかもしれない、と彼はようやく口を開いた。モエムはあの地球儀を飲み込もうとして、でも飲み込めるようなものじゃないとわかって諦めたんだろう。でもその過程で何らかの作用が働いたのだろう。モエムが分泌する胃液だか膵液だか、そういったものが地球儀に触れて、それでこんな風に溶けてしまったんだ、と彼は言った。

「この子に胃や膵臓なんてあるの?」

 わからない、と彼は答えた。彼はモエムが体液を排出するところなど見たことはない。モエムが排出するのはあの虹色の排泄物ばかりだと思っていた。彼自身も、今上山サキに向けて口にした言葉を信じていたわけではなかった。

「せっかくの地球儀が台無しだわ! あんなどろどろの、何だかわからない物体に変わり果ててしまったんじゃあ、もはや水槽を彩る飾りにもはならない」

 しかし彼は、その発言に同意しなかった。かつては地球儀だったその溶けて固まったような物体は、ちゃんとした地球儀だった頃よりもずっと美しく思えたからである。溶解した地球儀のガラスの瑠璃色とシルバーの金属が混じり合って、見たことのないような精妙な色合いがグラデーションをたたえつつ表れ出でていた。水槽を照らす青白いライトアップと相まって、それはえもいわれぬ色合いに神秘的にきらめいていた。彼は自分が作り出した地下室のライトアップがその物体に対しても効果的に作用したことをひそかに喜んでさえいた。

 今上山サキが言った通り、その物体はもはや地球儀ではなく、「何だかわからない」ものになり果ててしまっていた。用途も意味も目的も持たない謎めいた一個の物体でしかなかった。それゆえにこそ物体は彼を魅了したのかもしれない。それはただ美を体現するだけのために存在する芸術作品のように彼の目に映った。宇宙のどこかにある未知の色彩を見るように彼はその神秘的で非現実的な色と光彩に見とれていた。彼は自分がそれほど救いがたく魅了されていることそのものに対して、混乱していたのだった。

 やるかたない不満を口にする上山サキの横で彼はずっと溶けてどろどろになった地球儀に視線を注いでいた。文字通り彼はそれから目を離すことができなかった。

「これからは気をつけんとね、あなたの言う通りやった。水槽にいろんなものを投げ込むのは良くないみたいね。またこんな風にモエムが溶かしちゃうかもしれんしね」

 

 

 溶けた地球儀はそのまま砂の上に放置された。モエムはそれ以後、その物体に見向きもしなかった。

 彼は美術品を鑑賞するようにかつて地球儀であったものを眺めるようになった。その美しさが彼を惹きつけて離さない。いびつな形をした水晶とか、青いマグマのようにも見える。神秘的で霊的な美。

すでに彼はそれをかつては地球儀だったもの、とはみなさなくなっていた。それはモエムが生み出した新しい別の何かなのだと思った。モエムの胃液だか膵液だかが、何かしら未知の作用を施し、物質をまるで別のものへと変容させてしまったのだ。実際のところその物体は、かつて地球儀を構成していたガラス球や金属と同じ種類の物質にはとても見えなかった。ただガラスや金属が溶けただけで、こんなにも美しく微妙な色合いが生じるはずがないのだ。

 

 彼は他にもいろんながらくたを水槽に投げ込んだ。たとえばスプーンやサングラスやインク瓶や材木や小型のラジオなど。モエムはそれらの物体の上にひとつひとつ覆いかぶさった。地球儀の時と同じように広げた体の下に物体をすっぽり隠し、数分から数十分間じっとしている。やがてモエムが体を離すと、そこには彼が望んだとおりの結果が表れているのだった。投げ入れたいろんながらくたはいずれも変容した。不思議な美しい色合いを浮かべながら、溶けて再び固まったような形でそこにあった。すべてが未知なる色をたたえていた。もともと備えていた色が溶け合って混じり合い、その過程で一切の不純物が取り除かれたかのように、新しく生まれた色彩は曇りなく澄み渡っていた。

 水槽内に新しい色彩が満ちた。モエムの白い皮膚の表面に色彩が映じることもあった。モエムは色に囲まれて泳ぎ、色の隙間に隠れて眠った。

 地下室はまた一つ完成に近づいた、と彼はひとり呟いた。

 

 ある日上山サキが再び地下室を訪れた。彼女は水槽の中を覗き込むなり顔をしかめた。

「なんなんこれ」と彼女は言った。「これ何? 何をこんなに一杯沈めたの」

 彼は説明した。モエムが、あのとき地球儀を溶かしたように、ほかにもいろんな物体を溶かして、変容させて、加工して、これらの不思議な色をした物体を次々に生み出したのだ、それらがとても美しくかったのでこうして水槽に並べているのだ、と彼は言った。

 彼女は納得しなかった。真剣に怒ってさえいた。なにもかも全く気に入らないようだった。

「だいたいあなた、私に水槽にでたらめにものを投げ込んじゃ駄目って叱ったやん。それなのに自分はそんなことするん?」

 でも見てごらん、こんなに綺麗なんだよ、と彼は言った。

「綺麗だからって何? モエムだって、好きでやりよるわけやないかもしれんよ。呑み込もうとして、それができんで、苦しんでるのかもしれんやん。そういうこと考えんの? こんなことさせて、この子が死んでしまったらどうするん」

 彼はそういった可能性について考えなかったわけではなかった。しかしいろんなものを溶かした後でもモエムに変わった様子は見られなかったし、元気そうに泳いでいたので問題はないだろうと安易に考えてたのだった。

 彼が何と言っても上山サキは納得しなかった。彼女は彼と出会って以来はじめて、はっきりとあからさまに怒りをあらわにしていた。

「だいたいこんな気味の悪いどろどろの、どこが綺麗なん? どう見ても、これは良くないものだよ。間違ったものだよ。こんなものをありがたがるなんて、あんたはちょっとおかしいみたいね!」

 そう言って彼女は彼に背を向けて地下室を出て、階段を駆け上がって行った。玄関の戸を強く閉ざす音が地下室にまで響いた。がらんとした地下室に彼は一人残された。水槽の中ではモエムが泳ぎ続けていた。

 

 それからも彼はいろんなものをモエムに溶かせさせた。上山サキが「どろどろ」と表現したものは、彼を救いがたく魅了していた。彼は家にある不要なものを地下室に持ち込んでは次々と水槽に投げ入れた。古い食器や衣服、読まなくなった本、壊れた電気ポット、割れた電球、使いみちのない工具など。そしていずれの場合にも満足すべき結果が得られた。あらゆるものがもとの形を残さず、しかしすっかり液体と化してしまうでもなく、色や部分が重なり合いまじりあいながら、溶けかけのまま固まって、不思議な物体に変化した。

 それらのどろどろのいくつかを、彼は水槽から引き揚げて調べてみた。それぞれの物体の表面はモエムの白い体の表面と似て、滑らかで、かつ仄かに発光するような純度の高いきらめきをたたえていた。材質まで変化しているようにさえ見えた。物体に何が起こっているのか、モエムがそれらにどんな作用を施しているのか、すべては彼の理解を超えていた。確かなことはただそれがなんであろうと溶けたどろどろに自分はすっかり惚れ込んでしまっているということだけだった。

 天井の四隅に取り付けられたライトが青白く照らすほの暗い部屋で、水の底に沈む色とりどりのどろどろは、いくつもの剥き出しの巨大な宝石のようにまばゆくきらめいた。そのざわめく色彩の隙間を、透き通るような白さをたたえたモエムが自由に泳ぎ回る。その光景はちょっとした楽園のようだった。

 上山サキに叱られて以来、彼はなるべく注意してモエムの様子を観察するようになっていた。しかしやはり生き物には異変は見られなかった。発光する白い体にはいささかの翳りもなく、毎日変わらない様子で優雅に泳いでいた。定期的に餌を食べ、排泄をし、丸く小さくなって眠った。

 彼の祈りはやや変化した。彼は水槽を眺めながらある夢想に侵されるようになっていて、その夢想そのものが、「祈り」と取って代わってしまったとも言えた。彼はこれまでに訪れたいろんな場所、つまり海響館や下関駅や唐戸の観覧車、そして角島の灯台が、水槽の中の物体と同じように溶けて、奇妙で滑らかな新しい材質に変化することを夢想していたのだった。想像はどんどん飛躍し、やがて彼は世界中のあらゆるものが溶けて「どろどろ」化する光景を思い描くようになった。すべての町、全ての都市、あらゆる家々や建造物が溶けて、下関市も山口県も、日本全土が、すべての大陸のすべての地表が、溶けたものに覆われてしまうのだ。この狭い水槽の中の小さな楽園が全世界に拡大するのだ。どろどろに包まれて世界は新たな様相をまとう。この青い星は異なる美しさを獲得する。それは世界の終わりであり、新しい世界の始まりでもある。太陽と月がその星を交互に照らす。……

 

 機嫌を損ねて帰った日以来、上山サキは彼の家にやって来なかった。彼の生活は上山サキと出会う前に戻った。毎日仕事に行き、自分で食事を作り、夜の時間や休日は一人で過ごした。彼は多少残念に思いはしたけれども、これまでに何度もあったことだったので、さほど気にはしなかった。そういう事態に彼はすでに慣れてしまっていた。過去の女性たちと同様に上山サキもまた、いつかは彼に愛想を尽かせて去ってゆくであろうことは、はじめから予測のついていたことでもあった。彼は再び孤独に戻った。

 ときどき上山サキが、彼女の家の前で、みかん色の自動車を洗車する光景を見かけた。そんなとき、彼が近くを通りかかっても、彼女は気がつかないふりをした。彼女は彼を無視していたが、その無視するという行為に、どこか慣れていない様子がうかがえた。あわてて目を背けたり、彼に気づいていかにも不機嫌そうな表情を浮かべたりした。彼は何度か声をかけてみたが、彼女は答えず洗車を続け、ときには車の陰に隠れたりした。決して言葉は発しなかった。彼女はまだ怒っていて、怒っていることを彼に伝えようとしているのだった。

 彼が上山サキの不在を淋しく思うことはなかった。つまり彼の心には淋しさを感じるための隙間すら残っていなかったのだった。毎日のように彼は地下室の水槽の前にたたずみ、世界の終わり/始まり的な夢想に没入する。溶けてどろどろになって固まった大地に、一人だけ生き残った最後の人類として立つこと。その想像は甘美で、彼の心を安らかにした。

9 犯人は誰?

 2月の終わり頃、町である奇妙な出来事が起こった。ある家の玄関先に置かれていた、ゴールデン・レトリバーの形をした高さ五十センチほどのセラミックスの置物が、異様な変形を遂げているのが発見されたのである。置物の顔も胴体も脚もみな溶けて混ぜ合わせたように混然一体となり、泥で作った山のような形になってそのまま凝固していた。触感は固く、材質はもとのセラミックスのままであるようだったが、それはもはや犬にも何にも見えなかった。

 その家に住む老夫婦が二人して早朝の散歩に出かける際に、犬の置物の異変を発見した。驚いた夫が思わずその物体に指を触れたが、見るからに液状化していながら、指先には何も付着しなかった。そのときすでにそれは冷えて固まっていたのだ。

 警察が現場を調査したが、原因は判明しなかった。異変が生じたのは置物だけで、庭にも、家にも異変は何もなかった。不審人物の証言もなく、どのような力で溶かされたのかも不明だった。置物はその前日の夕方までは間違いなく犬の形をしていたと夫人が証言した。

 そのあと10日間のうちに同様の出来事が立て続けに起こった。溶けて固まった物体が様々な場所で発見されたのである。

 ある家庭ではリヴィングルームに設置していた42インチのワイド・テレビが溶けた。そのときテレビを見ていたその家に住む中学一年生の娘が溶けるさまを目撃していた。夕方のテレビドラマの再放送を視聴していたところ、画面の一部に突然薄い膜がかかったみたいにぼやけ、その現象は瞬く間に広がって画面全体に分厚いモザイクがかかったようになった。その間もテレビは作動し続けていて、モザイクの下ではもはや誰が誰とも識別できなくなった俳優たちが演技を続けていたという。結局テレビのモニタの表面が溶けただけでその異変は終わった。女の子は、不審な兆候など何もなかったと証言した。音も匂いもなく、もちろん手を触れてもいないし、操作もしていない。テレビの他の部分にも、機能自体にも異常はなかったが、その機械はそのあと使い物にはならなかった。

 ある高校では、体育倉庫に保管されていたバスケットボールと、それを収めていた鉄製の籠がみんな溶けた。十数個のボールが溶けてくっついていびつな形の巨大な塊となり、それはさらに、溶けながらもかろうじてまだ形を保っていた籠と付着して、もはやどこからがボールでどこからが金属なのか区別がつかないほど一体となっていた。そしてその異様な物体もまたやはり溶けかけのような状態のまま、カチカチに固まっていた。

 別の中学校では、体育の授業中にサッカーをしていた生徒たちの使っていたボールが溶けた。あるグラウンダーのパスが途中で急に勢いを失ってやがて止まってしまったのを見て、生徒たちはボールの空気が抜けたのだと思った。しかしよく見てみるとそうではなく、ボールの下半分が溶けてしまっていて球形を失い、それでそこに止まってしまったのだ。溶けたゴムがじわじわとグラウンドの上に広がったが、数秒で溶解は止まり、溶けた部分はすぐに固まってしまっていた。

 

 街は当然ながらちょっとした騒ぎになったし、その奇妙な話は彼の耳にも入った。彼はモエムのことについて、そして彼がこの頃取りつかれている夢想について考えないわけにはいかなかった。聞いたところでは、溶けたいろんな物体の様子は、今も彼の家の地下室の水槽に転がっているあの色とりどりのがらくたと、著しく似た特徴を備えているらしい。いずれも溶ける途中で凝固したような形でそこにあったということだった。

 彼はそれらの事件にモエムが関係している可能性について考えてみたが、どう考えてもそんなことはありそうもなかった。彼はモエムを飼い始めてから一度もそれを地下室の外に出したことはない。モエムが自分で外に出られるはずもない。自ら蓋を開けて水槽の外に出て、地下室の鍵を外しドアを開けて階段を上り、家から出て、あちこちに行き、いろんなものを溶かしてまわったなどといったことは、とうてい彼には信じられなかった。どう考えても「犯人」がモエムであるはずはない。彼はそのことを自分に言い聞かせた。

 水槽の前に立って泳ぐモエムを見つめる。生き物は網のように平たく、細かい穴がいくつも開いた状態に変化して、柔らかく水中を揺らめいていた。糸のように細い無数の線が微細に交差して、その隙間からこぼれた照明の光がガラスの表面に網の形の模様を描いていた。形と色は絶えずわずかにずつ変化していた。彼は無言で、いつものように夢中になってその様相を見つめた。モエムの泳ぐさまには見慣れることがない。見るたびに彼は新鮮な驚きに打たれた。

 手にしていた飲み干したばかりのコーヒーカップを、彼は水槽に投げ込んだ。モエムはおかまいなしに泳ぎ続けていたが、数十秒ほどが経過してから、ゆらゆらと下降をはじめた。わかめのような形に変わると、そのままコーヒーカップを包み込んでしまった。モエムが浮かび上がると、砂の上にはもうコーヒーカップはなかった。そこにはいびつなおにぎりのような形をした未知の白い物体が残されているばかりだった。

 

 日曜日の朝、彼が居間のソファに座って雑誌のページをめくっていたとき、インターフォンが鳴った。戸を開けるとそこには上山サキが立っていた。およそ3週間前、彼女が怒って帰った日以来はじめてのことだった。

 久しぶりだね、と彼は言ったが、上山サキは答えずに、「モエムに会わせて」と言った。そして彼がそれに返事をする前に、彼女は彼を押しのけるようにして戸口をくぐり、靴を脱いで家に上がりこんだ。そして地下室へ続くドアを開け、階段を駆け下りて行った。

 彼があとについて階段を降りてみると、上山サキは地下室の入り口のドアの前でまごついていた。つまり鍵がかかっていたために開けられなかったのだ。彼はポケットから鍵を出してドアを開けた。

 地下室に入ると、上山サキはまっすぐに水槽に歩み寄った。生き物はクラゲに似た動きで泳いでいた。彼女は水槽を覗き込んだ。モエムを見据え、それから水槽の底に沈むいろんな形と色をした溶けた物体を見た。上山サキが最後に見たときよりも物体はさらに増えて水底にひしめきあっていた。彼女は上体をかがめて両手を膝に置き、顔をガラスのぎりぎりまで近づけて、それらを一つずつ、注意深く見つめていた。彼は背後に立ってその様子を見守っていた。室内にはポンプの音が響くばかりだった。

 数分後に上山サキは背筋を伸ばした。ため息を一つついてから、振り返って彼の顔を見た。フグを思わせる二つの真ん丸な目が細められている。その目つきは彼女が怒っていることを伝えた。

 彼女は小さな声で言った。「あなたがやったんやろ」

 何のことかな、と彼は言った。

「あなたが、モエムを使って、町のいろんなものを溶かさせたんやろ?」

 彼女の言葉の意味は彼には理解できた。そして彼女が彼を疑うのは自然だとも思った。しかしもちろん彼には身に覚えのないことだった。

 僕はモエムを地下室の外に出したことはない、と彼は言った。

「嘘をつくのはやめなさい、私にはわかっとるんよ、ほかにおらんのよ、あんなことができるの」

 僕がモエムを連れて町に出て手当たり次第にいろんなものを溶かせさせたというのか、そもそも僕にはそんな暇はないし、そんなことをしたら人目に付きすぎる、聞くところによると不審な溶解現象は人が見ている前で起こることもあったそうだけど、でも彼らは何も不審なものは見ていない、町でいろんなものが溶解しはじめたことは、僕にとっても非常な驚きだった、僕だって何も知らず、皆と同じように困惑しているのだ、と彼は言った。

 上山サキは納得しなかった。

「じゃあ最近のあの騒ぎはなんなん? 最初に聞いたとき、私真っ先にあなたのモエムのことを思い出したよ。あの地球儀の溶け方とそっくりなように思えたから」

 僕も同じことを思ったよ、と彼は言った。

「あなたは溶けた地球儀をずいぶん気に入ってたものねえ! それに、あれからもまだ懲りずにいろんなものをモエムに溶かさせたみたいやし」彼女は水槽の底に散らばる溶けた物体を指して言った。

 確かにこれらは僕が投げ入れてモエムに溶かさせたものだ、そして君の言う通り、僕は確かに溶けた物体を気に入っていた、とても美しいと思った、いや、今も美しいと思っている、でもそれだけなんだ、僕が望むものは、この水槽の中だけ、この地下室の内部だけで完結しているんだ、それを外へ拡大させようという気持ちは起こしたことがない、そんなことができるとも思わなかった、と彼は言った。

 上山サキは再び水槽の生き物に視線を向けた。モエムはクレジット・カードのような薄い小さな板状になって、彼女の目の高さで地面と平行に水中を漂っている。

「じゃあひょっとしたらこの生き物が、一人で水槽から出て、勝手に地上に上がって、いろんなところに行って、あちこち溶かしてまわったんやないん?」

 彼は首を振った。そんなことあるはずがない、モエムはずっとこの水槽の中にいるよ、一人でここから出られるはずはないよ、と彼は言った。

「わからんよ、あなたが気づいてないだけかもしれんやん。こんなわけのわからん生き物のことやし、何が起こったって不思議じゃないと思うよ。あなただって、四六時中地下室におるわけやないやろ? 一日中見張っとるわけやないんやろ。あなたがいないとき、この生き物が一人で何をしてるか、誰にもわからない」

 それに関してはその通りだけど、でもその場合でもやはり、もし本当にモエムが一人で「出歩いていた」としたら、誰かが目撃しているはずだよ。そして町はもっと騒ぎになっていないとおかしい、いくら田舎町だとはいえ、こんな生き物が町をうろうろしていたらびっくりするし、目撃した人は黙っているはずもない、単なる気のせいとか目の錯覚で済ますこともないだろう、でもそういう話は今のところ出ていない、と彼は言った。

「でもいろんな話を聞くと、そっくりなんよ、モエムが溶かした物と、町で溶けたいろんな物の様子は」

 そうみたいだね、と彼は言った。

「証拠はないし、目撃者もない、でもこんな不思議なことがほかにどうやって起こるというの? ねえ、モエムはこうやっていろんな形に変形するじゃない。鍵のかかったドアの隙間から外に出ることぐらい簡単やろうし、誰の目にも見えないほど小さくなったりもできる。そうやってあちこちに行ったんだよ。やっぱり、これの仕業なんだよ」

 彼は首を振った。モエムが水槽から出ることはない、と彼は言った。

「なんでそんなこと言い切れるの?」

 この生き物は水の外では生きられないんだ、と彼は言った。

「本当に? 水から出してみたことはある?」

 一度だけね、と彼は言った。

「その時どうなったの?」

 あまり思い出したくないようなことになったよ、と彼は言った。

 上山サキは正面から彼を見つめた。

 怖ろしいことになったんだ、ひどい異変が起こって、死んでしまうんじゃないかと思って怖くなって、すぐに水に戻したんだよ。あのまま放っておいたらどうなったか……、と彼は言った。

「思わせぶりな言い方はいいから、具体的にどうなったのか言いなさいよ」

 うん、いや、どう言ったらいいのかな……、と彼は言った。

「じゃあいいわ、実際にやってみましょう」上山サキはそう言って椅子の上に乗り、水槽上部の蓋を開けようとしはじめた。彼は気が進まなかったし、止めるよう忠告したのだが、上山サキは耳を貸さなかった。彼女は自分がその目で確かめるまで決して納得しないだろうし、彼とモエムを疑い続けるだろう。結局のところ、彼女にもそれについて知ってもらうのが、どんな説明よりも有効だし一番早い、と彼は考えた。

 上山サキはプラスチックの蓋の表面を軽く叩いてモエムを呼んだ。モエムはすでに泳ぐのを止めていて、砂の上で鏡餅のような形で丸くなってうずくまっていたが、呼びかけに応じて水面近くにまで浮上した。

「おうよしよし、久しぶりやねえ」と言いながら彼女は水面から顔を出したモエムを両手でつかみ上げようとしたが、途中で思い直したように手を引っ込めた。

「ねえ、触って大丈夫かな。私の手も溶けてしまうんやないん」

 おそらく大丈夫だろう、と彼は言った。彼はこれまでに観察してきたモエムが物体を溶かす際の動作について説明した。モエムがその体で対象物をすっかり包み込んでしまわない限りは、おそらく溶けてしまうことはない、モエムが砂や石や貝殻や水槽のガラスにただ触れるだけなら何も起きなかったから、おそらくそういうことなのだろう、と彼は言った。もちろんそれは推測でしかなかった。

「じゃあ、もし私の手に絡みついて手のひらが包まれたりしたら、溶けてしまうかもしれんってこと」

 そういう可能性もないとは言えない、と彼は言った。

「やっぱりちょっと不安やから、何か持ってきてよ。網とかタモとかそういうの」

 彼は言われたとおりに地下室を出て一階の物置からタモを取って戻ってきた。彼女は椅子の上に立ったままそれを受け取るとタモの先の網をおそるおそるといった様子で水に浸けた。そのときモエムはラグビーボールに似た形と大きさになっていたが、タモが近づくと、モエムは逃げもせずにその網の中におとなしくすっぽりと収まった。彼女はそのままゆっくりとタモを引っ張り上げた。

「思ったより軽いんやね」と彼女は呟いた。

 モエムは水から引き上げられた。上山サキはタモの柄を握ったまま椅子から降りて、網を床に下ろした。水滴がこぼれて白い床を濡らした。網をひっくり返すと、生き物は同じような色をした床の上に音もなく落ちた。それは陸に上げられた魚のようにびちびち跳ねたりするでもなく、縮んだり膨らんだりするようなこともなく、楕円体の状態まま動くことなくじっとしていた。

 二人はモエムの様子を見守った。上山サキは生き物のすぐそばに膝を曲げて屈み、間近で真上から食い入るように見つめていた。彼もまた彼女の後ろに立って同じように生き物を見ていた。二人とも一言も発しなかった。そして2分ほどが経過したが、生き物に変化は生じなかった。

「平気そうだよ」と上山サキが振り向いて言った。しかし彼は首を振る。よく見てごらん、と彼は言った。彼女は再びモエムに顔を向けた。生き物には異変の兆しが表れていた。真っ白な体の表面の端のほうに、微細な黒い粒が何粒か、ぽつぽつと浮かんでいた。黴とか、そうでなければ床の埃かごみか何かが付着したかのように見えたが、しかし明らかにそんなものではなかった。黒い粒は増殖していた。はじめはいくつかの数えられる程度の数しかなかったそれらの黒い点は、ほとんど数秒のうちに増殖して、真っ白な平べったい楕円体の表面の一部を覆いつつあった。異変は二人が見ている間にも進行した。斑点はあとからあとから生じてその黒い領域を少しずつ拡大した。拡大のスピードは目に見える程度に緩慢だったので、そのせいで余計にグロテスクだった。旺盛な繁殖力を持つ黒い虫がみるみるうちに増えるさまを見るようだった。

「気持ち悪い」と上山サキがかすれた声でつぶやいた。彼女は立ち上がって後ずさり、部屋の隅まで逃げた。そして壁に体を預けてその場にしゃがみ込んでしまった。

 モエムは動かず、変形もしなかった。衰弱したような様子もとくになかった。ただ黒い点はわらわらと増殖を続けている。彼はそれを見つめたまま、目を背けることも閉じることもできなかった。目を閉じたところでその光景から逃げられるわけではない。目を背けようと閉ざそうと、その光景はすでに脳裏にこびりついてしまっているのだ。しかし彼には何もできない。これをどうにかしなくてはならない、黒い斑点の拡大を食い止めなくてはならない。でも、どうやって? 彼の体は強張り、震えていた。

 部屋の隅から悲鳴があがった。上山サキが叫んでいる。それは身の毛のよだつような声で、彼の心臓が跳ね上がり、全身は強張った。ここが地下室でなければ、その声は近所中に響き渡ったことだろう。

 彼も叫びたかった。彼はその衝動を必死に抑えていた。今やモエムの体の全体の8割ほどが黒く染まっていた。彼は意を決して、力を振り絞って体を動かした。モエムに近づいて床に屈みこみ、腐ったお餅のように真っ黒なモエムを両手で掴みあげた。そして椅子の座面に乗り、開いた蓋の隙間から生き物を投げ込んだ。ぼちゃんという音がして飛沫が床に散った。

 彼は肩で息をしながら水槽の中を見た。黒いモエムは水の中をまっすぐに沈んでいる。依然としてそれは動かず、泳ぎだすこともなく、まっすぐに沈んで砂の上に落ちた。無数の黒い斑点は表面にまだ残っていた。

 背後からは女のすすり泣きが聞こえる。上山サキは叫ぶのをやめて今では泣き出していた。彼は水槽の中を睨んでいた。そのうちにモエムは回復していった。不快な黒い領域は、視認できないほどの緩慢さで、徐々にその範囲を狭めつつあった。黒い斑点は少しずつ薄くなり、さらに時間が経過したあと、あとかたもなく消えた。生き物は元通りの白さを取り戻し、何事もなかったように水槽の中を泳ぎはじめた。

 彼は上山サキの近くに歩み寄る。彼女はすでに泣き止んでいて、壁際にしゃがみこんだまま膝に額を当てた姿勢でじっとしていた。大丈夫?、と彼は声をかけた。

 上山サキが顔をあげた。瞼が赤く腫れていて、睫毛にまだ涙が残っていた。彼女は小さな声で「ごめんなさい」と言った。

「あんなことするべきじゃなかった。私が間違ってたみたい。モエムは水の外じゃ生きられない。そのことはわかった。あの子は明らかに衰弱してた。死にそうになってた。動くことさえできんみたいやったのに、外をうろつくなんてできるはずないよね。あのままにしておいたら、きっとそのまま死んじゃってたね」

 そうかもしれない、と彼は言った。

「でも私ね、こうも思ったんよ。あなたが死にかけのモエムを掴んで水槽に戻すのを見ながら、余計なことせんでいいのに、あんなのほったらかしとけばいいのに、死ぬんやったら死ぬで、勝手にしたらいいのに、って。ひどいよね」

 わかるよ、その気持ちはわかる、と彼は言った。

「ねえ、あれって結局何やったん? 何がどうなって、あんな黒い……」

 彼女の言葉を遮るように、彼は首を横に振った。上山サキはそれきり口をつぐんだ。地下室は沈黙に包まれた。

 

 二人は地下室を出て、台所で麦茶をグラスに注いで飲んだ。

 過去に僕もモエムに対して同じことをしたんだよ、そのときに、今日と同じものを見たよ、と彼は言った。

「いつ頃のこと?」

 モエムを飼い始めたばかりのころだよ。ずっと昔、15年ぐらい前の、まだ高校生だった頃のこと、と彼は言った。

「ねえ……」上山サキが彼の顔をまっすぐに見据えた。「あなたって、あのモエムをどこで拾ったの? そのことって聞いたことなかったよね。どこでどうやって、こんな生き物と出会ったの」

 彼は少し迷ったが、モエムとの遭遇について語った。その話を他人に語るのはもちろんはじめてのことだった。恐竜の爪跡の形のため池について話し、そこでモエムと名付けられることになる白い生き物を発見した顛末を語った。

「ずいぶん長い付き合いなんやね」と彼女は言った。

 僕も好奇心に駆られて、モエムを水槽の外に出してみたんだ、そのまましばらく放置して観察してみたんだよ、そのときにさっきのと同じことがモエムの身に生じたんだ、と彼は言った。

「そのときはどうなったの」

 今日と同じだったよ。でも今日より幾分大変だったよ。今日は君がいてくれたから、僕もなんとかしっかりしていることができたんだ、そのとき僕は一人きりで、モエムが変わり果ててゆく様を見ながら、ひどく気分が悪くなって、耐え難いほどになったんだ。本当に、このまま死んでしまうんじゃないかっていう気がしたよ。シャーロック・ホームズの、『悪魔の足』みたいなことになったんだよ。知ってる? 簡単に説明するとね……

「知ってるわ。ホームズとワトスンが、変な煙で変な幻覚を見る話でしょう」

 そうそう、それだよ、あれとそっくりなことになったんだ。しかも僕は一人きりで誰も助けてくれる当てなんてなかったからあれよりよほどひどい。実のところ、どうやってそこから脱け出したのか、記憶がないんだ。僕が覚えているのは、ただあの生き物の輝くような白さを失わせたくない、という強い思いだけだよ。それを失うことは、すべてを失うことに等しい気がしたんだ、当時の僕はね。だから僕はその思いのために、ぎりぎりのところで正気を取り戻せたんだと思う、と彼は言った。

「一人で、その状態から脱したの」

 そうだよ、と彼は言った。

「あなたって意外に強いのね」

 運がよかっただけだよ、と彼は言った。

 

 数日後にまた町で溶解が発生した。彼の家の近所の公園に設置されていたゾウをかたどった滑り台が溶けたのだった。滑り台は水色や黄色や白やピンクと言った塗装の色がまだらに混じり合ったただの不格好な塊と化していた。子供たちが面白がって手を触れようとするのを、親たちは制止した。

 上山サキは彼およびモエムに対する疑いをすっかり解いていて、彼との関係もまた親密なものに戻っていた。彼女はまた以前と同じように気安く彼の家を訪れるようになった。どことなく彼女は以前よりもさらにモエムに対してさらに献身的になり、さらに愛情を深めているように見えた。彼と仲直りしたことよりも、地下室を訪れる機会を再び得たことを喜んでいるようにも見えた。

 公園の溶解が発生したのは3月24日火曜日の午後4時34分のことだった。その時間にモエムは確かに水槽の中にいた。そのことを上山サキは自らの目で確かめていた。彼女はその時刻に彼の家の地下室にいて水槽の中を泳ぐモエムを眺めていたのだ。モエムの「アリバイ」を上山サキは証明したのだ。そのことにより彼女はモエムの無実をさらに固く信じるに至った。

 しかし彼のほうは、むしろ釈然としていなかった。アリバイがあったとしても、水の外では生きられないとしても、モエムが近所で頻発する奇妙な溶解事件に全く無関係だとは、彼には考えられずにいた。水槽にいながら物体を溶かすことなど、あの生き物にかかれば造作のないことであるかもしれない。

 彼はそうした考えを上山サキには話さなかった。溶解事件の発生以来、彼はがらくたをモエムに溶かさせることもやめていた。

 

 一連の溶解事件は新聞や全国ネットのニュースでも報道された。犯罪さえめったに起こらない静かな町に報道陣が押し寄せて溶解の起こった現場を取材した。ニュースのキャスターは溶けた物体のことを当たり前のように「どろどろ」と呼んでいた。その言葉をはじめてカメラの前で口にしたのは、インタビューを受けたある中学校の男子生徒だったが、その物体を言い表すのにそれ以上に適した表現はなかったので、すぐに広く受け入れられ定着したのだった。取材に来た人々は「どろどろ」をカメラで撮影したり、周辺住民へのインタビューを行ったりしていた。

 彼もまた何度か近所で報道記者たちの姿を見かけたが、彼らの近くには極力近づかないようにした。声を掛けられそうな気配を察すると足早に、ときには走って逃げた。上山サキもまた誰にもモエムのことを話していないらしい。彼女もまたマスコミを避けて家に閉じこもっていた。

 溶解事件はそれからも何件か起こった。ガードレールや街路樹や屋根の上のテレビのアンテナ(家そのものは溶解を免れていた)など、特に害を及ぼさないものがほとんどだったが、携帯電話の基地局の鉄塔の一部が溶かされたときには、周辺一帯に電波障害が起きた。

 溶解が発生する時間帯は一定ではなかった。昼間にも夜中にもそれは起こった。4日間立て続けに起こることもあれば、2週間ぶりといったこともあった。同時刻に別の場所で溶解が発生したことはなかった。

 予防策がなく、発生地点や時刻がでたらめで予測不能であることが、人々の不安を駆り立てた。さらに被害が深刻化することへの不安もつきまとった。現在のところはせいぜい建造物の一部が溶けるぐらいで済んでいるが、いずれ人間にまで溶解は被害が及ぶのではないかと、人々は懸念していた。

 今のところ、溶解は彼が暮らす町でしか発生していない。町の住民にとっては深刻な問題だったが、それ以外の人々にとっては、興味深くはあるが基本的に無関係な出来事だった。奇妙で、いくらか滑稽な出来事として、日本の大多数の人々はテレビや新聞の報道をただ野次馬的な気分で傍観していた。

 人々は溶解事件についていろいろな憶測を述べた。悪質で組織的ないたずらであるとか、町おこしの企画だとか、テロリズムだとか様々な説が、テレビの報道番組や週刊誌の記事やインターネットの掲示板などで飛び交った。しかしいずれの説にも根拠はなく、説得力を持ちえなかった。

 

近隣一帯では不審な人物の姿は一切目撃されていなかった。溶解はひとりでに起きたのだ。人為的なものだとは考えられない。だとしたら、どんな力が物質を溶かしたのか、それについても盛んな議論が行われた。多くの人が実際に物が溶けるところを直接目にしていたが、いずれの例においても現場付近に不審な現象や不審な人物の姿は目撃されていない。近くにいた人が何らかの被害を被ったという情報もない。有毒なガスや高温や高熱が付近で生じたという記録もなかった。

 目撃者は「アイスクリームが溶けるように」溶けたと証言した。そんな溶解現象がどうやって発生したのか、誰も説得力のある仮説を提示できなかった。工学や熱力学を専門とする科学者が現地を訪れて実地にどろどろを観察し研究したが、何も明らかにならなかった。誰がどう考えても、熱も何もなしに物質が自然に溶けたりするはずはないのだ。誰にとってもそのことは自明で、専門家さえさじを投げないではいられない。

 ある宗教団体は、溶解は「神の怒り」によるものだと主張した。神の超自然的な力が「罰」を下されたのだ、その結果として物は溶けたのだ、という主旨の演説を街頭で行ったりもしていた。しかし下関市北西部のその小さな町に住む人々が、神の怒りを買うようなどんな罪を背負っているというのか、誰にもそんな所業に及んだ覚えはなかった。程度の差はあれ人々は何かしらの罪を抱えてはいたかもしれないが、天罰を下されるほど冒涜的な罪でもないはずだった。平均より地味で平和な、のどかな田舎町であって、どう考えてもソドムやゴモラのようにな罰当たりな都市ではなかった。

 何にしても、町の住民にとっては溶解は深刻な脅威だった。溶解が必ずしも建物の外で起こるとは限らなかったが、町の人々はあまり外出しなくなった。


 

「確かにきれいだとは思うよ、こうやって溶けた物体」上山サキは水槽の溶けたがらくたを眺めながら言った。「でもやっぱり不気味だし、怖いよ。何だか、毒を持った蜘蛛とか花とかに、ひどく美しいものがあるのに似ている。こういうものを手放しで綺麗がったりするのは危険だと思う。あなたはずいぶん気に入ってるみたいやけど」

 彼は黙っていた。

「ねえ、あなた本当は、もっとあちこちであの変な溶解が起こればいいって思ってるやろ」

 そんなことはないさ、と彼は言った。

「嘘よ、だってみんな怖がったり不安がったりしてるのに、あなただけはどろどろの綺麗さに見とれたりしてる。その綺麗さにうっとりしたりしてる」

 僕だって不安だよ、と彼は言った。

「あなたはこの溶解騒ぎがこの町だけじゃなくて日本中に、いや、世界中に広まればいいと思ってるんやろ。世界中が溶けてどろどろに包まれて、そんな風になるのがあなたの理想なんやろ。そうだよ、人類がみんな溶けてどろどろに飲み込まれてしまっても、あんたはそれで構わないって思ってる。そのうち人間まで溶けるようになって、目の前で人が溶けだすのを見ても、あなたは助けようともせずに、放っておくんやろうね。助けるどころか、その人が溶けるさまに見とれるんやろうね」

 そんなことはない。撤回しろ! 僕はそんなに冷血非道な人間ではない、と彼は言った。

「あなたはこれまでだって、そうやって生きてきたんよ。自分さえよければいい、そんな風にして生きてきたんよ。人が溶けようが死のうが知ったことじゃない、自分さえよければいい、自分にはモエムさえいればいいって、そんな態度だから、みんなあなたのもとを去って行くんよ」

 かつての恋人たちも、死んだ両親も、彼という人間が抱える問題がもとで、彼のそばから消えて行った。上山サキはそのように主張したのだった。それは彼にはひどい中傷のように聞こえたし、彼女の言葉に対して珍しく怒りに似た感情を覚えてもいた。しかし反論はしなかった。

「あなたはそういう人間なんだよ」

 そう言って上山サキは家を出て行った。

 

 一人になった彼は上山サキの言葉について考える。確かに彼女が言った通り、彼は水槽の中の溶けた物体をほとんどほれぼれしながら眺めることがあった。天井の照明は溶けたどろどろをえもいわれぬ色に輝かせ、その色彩は水の中で揺らめいている。初めてどろどろを目にしたときから彼はその美しさに打たれた。

 溶けたゾウの滑り台を彼はテレビのニュース番組を通じて目にしたが、それもまた強く彼の興味を惹きつけるものだった。象の滑り台はもともと全体が水色に塗装されていて、目玉や鼻の先などには黄色や白や黒といった色が使われていたということだったが、溶けて変わり果てた物体は全く別の新しい色を備えていた。何色とも呼べない不思議な色合いがまだらに全体を彩り、その中に何か細かい銀色の粒のようなものが、ところどころきらきらと輝いていた。その銀の粒の正体は不明だった。

 とにかくそのかつて滑り台だった物体は、巨大な宝石の塊か、光り輝く鉱石か、あるいは才能あふれる芸術家の手によって制作された立体作品のようにも見えた。彼はそれが映し出された数秒間のニュース映像を言葉を失い夢中になって見つめた。

 今のところ溶解現象は彼が住む町でしか発生していない。しかしそれはいずれ下関全域に広がるかもしれない。この本州の西の果ての小都市のすべてが溶けるところを彼は想像した。上山サキと行った海響館も、赤間神宮も海峡タワーもスターバックスも溶ける。海響館の生き物たちはどろどろの中に化石みたいに埋まってまう。溶けた赤間神宮のどろどろはきっと真っ赤だろう。関門橋が溶けたらどうなるのだろうか? それは溶けて崩れ落ち、海を埋め尽くして津波を引き起こすかもしれない。津波が止んだ後は溶けたどろどろは海の上で広がりそのまま固まって薄い板を敷いたみたいになって、海峡にまたがる新しい地面を作り上げるだろう。それこそかつて上山サキが関門海峡について表現したとおり、広場みたいに見えることだろう。人々は徒歩で門司まで渡ることができるようになる。

 中央図書館も山口銀行本社ビルも三井住友海上ビルも下関警察署もみんな溶けて、下関駅もシーモールも跡形もなくなり、電車も線路も駅ビルも何も残らず、すべてが溶けて混じり合ってできた巨大なカラフルなどろどろの塊の上に一人きりで立っているところを彼は想像した。住民はすでにみんなとっくに逃げてしまっている。溶解が拡大する前に人々は危険を察してみなよその土地に脱出したのだ。ただ彼一人が逃げ切れなかった。いや、彼はあえて逃げなかったのだ。彼は逃げることを選択しない。

 想像はさらに膨らんだ。彼は溶解が世界中に及ぶことを思った。その事態はおそらく世界にとっては悲劇だが、彼にとってはひどく甘美な夢だった。悲劇と美が近接することはあるのだと彼は思う。ということは死もまた美しくありうるかもしれない! 彼は先ほどの上山サキの言葉を思い出した。「目の前で人が溶けだすのを見ても、あなたは助けようともせずに、放っておくんやろうね」

 生身の人間が、神秘的な溶解物へと漸次的に変化する過程を、もし実際に目の当たりにしたら、自分はどうするのだろう。その人物の生命と、目の前に生まれつつある新たな美と、どちらを優先させるだろう? これは由々しき問題だった。彼は溶けゆく人体を想像してみる。髪の毛が溶けてただの黒い流れとなり、眼球が溶けて顔の皮膚と混じり、鼻や唇、歯も舌も溶けてただの熱い液体に変わり、やがて顔の皮膚がみんな溶け、そこに走っていた無数の血管も溶けて血とまじりあう。脳も頭蓋骨も溶けて混ざり、心臓が溶け、胃が溶け、その他さまざまな臓器が溶けてゆき、それらを覆う骨や筋肉ものこらず溶け、それらがみな混ざって一つのどろどろになる。

 溶解が終わり、すべてが凝固したとき、そこにかつての人間の姿はない。異界の国の空にかかる虹のような未知の色をまとった物体がそこに新しく出現している。それは陽光を受けてみずみずしく輝くだろう。

 彼の心臓は高鳴っていた。彼はその夢想に強く心惹かれた。

 もちろん倫理と道徳にもとるのなら人は人を助けなければならない。人が死の危険に瀕しているのに美を優先させることは人道的に許されない。彼は冷血非道な人間ではないし、全人類の死滅を願うほどの虚無主義者でもない。しかし彼は自分の心が一方に向けて大きく偏っていることを自覚した。人が溶けゆくときにしか現れない種類の美が、きっとがそこに生まれる。溶けゆく人間に対して、自分はおそらく手を差し伸べないだろう、と彼は思った。黙って眼前の光景を見届けるばかりだろう。つまり上山サキの指摘は全く正しかった。

10 蝋でできた新しい街

 ある日上山サキと彼は公園を散歩していた。ドライヴの途中で彼らはその公園に立ち寄ったのだった。園内には桜が咲き乱れている。空は深い青色をたたえ、桃色の花びらがそよ風に舞っていた。あちこちに花見客がいた。公園の付近は溶解現象の被害に見舞われていなかったために、人々は何事もなく花見を楽しんでいたのだった。

「そろそろ仕事を探そうと思ってるの」と歩きながら上山サキは言った。「ずいぶん病気もよくなってきたみたいやし、症状が現れることも少なくなったし、パート・タイムの仕事でもして少しずつ慣らしていこうかなって。両親は無理しなさんなって言うんやけど、いい加減社会復帰せんとね」

 どんな仕事を探すつもりなの、と彼は尋ねた。

「そうやねえ、はっきり決めとるわけやないんやけど、お店の店員とかやってみたいんよ。洋服屋とかね。私学生の頃もアルバイトでそういう店で働いてたから、そのときは、アウトレット・ショップみたいなとこやったけど」

 公園からは下関の街並を見下ろすことができる。眼下に広がる市街地の彼方に海が広がっていた。そこから見ると海は青色の巨大な壁のように見えた。

 遊歩道の反対側では、花見客が桜の木の下にブルーシートを敷いて大勢で笑いあったり酒を飲んだりしていた。誰かが大声で歌を歌っていた。その声を聞いて上山サキは眉をひそめた。

「ねえ……私お花見の客って嫌い。ああいうの見ると、溶けてどろどろになってしまえって思うよ」

 あんまり大きな声でそんなことを言うものじゃない、と彼は言った。

「桜は綺麗なのに、ああいう人たちが景色を台無しにする。お花見を口実にしてただお酒を飲みたいだけの人たちがね。あれじゃあ桜も気の毒だわ! ねえ、あの薄汚いブルーシートが溶けて、その上の焼酎の瓶やらビールの缶やらおつまみやらお弁当箱やらが溶けて、あそこで騒いでる人たちもみんな溶けたら、きっとすかっとするやろうね」

 彼女はそんな言葉を口にし、彼は適当に相槌を打ったりたしなめたりしながらにぎやかな公園を歩いた。しかし彼女の言うことは大体彼にも同意できることだった。そのとき彼が考えていたのは彼女のものと似てはいたが少し違っていて、つまり彼は桜の木が溶けるところを想像していた。そして桜のどろどろが(それはきっと美しいに違いない!)その下で酒盛りをしている花見客を飲み込むところを想像していたのだった。

 

 その日上山サキと彼は何事もなく公園を後にした。その数日後に別の公園で、彼と彼女がそれぞれ想像したことのどちらとも違った状況ではあったが、実際に花見客が溶解に巻き込まれた。その公園は彼の家から一キロと離れていなかった。

 溶解に見舞われたのは40代の男性だった。トイレに行ったまま帰ってこないその男性を心配して様子を見に行った友人の男性が発見した。公衆便所の個室のうちの一つから、聞き覚えのある声が聞こえたので、友人の男性はそのドアを開けた(施錠は外されていた)。彼がそこで目にしたのは便器と一緒になって首から上だけ残してほとんどが溶けてしまった人間の姿だった。白い陶製の便器はすっかり溶け、その上に座っていた彼の肉体と便器とはすっかり付着して境目の見分けがつかなくなっていた。その時点では、男性の肉体はまだ全て溶けきってはいなかった。上半身はかろうじて人の形を保っていたし、彼の意識も(深く酔っていたとはいえ)まだ失われてはいなかった。だから彼は声をあげることができたのである。犠牲者は確かに声を発していたが、友人の男性には、何を言っているのか聞き取れなかった。それはうめき声にもうなり声にも聞こえたし、いまだ誰かを呼び続けているようにも聞こえた。混乱してパニックに陥ってまともな言葉を発することができないのだろうと友人の男性は考えた。本能的に、どうにかしなくては、助けなくては、と思ったものの、具体的にどうすればよいのかがわからなかった。友人の男性にはなすすべがなかった。ひどく驚いていたし、恐怖を覚えていた。恐怖のあまり手に触れることもできずに長らくその場に立ち尽くしていた。何をしてもすでに手遅れなようにも思われた。

 犠牲者の下半身の肉体と身に着けていた衣類やスニーカーが、便器と一緒に混ざって溶け合い、奇妙な色合いを生んでいた。いろんなシロップを混ぜた溶けかけのかき氷のようだった、と発見者の男性はのちに語っている。

 友人の男性が逡巡している間に、溶解は犠牲者の上半身にも及んだ。いつしか男性は声をあげるのを止めていた。みるみるうちに溶解は範囲を拡大し全身に及んだ。胴体も頭部も等しく溶け去り、肉体と便器はあとかたもなく溶けて混然一体となりどろどろ化した。

 友人の男性が警察に通報した。公園は大騒ぎとなった。物々しい防護服を着た作業員たちが公衆便所に殺到し、個室の溶解物、つまり便器と男性が、分厚いシートで覆われながら運び出された。あたりには人が集まっていたが、やがて事の次第が明らかになると、同様の被害を恐れたのか、逃げるように去って行った。

 男性の生存は不明だった。手を尽くして救助が試みられたが、冷えて凝固して石のように硬くなったどろどろと一体化した人間を、その肉体だけ切り離して助け出すことは不可能に近いことだった。そもそもどこからどこまでが肉体なのかの見分けもつかない。あらゆる手を尽くして、どろどろを除去する手段が講じられたが、分かちがたく肉体と便器とがつながって一体化してしまったその「物体」に対して、どのような処置を施せばよいのか、医師たちにもわからなかった。とてもそれは人間にはもう見えなかった。そのまま結局、男性はどろどろのまま火葬された。

 警察の捜索は無益に終わった。辺りは普段と変わりなく、不審な人物の目撃証言などはやはりなかった。

 溶解から逃れるために町を出てよその土地へ移住する者も現れた。その土地以外では、日本のどこでも類似の奇怪な溶解現象は一切発生していない。下関市の他の町でも、北九州市や宇部市など隣接する都市でも起こっていない。わけのわからないどろどろに飲み込まれて人生を終えるくらいなら、住み慣れた土地を捨てることを選ぶほうがまだましだと考える人々が出てくるのは無理からぬことだった。

 珍しい騒ぎを見物するためにかつてはよその土地から野次馬たちが町に押し寄せていたものだったが、人間までもが溶解の対象となる可能性があることを知るに及んで、そうした騒ぎもやんでしまった。


 

 4月のある金曜日の夜、上山サキが彼の家を訪ねてきた。新しい仕事が無事決まったからパーティーを開こう、と彼女は提案したのだった。彼女はフライド・チキンやらケーキやらを持ち込み、シャンパンを開けた。普段は静かな彼の家まるで誕生日かクリスマスのような騒ぎになった。

「週明けの月曜日から働くんよ。『ゆめタウン』の中の洋服屋さんでね。週4日」上山サキはチキンをほおばりながら言った。

 おめでとう、長く続くといいね、と彼は言った。

「ねえ。いろいろあったけど私あなたには感謝してるんよ。病気がよくなったのもあなたがドライヴに付き合ってくれたおかげやしね。ねえ、角島は楽しかったね? また行こうよ、夏にでも」

 そうだね、僕も楽しかった、と彼は言った。

「それにしても、夏ごろにはどろどろ事件はどうなっとるんやろうねえ。収まってるといいけどね。こないだは、海沿いの工場の大きな煙突の一部が溶けたらしいよ。赤と白の縞々の煙突やったんやけど、まざってピンク色になってたんだって。こんなことが続いたら、そのうちこの辺はどろどろで覆いつくされるんやないかしら」

 そのあとも彼らは他愛もない話をしながらシャンパンを飲み、フライド・チキンをかじった。

 そのうちに上山サキは酔っぱらったのか、口調がゆるやかになり、よくわからないことを口走りはじめた。そしてふらふらと立ち上がってソファに横になると、そのまま眠ってしまった。彼は彼女に毛布を掛けて、それから一人で地下室に降りて行った。水槽のモエムを眺めながら、彼はこうしている間にもどこかで溶けてどろどろ化しつつある何かのことを思った。

 

 上山サキは朝まで目を覚まさなかった。彼は朝食を作って彼女と一緒に食べた。トーストと焼いたベーコンと目玉焼き、そしてコーヒー。

「なんだか思ったより酔っぱらってたみたい」と上山サキは言った。「人の家で勝手に眠るなんて、ひどいよね。ごめんなさいね」

 別に構わないと彼は言った。

「どうしてこんなに飲みすぎてしまったのかしら。リラックスしすぎてたみたい」

 彼女はそう言いながら目玉焼きを箸でつついた。

「ねえ、あなたって料理上手なんやね。考えてみればあなたの作ったのを食べるのは初めて。いつも私が作りよったもんね」

 上手も何も、ただ食材を焼いただけのものだよ、と彼は言った。

「いえ、私には上手なのはわかるわ。男の人が焼いた目玉焼きって、おうおうにしてひどいことになるもん。あなたの焼き方はちゃんとしてるわ。形も崩れてないし、黄身の火の通り具合も、完璧といっていいものだわ」

 うん、ありがとう、と彼は言った。

 コーヒーを飲み終えると、上山サキは挨拶をして帰って行った。

 そのあと彼はソファに腰かけてしばらくぼんやりしていたが、やがて立ち上がり、家の中を掃除しはじめた。ときどき無性に、徹底的に家中を掃除したくなるのだ。その土曜日の朝にもそういう気分に襲われた。家中の窓と網戸と窓枠ドアやドアの取っ手を拭き、床という床に掃除機をかけてワックスをかけてモップでこすった。和室を箒で掃き、天井に雑巾をかけさえした。戸棚の中を整理整頓し、冷蔵庫の中も掃除した。その過程で出た不要ながらくたが山のようになった。彼は一瞬、それらのうちのいくつかをモエムに溶かせさせてみようかと思ったがすぐにその考えを打ち消し、ごみ袋に入れた。

 地下室も同じように掃除した。白い床と壁と天井にモップをかけ、水槽のガラスを拭いた。その間モエムはいつものように好き勝手に泳いでいた。

 すべてが終わったときには午後一時近くになっていた。彼は簡単な昼食を作って食べた。その後でシャワーを浴びて着替えて外に出た。

 どこに行く当てもなく、彼はただ町を歩いた。彼は人の姿をほとんど認めなかった。車さえめったに通りかからない。普段から決して人通りの多い町ではないが、その日は春の陽気と天気の良さにもかかわらず、公園で遊ぶ子供さえ一人も見かけなかった。人々は溶解に怯えているのだ。いつどこで発生するかわからない得体のしれない現象に怯えて、人々は外出を控え、子供たちにも外で遊ぶことを禁じている。彼はそんな無人の町を歩いた。疲れると喫茶店に入ってコーヒーを飲んだり、あるいは公園のベンチに座って新緑を眺めながらぼんやりした。はそのまま夕方になるまで彼はあちこち歩き回った。

 自宅前の細い道で、彼は上山サキの姿を見かけた。彼女は自分の家の前の地面に跪いて両手で顔を覆っていた。その姿は泣いているように見えたし、近づいてみると実際に嗚咽が聞こえた。なぜ彼女が泣いているのかについて、彼は深く考える必要はなかった。彼はすぐに理由を理解した。上山サキがひたむきな愛情を注いでいたあの甘夏みかんの色の軽自動車が置かれていた車寄せに今はそれはなく、代わりにそこには大きな砂山のように地面から盛り上がるオレンジ色の塊がそびえていたのだった。それはあの自動車が溶けた成れの果ての姿であることに違いなかった。彼女の車は溶解現象の餌食となったのだ。

 彼はそこに車があったことを知っていたから、そのオレンジ色の異様な物体がもとは車だったことがわかったが、もし知らなければ推測することもできなかっただろう。それほどまでに自動車は原形を失っていた。タイヤも車体も窓ガラスも区別なくすべて混ざりあい、一つの塊と化していた。それは本当におびただしく大量のママレードの山のように見えた。オレンジ色の色合いは、かつて自動車だった頃よりもさらに鮮やかで、ほとんど眩しいほどだった。ところどころに金や銀にきらめく粒のようなものが混じり、表面はいかにも滑らかそうで、彼は思わず手を触れてみたくなった。とてももとは鉄やらガラスやらゴムやらガソリンやらで作られた機械だったとは思えない。彼はその美しく鮮やかな色合いに見とれたが、嘆き悲しみ慟哭する上山サキを放置していつまでも見とれているわけにもいかない。

 彼が声をかけても上山サキは顔を上げなかった。身動きもせず、反応も示さず、ただ泣き続けていた。背中を深く折り曲げて跪いた姿勢の彼女は祈りを捧げる人のようにも見えた。

「どうしてなの」しばらくして彼女が呟いた。「どうして私にまでこんなことが起こるの? これからどうやって生きていけばいいの」

 警察に、一応届けを出したほうがいいんじゃないかな、あと、保険会社にも連絡するといいよ、と彼は言った。

 上山サキは泣き続けていた。

 何か僕にできることがあれば言ってね、と彼は言った。

 彼女はやはり泣き続けていた。

 彼はそのまま上山サキのそばにいた。そうして午後が過ぎ、夕方が過ぎた。辺りが薄闇に包まれる頃、上山サキは不意に立ち上がり、そのまま何も言わずにふらふらと歩いて家の中に消えていった。彼はしばらく待ったが、彼女はもう現れなかった。彼もまた自分の家に帰った。

 

 月曜日の朝、仕事に出かけるために庭から自転車を出していたとき、彼は上山サキが彼女の母親の車の助手席に乗り込むのを見た。おそらく新しい仕事場まで送ってもらうのだろう。本来ならば彼女は自分であのみかん色の車を運転して通勤するはずだったに違いない。オレンジ色の塊はまだ家の前の駐車スペースに置かれたままだった。一瞬だけ見えた上山サキの顔つきは、見るからに元気がなかった。表情豊かな顔は漂白したように青白く、泣きはらした瞼はうっ血して真っ赤だった。

 そのまま車は発進した。彼もまた自転車に乗って仕事に向かった。

 

 そのあと上山サキとは一週間ほど会わなかった。日曜日の午後、彼は窓を開け放って縁側に寝転び、春の日差しを浴びながらうとうとしていた。頭の中ではそのとき、過去のいろんなことが次々と、生々しくよみがえっていた。過去の記憶が洪水のように逆流してきて、その荒々しい流れに彼は飲み込まれていた。ときどき彼の意識はそんな状態に陥る。地下室で見た母親の血まみれの死骸、検分のために松山まで赴いて再会した死体となった父親の姿、かつての憧れや夢、とても好きだったもの、とても憎んでいたもの、あるいは恐れていたもの。彼は眠りとも覚醒ともつかない意識の中で記憶の奔流に身を任せていた。

 彼は物音を聞いた。目を開けて体を起こすと、目の前に上山サキがいた。彼女はいつの間にか縁側に腰かけて、ぼんやりと庭を眺めていた。彼はその姿もまた記憶の中の映像かと思った。彼が目を覚ましたのに気づくと、上山サキが言った。

「眠ってたの」

 いや、と彼は答えた。

 彼女はなぜか、かすかに微笑んだ。フグに似た彼女の顔はいまだどこか生気を失って見える。

 しばらく二人は並んで庭を眺めていた。何か飲む、と彼は尋ねたが、上山サキは何も言わなかった。彼は立ち上がって台所に行って、冷蔵庫からオレンジジュースを出して二つのグラスに注ぎ、お盆にのせて縁側に運んだ。彼は庭を眺めながらジュースを飲んだ。彼女もグラスを手に取って一口だけ飲んだ。

 新しい仕事はどんなだったの、と彼は言った。

「辞めたの」と彼女は呟くように言った。「辞めたの。最初の日だけは出たんやけど、次の日は早引けして、その次の日は、もう行きませんって電話した。病気のことも先方には話しとったからね、お大事にって言われて、そのまま結局辞めてしまったの」

 無理することはないよ、健康を損なってまで働くことはないからね、と彼は言った。

「そのあとから今日まで、一歩も部屋から出んやった。外に出たくなかったんよ。玄関から出たら、溶けた車を見てしまうし、あれを見たくなくて……夢やったらいいのにと思っても、外に出るとあれがあるんよ。窓から外を見てもあれがオレンジ色に光っとるんよ。私もう辛くて」

 上山サキは目に涙をためながら話した。

 車は撤去してもらった方がいいのではないか、と彼は言った。

 彼女は沈黙した。それについては何の反応も示さなかった。膝に肘を置き、両手で目を押さえるようにしてうつむいたままだった。

 自動車保険もおりるだろうし、それでまた同じ車を買えばいいんだよ、と彼は言った。

「何にもわかってない。そういう問題じゃないんよ。同じ色の同じ車種をまた買えばいいっていうものじゃないの。『あの車』が私にとっては大切だったの。あの車のおかげで私はこれまで生きてこられたんよ。代わりなんてないの。7年前に買って以来、あの車はずっと私の親しい友達であり続けた。私は家族に対するような深い愛情を注いでいたし、あの子もそれにこたえてくれた。私たちは一緒にいろんな所へ行ったの。大阪とか、東北まで行ったこともあるんよ。いろんな道路を走って、多くの時間を過ごしてきた。あんなに親しく心を通わせ合った相手って、人間でもおらんやったよ。私が人生で手にしたいろいろなものの中で、間違いなく、一番良いものやったんよ。だからあんなことになって――」

 彼は続きを待ったが、彼女はそのまま口をつぐんでいた。

 その気持ちはわかるけれども、そんなことを言っていたって仕方がないのだし、と彼は言ったが、すでにその言葉は誰の耳にも届いていない。彼女は声を出さずに泣きはじめていた。

 彼は庭の木々や草花を眺めた。うぐいすが鳴くのが聞こえた。耳慣れたその鳴き声がどこかよそよそしく聞こえる。少し後で、上山サキは立ち上がり、門の方へ向かって歩き出した。帰るの、と彼は声をかけたがやはり答えなかった。彼は追いかけることもなくそのままにした。


 

 近隣住民の人々は、変わり果てたオレンジ色の車を目にしても、騒ぐわけでもパニックを起こすわけでもなく、淡々としていた。ただ無言のもとに同情を示すばかりだった。彼らにとって大騒ぎする段階はすでに過ぎてしまっていたのだった。

 上山サキは一貫してどろどろの塊の撤去を拒否し続けていた。

「あの車をよそに持っていってもらいたくないの。保険なんてどうだっていい。別の車に乗りたいとも思わないの」

 ママレードのように溶けて変わり果てた姿の甘夏みかん色の車は、今もまだ上山家の駐車スペースに置かれたままになっている。

 上山サキは再び家にこもる生活に戻ってしまった。五月の連休に入っても、彼女はずっと一人で家にいた。彼女の両親はオーストラリア旅行に出かけていた。その旅行はずっと以前から予定されていたもので、上山サキも楽しみにしていたはずなのに、彼女は同行を拒否して家で一人で留守番をしているのだった。

 見かねた彼は、ある日珍しく自分から上山サキの家を訪ねた。彼女は別に彼の訪問を拒否しなかった。台所で麦茶を飲みながら二人は話した。彼は上山サキに、どこかに出かけないかと誘いかけてみた。

 家にこもりきりなのはよくないよ、人間は身体を動かさないといけないんだよ! 肉体と精神は、分かちがたく結びついているものだからね、精神の問題はつまり肉体の問題なんだよ、と彼は言った。

「悪いけど、どこにも行きたくないの」

 出かけないにしても、何かなんでもいいからやったほうがいいよ、ゲームでも遊びでも散歩でも。そうやって何もせずにぼんやりしているのは良くない、最近の君はなんていうか、意識がどこか遠くをさまよっているみたいに見えるからね、毎日家からろくに出ずに何もせずに過ごしているのがよくないんだと思うよ、とにかく何か気分が変わるようなことをしよう、と彼は言った。

「じゃあ洗車を手伝って」

 彼はややびっくりして彼女の顔を見つめた。洗車? と彼は聞き返した。

「そう。溶けたあの車を、洗ってあげようと思って」

 今も家の前に残るあの残骸を、彼女は洗うと言っているらしい。あの異様なオレンジ色の塊を「洗車」すると言っているのだ。上山サキの二つの真ん丸な目は決意に燃えたように見開き、青ざめた唇は一文字に結ばれていた。彼女は真剣なのだった。

「最近洗ってなかったから、ずいぶん汚れてるの。そうだわ、いますぐやりましょう。ついて来て、あなたも手伝って」

 彼女は椅子から立ち上がると、足早にダイニングから出て行った。彼は仕方なく彼女について行った。

 

 かつては車だったママレード色の物体は午後の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。彼女は庭の水道にホースをつなぎ、オレンジ色の表面に水を浴びせた。ワックスを塗り、クロスで表面を拭いた。

 仕方なく彼もまた、命じられるままに、小型のモップを手にしてそれを磨いた。彼はママレード色の塊に初めて手を触れた。想像した通り固かったが、もともとの自動車の板金の固さとはどこか異なる種類の感触があった。あえてたとえるなら硬度の高いゴムに触れるような感じだった。

 上山サキは鼻歌を歌いながら、いかにも楽しく、いとおしくてしかたがないといった様子で、てきぱきと「洗車」を行っている。彼女がいつも週末に車を洗っていたときのあの様子と、まるで違わなかった。その様子を見て、彼を少し心配になったが、結局何も言わなかった。

 二人は作業を続けた。一時間ほどで奇妙な「洗車」は終わった。オレンジ色の塊は、洗う前と後とでそれほど大きな違いがあるようには見えなかったが、上山サキは満足していた。

 二人は綺麗になったその塊の前に立ってしばらく眺めていた。

「ねえ、これ食べられるかな」と上山サキが唐突に言った。

 これって、どれのこと、と彼は言った。

「これ、このどろどろの塊。洗って綺麗にした後だと、なんだか美味しそうに思えてきた。食べられると思う?」

 口調と表情から察するに、彼女は冗談を言っているのではなかった。彼はやや困惑した。もっとも彼も最初にそれを見たときに、彼女と同じ感想を抱いたことはあったけれども、本当に食べようなどとは思うはずはなかった。だいたいもともと自動車であったようなものを食べられるはずもない。

 無理に決まっているよ、と彼は言った。

「でも美味しそうやし、一口ぐらいなら平気かもよ。ねえ、食べてみようよ!」

 そして彼女はいきなり、オレンジ色のどろどろに噛みつこうとするそぶりを見せた。つまり顔を近づけて口を開き、表面に唇を実際につけた。

 彼はひどく驚き慌てて、ほとんど羽交い絞めをするようにしてその突飛な行動を何とか制止したのだった。

 

 そのように上山サキは車の一件のあと、明らかに不安定だった。滅多に家から出ることはなく、ときどき思い出したように彼の家を訪ねることはあったが、ほとんど一言もしゃべらないまま数分で帰って行ったり、そうかと思えば長時間居座って何かよくわからないことをひっきりなしに喋り続けたりした。いやに親切だったり、反対にやたら攻撃的になったりした。急に笑い出したり、前触れもなく泣き出したりもした。なぜか地下室にはもう近付かなかった。

 彼は数限りなく慰めの言葉を掛けたが、気休めみたいなそれらの言葉は彼女にほとんど何の効果ももたらさなかった。耳に届いているのかどうかも不明だった。

 ある夜、上山サキは大量の蝋燭を抱えていきなり彼の家にやって来た。彼に家中の電気を消すように命じ、それから蝋燭を立てて火を灯して台所のテーブルの真ん中に乗せた。二人は蝋燭を挟んで向かい合って座った。そして椅子に座って肘をつきながら揺れる炎を見つめた。

 上山サキは蝋燭を手に取って傾け、溶けた蝋を木製のテーブルの上にこぼした。蝋は木目の上に丸く五百円玉ほどの大きさに広がった。

「私の車はこんな風に溶けてしまったんよ」と彼女は言った。こんな風にとはつまり蝋のようにという意味だった。

「いずれみんなこんな風になるよ。こうやってみんな何もかも蝋みたいに溶けるんよ。そして蝋による新しい街並みが下関市に出現する。溶けた蝋でできた地面は、凄く固いんだよ。永久凍土みたいに固いの。シャベルだってつるはしだって砕けてしまう。いずれ下関はそうやってみんな溶けて固まってしまうんよ。そしてみんな死ぬんだわ」

 そのあと上山サキは彼のことを非難しはじめた。彼女に言わせると、今度下関を襲った溶解騒ぎは、みんな彼に責任があるのだと言った。

「あなたのせいでこんなことになったんよ。昔からあんたはそうやったんよ、身勝手にいくつもの命を失わせてきた。あなたはそうやって罪もない命を犠牲にすることで生き延びて来たんだわ」

 君が何のことを言っているのかわからない、と彼は言った。

「あなたはいつもそうなんよ。どんなことが起こっても、何も知らないみたいな涼しい顔をして、すべては自分とは無縁な、どこか遠いところで起こっているんだというような態度で、何食わぬ顔して生きてる。自分のせいで酷い災いが生まれて、ひどく苦しんでいる人がいるかもしれないのに、いえ、実際にそういう人がいるのに、そしてそのことにあなた自身気づいてもいるのに、目を背けてみて見ぬふりして、どこ吹く風といった様子でいる。わかる? 私が言っているのはモエムのことよ。あなたはあんなものを黙って地下室に飼ったりするべきじゃなかった。そういうことよ」

 モエムは今度のこととは関係ないよ、そのことは君も確かめたじゃないか、と彼は言った。

「そうよ、あれは移動しない。あれは水槽から出ていない。誰もどろどろが発生した現場に白い生き物なんて目撃していない。でも溶けた物体に生じた作用は、水槽の中でモエムが溶かしたものと、とても似ている。ほとんど正確に同じなんよ。このことは何を意味しているの?」

 だったらどうして、僕らは無事でいられるのかな、モエムは水槽も地下室も、この家も溶かしてしまうことだってできるよ、なぜそうしないんだろう、と彼は言った。

「知らない。そんなことわかるわけないやん。あんなわけのわからない生き物のことなんてわかるわけないんよ。ただ確かなのは、あなたはあんな生き物を地下室で飼育したりするべきじゃなかった」

 彼は黙った。

「あなたが生き物を飼っていなかったら、あんな騒ぎは起こってなかった。何も溶けんやった。私の車だって無事なはずやった。すべてはあなたがもたらしたことなんよ。あなたが変な池でモエムを拾ったときから、兆しは起こっていたはずよ。あなたにもそのことはわかってたはず。それなのに、あなたはそれを無視した。無視し続けた。何か決定的なことが起こるまで、災いが生じるまで、あなたは見て見ぬふりをつづけたんよ。そして今、町が混乱に包まれているのに、あなたはまだ問題を直視しないでいる。そんなのは間違ったことよ」

 僕は一人の平凡な市民でしかないよ、無害で孤独な、どこにでもいる一人の男でしかないんだよ、そんな存在が、そんな大事を引き起こす原因であるはずがないよ、と彼は言った。 

 上山サキは蝋燭の炎越しに彼の顔を見据えた。炎を映した瞳がまっすぐに彼に向かっていた。半分陰に隠れた彼女の顔は表情が判別しにくかった。

「どんなことだって起こりうるんよ。認めなさい、町はあなたのせいで溶けた」

 その後、彼らは長いこと黙っていた。

11 彼女からの「殺害予告」

仕事から帰宅して郵便受けをのぞいた彼は、そこに一通の封筒を見つけた。ありふれた細長い茶封筒で、差出人も宛名もない。封は折り返されているだけで糊付けされていなかった。彼は家に入り、台所の椅子に腰かけて封筒を開封した。中には四つに折られた正方形の白い紙が入っていた。開いてみると、赤いマジックによる太い字で紙の幅いっぱいに書かれた、かくかくした形の文字が彼の目に飛び込んだ。きわめて短いメッセージがそこに記されていた。

 

 今夜12時にあ

 なたのもえむを

 殺しに行きます

 

 不自然なタイミングでなされた改行が、彼に慄然とした印象を与えた。「今夜12時にあなたのもえむを殺しに行きます」、そのメッセージの意図は簡潔で、あいまいなところは何もない。誰かが地下室のモエムを殺すことを予告している。その誰かが誰であるかについては、考えるまでもなかった。モエムという名前を知るものはこの世に彼と上山サキしかいないのだ。つまり上山サキがモエムの殺害を予告している。

 彼は封筒を手にしたまま考え込んだ。これは彼女なりの冗談なのかもしれない。過去に上山サキがこの手のいたずらを弄したためしはなかったし、冗談にしてはメッセージの内容が物騒だったが、最近の彼女は精神的に不安定だったし、衝動的に思いついてこんな手紙を書いてよこすことも考えられなくはない。

 でももし本気だとしたら?

 手紙では日にちは指定されていないが、「今夜」とはまさしく今日の夜のことであるはずだった。なぜなら昨日には郵便受けにこんな手紙は入っていなかった。彼は椅子に腰かけたまましばらく考え込んだが、やがて、考えたところで意味はないと悟った。彼にできるのは、実際に今夜12時に何が起こるのかを確かめることだけだった。

 食事と入浴を終えると、彼は地下室に降りた。そして水槽のそばでモエムとともに12時を待った。

 

 インターフォンは12時ちょうどに鳴った。持ってきておいた目覚まし時計を見ると、長短二本の針はぴったり重なっていた。おそらく一秒のずれもなかったのではないかと彼は思う。壁のモニターディスプレイには、玄関のライトに照らされた上山サキの姿が映っていた。彼は受話器越しに一応用件を尋ねてみたが、彼女は何も言わなかった。

 彼は一階に上がり、玄関の戸を開けた。彼が上山サキの姿を直接目にして驚いたことには、彼女は手に黒く細長いものを提げていた。それは見慣れない、というより初めて現物を目にする物体ではあったが、何であるかはすぐにわかった。彼女が携えていたのは猟銃だった。

 彼は混乱し慌てた。何しろ銃を持った人間と対峙した経験などなかった。それにどうして彼女が猟銃など持っているのかもわからない。上山サキのイメージと猟銃とは全く結びつかない。彼女の家族が、父親か誰かが、鉄砲所持許可を持っていて、家にあった銃を勝手に持ち出してきたとかだろうか? それとも本物の銃ではなくておもちゃか何かなのかも知れない。

 上山サキは無言のままで、彼と目を合わせることすらなかった。彼女はそのまま玄関をくぐって家に入ろうとした。彼は反射的に体を避けて道を譲った。家にあがると彼女は確信に満ちた足取りで地下室へ続く階段を降りて行った。

 彼はあとを追いかけた。待って、事情を聞かせてほしい、と彼は彼女の背中に向けて呼びかけたが、もちろん返事はなかった。

 地下室に入ると上山サキは真っ直ぐに部屋の中央の水槽に歩み寄った。

 何があったのか、どうしてそんな気を起こしたのか、まずは説明してほしい、と彼は言った。彼女は特に興奮した様子もなく、むしろ最近見かけた中では一番落ち着いて見えた。

「なんだっていいでしょう。殺すの。こいつは殺さんといけんのよ」

 彼女は叫ぶでもわめくでもなく静かな声で、ほとんど言い聞かせるような口調で言った。彼は恐る恐る彼女の腕を掴み、行動を制止しようとした。何かのはずみで銃口が彼のほうに向きはしないかと、ひやひやしてもいた。

「私は車の復讐を果たしに来たんよ。こいつを殺す。殺さないといけない。それはあなたのためでもあるんよ。あなたの問題を解決するためでもあるんよ」

 彼はまだ腕を掴んでいたが、離して、と彼女が強い語調で言ったので、手を離さないわけにいかなかった。

 彼女は椅子の座面の上に立ち、水槽の蓋を開いた。そしていつもそうしていたように、ガラスの表面を軽く指で叩きながらモエムを呼んだ。そのときモエムは丸くなって砂の上でうずくまっていたが、名前を呼ばれるともぞもぞと震えるように動き、ゆっくりと浮かび上がった。そのさまを見るや、上山サキは猟銃を持ち上げ、蓋の隙間に銃口の先端を差し込んで構えた。

 彼は予告が冗談でも悪戯でもなかったことを知った。そして猟銃がおもちゃなどではないことも。青白い照明を浴びてきらめく黒々とした銃身は生々しく、どこからか重い油のような匂いがした。

「予告通りにモエムを射殺する」と上山サキは言った。

 ちょっと待って、と彼は言った。殺すと簡単に言うけれども、君は本当にその猟銃でモエムを殺せると思っているのか、こんなどこに心臓があるのかもわからない生き物が銃を打ち込まれたぐらいで死ぬと思っているのか。君には殺すことはおそらくできない、とにかく考え直してほしい、やめたほうがいい、君の気を晴らすにしても、もっと穏やかでまっとうなやり方があるはずだから、と彼は言った。

 彼女は聞かなかった。モエムが水面から顔を出した。すかさず彼女はその白い表面に銃口を密着させ、迷いなく引き金を引いた。破裂音がこだまして、彼は鼓膜に痛みを覚えた。上山サキはたて続けにもう一度発砲した。彼の耳はじんじんと揺れ、しばらく不能になった。地下室には火薬と硝煙の匂いが立ち込めた。

 彼は水槽を見つめた。モエムは衝撃のために水面から下降していたが、それだけだった。生き物は白いアメーバ状の塊となって何事もなかったかのように水槽の中ほどに浮かんでいた。銃弾の痕跡は見たところどこにもなかった。

 上山サキが大きく息をついて、猟銃を下げた。モエムは泳ぎはじめた。いつものようにめくるめく変形しながらそれは泳いだ。様々な形に変化したが、その白い表面のどこにも撃たれた痕跡は見られなかった。どこも傷つかず何事もなく無事であることを彼らに教えるために、モエムは泳いでいるかのようだった。

 上山サキは椅子から下りた。最近の彼女にはおなじみのものとなった茫然としたような表情を浮かべながら、銃を片手に、力なくその場に立ち尽くして、ただ泳ぐモエムを眺めていた。二人ともそのあと長い間無言でいた。青白い照明と沈黙に包まれた地下室の中で、動くのはただモエムだけだった。

 少し後で彼女が言った。「弾丸はどこへ行ったの」

 至近距離から発射された二つの弾丸は貫通しなかった。そしてモエムの体内のどこにもそれが埋まっているようには見えない。弾丸は跡形もなく消えていた。

 わからない、と彼は言った。

 彼女は小さなため息をついた。

 君にはモエムは殺せないんだよ、と彼は言った。君にも、もちろん僕にも、誰にも殺せないんだよ。

「どうしたらいいの、この生き物をどうしたらいいの」

 彼は答えを探したが、思考は堂々巡りをつづけるばかりで言葉にならなかった。結局何も言えず、彼はただ口をパクパクさせた。

「あなたが責任を取らないといけんと思う」と上山サキが言った。

 何の責任かな、と彼は言った。

「モエムに物を溶かすことを覚えさせてしまったこと、その責任」

 彼は水槽を見た。モエムの姿はいつしか消えてしまっていた。しばらく探した後で、彼は砂の上の岩の影に、飴玉のように小さく縮まっている生き物の姿を見つけた。モエムは眠っているようだった。

 最初に水槽に地球儀を投げ込んだのは君じゃなかったかな、と彼は言った。

「そうよ。そのことは覚えているよ。だから私も私自身の責任を感じていたんよ。でも、それを面白がって、次々にいろんなものを投げ込んだのはあなたでしょう。私たちには同様の責任がある。私は単なる復讐のためだけじゃなく、これから先に同じことを繰り返さないために、殺そうとしたんよ。でも見ての通り、(彼女は眠るモエムを指さす)殺せなかった。殺すのは無理やった。殺すのが無理なら、私たちの手に負えんのやったら、別のやり方で処分しましょう。できればこの手で殺したかったけどね。でも仕方ない」

 どうすればいいのかな、と彼は言った。

「ちょっとは自分で考えなさいよ、あなたの問題なんよ」

 彼は考えた。もちろん考えるまでもなく答えはすでに頭の中にあった。よほど以前から、その考えはそこにあった気がした。彼はその考えを実行に移さなくてはならない日がいつか来るのを予感していて、自分はずっとそれを待っていたのだと思った。ただ彼はその日どりを自分で決めることができなかったのだ。

「もしあなたが現状維持を望むっていうんやったら」と上山サキは言った。「私はまた同じことをしに来るわ。もっと徹底的に準備して、今度こそ完全に殺害するわ。息の根を止めてやるわ。それが失敗したら、そのときにはみんなにあなたのことを話すわ。警察やマスコミや、町長や市長や県知事かなんかに……。この地下室とモエムのことを洗いざらい話す。あとのことは、そういう人たちに任せればいいわ」

 モエムを逃がそう、と彼は言った。もといたあの山の中のため池に、モエムを返しに行くよ。

 上山サキは頷いた。「もともとこの生き物は、狭い水槽なんかで飼うべきじゃなかったんよ」

 彼女は猟銃を抱えて帰っていった。 

 上山サキが帰った後、まだ火薬の匂いの残る地下室で、彼は最後の「祈り」を行った。

12 解放/6つのナポレオン

 朝から弱い雨が降り続く、薄暗く肌寒い日曜日の朝、上山サキは彼女の母親から借りてきた軽自動車で彼を迎えに来た。彼はクーラーボックスをトランクに積み、車に乗り込んだ。

 車は市街地を通り抜け、民家さえほとんどない人跡の途絶えた一帯に入り込んだ。あたりには田んぼと雑木林の他には何もない。真っ直ぐに伸びる細い一車線の道路を5分ほど走った後で、上山サキは畦道に車を停めた。そこから先は歩いていくことしかできない。

 二人は車を降りてレインコートを着込み、歩き出した。  腰の高さまで草が生い茂る道とも呼べないけもの道を通って、二人は目的の場所を目指した。クーラーボックスを肩に抱えてうつむくような姿勢で歩く彼のうしろに上山サキが続く。やみそうでやまず、一定のペースを保ったまま辛抱強く降り続ける雨が、二人のレインコートを濡らしていた。二人ともまるで葬送の会葬者のように無口だった。その日顔を合わせてから、彼らはまだ一言も言葉を交わしていない。

 視界が開けた。彼の目の前にはあの懐かしい恐竜の爪痕型のため池があった。雨粒が茶褐色の水面に無数の小さな波紋を生じさせている。雨の音のほかには何の音もない。彼らは無言のまま、厳粛な態度を崩さずにいた。確かにこれから行う行為は葬式に似ている、と彼は思った。

 二人は池の縁に歩み寄る。彼がその場所を訪れたのはモエムを地下室に住まわせるようになって以来初めてだったが、見慣れた景色はかつてと少しも変わっていなかった。少なくとも彼に識別できるほどの変化はなかった。そして彼を不意にデジャ・ヴが襲った。かつてモエムを拾ったあの日の中に自分が戻ってきたような気がした。そうだ、あの日も雨が降っていた。音もなくすべてのものを着実に濡らすような、執念深ささえ感じさせる雨だった。その頃に抱えていた感情や考えや気分を彼は思い出した。いや、それは思い出すといった生易しい行為ではなかった。彼はまさしく時間を逆行し、過ぎ去った時間の中に立っていた。母親を亡くし父親が行方不明になったばかりの15年前の自分と、彼は正確に重なっていた。池の対岸の水面に真っ白に輝く生き物を認めたときの、全ての注意がそれに惹きつけられて、他のことはすべて、悲しみも絶望もはるか後方に引き下がってゆくような、あの気分も生々しくよみがえった。その逆行の感覚があまりに強烈なために、彼はめまいに似た感覚に襲われ、ほとんど立っていられなくなった。彼はクーラーボックスを地面に置いて、その縁に手を置くような姿勢で屈み、しばらくうつむいて額に手を当てていた。脳と視界が激しく回転するようなその記憶の濁流に飲み込まれてしまわないように、彼は目を閉じて懸命に耐えた。

 数分ののちに濁流は過ぎた。目を開けると上山サキの姿が池のほとりに建っているのが見えた。彼女は彼に背を向けていたが、首だけを曲げて彼のほうを振り向いた。彼女の唇がほんの微かに開き、見えないほどにわずかに動いた。雨音より小さいその声は彼の耳に届かなかった。届かなかったけれども、彼女が何を言ったのかを彼は理解した。

 クーラーボックスの蓋を開けたとき、モエムは丸くなってゆっくりと浮かんだり沈んだりを繰り返していた。彼にはそれもまた何かの儀式のように見えた。彼はその白い表面を二秒ほど見つめ、すぐに目をそらした。そしてそれ以上もうモエムを見なかった。

 彼はクーラーボックスを持ち上げ、池の水面の上で中身をひっくり返した。中の水が勢いよく音を立てて池に落ち、飛沫が顔にまでかかった。白い生き物は池に落ちて、すぐ足元の水面に浮かんでいた。生き物は滑るように泳ぎはじめ、ゆっくりと彼らのもとから遠ざかっていった。そしてある地点で、突然下から何かに引っ張られたみたいに水に沈んでしまった。

 再び雨の音が彼の耳に戻ってきた。そのあと二人は数分ほど待ったが、生き物が再び浮かびあがってくることはなかった。

「これでいい」と上山サキが言った。

 彼らは池を去った。雨は次第に強くなり、車に戻るころには、土砂降りに近いものになっていた。

 

「これもみんな片づけましょう」

 地下室の水槽と、その中に転がっているモエムが溶かしたいろんながらくたを指さして上山サキが言った。彼は同意し、ポンプと大きなバケツを使って、水槽の水をすべて排出し、溶けたがらくた類を取り出した。彼はそれらを「燃やせないごみ」の袋に詰めて捨てようとしたが、上山サキが制止した。

「そのまま捨てたら駄目。壊さんと」

 どうして、と彼は訊ねた。

「全部壊すんよ! ごみに出して誰かに見られたらどうするん? また騒ぎになるよ。これらはみんな粉々に壊しちまわないといけんのよ」

 そう言いながら彼女は、青と銀色に輝くあの溶けた地球儀を手に取り、地下室のコンクリートの壁にいきなり投げつけたのだった。地球儀は硬い音を立てて壁にぶつかり、微塵に砕けた。彼は思いのほかそれが簡単に砕け散ってしまったことが意外に感じた。上山サキがそれほど強い力で投げつけたようには見えなかったのに。

 彼女は他の物体も同じように壁に投げつけて壊した。溶けたスプーンやサングラスやインク瓶や材木や小型のラジオはいずれもあっさりと砕けて粉々にしまった。普通のステンレスのスプーンが壁にぶつけたぐらいで砕けるはずはないのに、それらはまるで石膏のようにあっけなく砕けてしまったのだ。彼には理解ができなかった。やはり溶けた物体は別の物質に変容していたのではないだろうか?

「何だか『6つのナポレオン』みたいやねえ!」上山サキは笑いながらそんなことを叫んでいた。彼女の顔に笑顔を浮かぶのを見るのは長らくぶりのことだった。かつて目にしたことないほど彼女は興奮して、そして強い歓喜に包まれているようだった。彼女が口走った小説との類似は、ただ物を壁に叩きつけて破棄する、という一点のみしかない。しかし彼はただ黙ってその様子を眺めていた。彼は自らの手で一つも壊さなかった。上山サキが楽しそうに嬉しそうに破壊しているのを見て、すべて彼女に任せておいたほうがよさそうだと思った。

 やがて破壊は終わった。壁にはぶつけた跡がいくつも刻まれ、床には粉々になった色とりどりの破片が散らばっていた。破片となった物体は、もうさほど美しくは見えなかった。

 すでに住むものもいない、空っぽの巨大な水槽だけが、地下室に残った。

13 熱に浮かされてみる夢

 目を開けると天井とカーテンがおぼろげに目に入り、部屋はまだ薄暗かった。全身がひどく熱を持っていて、立ち上がる力さえ出なかった。彼は再び目を閉じた。閉じた瞼の裏側にはいつもの暗闇ではなくモエムの輝く白色が広がっていた。モエムが目の前にいるのだと彼は思った。あの生き物は戻ってきたのだ。伸縮自在なその体を膨張させ、彼の体より何倍も大きくなって彼の目の前に広がっている。モエムは自分を飲み込もうとしているのだ。飲み込んで、そしてすっかり溶かしてしまうつもりだ! 池に逃がしたところで無意味だった、あいつはここまで追いかけて来たのだ、あっさりと棄ててしまった非情な飼い主に復讐を果たすべく戻って来たのだ。彼は見渡す限りの白色の中にいた。滑らかで、一点の汚れもない輝くような白色、雪よりも牛乳よりもさらに白い白色の中を、彼は漂うように横たわっていた。自分もまた溶けてしまうのだと彼は思った。自分はモエムに取り込まれて溶けて消化されてしまうのだ。彼はしかしそれでも構わないと思った。あのように美しく死ぬことができるのなら?……

 気がつくと彼の体はすでに白色に取り込まれつつあった。彼は自分の体が溶けつつあるさまを第三者的な視線で眺めていた。彼の肉体は輝く白色に飲み込まれ混じり合いながら溶解しつつあった。肉体を組織し構成する全てが溶けて失われ、白色と溶け合おうとしている。彼は奇妙な恍惚を覚えていた。確かにこれは悪くない、こんな風な死に方は悪くない。奇妙なほど意識はクリアだった。そして意識は部屋のベッドに横たわる肉体を離れて空中を漂いだした。彼は幽体となっていろいろな場所へと移動した。地下室や、仕事場の印刷工場や、父の死体が発見された四国の山中や、あの恐竜の爪跡の形のため池を訪れた。どの場所も記憶にある景色とはどこか様子が異なっていた。その違和感がどこにあるのか彼はすぐに理解した。池も建物も街並みも、すべてが何もかも真っ白なのだった。あるべき色が全く失われて世界は白一色の世界に塗りつぶされていた。すべてモエムがその白い体内に飲み込んでしまったのだ。

 どこか遠くから声が聞こえていた。それは先ほどからずっと聞こえていたが、彼には理解不能な音声だった。遠くで誰かが外国語で何か話しているのだと彼は思った。演説のように一人でその人物は何かを話している。そうだ、ドイツ語だこれは。ドイツ人の、政治家のような人物が、高いところから群衆を見下ろして演説しているのだ。そんな写真は見たことがある。手のひらで紙袋をひっぱたくみたいに歯切れのいい、鋭い声……その声は次第に近づいてきた。しかし依然として一語も聞き取れなかった。その口調は何かを熱心に訴えかけていた。群衆に、人民に向けて、力強く決然と何かを訴えかけているのだ。そのうちに何かが彼の口に差し込まれた。硬い感触とともに熱い液体が口の中に入り、舌や歯に触れ、そのまま食道から胃へと下っていった。何度も同じことが繰り返されるうちに、彼の意識は彼の肉体に戻ってきた。目を開けると傍らには上山サキがいた。彼女は真上から彼の目を覗き込んでいる。

「食べんと元気になれんよ」と彼女は言った。

 彼はあたりを見渡した。彼女はベッドのそばに置いた椅子に腰かけていた。手には大きな茶碗を持っていて、もう片方の手に持ったれんげでその中身をすくい、彼の口に運んだ。

「なんでこんなひどい病気なのに、誰にも言わんで寝とったん」

 彼は説明しようとしたが、そもそも何を説明すればよいかわからず、そして何か言おうとすると頭がひどく痛んだので、結局黙っていた。

「無理せんでええんよ、おかゆを食べて、ゆっくり寝てなさい」

 自分は何日ぐらいこうしていたのだろう、と彼は言った。

「3日ぐらい。あの池に行った次の日に来てみたら、あなたがまだ起きてなかったから、それで部屋に勝手にはいったんやけど、ひどくうなされててうわごとも言ってて、額に手を当てたら燃えるみたいに熱かったの。それからずっと私看病してたんよ」

 ということは、自分はずっと仕事を休んでいたのか、と彼は言った。

「仕事のことなんか考えんで、今はゆっくりしてなさい。工場には私が休みの電話しておいたから心配せんでいいよ。原因不明の高熱で電話も出来ないありさまなので、代わりに連絡しているんだって言ってね」

 彼は彼女に礼を言った。

 それから彼は、自分の体のどこも溶けていないことを確かめた。あれはただの夢だった、あるいは幻覚だったのだ。自分は溶けてもないし飲み込まれてもいない。彼はしばらく自分の手を見つめていた。

 ねえ、あれ以来溶解は起きていないのかな、と彼は彼女に尋ねた。

 彼女は首を振った。「起きてないよ。どこにも、何も溶けてなんていないよ」

 そのあと上山サキは帰って行った。彼はまた眠った。

 

 次の日には彼の病気は治っていた。健康に戻った彼は自転車で工場に行き、朝から夕方まで働いた。

 モエムを失う以前と以後とで、彼に何かが変わった様子はなかった。少なくとも周囲の人々はその変化を見て取ることはできなかった。しかし彼の内面は確かに変化していた。彼は自分を取り囲む「膜」が厚みを増したのを感じた。この膜はもう他の誰をも通すことはないだろうと彼は思った。もう「祈り」は行えないのだ。「社会」と折り合いをつける方法を自分は失ってしまった。

 彼はより深い孤独を覚えた。その孤独が癒えることはこの先ないだろうと思った。

14 収束

最後の溶解事件が起きてから2か月が経過した。本当にあの災いが終わったのかどうかは誰も知り得なかったが、何事も起きないまま時間が経つにつれて、人々は少しずつ安心を覚えるようになった。子供たちは以前のように外で遊ぶようになった。

 水槽を処分してしまうと、地下室はすっかり空っぽになった。モエムも水槽もなく、祈りを捧げるべき対象はもはや何もない。彼はそれから数日を泡に包まれて空を漂っているような気分で過ごした。休まず週に5日仕事に出かけ、一人で食事を作って食べ、それ以外の時間は縁側でただぼんやりしていた。地下へ続く階段を降りることはもうなかった。

 上山サキと顔を合わせた場合には挨拶や会話は交わしたものの、かつてのような親しみはすでに二人の間にはなかった。放置されていた彼女の自動車の溶けた残骸のどろどろは処分され、彼女は新しい車を購入していた。以前のものとは似ても似つかない、武骨で可愛げのないデザインの小型の銀色のワンボックスカーだった。

「あなたの言う通り、保険会社に連絡したわ。いつまでも、悲しんでいても仕方がないし。全損扱いで、保険はちゃんと降りたの。保険会社の人が、溶けたどろどろを確認しに来たんよ」

 新しい車はまるで機材運搬車みたいに見える。彼女がその車を洗う光景を、彼はまだ一度も目にしていない。最後の溶解事件が起きてから2か月が経過した。本当にあの災いが終わったのかどうかは誰も知り得なかったが、何事も起きないまま時間が経つにつれて、人々は少しずつ安心を覚えるようになった。子供たちは以前のように外で遊ぶようになった。

15 水に映る月に似た何か

雲が地面に降りて来たみたいな濃い霧がけもの道を覆っていた。彼は霧をかきわけて歩いた。霧の口から霧の体内に侵入し、霧の内奥へと分け入ってゆく気分だった。霧のトンネルをくぐり抜けたとき、彼の目の前には恐竜の爪痕の形の池があった。彼は行けに歩み寄る立ち込める霧と曇り空はほとんど同じ色をしていて、その二つの境界が判別できない。地面から空まで何もかも白く濃い煙に包まれているみたいだった。水面もまたその色を映して、普段の濁った茶褐色ではない清浄な乳白色をたたえていた。

 紫やピンクや藤色や白の花びらが落ち葉とともに水面に浮いていた。それらの葉と花びらの色彩もどことなくいつもと違う。コントラストを強調した写真みたいに色が不自然に鮮やかで、毒々しい印象さえあった。それらの色を見つめるうち、彼の頭は揺れはじめた。脳が液体になって、それこそモエムに溶かされたみたいにどろどろになって、耳の穴や鼻や口から垂れてくるような感覚だった。夏の虫の声が響いている。池には動くものは何ひとつない。午後は深まり、いつしかあたりには宵闇が忍び寄っていた。水面の毒々しい花びらも池も森もすべて黒く染まった。雲に覆われた空には星も月も見えず、分厚く生い茂る森の木々が不気味な魔物のように池を取り囲んでいる。闇に塗りつぶされた黒い水を見つめながら、まるで何かを待ちうけるように、彼は池のほとりに一人で立ち尽くしていた。

 遠くに白く丸い光が浮かんだ。彼は半ば反射的に水面に映る月だと思った。しかしすぐに考え直す。月が見えるはずはない。空は雲に覆われているのだ。しかし今、水面にはおぼろげな円形がぼんやりと映じている。それは月ではない。それは月にとてもよく似た何かだった。その光は、月光にしては白すぎる。

 仄かに光る円は池の中央付近で静止していた。ひどくおぼろげで、それでありながらどこか深みのあるその白い光は、周囲にぼんやりと洩れ広がって池の水面にまるで薄く白い布を敷いたように見せていた。その暗い場所で、彼の目がとらえることのできたのはその光に照らされたあたりだけだった。彼は目が離せずに光を見つめ続けていた。その懐かしい、明らかにどこかで見たことのある光を、いくばくかの距離を隔てて、ずっと眺めていた。

 突然森の奥から何かの鳴き声のような音が起こった。高くけたたましい、一瞬のうちに遠くまで届くような鋭い声だった。そしてその声の発生と同時に光る白い円は消えてしまった。光の布は一瞬にして取り払われ、辺りには元の暗黒が戻ってきた。

 少し後で同じ鳴き声がまた聞こえて、それに応えるように別の鳴き声が別の方角から聞こえた。彼は暗闇の中で待ったが、月に似た何かが再び水面に現れることはなかった。

16 最後の池

夏が過ぎて秋になるころには、もう誰も溶解事件のことなど思い出さなくなっていた。溶けたいろいろなものはすでに撤去されるか修復されて、町は騒動以前の状態に戻っていた。 

 彼はときどきまた一人で恐竜の爪跡の形の池を訪れるようになっていた。そして昔のように、凪いだ水面に生じる波紋や、木の葉や花びらが風にあおられて滑る様を眺めながら、池のそばで長い時間を過ごした。

 秋の終わりの肌寒い日、彼は池のそばで一人の少年を見かけた。彼が池を訪れたとき、少年はすでにそこにいた。痩せて背の高い人影が、池のほうを向いて双眼鏡を覗いていたのだった。身のこなしや、雰囲気から察するに、少年は高校生ぐらいであるようだった。

 これまで彼はこの池の付近で他人と出くわしたことはなかった。少年は彼の存在に気づくと、双眼鏡を外して彼のほうをちらと見た。二人は一瞬だけ視線を合わせたが、どちらも何も言わなかった。少年は再び双眼鏡を覗きこんで池のほうを向いた。

 数十分後には、彼らは言葉を交わすようになっていた。少年の方から彼に話しかけてきたのだった。野鳥を観察するのが好きで、そのために山歩きをしている途中にこの池を見つけ、それ以来この場所がお気に入りになってしまい、しょっちゅう来ているのだと、少年は自ら喋った。彼は見かけより話好きで、人に慣れやすいらしく思われた。

 少しの間会話が途切れた。彼は池を眺めなら、夜の水面に現れたあの白い光のことを思い出していた。

 この池には何かいそうですよね、と少年が言った。何だか不気味な雰囲気がありますし。ネッシーとか、河童とか、海坊主とか、そういう類の、現実離れした生き物がいそうじゃないですか。

 彼は笑って、何も言わなかった。

 風が吹いて、木の葉がざわざわと揺れた。その風に押されて、彼の視界の端のほうから、何かが水面の上を滑ってきた。最初、彼にはそれはベニヤかプラスチックでできた一枚の薄い板のように見えた。しかしそれにしては板はひどく奇妙な色をしていた。いろんな色を混ぜて出た目にかきまぜたような、ところどころにいろんな色を浮かべたまだら模様をたたえている。さらによく見ると、それは板ではなく、水に浮かぶ花びらや葉や枝や茎などが寄り集まって、ひとかたまりになったものだった。それらが集まって連なり、ひとかたまりになったさまが、一枚の板のように見えていただけだった。

 少年も同じものを見ていた。二人は一言も発することなく、葉と花びらが作るそのかたまりを目で追っていた。かたまりのところどころに粒のようなごく小さい銀色の光が、日差しを受けてきらめいていた。

 見るほどにしかし、再び彼には植物のかたまりが再び板のように見えはじめた。単に植物が寄り集まって板状をなしているのではなく、本当に板なのではないか。無数の葉や花びら、小枝や草や虫が溶けて混じり合い、くっついて固まって形成された、板状の物質なのではないか。それらが植物のかたまりであるなら、風に吹かれるうちに少しは散らばったりしてもいいはずだった。しかしそれらは全く最初の様相を崩すことなく、同じ板状のままで水面を滑っているのだった。まだら模様を構成する様々な色が日の光に明るく照らされている。彼はもっと近くで観察したいと思ったが、それはどうやっても手の届かない位置にあった。板状のかたまりはそのまま彼らの眼前を横切り、やがて反対側の木の陰に隠れて見えなくなった。

 彼と少年はそのあとも並んで池を眺めていた。二人は同じものを待ち受けていたが、池にはもう何も現れなかった。辺りは静寂に包まれた。鳥さえ鳴かなかった。

 もうしばらく、僕はここにとどまってみます、少年が言った。

 彼は少年に別れを告げ、池をあとにした。

 それからあと、彼が爪跡型のため池を訪れることはなかった。

 

 彼は地下室にこもった。真っ白な部屋の中央に一人で座りながら、彼はまるで自分が水槽の中にいるような気がした。この地下室が水槽で、自分よりはるかに巨大な何かが、その中の自分を観察している。彼は視線を感じる。その視線を意識しながら、彼は長くそこに佇んでいた。

 彼はモエムのことを思った。地下より深いさらに地下のどこか、すべてが溶けあう場所に、今も潜むモエム。泳ぎながら、浮かんだり沈んだりしながら、いろんなものを溶かしては白い表面をさらに輝かせるモエム。

 あの少年はいずれ白い生き物と出会うだろう。そしてかつて彼がそうしたように、生き物を家に持ち帰ることだろう。どこかの家のどこかの水槽で、新しい飼い主に向けて生き物が泳ぎを披露する情景を、彼は思い浮かべた。想像の中のその眺めは、いつかどこかで読んだきりのまま、題名も作者も思い出せない絵本の一場面に似ていた。


 

終わり

bottom of page