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青い眼のトンネル

1

 かすかに響くピアノの音を聞くともなく聞きながら、正太郎は窓の外を眺めていた。庭の花壇に咲き乱れる花々の様々な色が夏の午後の日差しに照らされている。いつものことながら息子が弾くピアノの音は正太郎を不安定な気分にさせた。ときには苛立ちを覚えることさえある。演奏がまずいためではなかった。むしろ息子の冬太の演奏は相当に上手なものだった。冬太はいつも行き当たりばったりで思いつくまま即興で演奏するが、その演奏は流麗で滑らかでときに煌びやかなものだった。演奏する音楽の内容が問題なわけでもなかった。楽想が明るくて暗くても、テンポが速くても遅くても関係なく、息子が弾くピアノの音色は正太郎に言い知れぬ感情を呼び覚ますのだった。

 以前からこうだっただろうか、と正太郎は机に頬杖をつきながら考えた。かつて息子が家でピアノを弾いていたとき、その演奏を聞いてどんな風に感じていただろう。今のような苛立ちを覚えていただろうか? いや、そんなことはなかったはずだ。この感覚は最近になって芽生えたもののはずだ。


 

 息子の冬太は現在二十代後半である。彼は進学を機に都会に出て行ったのだが、数か月ほど前に帰郷し、また家族とともに暮らすようになっていた。冬太はまだろくに読み書きもできない頃から、ピアノに関心を示した。冬太の曾祖父にあたる正太郎の祖父の石上耕太郎は音楽を愛好していて、自らもフルートを演奏するアマチュア音楽家だったこともあって、自宅には防音設備を備えた「音楽室」と呼ばれる部屋が存在していた。冬太はしょっちゅうその部屋にこもり、アップライト・ピアノなどの鍵盤を叩いて遊んでいた。ごく初期の段階から、彼は既存の曲や楽譜を弾いたりはせず、右手と左手をでたらめに動かして即興演奏のようなことを行っていた。

 成長するにつれて冬太の技術は向上し、その演奏はだんだんまともな音楽の形を取るようになる。ずいぶん上達した後でも、相変わらず冬太は楽譜に書かれた楽曲を忠実に弾くことには興味を示さなかった。想像力の赴くまま、指が導くままに即興で自身にも未知なる音楽を即興で紡ぎだすことが、彼の関心の最たるものなのだった。結局冬太は誰からもピアノを教わらなかった。音楽室の書棚に並ぶかつて石上耕太郎が買い集めた専門書や理論書を読みあさって、音楽理論や演奏技術を独習したのだった。

 高校卒業後の進路を決める際、冬太は音楽家になるために音楽学校へ行くと主張した。普通の親ならそういうリスキーな判断についていろいろ言うのだろうが、正太郎は何も反対しなかった。むしろ息子が何かを自らの意思で選択したことについて、安堵するような気持ちさえあった。というのも冬太には、自ら何か欲したり望んだりすることが、幼いころから一度もなかった。泣きわめいたり、怒って物を破壊したり、誰かに乱暴をふるったりといったこともなかった。若くしてすでに、すべてに充足しきっているかのような老成した印象があった。

 冬太が人より秀でているのはピアノの演奏だけで、それ以外のことに関しては徹底して凡庸だった。得意とすることも苦手とすることもなく、成績は良くも悪くもなくいつもちょうど真ん中あたりだった。学校でも決して目立つことはなく、だからといって埋没するわけでもなく、人気者でもないが嫌われ者でもない。そんな少年だった。容姿さえも平凡で、身長も体重もすべてだいたい平均的なもので、ありきたりで無害な衣服に身を包んだ。誰でも読むような本を読み、無茶な遊びをすることもなく、悪いことに興味を示すでもなく、すべてほどほどに、節度を守って行っていた。多くはないが友達もいたし、一度か二度ほど、ガールフレンドを家に連れてきたこともあった。

 それほどまでに徹底して完璧に平均的な息子に対して、正太郎は漠然とした不安を抱いたことがあった。ここまで徹底して平均的なのは、何かがおかしいのではないか。しかしもちろん、息子のそんな性質は特に問題を生むわけでもない。全てにおいて平均的ということは、考えようによっては優秀ともいえる。正太郎の不安に根拠はなかった。

 専門的な音楽教育を受けたわけでもない冬太は、四年制の音楽大学に入学するだけの能力を持ちえなかったので、結局音楽の専門学校に進学することになった。冬太はきわめて平均的な成績で高校を卒業し、進学のために都会へと出て行った。冬太はその2年後に専門学校を卒業して学業生活を終えたが、その時点でもまだ音楽が職業になりそうな兆しは見られないようだった。そのあとから息子がどうやって生活していたのか正太郎は知らない。もし望むのならば学校生活を終えた後でも両親は息子に仕送りを送ることをいとわないつもりでいたのだが、冬太のほうから、もう「いち社会人」なので経済的援助は必要ない、と申し渡してきたのだった。石上家は裕福だったので、一人息子の都会暮らしを支える程度のことなら苦もないことではあったが、結局冬太の意思を尊重した。

「やとわれの仕事じゃないけど、まあそれなりのお金にはなる仕事があるし、生活にはそんなに困っていないから」と息子は言った。確かに彼には経済的に不自由しているような様子はなかった。内容については語ろうとしなかったが、何かしらの仕事をしてそれなりの収入を得ているらしい。もっとも冬太の服装や髪形などから察する限り、普通の雇われ仕事に従事しているとは思えなかった。冬太は自らの生活について語ろうとはしない。そして彼が自ら語ろうとしないことについて聞き出すことはほとんど不可能なのは、正太郎も妻のユミもよく知っていたので、何も尋ねなかった。

 数年が経ち、ある日家に電話がかかってきた。ユミが電話に応対したが、それは知らない女の声で、冬太が病気であることを告げたのだった。正太郎とユミは新幹線に乗って息子が住む街まで赴いた。

 息子のアパートには電話の女性がいた。女性は冬太の「知り合い」だと名乗った。彼女の話によると、ある日冬太と連絡がつかなくなったためにアパートの部屋を訪ねたところ、彼女はそこでベッドに横になったまま、一人で奇妙な歌を歌っている冬太を見た。声をかけてもろくに反応せず、返事をしたとしてもわけのわからないことを口走るばかりだった。熱はなかったが、その様子がどう見ても普通ではなかったので、彼女は心配して病院に連れて行こうとしたのだが、冬太は聞き入れず、決して部屋から出ようとしなかった。そして冬太は一日の大半を寝床の中で過ごすようになり、社会生活がままならなくなって収入も途絶え、電気やガスや水道が止まり、家賃も払えず、飢え死に寸前のような状況になった。彼女は可能な限り世話をしていたが、彼女にも生活があり、冬太のことばかりにかまっているわけにはいかなかった。それで彼女は冬太の携帯電話から冬太の実家の電話番号を調べ、家族に連絡したのだった。

 冬太は何も語らない、何か原因があったのか、何かに苦しんでいるのか、何も言わない、無理に病院に連れて行こうとすると暴れるし、ときどき自分に向けてひどい言葉を吐いたりする、知り合いの女性は悲痛な涙声でそのようなことを語った。冬太が死なずに済んだのはその献身的な女性のおかげなのだった。両親は彼女に感謝の意を伝え、息子が迷惑をかけたことを詫び、謝礼を支払いさえした。

 とにかく冬太は原因不明の精神的危機に陥っていて、もはや都会での一人暮らしを続けることなど不可能なのは明らかだった。両親はアパートの管理会社に連絡して契約を解除する手続きをとり、滞納していた家賃と退去費用を支払って、息子を故郷へと連れ戻したのだった。冬太の都会暮らしは8年で終わった。


 

 都会から戻ってきた冬太は、以前よりもずっと物静かな、死人のように生気に乏しい人間になっていた。毎日二階の自室に閉じこもり、外出することはなく、庭にさえ出なかった。天気が良い昼間の時間帯でも窓にはいつもカーテンがかかっていた。家事も、散歩も運動もせず、髪の毛は伸び放題に伸び、体は痩せている。自ら言葉を発することはまずなく、家族の者が声をかければ返事はするが、せいぜいひとことかふたことで、会話する意思はない。どんなときでも表情は変化せず、何をするにもその動作はひどく緩慢で弱弱しかった。食事や入浴以外で冬太が自室から出るのは、一階の南東側の音楽室でピアノを弾くときだけだった。彼は長い時間そこにこもり、ピアノによる即興演奏を行った。

 

 正太郎は、息子がそんな風な精神的不調に陥ってしまったことについて、負い目のようなものを感じていた。血は争えないものだと彼は思った。両親の精神的な傾向は、やはり息子にも遺伝してしまったのかもしれない。正太郎は同情とかすかな罪悪感を覚える。

 正太郎は若いころから頻繁に精神的な不調に苦しめられた。憂鬱な気分が重く立ち込め体の力を奪い気力を失わせる。年に何度かそういう状態に陥った。そうなると何もできない。ひたすら横になっていることしかできない。眠ることができればまだましだが、上手く眠れないことのほうが多い。

 正太郎の妻のユミも似た傾向を備えていた。出会った当初は正太郎の目には、ユミは自分とは正反対の屈託のない、あっけらかんとした性格の女性に映っていたのだが、交際を続けるうちに、彼女もまた精神的な問題(ユミはそれを「私のデプレッション」と表現した)に苦しめられた時期があったことを知った。彼女は当時すでにそれをほとんど克服していたが、最も病がひどかった時期には、正太郎よりはるかに深刻な事態に陥ったという。ユミは過去に自殺未遂を二度、そして何度となく自傷行為に及んだ経験があった。手首には何本もの切り傷の跡が残っていたし、右の首筋にも傷跡があった。髪の毛で普段は隠れている首筋の、皮膚から浮かび上がった十センチほどの傷跡をはじめて目にしたとき、正太郎は驚いた。

「そんなところを切って死ななかったの」と正太郎は言った。

「平気だったわ。血もほとんど出なかったわ。ごく薄い線だったから、危険なところにまでは達しなかったのよ。でもその頃は、精神的に一番参っていた時期だったから、死ねないまでも、多少は救われたわ。つまり傷による肉体的な痛みのほうが、まだましだったってこと」

 ユミと一緒に暮らすようになってから、どういうわけか正太郎が精神的危機に襲われる機会は減った。自分よりはるかに深刻な病を持つ他人の存在を知ったことによる、ある種の優越的な感情が、自分を救ったのかもしれないと彼は考えていた。

 

 

 ピアノの音は続いている。遅い歩みを思わせる低音の上で単純な音型が陰鬱な旋律を歌う。そのときすぐ近くで電話のベルの音が聞こえた。ドアの外で小走りに廊下を駆ける妻のユミの足音が聞こえ、その数秒後にベルは止んだ。不思議なことにすでに正太郎にはその電話がどこから何を告げるためにかかってきたものであるかわかっていた。

 

 一時間ののちには病院の一室に、石上家の全員が集まっていた。正太郎と妻のユミ、息子の冬太、そして正太郎の母であり、病人の妻であるカズヨが、ベッドにあおむけに横たわり人工呼吸器で呼吸する人物を見つめていた。正太郎の父、石上正は死にゆこうとしていた。

2

 石上正の余命がすでに幾ばくもないことは家族の全員が承知していた。遠くないその瞬間の訪れを皆がただ待つだけという状況だった。正はすでに言葉を発することもできなくなっていた。それでも、声をかけると、ときどき生気を取り戻したみたいに二つの目が輝きを取り戻す瞬間がある。

 父の正は先代の石上耕太郎が設立した紡績工場の跡を継いだ。しかし正が57歳の時、資金繰りがうまくいかなくなって工場は閉鎖され、正はそのまま引退した。引退後の父は、それまでは余暇として行っていた彫刻制作にひたすらいそしむようになった。若いころには父は芸術方面で身を立てることを望んでいたらしい。そんなことを正太郎は母のカズヨから聞かされたことがある。正は幼いころからもの作りが好きで、わけても立体芸術の魅力に取りつかれていて、大人になってからも家の一室をスタジオとして利用して石膏で彫刻作品を作っていた。父の作品は、とくに芸術に関する知識を持たない正太郎の目には優れたものに見える。父は作品を人の目にさらすことに興味をもたなかった。彼は誰に見せるでもなく、どこかに発表したり展示したりするでもなく、ひたすら自分のために彫刻を制作していた。本当に関心があるのは彫刻を制作するという作業の過程であって、完成した作品ではないのだと父が口にするのを、正太郎は記憶していた。父のことを考えるとき真っ先に浮かぶのは、スタジオで彫刻を制作しているときの姿だった。

 二年前の冬の雪が降る寒い日、夕食時になっても食堂に姿を現さない正を、ユミがスタジオに呼びに行ったとき、彼女は床の真ん中でうつぶせに倒れている義父の姿を見つけた。顔がそれこそ石膏のように白く、体のあちこちが冷たくなっていたが、かすかに呼吸はしていた。すぐに救急車が呼ばれ、正は病院に搬送された。

 石上正はそれ以来ずっと病室でほとんど寝たきりのまま暮らした。

 

 最後に父と病室で二人きりで過ごしたときのことを、正太郎は思い出していた。母のカズヨも妻のユミも用事か何かのために席を外していたのだった。二人きりになるタイミングはこれまでなかった。正太郎は証券会社に勤めていて、仕事のために見舞いに行く時間がなかなか取れなかったのである。

 心臓のペースメーカーの電子音だけが響く病室で二人きりになった正太郎は落ち着かなかった。ある種の予感、あるいは気配のようなものが室内に濃密に漂っていて、その空気が耐え難かった。正太郎は立ち上がったり座ったり、部屋をうろついたり窓の外を眺めたりといった意味のない行為を繰り返した。そのうちに彼はいつしか歌いだしていた。自分でも気がつかないうちにメロディーを口ずさんでいたのだ。背中にのしかかる重く黒い空気を振り払うために、なんでもいいから歌わずにいられなかった。

 正太郎は歌に関心を示したことなどなかった。自分で歌うことはもちろん、他人の歌声を聞くことにも興味がなかった。だから最初から最後まで正確に記憶している歌など一曲もない。それでもおぼろげな記憶を頼りにでたらめにいろんな歌を歌った。子供の頃に聞いた童謡とか唱歌、青年時代に流行ったポップ・ソング、そういった歌を、思い出せる限り口ずさんだ。声はか細く音程は不明瞭で、その歌唱は上手とは言えない。それでも歌う行為は、不思議なほど彼の気分を楽にした。

 そうして十数分ほどが過ぎて、ふとベッドの上の父の顔を見たとき、正太郎は息を呑みこんだ。父の目にかすかな光が宿っていたのだ。父が意識を取り戻したのだと思って、正太郎は顔を近づけて語り掛けてみた。しかしその目が彼のほうを向くことはなく、人工呼吸器のために言葉を発することもできない父が返事をすることもない。

 そのとき父は何かを見ていた。その視線は明らかに何かをとらえていた。正太郎はその視線の先を追って天井を見上げたが、病室の白い天井と蛍光灯があるばかりで、見るべきものは何もなかった。それでも父は何かを見つめていた。まっすぐに、ひたむきにじっと。父の瞳の虹彩にもやはり白い天井と蛍光灯のほかには何も映じていなかった。

 そしてその目の光もやがて消えてしまった。その光が宿っていたのは時間にしておそらく一分にも満たなかった。気がついたときには父の目はただの色のない無機質なガラス球に戻っていた。それからあと、父は以前よりさらに死のほうへと近づいたように感じられた。

 

 

 二人の女、正太郎の妻のユミと母のカズヨが、しきりに正に向けて呼びかけている。もちろん返事はない。冬太は部屋の隅に立って、彼の祖父である正をじっと見つめている。冬太の顔に表情らしい表情はなかったが、それはいつものことでもある。

 正太郎は窓辺に立って外の景色を眺めていた。外では雨が降っていた。音もなく降る細かな雨だった。その窓からは駐車場と、それを取り囲む松の木の林が見える。一羽のカラスが街灯のてっぺんにとまって、何をするでもなくじっと雨に濡れていた。

 数時間後に父は死んだ。元気だったころはゴムのようにつややかだった肌は干からびたように黒ずんでいる。眼球は深く眼窩に落ちくぼみ、それでもまだ不思議な光をたたえながら、小さな湖のようにそこに残っていた。父が亡骸と化した後でも、二つのその目だけはまだ生きているように思えた。別の種類の新たな生命が父の死と入れ替わりにその二つのガラス玉に宿ったかのようだった。気がつくと、病室にいた人々、医師、看護師、妻のユミ、母のカズヨ、そして息子の冬太は、みな、その死んだ正の目を見ていた。彼らは皆その奇妙なきらめきに心を奪われて、一瞬の間悲しみさえ忘れていた。

 

 葬儀が終わり、遺体は火葬場に運ばれた。老いて病んだ肉体は余すことなく焼かれ、あとには骨と灰だけが残った。正太郎は箸で骨をつかみ、小さな箱に納めた。

 その日の夜に通夜が行われた。正太郎は酒を飲まないが、同席した親族から勧められるまま何杯かビールを口にした。ユミとカズヨも、悲しみというよりは何かが抜け落ちたような虚ろな表情をしていた。彼女たちは涙を流さなかった。その夜、自分と同じように酒を受け付けない体質であるはずの息子の冬太が酒を飲むところを見て、正太郎は意外な気がした。冬太は隣の席の親類の男性と何ごとかを熱心そうに話していた。

 

 父の死後も石上家の暮らしは変わることはない。正はいくばくかの資産と多くの彫刻作品を残してこの世から去った。正太郎は悲しみと、ある種の喪失感のようなものに襲われたが、それは想像したほど深刻なものでもなかった。彼には心の準備ができていた。

 父の死後、息子の冬太にはわずかな変化が見られた。冬太は部屋に閉じこもってばかりいることを止めて、家を出て散歩などするようになった。口数も少しずつ増えて、家族ともわずかながら会話を交わすようになった。彼は以前よりはいくらか健康的に、人間的になったように見えた。正太郎は、正の死が何かしらの契機となって息子に心境の変化のようなものが生まれ、精神的な危機を脱しつつあるのではないかと思った。

 しかしある日、冬太は唐突な行動に及んで家族を驚かせた。彼は肩にかかるほど伸ばしっぱなしていた長い髪の毛をばっさり切ったのだ。ただ切るだけでなく、頭の毛を一本残らず根元からバリカンで剃り落として、スキンヘッドのような髪型にしてしまったのだった。いきなりそんな様変わりした頭である朝食堂に姿を現した冬太の姿を見て、家族はみなぎょっとした。しかし冬太は平然としていた。

「意外に似合っているでしょう」と冬太は言った。

「ああ、そうだね。悪くないよ。ちょっとびっくりはしたけれどね」と正太郎は言った。

「どういう心境の変化なの? ずいぶんなんていうか、思い切ったわねえ」とユミが言った。

「まあさっぱりして、よかろうよ」とカズヨが言った。

「眉毛も剃り落とそうと思っているのです。どう思いますか、そうすることについて」

 両親はそれにはさすがに反対した。冬太も思いとどまったようだったが、その代わりに今度は顎の髭を長く伸ばすようになった。

 ひどく痩せて顎髭を生やしたスキンヘッドの男。そんな風貌の男が昼間から街をうろついたりすると、そのさまはどうしようもなく目立った。近所の人たちの間ではちょっとした噂になり、幼い子供の中には、冬太の顔を見た途端に泣き出すものもいた。

 冬太は近所の公園でベンチに腰かけて、長い時間読書を行ったりもするようになった。冬太がそこにいるときには誰も公園に入らなかった。誰かが冬太を不審者として警察に通報したこともあった。警察官を通じて冬太に、街の人々の声が伝えられた。子供たちが冬太のことを怖がっていて、そんな風に公園に居座られると子供たちの遊び場がなくなる。それを聞いた冬太は、深く痛みいるような態度を見せ、謝罪の言葉を述べた。

「それはずいぶん迷惑をかけてしまったようですね。僕だって子供をいたずらに怖がらせたりはしたくありません! ええ、本当にそんなつもりはなかったのです。ただこの公園のベンチが、本を読むのにぴったりで快適だっただけなのです。でも子供たちが恐れているのなら仕方がありません。子供を怖がらせ怯えさせるのは、僕が望むところではありません。僕だって本当は子供たちと遊んだりもしたいのですが、しかしそううまくも行きません。彼らも警戒しているのでしょう。こういう時代ですからね。ええ、わかりました。この公園にはもう来ません。公園というのは子供たちのための場なのですから!」

 言葉通りに冬太は公園に寄り付かなくなり、彼の散歩は家の庭で行われるようになった。ときどき真夜中にも彼は散歩することがあって、すると今度はそのことがまたちょっとした噂を生んだ。あのお屋敷には化け物が住みついている。夜中に石上家の近くを通りかかったある人物が、庭を歩く冬太の姿を塀越しに見かけて、その異様な雰囲気に恐れをなしてたことから、そんな噂が広まったらしい。

 町のはずれの高台に薄暗い雑木林を背にしてそびえる石上家の建物はひどく古めかしく、確かにお化けや幽霊の類が似合う雰囲気をたたえてはいた。痩せたスキンヘッドの、嫌にぎらぎらした目つきの男が庭を一人で歩くさまは、化け物と見間違われても不思議ではなかった。石上家の周辺は近所の悪童たちの間で絶好の肝試しスポットになった。

2.

3

 ある土曜日の午後、正太郎は冷房の効いた自室でソファに座って読書をしていた。7月に入ったばかりだというのに気温は30度を超え、蝉の声が騒々しくあたりに響きわたっている。すでに家中のエアコンが稼働していた。激しい日光が降り注ぐ庭を、冬太はまた歩き回っていた。スキンヘッドの頭に帽子もかぶらず、黒の長袖のシャツと黒のジーンズを身にまとい、のろのろとした足取りで、さきほどから庭を何周もしている冬太は、不思議なほど暑そうに見えない。汗さえかいていないのではないかと思う。その歩き方も普通ではない。ひどくゆっくりと、そしてふらふらと無軌道に歩を進める。そうかと思うと急に駆け出したり、腰をかがめて忍び足になったりした。まるで見えない蝶でも追いかけているようだった。彼は正確に12分おきに、一階の正太郎の部屋の窓の前を横切った。そのたびに正太郎は窓に目をやってしまう。

 むき出しの頭皮が日差しを浴びててかてかと光っている。どうしてこの暑さの中であんなに平然としていられるのだろうと正太郎は思う。人々が息子を怪物呼ばわりする気持ちも理解できる気がした。

 そして何度目かに窓の前を通りかかった冬太を見たとき、正太郎は不意にある違和感を抱いた。それは漠然とした胸騒ぎのような気分で、思わず正太郎は椅子から立ち上がり、窓に歩み寄った。冬太はこちらには見向きもせず、相変わらずふらふらと庭の地面を歩いている。正太郎は彼の横顔をじっと見つめたが、やはり違和感の正体をつかむことはできない。やがて冬太は正太郎の目の届かないところへ消えて行った。正太郎はそのあとも窓辺に立ち尽くしていたが、やがて玄関のほうで戸が開く音が聞こえ、続いて息子の足音が聞こえてきた。冬太は散歩を切り上げたらしい。正太郎は部屋を出て、冬太の様子を確かめに行こうかと考えたが、なぜかできなかった。何かが押しとどめていた。迷っているうちに、冬太は階段を登って二階にあがってしまった。

 

 次の日の朝、食堂に姿を現した冬太を見てユミが言った。「冬太、あなたその目どうしたの」

 テーブルに向かって新聞を読んでいた正太郎は、その言葉に顔をあげた。冬太の顔を見て、彼は驚いたように目を見張った。冬太の二つの瞳が、朝の光が差し込む食堂の中で、水のように澄んだ青いきらめきをたたえていたのだった。薄く鮮やかな、透き通った青色だった。

 冬太は意外そうな表情をしていた。何のことを言われているのかわからないようだった。

「目はいつも通りですよ。瞼も腫れていないし、かゆみとか痛みもないし、ちゃんと見えています。どこかおかしいのですか」と彼は言った。

「目が青いわ。目の、瞳のところが青くなっているのよ。前からそんなだったかしら? いいえ、そんなはずはないわ。コンタクトでもしてるの?」

「そんなものしませんよ。どうしてそんなものする必要があるんです。僕の視力は両目とも2.0なのですよ。コンタクトも眼鏡も必要がない」

「でもじゃあどうして目が青いの?」

「僕の目はずっとこんなですよ」

「ちょっとあなた、自分で見てみなさいよ」と言ってユミは手鏡を取って来て冬太に渡した。冬太は鏡に映った自分の顔を見ていたが、やはり平然としていた。

「普段通りです」

「そんなことないわ。正直に言いなさいよ冬太。色付きのコンタクトレンズか何か、つけているんでしょう」

「そんなことしません。何度も言うようですが、僕はずっとこの目です」

「勝手に青くなったって言うの?」

「青くなったも何も、生まれたときから僕の目はこの色でしたよ」

「そんなはずないわ! あなたは生まれたときから黒い目をしていたわ。そうじゃなかったら、すぐに気がついていたはずだもの。気づかないはずがないもの。ねえ、そうだったでしょうあなた」

 正太郎は答えなかった。彼は昨日の違和感を思い出していた。違和感の正体はこのせいだったのだ。正太郎は落ち着きを失くしていた。そしてそのことを隠すために黙っていた。

 冬太の態度は冷静なままだった。彼は席に着き、朝食のホットケーキを食べはじめていた。

 少し後で、正太郎の母のカズヨが食堂に姿を現した。ユミはカズヨにも冬太の目のことについて話した。カズヨは冬太の青い目を見て何度か頷き、そして言った。

「孝蔵とそっくりだよ。あの子のことを思い出すよ。あの子の目も、ある日突然青くなったんだよ」

 正太郎はまたしてもぎょっとした。そしてなおも深く沈黙の底に沈んでいった。

「あの子が6つのころだった。孝蔵にも同じことが起こったのさ。だからあたしは驚きゃしないよ。こういうことはときに起こるものなんだよ」

 孝蔵とは石上正とカズヨの間に生まれた長男で、正太郎の四つ年上の兄である。しかし孝蔵は若くしてこの世を去っていた。

「あの子も生まれたときは普通の目だったんだ」カズヨは話し続けた。「ある朝、私たちはあの子の目が突然青くなっていることに気づいた。医者に連れて行ったけれども、特に異常はないと言われて帰された。ただひどく珍しい、例のないことだっていうだけでね。実際にあの子には何もなかった。視力も落ちていないし、ちゃんと見えていた。あの子も自分の目はもともとこうだったって、言い張っていたよ。いつから青くなったのか、覚えてはいないみたいだったよ。そしてそれから死ぬまで、孝蔵の目の色は変わらなかった」

「不思議ね。遺伝か何かなのかしら」とユミが言った。

「そんなことはあるわけないよ」と正太郎は言った。その声の大きさがユミを驚かせた。「そんなことはあるはずがないんだ! 単なる見間違いだよ。光の加減でそう見えただけだよ」

「そうは思えないわ。だって私たち三人ともが、それぞれ別の角度から冬太の目を見て、みんな青く見えているのよ」

「その話はもういい。どっちでもいいことだ。冬太が問題はないって言っているんだから、それでいいじゃないか」

「ねえ冬太、本当に何の心当たりもないの?」

 朝食を終えた冬太は食堂から出て行こうとしていた。彼は立ち止まり、ユミの問いかけに対して、ただ首を横に振ってこたえた。その二つの瞳はやはり晴れた空のような青さをたたえていた。正太郎は認めないわけに行かなかった。それは光の加減でも見間違いでもない。確かに冬太の目は青くなっている。冬太はそのまま食堂を出て行った。

 ユミが正太郎の顔を見て言った。「どうしたの? 顔色がよくないみたいよ」

「何でもないよ」と正太郎は言った。

「冬太は病院でみてもらったほうがいいみたい。何かの病気かもしれないしね」

 正太郎は無言で頷いて、湯飲みを口につけた。

「そんなに大事でもないだろうよ、きっと」カズヨが言った。「孝蔵のときだって私たちはそんなに心配しなかったし、実際に問題なんてなかった。ユミさん、さっきも言ったけどそういうことはあるんだよ。人の目の色が急に変わることはあるのさ。少なくとも絶対にありえないことじゃないんだよ」

「そうかしらね。そんな変な話、聞いたことありませんわ」

「少なくともあたしは実例を知っているからね。冬太の目を見てたら、まるで孝蔵が生き返ってそこにいるような気がしたよ。あの綺麗な青い眼! 孝蔵の目も、同じぐらいに青かったよ。深く澄んだ神秘的な青色をしていてね。あんな綺麗な青色はなかなかない。その目を見つめるとき、まるで森の奥にある精霊の泉を覗き込むような気分になったものだよ」

「まあお義母さまったら、ロマンチストでいらっしゃること!」ユミが高い声で笑った。

 そのあとも二人の女は青い目について話していた。正太郎だけが黙り込んでいた。

 

 正太郎の父母も曾祖父母も日本人である。遡ることのできる限りでは石上家に西洋人の血が混入した形跡はない。妻のユミの家系も同様である。石上家の一族に青い目を持つ者はいない。

 ある日突然、正太郎の兄の孝蔵が青い目を宿したのだ。正太郎が物心ついたときにはすでに兄の孝蔵の目は青色をたたえていた。正太郎は兄の目の青色が生まれつきでなかったことを、先ほどの母のカズヨの話によって、はじめて知ったのだった。冬太の目に宿っていた色は、カズヨが言う通り、まさしく兄の目にあったのと同じ色だった。

 兄の死は自殺だった。その死の真相について、つまり兄が死ぬ直前に起こったことについて、正しく知っているのは生きている人間では正太郎ただ一人きりである。それについて知っているのは正太郎と、彼の死んだ兄の二人しかいない。妻のユミも、死んだ父の正も、母のカズヨでさえもそのことは知らない。彼らは正確でない事実を事実として信じているのだ。そのことは正太郎は誰にも話していない。

 正太郎は十字架を背負っている。正太郎は実質的に兄を殺したのは自分だと思って生きてきた。冬太の青い目を見て、正太郎は自らが背負う十字架の存在を嫌でも思い出させられた。長年にわたって抑圧し、ついに封じ込めた思い込んでいた、罪の記憶がよみがえったのだった。

 

 兄の孝蔵と息子の冬太には共通点がある。孝蔵もまた子供のころからピアノの才能を示した。孝蔵のほうがより柔軟な音楽性を備えた技巧的なピアニストだった。ピアノの技量について、孝蔵は周囲からほとんど神童扱いされていた。君はピアニストになれるよ、なればいいよ、なるしかないよ、そういった言葉は、孝蔵がどこかで演奏するたびに、周囲の人の口から上がった。正太郎は兄が弾くショパンやラフマニノフを今も覚えている。それは流麗でありながら、どこか血がにじむような残酷さたたえた演奏だった。何かを痛めつけたり傷つけたり、そうした残虐な行為をいかにも楽しんで笑みを浮かべつつ行うような、そんな人物の姿を、兄の演奏を聴きながら正太郎はよく思い浮かべた。

 孝蔵は十代の半ばごろから友人や知り合いとジャズバンドを組みピアノを弾いてコンサートを行っていた。しかし孝蔵の関心は音楽のみにとどまっていなかった。彼は次第に悪と暴力へと傾きはじめる。彼はしょっちゅう学校の同級生や、街で出くわした見知らぬ人々と、殴り合いの喧嘩をした。特に腕っぷしが強いわけでもないのに、喧嘩の相手はたいてい恐れをなして逃げまわるか、あるいは意識を失うまでぼこぼこに殴られて打ち負かされる。暴力をふるうときの孝蔵の目つきや表情は異様で、人々はそのさまを見て恐怖した。相手を思い切り殴りつけるようなときでも孝蔵は全く表情を崩さなかった。怒りも憎しみもなく、顔は画用紙のように白く無感動で、ただその二つの瞳が妖しい藍色の光を帯びるばかりだった。その光の色は暴力をふるうときには普段よりずっと濃く、深くなった。孝蔵の喧嘩の相手に選ばれてしまった人々は(孝蔵は実にしばしば意味もなくくだらないことでだれかれ構わずけんかを吹っ掛けた)、最初のうちは抵抗し応戦するけれども、やがて孝蔵の死んだような顔つきと瞳の光に恐れをなして、怯えて逃げまわるようになるのだった。孝蔵は容赦なく彼らを追いかけ執拗に叩きのめす。いつしか孝蔵は問題児のような扱いを受けるようになっていた。

 それだけでなく孝蔵は、近所から動物や生き物を盗み出しては虐待して殺害するようになっていた。それは家の屋根裏部屋で人知れず行われた。二階の孝蔵の部屋には屋根裏部屋があり、いつも孝蔵はそこに閉じこもってそれを行った。孝蔵のそうした残虐な行為について、石上家の者は彼の死後まで誰も知らなかった。孝蔵は表向きの優等生として、またジャズ・バンドでピアノも弾いたりもしながら、夜な夜な悪事にふけっていたのだった。

 孝蔵が高校卒業を控えた2月のある日、石上家のもとにある連絡が入った。孝蔵がひどい負傷を追って病院に担ぎ込まれたというのだった。病院に駆けつけた正とカズヨと正太郎が目にしたのは、全身に包帯を巻いて病院のベッドに横たわる孝蔵の姿だった。肋骨が三本と両腕の骨が折れていて、顔は青黒く腫れあがり、全身に数えきれないほどの傷があり、身体中に巻いた包帯には血が滲んでいた。意識も不明で、生きているのが奇跡といった重症だった。やがて意識を取り戻した孝蔵は、誰にも、警察にさえ真相を語ろうとはしなかった。孝蔵の身に具体的に何が起こったのかは、今に至るまで不明である。孝蔵は多くの人々の恨みや憎しみを買っていたことがのちに明らかになったので、彼に負傷を負わせたのはそうした怨みを持つ人々のうちの一人だろうと推測された。

 孝蔵はそれから数か月ほど入院生活を続けた。重症にもかかわらずもともと頑健だった彼の肉体は順調に快方へと向かっていた。孝蔵は春から大学生になっていたが、入院生活のためにまだ一度も学校には通えていなかった。

 五月のある日、正太郎は病室で兄と二人きりでいた。当時正太郎は14歳だった。お見舞いに来た時、両親が何かの用事で席を外していたのだ。兄はそのとき、熱に浮かされるような様子で、目に奇妙な光を浮かべながら、何かうわごとを口にしていた。湖のように青く澄んだ瞳は病室の天井を見据えていた。

「ああ、ボールが一つ、二つ、ほら、そこに落ちているよ正太郎、拾い上げてくれないか? 僕はその感触が好きだったよ。あの黄色いゴムボールの感触だよ。小さいころ、良く二人で遊んだだろう? あれだよ。あれを手元に置いておきたいんだよ。ああ、僕はね、本当は悪いことなんてしたくなかったんだよ。僕はいわゆる不良少年ではなかったよ。そのことはお前にだってわかるだろう? 僕はただ試したかったんだ、自分の限界を試したかった、自分がどこまで行けるか、どれほどのことに耐えられるのか、それを知りたかったんだよ。そのためにはまず悪にまみれることからはじめるべきだと考えたんだよ。わかるだろう? いや、お前にはきっとわかっているはずだよ。僕たちはずいぶん性格は違ったけれども、本質的なところは同じなんだよ。皮をむいてみればね、こうして皮をむくんだよ、人の表面を覆う皮膚をはいでしまうんだよ。そうすればたちどころに明らかになるよ。お前だって皮を剥いだらきっと悪を志向する自分を発見するはずだよ。でも恐れる必要はないよ。それに身をゆだねればいい。抗う必要はない……」

 兄はそのようなうわごとを言った。正太郎はその言葉を理解しえなかったし、ほとんど聞いてもいなかった。彼は横から兄の目をじっと覗き込んでいた。兄の目はそのときほとんど異常に思えるほど青く見えた。紺色でも水色でもない、青としか言いようのない青色だった。それはまるで宇宙から来た未知の物質の色のように見えた。そして二つの目はますます輝きと青みを増してゆくかのようだった。それほどのおびただしい光と鮮やかな青色を帯びた人間の目を正太郎は見たことがなかった。

 気がつくと正太郎の両足は震えていた。この青さはおかしい。この色がここにあるのは正しくない。どうしてこんなに色が兄の目に宿ってしまったのか? 正太郎はしかし視線を離すことができない。兄はうわごとを続けている。わけのわからないうわごとがだんだん遠のくように小さくなってゆき、やがて聞こえなくなった。すべての形あるものが正太郎から遠ざかった。正太郎は病院の一室ではないどこか別の見知らぬ真っ白な空間で兄と二人きりになっていた。

 そのあと正太郎の記憶は一瞬途切れる。そして次の瞬間には、ベッドの傍らの台の上に置かれていた果物ナイフが、兄の右目に深々と突き刺さっているのを見た。そして正太郎は自分がいつの間にか椅子から立ち上がっていることに気づいた。

 ひっきりなしに続いていたうわごとはすでに途絶え、部屋には何の音もなかった。横たわった兄の右目はナイフの刃にふさがれて、血と何か白っぽいドロドロした液体の混じったものが眼窩から流れ出て顔を伝いベッドの枕やシーツを汚していた。銀色の柄が天井を向いて垂直に飛び出している。正太郎はその柄を握ってゆっくりとナイフを引き抜いた。かつて眼球があったところに、もはやあの美しい青みはひとかけらも残っていなかった。残った左目は大きく見開かれていたが、明らかに何も見てはいなかった。あの光はすでに失われていた。気を失っているのか、兄はぴくりとも動かない。

 正太郎はナイフをベッドの上に放り投げると、病室を出て家族や医者を呼びに行った。

 駆けつけた人々に正太郎は嘘をついた。ちょっと目を離した隙に兄が自分でナイフを目に刺したのだ、と彼は証言した。この青い目が悪いのだ、この眼が僕に災いをもたらしていた、全てはこの青い目のせいだったんだ、そういったことを兄は熱っぽい口調で口走り、そしてナイフを手に取ってそれを目に突き立てたのだ。その動作があまりに素早く、また予想外のものだったので、制止しようとすることさえできなかった。正太郎は自分でも意外なほど冷静な口調でそのように虚偽の顛末を語った。

 誰も正太郎のその言葉を疑うものはなかった。孝蔵が頻繁に道理の通らない意味不明のうわごとを口にしていたこと、その精神が著しく安定を欠いていたことは誰もが把握していた事実だった。

 

 数か月後、片目を失った孝蔵は退院して家に戻ってきた。正太郎はひそかにおびえていた。兄が家族に真相を話すのではないかと。しかし兄はまるで何も覚えていないかのように平然とした態度で正太郎に接した。そのことがむしろ正太郎には怖ろしく、彼はいつも落ち着かない態度で兄と向かい合っていた。

 孝蔵は家族からの看病を受けながらしばらく暮らしていたが、長くは続かなかった。退院から一か月が過ぎた冬の初め、彼は自ら命を絶った。孝蔵は二階の屋根裏部屋で、ナイフで自ら腹を裂いて死んでいた。死体は窓を背にして床に足を投げ出して座った姿勢をとっていた。床も天井も壁も一面血まみれで、その室内を窓から差し込むギラギラとした西日が照らし出していた。その部屋に重く残った血の匂いはそのあと何年も消えなかった。


 

 古いアルバムやビデオテープを引っ張り出して、正太郎とユミは冬太の子供のころの目の色を確かめた。どの写真でも映像でも、間違いなく冬太の目は青くはなかった。それは日本人の一般的な濃い茶色の目だった。冬太の両目の虹彩は後天的に青くなったのだと結論付けないわけにはいかない。

 それから何日経っても冬太の目は青いままだった。どんな光の下でも透き通るように青く鮮やかに光っている。兄と同じだ、と正太郎は見るたびに思ってしまう。そしてユミがどれだけ勧めても冬太は決して医者に行こうとはしなかった。

4

 冬太がしきりに耳を澄ます癖があることに家族は気づいた。廊下に立ち尽くして耳を澄ませるように目を閉じたり、あちこちの壁に耳を当てたりしていた。しかし家には不審な物音などなかった。静かな屋敷の中にある音といえば、外から響くけたたましい蝉の鳴き声ばかりだった。

 ある日冬太の夕食の席で尋ねた。「こ家ではペットか何か飼っているのですか」

 正太郎もユミもカズヨも質問の意味が理解できなかった。というのもそんなことはいちいち聞くまでもなく石上家では生き物は飼育されていない。鳥かごも水槽も犬小屋も檻もない。誰の目にも明かな事実だった。

「何も飼ってないよ」とそれでもユミは答えた。

「じゃああの音は何なのです。あの生き物が暴れるような音は何なんです。それはずっと二階にも聞こえている。あなたがたは何かを隠しているんじゃないんですか」

「何を言っているの。音なんてないのよ。どこからも音なんてしないのよ。あったとしても蝉の声がみんな覆い隠してしまうわ」

 正太郎は口をはさもうとして、冬太の顔を見てすぐにやめた。近頃ますます息子の目は青さを増していて、ぞっとするほどだった。まるで西洋人の碧眼だった。染料で染めたガラスのようにも見える。

 ユミが言った。「冬太、あなたいつも夜遅くまで起きているでしょう? こないだ近所の奥さんが言っていたわ。二階の窓に明け方まで電気が灯っていたって。毎日どこにも出かけないで過ごすせいで、ありもしない音を聞いた気になっているのよ。ちゃんと眠らなきゃだめよ。眠らないと人の精神はおかしくなってしまうのよ」

「確かに音はする!」冬太はほとんど叫んだ。彼が大声を上げるのは珍しいことだった。「生き物の音でないとしたら、あれは何の音なんです? 心当たりはありませんか」

 鼠か何かじゃないのか、と正太郎は何気なさそうに言ってみた。しかし冬太はたちどころに反駁した。

「鼠なんていません。鼠が天井裏を走るときの足音なら僕だって知っています。子供のころに何度か聞いたことがある。あんな音じゃないです。鼠が立てる音とは全く違います! あれが鼠の足音だというのなら、それはとんでもない鼠ですよ!」

 冬太は自分が口にしたその言葉に少しの間しゃくりあげるように笑っていた。もちろんほかの三人は誰も笑いはしない。冬太の態度は頑迷ともいえるもので、その声には確信が満ちていた。帰郷して以来、冬太がこれほどの熱意とともに言葉を発したことはなかった。正太郎は背筋が冷えるのを感じつつ、冷静さを装って食事を続けた。

 冬太はそれ以上何も言わず、食事を終えるとダイニングを出て二階にあがっていった。

「あの子は大丈夫なのかしら」とユミが呟くように言った。

「最近の暑さのせいだよ。もともと精神的に不安定だったところに、この異常気象めいた夏の暑さが追い打ちをかけて、それで幻聴めいた症状を呈しているのだよ。それほど重く受け止めることでもないと思うよ。こんな暑さに毎日見舞われているんだから、誰だって多少は気が違うさ。まあ、そのうち収まるだろうよ」

 確かにその夏の暑さは異常なものだった。観測史上最高の気温を記録する日が一週間も連続した。老人だけでなく若い人までもが熱中症で命を落とした。夏休みの子供たちは、昼間どころか午前中から外出を制限された。石上家ではもちろんエアコンが毎日一日中稼働していたし、ずっと昔に祖父の耕太郎が酔狂で家の屋根の頂点に取り付けた、鉄製の風見鶏まで暑さでうだっているように見えた。誰もが暑さのために多かれ少なかれおかしくなっている。ほとんど引きこもりの生活を送る精神衰弱の息子が、多少妙なことを口走ったところでさほど不可解とは言えない。正太郎はそう考えようとした。

 

 しきりに二階をうろつきまわる冬太の足音を家族の者は頻繁に耳にした。驚くほどの大きさで発せられる冬太の独り言が階下まで届くこともあった。そして相変わらず家のあちこちで、耳を澄ませたり壁や床に耳をつけたりする冬太の姿が見られた。冬太は家中の部屋という部屋をくまなく探索し、彼があると信ずる不審な音の出所を探り当てようとしていた。

 家族は半ばあきらめつつ冬太の様子をうかがっていた。彼らは冬太に対して必要以上に干渉しないようになっていた。

 

 ある日家の一角から音が響いた。硬いもの同士がぶつかるような大きな音が立て続けに何度も起こった。そのとき家にいたユミとカズヨは、何事かと思って音のするほうへ向かった。

 音は家の一階の南東、かつて正太郎の父の石上正が彫刻制作のためのスタジオとして利用していた部屋から聞こえてきた。駆けつけたユミとカズヨはその部屋に冬太の姿を見出した。その部屋には、石上正が残した作品群が現在も保管されていたのだが、冬太はそこにあった彫刻を一つずつ破壊していたのだった。二人の女が駆けつけたとき、冬太は頭が三つある虎のような生き物をかたどった彫像をハンマーで何度も叩いていた。彼女たちは驚いて口もきけず、ただ口を開け冬太の様子を見つめるばかりだった。ケルベロス像は数分ですっかり破壊され、破片が床に散らばった。他にも砕け散った石膏の白い破片が床にたくさん散らばっていた。冬太がいったん手を止めため息をついた。そのとき、カズヨがはじめて声をかけた。あんた、いったい何をしているの。

 音を出す石膏像があるんです、と冬太は答えた。石膏像の空洞の内部にたぶん何かが潜んでいるのです、そいつを見つけるために、一つずつ壊して確かめる必要があるのです。

 冬太がまとう暴力と狂気の気配に、二人の女は怯え、言葉を失った。彼を刺激しないほうが良い、と彼女たちは本能的に察した。そして口を出すことも制止することもせず、ただ部屋の入り口に立ち尽くして冬太の行動を見守っていた。

 冬太は石膏像を一つずつハンマーで叩いてまわった。とくに大きな作品は持ち上げて壁に叩きつけりもした。幾度打撃を加えてもなかなか崩れない作品もあれば、一度の衝撃であっけなく壊れるものもあった。彼は一つ壊すたびに床に屈みこんで破片となった石膏を熱心に観察し点検していた。

 その様子を見て、ユミは青ざめた顔をして額を押さえていたが、そのうちに具合が悪いと言って部屋を出て行った。カズヨも後に続いて立ち去った。そのあと一時間近くも石膏を壊す音は続いた。

 

 石上正が制作した彫刻作品は結局一つ残らず冬太の手でその日のうちに破壊されてしまった。夜に仕事から帰宅した正太郎は、妻のユミからその話を聞いたが、特に何も言わなかった。息子を𠮟りつけたところで意味などなさそうに思えたし、父の作品が失われたことについても、特に残念だとも思わなかった。どうせ処分の方法に悩んでそのまま物置に放置されていた作品であり、なくなったことを惜しむ気持ちもなかった。結局のところそれらの彫刻もまたいつかは失われてしまうものだったのだ、と考えただけだった。彼は自分でも意外なほどそんな風にあっさりと事態を受け止めた。

 息子の行動は突飛ではあっても、一応それなりに一貫してはいる。つまり冬太は二階のどこかから声が聞こえると主張していて、その出所を突き止めようとしているのだ。そのうち探すべきところもなくなって、彼は自分の考えが誤っていたことを知るだろう。そのときをただ待てばいいのだ、と正太郎は考えたのだった。

「気にする必要はないよ」と正太郎はユミに言った。「気が済むまで好きなようにさせておけばいいんだ。そのうちに終わるよ」

 夕食時、食堂に姿を現した冬太に、祖母のカズヨが尋ねた。「何か見つかったかね」

 冬太はゆっくりと首を横に振るばかりだった。

 

 それから数日後の朝、今度は冬太が一階の戸棚から掃除機や雑巾などを持ち出して、二階に持って上がろうとしていた。ユミが何をしているのかと尋ねると、冬太は二階の屋根裏部屋を掃除するつもりなのだと答えた。

「屋根裏部屋? どうしてあんなところ掃除するの。何かに使うの」とユミは尋ねる。

「どうもね、音はあの部屋から聞こえる気がする。僕の独自の調査の結果、そのことがようやくわかったのです。あそこに何かがいて、それが音か声を発しているんです」

「あの部屋は何年も使われていなかったのよ。そんなところに何がいるっていうの? いたとしてもせいぜい鼠ぐらいでしょうよ」

「また鼠ですか! いえ、あれはどう考えたって鼠なんかじゃない。そんなありふれたものじゃないんですよ。お母さんだって聞けばすぐにわかりますよ。あんな音はそうそう起こるものではない。自然界にあんな音を発するものはないはずですよ。だから僕はこの目で確かめる必要があるのです。そうしないと気が済まないんだ」

 それだけ言うと冬太は道具を抱え家に戻り、二階に上がった。何となく気になったユミはあとをついて行った。

 屋根裏部屋は現在使われていない。石上家の家族はみな、屋根裏など存在しないかのように生活していた。何年も使われないまま、いつしか家族の人々の意識からも消えていったのだった。 冬太は壁に梯子を立てかけて上り、そして扉を押し開けて屋根裏に入って行った。冬太はそのまま20分ほども屋根裏にとどまっていた。その間物音一つ聞こえなかった。やがて彼は梯子を下りてきた。

「何かあった?」と母は尋ねた。

 冬太は静かに首を振ったが、その表情は奇妙に張り詰めていた。青い目が輝き、頬がわずかに紅潮している。

「ずいぶん埃っぽいです。埃っぽいので、少し掃除をしたほうがいいと思います。でもあれはいい部屋ですよ。一人になりたいときにピッタリです。落ち着いて物事を考えられるような気がします」と彼は言った。

 

 午後、冬太はまた屋根裏に上がり、そして午後はほとんどそこで過ごしていたようだった。ユミからその話を聞いて、正太郎は、また不愉快な、慄然とした思いを味わった。

 屋根裏部屋は孝蔵が死んだ部屋だが、ユミはそのことを知らない。兄が自殺したのはユミが正太郎と出会うずっと以前の出来事で、正太郎は兄が若くして自ら命を絶ったという事実だけはユミに伝えていたが、死んだ場所や原因、そして死にざまについては話さなかった。ユミも尋ねることはなかった。

 どうして今になって冬太は屋根裏に関心など向けたのだろう。そのことを考えると正太郎は胸に重みを感じる。息子の冬太は妻のユミ以上に孝蔵の死について何も知らないはずだった。孝蔵が自殺したことさえ、正太郎は冬太には話していない。ただ若くして死んだ、とだけ説明していた。

5

 冬太は頻繁に屋根裏にこもるようになった。姿が見えないと思うと彼はいつもそこにいた。彼がそこで何をしているのかは知らない。入り口の扉はいつも閉ざされ、冬太が中にいる間は開くことができなかった。ノックをしても反応はなかった。

 ある日曜日の午後、冬太が音楽室でピアノを弾いている隙を見計らって、正太郎は二階に上り、屋根裏に入ってみた。冬太は演奏を始めると最低でも一時間は音楽室から出てこないので、その音が聞こえている間は、見咎められる心配はない。しかしどうして俺が息子に見つかる心配をしなくてはならないのだろう。そう思いながら正太郎は屋根裏に足を踏み入れる。長い間正太郎がその部屋に上がることはなかった。用などもちろんなかったし、入りたいとも思わなかった。ざっと計算しておよそ三十年以上ぶりに彼はそこに足を踏み入れたのだった。30年という時間を思って、正太郎は少し驚いた。いつの間にそんなに時間が経ったのだろうと思う。暗い部屋には窓から入るかすかな光のほかに明かりはない。壁のスイッチを押すと天井の明かりがともった。部屋は正太郎の記憶にある通りの様子をしていた。物は一つもなくそこはがらんとしている。屋根は斜めになっていて、窓は四角い小さな窓が一つだけ。

 正太郎は懐かしい匂いを嗅いだ。床の木材の匂いとも、兄が死んだときに部屋にいっぱいに立ち込めていた重い血の匂いとも異なる匂いが、部屋に立ち込めていた。それはまだ子供のころ、まだ生きていた兄と一緒に、屋根裏部屋を遊び場にしていたころに嗅いだことのある匂いだった。そうだ、かつてこの部屋には確かにいつもこんな匂いがしていた。懐かしい匂いはしばらく正太郎を過去へと引き戻した。瞬く間に様々な記憶がよみがえった。とっくに忘れていたと思っていたことまで彼は思い出した。屋根裏で遊ぶ時間は幼い正太郎にとって楽しい時間だった。当時は兄弟は屋根裏のことを「基地」とか「秘密の部屋」とか呼んでいた。

 この部屋は今や悪しき因縁にとらわれ、子供のころの愉快な思い出を塗り替えてしまった。この部屋で兄は死に、それ以来開かずの間になってしまった。いまさらながら正太郎はそのことを残念に思った。かつてこの部屋はくまなく血に染まった。床も壁も天井も、血を浴びなかった部分はほとんどなかった。正太郎はそれまでそれほど大量の人間の血を見たことはなかった。今、窓からは西日が差し込んでいる。兄が死んだときにも西日が差し込んでいた。そのオレンジ色の光が部屋中に飛び散った血しぶきを照らしていた。正太郎の頭の中にそのときの光景が唐突に再現された。逆光を浴びて黒々として見える部屋の隅の塊、割かれた腹部から飛び出した臓器、細長く黄土色をした腸、肉の断片、おびただしい量の血。長い間悪夢として正太郎を苦しめ続けていて、ようやく最近では思い出すことも少なくなっていたその光景が、かつてないほど鮮明さでよみがえった。

 正太郎は吐き気を覚え、慌てて窓辺に駆け寄った。そして外を眺めながら大きく何度か深呼吸をした。屋根裏にはもちろん冷房などないのでひどく暑い。そして暑さのせいだけでない汗が吹き出して彼の全身を濡らしていた。窓から家の裏出に広がる雑木林の一端と、遠くまで連なる家々の屋根を見渡すことができる。空は比較的雲が多かったが太陽を隠すほどではなく、蝉の声は相変わらず騒々しい。風はなく、庭の木の葉はほんの少しも揺れない。正太郎は窓に額をつけるようにして、何度も深呼吸を繰り返していた。汗まみれなのに体の奥は不思議なほど冷えている感じがした。

 息子はこの部屋に何かを感じたのかもしれない。しかし冬太がいくら探したところで、何も見つけられるはずはない。かつて起こったことの痕跡は、ここには何も残っていないのだ。一滴の血痕さえ残っていない。兄の遺体が撤去されたあと、特殊清掃業者がやって来てこの屋根裏を徹底的に洗浄したのだ。徹底的に清掃され、洗い清められ、それでも残っていたわずかな臭気も、長い時間の果てにようやく消えた。どれだけ調べたところで何も見つかるはずはない。しかし正太郎は言い知れぬ不安を拭い去ることができなかった。彼は息子の二つの青い目のことを思った。兄とそっくりなあの青い目。その目を輝かせながら、息子はどこからか聞こえるという彼にしか聞こえない音にとらわれ、しょっちゅう屋根裏にこもっている。

 あの一種神がかり的な、時に異様なほどの鋭さを見せることのある冬太なら、あるいは……正太郎は首を振った。馬鹿げている。超能力者でもない限り、それを暴くことなど不可能だろう。とにかく早いところ、この部屋から出なくてはならないと正太郎は思った。早くしないとまた冬太がここにやってくるかもしれない。耳を澄ませるとかすかにまだピアノの音は聞こえた。深呼吸を繰り返すうち、いつしか吐き気は止んでいた。そして指先にしかるべき温かみがまた戻って来ていた。正太郎は梯子を降りた。


 

 夏の暑さが体に障ったのか、妻のユミが体調を崩して寝込んだ。冬太はひどく心配し、母が倒れている間は自分が食事の準備を受け持つなどと言い出したが、正太郎もカズヨもその申し出を穏当に拒んだ。彼らは冬太の料理の腕前を問題視したわけではもちろんなく、冬太が包丁を握ることを恐れたのだった。

 ユミは三日ほど寝込んだ後で復帰したが、体調は完全に恢復したわけではなかった。彼女は以前より神経質になり、物音や騒音に敏感になった。特に昼家をいつも取り巻いている蝉の鳴き声について、頻繁に文句や不満を口にするようになった。ときどき耳をふさぐような仕草を見せることもあった。

「どうしてこんなに蝉が鳴くんだろうねエ……、やかましいったらない」

「今にはじまったことじゃないよ」と正太郎は言った。「毎年そうだったじゃない。いつも夏に誰かがこの家にやって来ると、みんな蝉の音に驚いていたよ。考えてみれば僕が子供のころからそうだったよ。昔からずっと蝉はやかましかった」

「そうだとしたら、なおさら問題だわ。私たちは今まで、これほどの大音量について何とも思っていなかった、ってことだから。夏の間毎日毎日この音を聞いていて、いつしか蝉の声に麻痺してしまっていたのよ。それって異常だわ。だってこないだうちに来た安田さんとこの奥さんも言ってたわよ。蝉の音がすごいですねえって。奥さんのうちでも蝉の声は聞こえるけど、これほどじゃない、って言っていたわ。それぐらいこの家の蝉の声はすごいのよ。ああ、また頭が痛くなってきた。最近ずっとそうなの。この蝉の声のせいで頭が痛くなってくるのよ。ねえあなた、裏に雑木林があるでしょう、あそこに蝉が大勢集まっているのよ。きっとそうよ。そうに違いないわ! ああ、思えばなんて環境で暮らしていたのかしらね。私だって安田の奥さんに言われて初めて気がついたんだもの。この音はあんまりひどいわ。まるで滝のそばにでもいるみたい」

 正太郎は耳に意識を向けた。妻の言う通り、蝉の音は七月の初頭ごろから聞こえていたはずだったが、とくにその音をやかましいと感じたことはなかった。しかしひとたび注意を向けるとその音量は確かに異常に思える。いったいどれほどの数の蝉が家の周りで鳴いているのだろう。正太郎は思わず天井や壁を見渡してしまった。まるで室内から聞こえてくるのではないかと錯覚するほど、蝉の鳴き声は大きく、また近くに聞こえたのだった。

「こんな異常な環境で、それを異常だと感じることもなく、何度も夏を過ごしてきたんだから、私たちは全員、冬太だけじゃなく、何らかの形で病んでいたんだと言えなくもないわ。そうよ、病んでいるのよ! 今日ようやくそのことがわかったわ。とにかく早く何とかしなくちゃいけない。あの雑木林よ! まずはあれを何とかしないと。あそこにある木の一本一本に、蝉がびっしりと止まって、そして命の限りに好き勝手に鳴きまくっているのよ! ああ怖ろしい。何ておぞましいのかしら。どうにかしないといけない。このままじゃ本格的に狂ってしまうわ。ああ、誰かが火をつけて、あの林を燃やしてくれればいいのに……」

 ユミは明らかに強く苛立ちながら、そのようなことをずっと呟いていた。

 

 正太郎もそれ以来やたらと蝉の声が気になりはじめた。確かにユミの言う通りかもしれないと彼は思う。いや、妻は完全に正しい。これまでこんな轟音の中に暮らしていて、一度もそれを気にしたことがなかったというのは異常だ。毎年夏には蝉の声は家の周りに響いていたはずだが、その音はそれまでの正太郎にとって、風や雨の音と同じ、ただの自然の音でしかなかった。だからどれほどの大音量であろうと、あえて意識することは一度もなかった。しかしひとたび意識にのぼってしまうと、それを無視することはできなかった。昼間家にいるとき、その音は常に耳にまとわりつき鼓膜を震わせ続ける。蝉たちの合唱は朝のごく早い時間からはじまって夜まで続く。毎日こんな音を聞いて過ごしていたら、ユミの言う通り、気が変になってしまったとしても不思議ではない。

 休日の朝、正太郎は蝉の声によって目を覚まされ、そしてその直後から耳をふさぎたい気分になった。またこの音の中で過ごす一日が始まると思うと憂鬱だった。おそらくユミは毎日同じでいるのだろう。

「確かにこれは問題だ」と正太郎は思った。「この音はまともではない。ユミの言葉は決して大げさなものではなかった。こんな轟音に囲まれた生活は異常だ。いずれ対処しなくてはならない」

 朝食を終えた正太郎は、門から家の敷地の外に出て、家の裏出にある雑木林に行ってみた。まだ午前中だというのに、すでに太陽はぎらぎらと照り付け、町中が茹であがってしまいそうなほど気温は上昇していた。風はやはりまったく吹かない。家を出てからほんの数秒で正太郎の体は汗まみれになった。家の裏出には伸び放題に成長した木々や草花が隙間もなく生い茂っている。そこは数多くの野生の生き物、すなわち野鳥や鴉や山猫やタヌキなどの住処ともなっている。そして蝉。夏の間中ずっと、果てしなく絶え間なく、わめくような鳴き声を響かせるあの蝉たち。その短命の昆虫の群れのエネルギーは無軌道で、ひたすら底知れなかった。鳴き声を全身に浴びながら、正太郎は沼に引きずり込まれるのに似た感覚を覚えた。音が針の形に目に見えるような気もする。耳だけでなく全身の皮膚をそれはちくちくと執拗に刺し続けていた。

 こんなところで何をしているのですか、と背後から声がした。振り返ると冬太が立っていた。彼の背中から太陽が照り付けていて、逆光になっている。正太郎はいつの間に冬太が現れたのかわからず驚いたが、どうにか冷静に答えた。

「この雑木林を伐採しようかと考えていたんだよ。この林のせいで、家の日当たりは悪いし、蝉はうるさいし……」

 ああ、それはいいアイデアですね、と冬太は言い、そして珍しくも笑みを浮かべた。その笑顔を目にして、正太郎は思わずぎょっとした。息子の横顔が一瞬、兄の孝蔵にそっくりに見えたのだった。あの病床で兄はうわごとを口にしながら、よくこんな風に口をゆがめて笑ったものだった。息子に対してそんな印象を覚えたことはこれまでなかった。兄と息子が似ているなどと言うことは、ちらと頭をよぎったことさえなかったし、実際に二人の顔だちは似ていないのだ。目の形も輪郭も鼻の高さもまるで違う。しかしそのとき正太郎は冬太の顔に兄との単なる類似以上のものを見出した気がした。まるで冬太の顔が兄の顔に変形してしまったのではないかと思えるほどに似て見えた。顔の形や特徴は明らかに異なっているのに、そこには兄のものとしか言いようのないもの、兄の顔の中にしかなかったものが、浮かび上がっているように思われた。しかしそれが何なのかは正太郎にもわからない。二人の外見上の共通点といえば目の青さだけだった。そのことだけがこの錯覚の理由だろうか? 正太郎はなぜか緊張してうまく呼吸ができなかった。言葉を失い、目を見張って冬太の顔を見据えていた。頭上から蝉の声が途切れることなく降り注いでいた。

 しかし「変形」の印象は数秒で消えてしまった。何度か瞬きをすると冬太の顔は元に戻っていた。いつもの息子の顔だった。やはり気のせいだったのだろう、と正太郎は考えようとした。正太郎は全身に汗をかいていた。しかし冬太は相変わらず暑さを感じない様子で、雑木林の奥を眺めている。その顔にも首筋にも、一滴の汗さえ浮かべていなかった。

 

 午後、正太郎は業者に電話をかけて雑木林の伐採を依頼した。雑木林をなくすこと本当に蝉の声が減るのかどうかは不明だったが、とにかく彼もまた何かしらの環境の変化を欲していた。業者が見積もりにやって来て、この規模の林であればすっかり丸裸にするまでには少なくとも一週間はかかるだろう、と正太郎に伝えた。

 二日後に造園会社の作業員たちが大勢やって来て作業に取り掛かった。草刈り機や電動のこぎりの音が響き渡り、切り倒した木々を荷台に乗せたトラックが石上家の前の細い道路を何度も往復した。暑さは朝からすでに激しく、作業員たちは汗まみれになって仕事を行った。作業員たちは熱中症を警戒して頻繁に休憩をとった。林のあちこちから不法投棄の粗大ごみ(掃除機や電子レンジや冷蔵庫など)が発見されたりもして、作業はスムースには運ばないようだった。蝉の音はやむことなく響いていた。

 

 

 正太郎もまたぼんやりすることが増えた。冬太の顔に見出したあの「変形」の印象が、正太郎には気がかりだった。あれが本当に錯覚だったのかどうか、それについて考えると、落ち着かない気分になる。仕事にも身が入らず、誰かと話をしていても上の空になることが増えた。一人でいるときは本も読まず音楽も聴かず、ひたすら横になるか眠っていた。またあの「デプレッション」がやってきたのだと正太郎は思った。若いころから何度も彼を襲ったあの気分。近年では、それはほとんど現れることなくなっていた。最後にそれがいつ起こったのかも覚えていなかった。正太郎はすでにそれを克服したのだと思っていた。

 日曜日の午後、正太郎は例によって自室で何もせずに椅子にもたれかかって壁の一点を見つめていた。ノックの音がしたので返事をすると妻のユミが部屋に入ってきた。話があるのだと彼女は言って、正太郎を見つめた。

「ねえ、あなたも最近何だか元気がないみたいね」

「少し疲れているだけだよ。それと暑さのせいだよ。たぶん夏バテなんだと思うよ」

「それだけじゃないわ。こないだ私が言ったじゃない、この家にいる人間はみんな病んでいるって。きっとみんな同じ症状なのよ。最近のあなたを見ていると、ため息をついたり独り言を言ったり、一点を見つめてぼうっとしたり、まるで冬太の癖が移ったみたい。でも私も気がついたらそうだったわ。お義母さんでさえ、食欲もあまりないみたいだし。私たちは毎日この家にいるのよ。そして毎日この蝉の音を聞いているのよ。それに、この土地の暑さも耐えがたいわ。こないだ倒れたときに思ったの。つくづくこのあたりは暑いんだなって。そうよ、いくら何でもちょっと暑すぎるわ! だってこの小さな田舎町で今年、何人熱中症で死んだか知ってる? 104人よ! これはとんでもない数だわ。人口に比してこの死者数はひどく多いわ。異常と言ってもいいほどだわ!」

「今年の夏はどこも同じさ。もう少ししたら、暑さも和らぐと思うよ」

「それでね、そのことで私は考えたの。そのことを相談しに来たのよ。今度のお盆休みに、どこかへ旅行に行きましょうよ。どこへでもいいから。ちょうど私もこの家を離れて、遠くに行きたいような気分だったの。よその土地で、いったん暑さをやり過ごすのは言い考えだと思うわ。きっと身も心もリフレッシュされるはずだわ!」

 正太郎は妻の提案について少し考えていたが、やがて言った。「言われてみれば、旅行になんて何年も出かけていなかったね」

「そうでしょう? お義母さんは、日本海側のほうに行きたいって言っていたわ。北陸とか、東北とかのね。そちらのほうには、行ったことがないんだって。それに何となく涼しそうなイメージがあるから、私もいいわねって言ったの」

「ちょっと待って? 母さんも行くつもりなのか?」

「そうよ。というより、私とお義母さんが話しているときに、そういう話になったのよ。むしろ最初に提案したのはお義母さんなのよ。どこか旅行にでも行きたいねえって彼女がぽつりと言って、私が乗り気になったと言ったほうが正しいわ。とにかくこの暑さでこれ以上この場所にじっとしていたら茹で上がっちまうよって言ってて、それでお義母さんは、いかにこの土地の夏が暑いかについて語ったの。とにかく地形が悪いんだって。山に囲まれているせいで空気が外に出て行かなくて、風も阻まれて空気の循環が阻害されて、それでちょっとした蒸し風呂みたいになるんだって言っていたわ」

「母さんはもう年だよ。旅行なんてしたらきっと体に障るよ。熱中症の危険もあるし。あの人は年の割には相当に健康だけど、そういう人ほど、健康さを過信して無理してひどいことになったりするんだよ」

「でももうすっかり行くつもりでいるわよ。旅行の準備をはじめていたもの。生きている間に北陸の景色が見たいなんて言うもんだから、私からあなたに頼んでみるって言ってしまったの。今さら連れて行かないなんて言ったら怒るわ。それに、大勢いたほうが楽しいわよ」

 数日の間家を離れるという提案は、正太郎にとっても心惹かれるものだった家に閉じこもって日々を過ごすことに彼はいくらかうんざりしていた。

「わかったよ。旅行には行こう。母さんも連れて行こう。でも冬太はどうする? あの子はついて来るかな?」

「誘ってみるわよ。あの子も旅行に出かければ少しはましになるかもしれない」

 そのあと彼らは簡単に話をまとめた。彼らは金沢に行く計画を立てた。カズヨはそれを聞いて喜んだ。

「まさか老いぼれだからって置いていくなんて罰当たりなことを言い出すんじゃないかって、私はひやひやしておったよ! あんたがそこまで親不孝な息子じゃなくてよかったよ!」

「無理しないでくださいよ。まだ若いつもりで無理したら、大変なことになるよ」と正太郎は言った。

「なあに、あんたたちがいたわってくれるだろう? それに私はそこまで過信なんてしちゃいないよ! 私は自分が老いぼれであることをちゃんと承知していますよ、ええ、していますとも!」

 冬太にも誘いかけてみたが、息子は旅行には同行しないと言った。「僕は留守番をしていますよ。僕はここにいてまだやるべきことがあるのです。今ここを離れるわけにはいかないのです。」

 両親は無理には説得しなかった。

 

 作業員たちによる伐採作業は、予定通りに一週間で終わった。家の裏に生い茂っていた木々はほとんどすべて切り倒され、うっそうとした雑木林は跡形もなくなった。視界を阻んでいた木々がなくなったために、家の東側に向いた窓は多くの光を採り込むようになり、見晴らしもよくなった。街並みや遠くの灯台や山々まで見渡せるようになった。

 林の伐採によって、蝉の声が完全になくなるといったことはなかったが、かつては分厚い膜のように家を取り囲んでいたあの音の層は、林の伐採後にはいくらか薄くなったような印象はあった。少なくとも耳をふさぎたくなるほどではなくなった。

 旅行の前日、一人で残る冬太に、ユミは洗濯や掃除や食事についてのこと細かな指示を与えた。冬太は「ご心配には及びませんよお母さん! 僕だって一人暮らしをしていたころは、家事はみんな自分でやっていたのですたから。」と言った。

 

 正太郎とユミとカズヨの三人は8月10日に金沢へ向けて出発した。

6

 三人は金沢の街を観光した。北陸地方もやはり暑くはあったが、環境が変わったことで、妻のユミは以前のような快活さを取り戻し、見るからにリラックスしていたし、正太郎もまた一時的にデプレッションの予感を頭から追い払うことはできた。彼らは古い街並みのたたずまいや、食事を楽しんだ。カズヨは一行の中で最もはしゃいでいた。彼女はデジタル・カメラであちこちを写真を撮っていた。あまりにあちこちに興味の赴くまま好き勝手に歩き回るので、正太郎とユミが制止することもしばしばだった。

 旅行を終えて彼らは四日後の夕方に帰宅した。数日間離れてから久しぶりに家を眺めると、雑木林がなくなったことによる眺望の良化と、蝉の声が確かに以前よりはだいぶ減少していることが、前にもまして実感された。正太郎が玄関の扉を開け、二人の女があとから続いた。

「ああ疲れた。ちょっと、嫌ですよお義母さん、こんなところへ横になっちゃあ」

「いいのさ。私だって疲れたのさ。ここは私の家だからいいのさ! だいたいあんた、こんなおいぼれを何だってこんなに連れまわすのさ」

「連れまわしたって、そんなことしていませんわ。むしろ私たちのほうが振り回されていましたわ。お義母さんたら年甲斐もなくあっちこっち歩き回るんですもの。私たちは付き添っていただけですわ。みっともないことされちゃあ困りますから」

「ふん、私がいつみっともないことなんかしたってのよ」

「店員さんを困らせたりするじゃないですか。そうですよ、あのお土産屋さんのときだって……あら、誰か来ているのかしら? この靴」

 ユミが指さしたのは見慣れない男物の靴だった。家には冬太しかいないはずだった。そして彼を訪ねてくる来客などこれまでいたことはなかった。

「冬太! どこにいるの?」

 ユミが呼ぶと、玄関から続く廊下の右手側にある客室に続くドアが開き、そこから冬太が顔を出した。

「知り合いが来ていたのです。ちょうど帰るところです」

 その「知り合い」が客室から出てきて姿を現した。極めて特異な風貌の男だった。その風貌は日本人に見えなかった。天井に頭がつきそうなほど背が高く、日焼けしすぎたのかそれともひどく血色が悪いのか、顔や腕は真っ黒で、皮膚はカサカサに乾燥していた。髪は短く刈られ、ひどく痩せている。黒いぼろきれのような服を身にまとっていた。どこか外国の修行僧とか仙人のように見えた。

 男は家族の者たちに向けて一瞬だけ視線を向けてすぐそらし、それからごくわずかに会釈をした。言葉は発しなかった。あっけに取られている家族の者の横を通り過ぎて、男は玄関で靴を履き、冬太と簡単なあいさつを交わしてから、再度家族の者に向けて小さく頭を下げ、家から出て行った。

「東京に住んでいたころの、知り合いか何か?」ユミが冬太に尋ねた。

「古い知り合いですよ。ずっと古い知り合いですよ」と冬太は言った。それ以上の説明は与えようとしなかった。「それより旅行はどうだったのですか。楽しかったですか」

「ええ、もちろん、とても良い旅だったわ。暑かったけれど。ほら、あなたにお土産も買ってきたわ。それより冬太、あなたこそ、ひとりで問題なかったの?」

「ええ。僕も一人きりで、快適に過ごすことができました。いろんな問題も解決しました。やはりあの蝉の音が問題だったんです。僕が聞いていた音は、聞こえると思っていた音は、やはり何かの間違いだったようです。この家はずいぶん過ごしやすくなった気がしますよ。雑木林を取り除いたことががよかったのでしょうね。あるべき形に近づいたという気がします。以前よりもずっと、僕は気分がいいみたいです! 悪い夢から覚めたみたいと言うか、まさにそんな気分なんですよ」

 冬太はそう言って自室へと引き上げていった。

 奇妙な来訪客が残していった奇妙な空気はそのあともしばらく家に漂っていた。


 

 正太郎のデプレッションはまた戻ってきたみたいだった。旅行中には気分を一新できた気でいたのに、それが家に戻って来るやいなや瞬く間に再び憂鬱と倦怠の泥沼の中に引き戻されてしまった。旅行から戻ってきた日に、冬太のあの奇妙な知り合いに出くわしたことは、息子について新たな謎を付与した。正太郎もユミも、あの「知り合い」が誰なのか冬太に尋ねなかった。それはたとえ息子といえでもプライバシーの領域なので語ろうとしないことについて尋ねることがはばかられたからというよりは、単にあまり積極的に知りたいと思えなかったためだった。動くミイラのような不気味で奇怪な男のことは、できることなら思い出したくもなかった。冬太に知り合いや友人がいることは正太郎は知らなかった。学校時代の友人や、彼の音楽仲間との関係は、すでに途絶えているものだと思っていた。あの人物は、冬太が抱える未知の領域の存在を教えた。父親であるとはいえ正太郎は冬太という一人の人間のほんの一角しか知らず、また知ることもできない。たとえ肉親であっても人は他人についてすべてを知ることはできない。そういったことを思い知らされたのだった。そして冬太の内部に広がる未知なる領域は、想像していたよりずっと広大で深淵なのかもしれない。あの得体の知れない人物の姿が目に焼き付いて離れない。正太郎はまたあの雑木林のそばで目にした冬太の顔の「変形」のことを思い出してしまう。

 

 冬太は相変わらず二階に閉じこもって暮らしていた。最近まで聞こえると言い張っていた例の不審な物音の問題に関しては、一応彼なりの解決を迎えたのか、音の出所を探る奇妙な試みはすでに止めていた。

 そんなある日、また正太郎は冬太の行動によって、激しく気分を乱されることになった。北陸旅行からおよそ一週間後、8月のある日曜日のことだった。午後ユミと正太郎が居間でテレビを見ていると、一階の南東の隅の「音楽室」のほうからピアノの音が聞こえてきた。冬太が演奏しているのだ。日曜日の午後にピアノの音が聞こえてくるのは、石上家では珍しいことではなかった。ユミは反応を示さずテレビを見ていた。しかし正太郎は、その音を耳にするや否や目に見えて顔を青ざめさせた。ユミが異変に気づき、正太郎にどこか具合でも悪いのかと問いかけた。

「ああ、ちょっとね、ピアノの音にびっくりしたんだ」と正太郎は言った。

 ユミは怪訝そうな顔をした。「ピアノなんて、しょっちゅう聞こえてるじゃない。そんなにびっくりするほどの音の大きさでもないし」

「いや、そういうことじゃないんだ。つまりあいつが演奏する曲が、普段と違うだろう? そのことにびっくりしたんだよ」

「違うかしら? 普段と同じみたいに聞こえるけれど」

 ユミは音楽に詳しくない。というよりまったく無知である。だから彼女には曲を聞き分けることができない。そのとき冬太が演奏していたのは、ショパンの夜想曲第15番だった。冬太がショパンなど弾いたことはこれまでなかった。ショパンに限らず彼は既存の曲はめったに弾かず、いつも気分が赴くままに自由に即興で演奏していた。息子は全くの独学でピアノを習得したので、技術は粗削りで、演奏のスタイルも独特だった。クラシック音楽を演奏するための基礎的な素養は備えていないのだと正太郎は考えていた。しかし今、家にはショパンの旋律が響いている。それもつかえることもなく正確に弾きこなしている。演奏しているのは冬太のほかには考えられない。かつて都会生活をしていた間に習得したのだろうか? しかし冬太と再びこの家で一緒に暮らすようになってすでに数か月が経過しているというのに、そのような演奏を耳にしたのはその日がはじめてだった。

 正太郎はユミにそういったことを説明した。それでもユミは、そこまで驚くほどのことだろうか、という顔をしていた。

「新しい分野に関心を向けるようになっただけかもしれないわよ。あの子は気まぐれだし、思いもよらないようなことをいきなりはじめたりするから。それにもともと十分ピアノは上手なんだから、その気になればショパンぐらいは、練習したらすぐに弾けるんじゃないかしら」

 正太郎はその言葉に対してあいまいな返事をした。それでピアノについての会話は終わった。

 もちろん妻の言ったような可能性だってあり得なくはない。本当にただ冬太がショパンを弾いている、というだけのことだったのなら、正太郎はそこまで驚くことはなかったはずだった。もっとも彼をうろたえさせたことについては、正太郎は妻には語らなかった。真の問題は単に演奏の曲目にあるのではなかった。その日聞こえてきたショパンの夜想曲第15番は、正太郎の死んだ兄である孝蔵がかつてとくに好んで弾いていた楽曲だったのだ。

7

 8月も終わりに近づくと、あの暴力めいた灼熱も淀んだ熱気も嘘だったかのように急に涼しい風が吹きはじめ途端に過ごしやすくなった。

 昼下がりの石上家の屋敷に流麗なピアノの音が響きわたる。冬太はショパンの即興曲やソナタ、リストの練習曲、ラフマニノフのコンチェルトなどを次から次へと弾いた。

 正太郎はまたデプレッションの徴候に襲われるようになった。ピアノの音が彼を苦しめるのだった。冬太が演奏する音楽はことごとく、正太郎が記憶している、兄が好んで弾いていた曲ばかりなのだった。その音を耳にしたくなくて、休日には何かしら理由を作って可能な限り家から離れるようにした。しかしどうしたって完全には避けることはできない。

「何だってあいつは、あんな曲を演奏をするようになったんだろう(正太郎は自室のベッドで横になりながら思う)。これまでクラシック音楽になんて見向きもしなかったはずなのに、いつの間に習得したのだろう。いや、あいつには毎日たくさんの時間があるんだから、俺が仕事に行っている間に練習したのかもしれない。しかしそれにしたって、どうしてあんなにも何から何まで、そっくりなんだろう! リズムの揺れ方や音の強弱の付け方まで、兄にそっくりだ! まるで物真似しているみたいにだ。しかしあいつにそんなことができるはずはない。あいつが兄の演奏を聞いたことなどあるはずはないのだから……あるいは単に、俺の思い違いなのかもしれない。何しろ最後に兄の演奏を聞いたのは、もう何十年も前のことなんだ。記憶だって怪しいものだ。どの程度まで正確に兄の演奏を記憶しているというのか。俺はそこまで記憶力がいいわけでもない。それにピアノの演奏など、おそらくアマチュアレベルであれば誰でもそれほどの違いはない。勝手に思い込んでしまっているだけなのだ、兄の演奏にそっくりだと、ただ思い込んでいるだけなのだ……、でもそうだとしたら、なぜこんなに落ち着かなくなるのだろう。あの演奏の何がこんなに心をかき乱すのだろう。ああ、俺は何かを見落としている気がする! 何かはわからないが……、何かが確かにある。もっと重大で本質的な何かが……ああ! わからない、思い出せない……」

「大丈夫? なんだかつぶやいていたみたいだけど」

 目を開けるといつの間にかベッドのそばにユミが立っていて、不安そうな目つきで正太郎を見下ろしていた。

 正太郎は驚いて跳ねるように上体を起こした。彼はそれまでずっと目を開けていたはずだったが、少なくとも自分では開けていると思っていたが、ユミの存在にそのときまで気がつかなかった。正太郎は重いため息をひとつついた。そして言った。

「大丈夫だよ。知っているだろう、いつものやつだよ。そういう時期なんだよ。脱け出すまでに、まだあと何日かかかりそうだよ」

「今年は暑いからね、いつもより時間がかかるのかもしれないわね。無理しないで安静にしてなさい」

 ユミは飲み物をテーブルの上に置いて部屋を出て行こうとした。正太郎は彼女を呼び止めた。

「一つ頼みがあるんだ」

「なに?」

「冬太に、しばらくピアノを弾くのを止めるように、伝えてくれないかな。ほんの一時期でいい、私の体調が元に戻るまでの間でいいからと言って、やめさせてほしいんだ。どうしてもあの音が気になってしまうんだ。実際に今、いろんな物音がやたらと神経にさわるんだ」

 ユミは了承した。そして部屋を出て行った。


 

 そのあとからピアノの音は確かに聞こえなくなった。ユミが正太郎の意向を伝えると、冬太はたいそう心配するような様子を見せ、無神経に大きな音を出していたことについて詫びていた、とユミは言った。

 ピアノの音が消えても正太郎の精神にそれほどの変化はなかった。眠っているときには正太郎は夢の中でもピアノの音を聞いた。それはやはりショパンやリストの音楽だった。兄が弾いているのか息子が弾いているのかはっきりしない。夢の中で彼は耳をふさぐが、もちろん意味はなく、音は聞こえ続ける。それは悪夢で、目を覚ましたときには汗びっしょりになっていた。

 正太郎は何日か仕事を休んだ。そして一日中布団にくるまって過ごした。冷房をつけなくても暑さを感じなかった。食事はユミが運んでくれたが、ほとんど口をつけなかった。ときどきおかゆや果物を食べ水を飲むばかりだった。正太郎のデプレッションについてよく知っている妻は何も言わなかった。

 一週間ほど寝込んだ後、ようやく正太郎は復帰した。久しぶりに息子の冬太と顔を合わせたとき、冬太は珍しく正太郎に自分から声をかけ、心配そうに正太郎の病状を尋ねた。正太郎は愛想笑いを作り、ああ、もう大丈夫だよ、と答えた。しかし正太郎はやはりそのとき、冬太に対してある違和感を抱いた。まるで外見だけが息子に非常によく似た別の人物を相手にしているような、そんな気がした。顔つき、表情、声質、歩き方、そういったものはみな記憶にある通りの冬太なのに、何かが微妙に異なっている。正太郎はひどく落ち着かない気分になった。

 最近の冬太は以前よりは多少は明るく外交的になったように見える。自分から家族の者に話しかけることも増えたし、問いかけに対して口ごもるようなこともなくなり、妙にはきはきと明朗に言葉を発した。しかしその言葉はいつも、どこか空疎なのだった。正太郎は冬太がしゃべるのを聞きながら、結局何が言いいたいのか少しもく理解できない、といったことがよくあった。以前よりはうちに閉じこもる傾向が改善されたように見えるとはいえ、だからといって冬太が、ようやく都会での挫折から立ち直り精神的な健全さを取り戻しつつあるとは、正太郎にはどうしても思えないのだった。


 

 夏の終わりの夕刻、正太郎は家の外壁に梯子をかけた。地上からの高さは約7メートル、正太郎は一段ずつ昇り、屋根に上がった。正太郎が目指すのは屋根裏部屋の窓だった。あの「変形」を目にした日以来、正太郎の頭にはある突飛な考えが芽生え、とりついてしまっていた。それは思いついたことを自分でも恥じてしまうような、突飛で、あまりに想像力の過剰な考えだった。つまり一緒に暮らしている息子の冬太は、実は本物の息子ではなく、誰かが化けたなりすましの姿なのではないか。そういった考えを抱いたことに対して正太郎は自分でも呆れた。しかし最近の冬太に表れたさまざまな奇妙な徴候、目が青くなったこと、性格の変化、ピアノの演奏の変化、そうしたことを考え合わせると、それは全くあり得ない可能性ではないように思えた。冬太が一人でいるとき、彼はその化けの皮を剥ぐのかもしれない。いや、そうではないにしても正太郎には興味があった。冬太が一人きりでいるとき、彼はいったいどんな「顔」をしているのか。

 正太郎は熱が残る屋根瓦の上で四つん這いになり、窓からの死角になるところを慎重にそろそろと進んだ。やがて屋根裏の窓のすぐそば、首を少し伸ばすだけで室内を覗きこめる位置にまで到達した。屋根裏にいるとき冬太は窓にカーテンをかけない。そのことは正太郎はすでに知っていた。窓際に立って外を眺める冬太のシルエットを、これまで庭から何度も目にしたことがある。その日もやはりカーテンは開いていた。窓ガラスに夕日が照りつけている。正太郎は息が止まりそうなほど緊張していた。彼は耳を澄ませる。冬太が部屋のどのあたりにいるかわからない。もしかしたら彼は今、窓辺に立って外を眺めているかもしれない。そう思うと正太郎の心臓の鼓動はさらに早まったが、しかしやがて彼は意を決した。もし見つかってしまったら、屋根瓦を修理していたとかなんとか、適当な言い訳をすればよいのだ。正太郎は首を伸ばして、片目だけを窓枠の内側に出すようにし、おそるおそる室内を覗き込んだ。

 最初、正太郎は部屋には誰もいないのだと思った。薄暗い部屋の黒っぽい木の床が目に入ったが、人の姿は見えなかった。正太郎はゆっくりと視線を移動させた。室内はがらんとしていて、物は何も置かれていない。そこは正太郎の記憶にあるのと同じ様子を維持していた。正太郎の視線がある地点で止まった。隅の暗がりに、何かが横たわっていたのだ。それが冬太だった。冬太は肘と膝を折り曲げ、芋虫のように体を丸めた姿勢で壁を背にして床に横たわっていた。首を深く曲げていて、その顔は窓のほうを向いてはいなかった。目を閉じているのか開けているのかはわからない。正太郎は、息子は死んでいるのではないかと思った。急に心配になって、思わず窓ガラスを叩きそうになったが、ぎりぎりのところで思いとどまった。いや、死んでいるはずはない。眠っているだけだろう。奇妙な眠り方ではあるが、気にするほどのことでもない。正太郎はさらに首を伸ばして、片目だけでなく顔を全部窓枠の内側に出した。今や彼は両目で堂々と室内を覗き込んでいた。冬太の様子からその顔がこちらを向くことはないと正太郎は確信した。

 正太郎と冬太との距離は、窓ガラスを隔てて3メートルほどしかない。目を凝らしてよく見ると、冬太の肩がかすかに、規則的に上下しているのが認められた。やはり眠っているのだ。なぜ屋根裏の床の隅であんな胎児のような姿勢で眠らなくてはならないのかはわからなかったが、それは正太郎が考えるべきことではない。正太郎は眠る息子の姿をガラス越しに見つめた。ある不思議な思いが胸の底に湧き上がってきた。あれは誰なのだろう、と正太郎は頭の中でつぶやいた。その疑問を自ら打ち消すように、彼は首を小さく横に振る。息子の寝顔など目にする機会など長い間なかった。最後に眠る冬太を見たのはいつだっただろう。、せいぜいまだ息子が中学生とか、それぐらいのころのことのはずだった。何にしても数十年も前だ。そんな子供のころと比べて、現在の息子の寝顔が同じであるはずはない。しかしこの違和感はただそれだけのせいだろうか? 寝顔を目にするのが数十年ぶりだからという、ただそのことだけが理由なのだろうか。

 いかにも安らかそうに冬太は眠っていた。青い目は今瞼でふさがれている。正太郎は胸の鼓動が速くなるのを感じた。何度も瞬きをし、目をこすり、窓ガラスを拭ったりもした。いったんよそを見てから視線を戻したり、しばらく目を閉じてから、再び開いたりした。それでも違和感は消えない。背中と首筋に夕日が照りつけていたが、その熱も感じないほどに正太郎は集中していた。そしてあの床に横たわる人物の皮が剥がれて、その中身が姿を現すのを待った。しかしどれだけ時間が過ぎても正太郎の視界に変化は生じなかった。眠る男は同じ姿勢で眠り続けていた。正太郎は腹の下のあたりにひどい重みを感じていた。その重みはやがて鈍い痛みへと変わった。それは笑いをこらえる感覚に似ていた。笑うことがふさわしくない状況で、せりあがってくる爆発的な笑いの衝動を必死で抑えるときの感覚に似ていた。あるいは本当に笑いの発作だったのかもしれない。馬鹿げた想像力にとらわれている自分自身を嘲笑する笑いだったのかもしれない。正太郎は頬を震わせながら暴れまわる横隔膜をなだめていた。

 夕日が沈み切るころ、正太郎は窓を覗き込むのを止めた。床の上の人物は目を覚まさないままだった。正太郎が見ている間ずっと彼は同じ姿勢で眠り続けていた。正太郎は疲弊していた。嫌な感触の汗が乾いて体が冷えていた。彼は窓のそばを離れ、屋根を伝ってまたのろのろと梯子のほうへ引き返した。

 結局のところ、と正太郎は梯子を下りながらつぶやくのだった。狂いだしているのは俺のほうなのかもしれん。

8

 考えてみれば、と冬太が夕食の席で語りはじめた。家族の者は相槌も打たずに彼が話すのを聞いていた。

「ある人物が、本当にその人物であるかを、確かめるすべなどないのです。知らない間に、外殻だけはそのまま、中の人格はすっかり入れ替わっている、あるいは様変わりしている、そういったことが起こらないとも限らない。いや、あるいはそれは往々にして起こっているのかもしれません。人は成長するにしたがって、内面的な脱皮を繰り返し、幼いころとはまるで別の新しい人格を、手にするともいえるかもしれない。それは成長とか発展とか、そういった言葉で呼びあらわされる、ありふれた変化かもしれない。その変化があまりに急激でドラスティックだった場合、それはもはや元と同じ人格に見えないことだって、あるのではないでしょうか? 個人の考え方、信仰や信念のようなものは、実はきわめて脆弱な土壌の上に成り立っていると思うのです。たとえばつい数日前まで醜く嫌いだと思っていた生き物を、今日にはく愛するようになっている。そういうことはあり得ますよ。それはある種の『変節』と呼べるかもしれませんが、言い換えればそれは、ある別の人格を自分の中に迎え入れたとも言えるのではないかと思います。つまり、人は絶えず少しずつ生まれ変わっているというわけですよ……」

 そんなことを語る冬太の二つの青い目は、空間に浮かぶ二つの魔法をまとった石のように、嫌にギラギラと明るく深い光をたたえていた。

 

 冬太の目の青さは日に日に濃くなっていくかに思える。そしてその青い目が正太郎を見つめるとき、正太郎は兄を前にしているのと同じ気分になる。かつて兄と二人きりで病室と向かい合っていたのと同じ気分に襲われる。兄が過去からよみがえってきて、その青い目を通じて、じっと正太郎の罪を咎めているような気分になる。まるでそこに、自分が知り得なかった、あのとき死なずに生き続けた場合の兄が立っているかのように思えた。

 かつて兄の青い目に対して抱いた衝動が、再びよみがえるのを正太郎は感じる。どうしてあのとき、兄に対してあんな行為に及んでしまったのか、そのことは自分でもいまだにわからないでいる。正太郎は兄を憎んでいたわけでもなかった。むしろ慕っていた。ひどい怪我を負ったことについて同情してもいた。何度も記憶がフラッシュバックする。兄の瞳のあの嘘のような青さ、そこに突き立ったナイフ、流れ出る血、仰向けの姿勢のまま物も言わず身動き一つせずに横たわったままの兄。

 ある夜、正太郎が一人で居間でソファに腰かけてぼんやりしていると、入り口の戸がわずかに開いているのに気付いた。数センチほど開いたその隙間を見て、正太郎は声を上げそうになった。部屋の外の廊下の暗がりに二つの青い眼が浮かんで、こちらを覗き込んでいたのだった。冬太がいつの間にか廊下に立って、外から正太郎を見つめていたのだ。冬太は完璧に気配を殺していて、正太郎はいつからそうして見られていたのかもわからなかった。

 正太郎は言った。「いつからそこにいたんだ?」

「少し前からですよ」

「そんなところで、何をしていたんだ

「特には……、この屋敷は、ずいぶん古いんだなあと思って、感心していたのですよ。廊下とか壁に、いつからあるのかわからない傷や汚れが、たくさんあるんですねえ!」

「お前は何年も住んでいるじゃないか。どうしていまさら家の古さのことなんて気にするんだ」

「最近いろいろなところを観察したり調べたりしていたのですよ。こうした壁や床の傷や汚れや染み、それら一つ一つが、長い歴史を語ってくれるような気がするのですよ」

 正太郎は不審に思ったが、それ以上尋ねなかった。

「お父さん、この家はいつ頃建てられたのですか。考えてみれば僕はそのことすら知らなかった! 考えたこともなかった。ずっと昔、という漠然としたことしか知らずにいたのです」

「百年近く前だよ。お前のひいおじいさんが、まだ若かったころだよ。彼は家の設計の一部に携わっていたという話だよ。ひいおじいさんは、独学で建築を学んだらしい。書斎にたくさん古い建築関係の本があるけど、あれはみんなひいおじいさん集めたものなんだよ。彼の理念が家のデザインに反映されているんだ。ひいおじいさんは、ヨーロッパに留学していたこともあって、先進的で、才能にあふれた人だったんだ」

「ひいおじいさんのことは、覚えていないこともないですが、その記憶はひどくおぼろげなのです。姿かたちを思い出そうとしても、ぼんやりとした影のようなものでしかない」

「そりゃあそうだよ、お前は小さかったからね。まだ3つか4つじゃなかったかな。そしてお前が物心つかないうちに亡くなったんだ。

「ひいおじいさんはどんな死に方をしたのですか」

 冬太の表情は逆光のせいでよく見えない。正太郎はまた違和感がよみがえるのを覚えつつ、乾いた声で答える。

「ああ、とても安らかな死に方だったそうだよ。90歳まで生きて、ある朝起きてこなかった。部屋に様子を見に行くと眠ったままの穏やかな顔で死んでいたんだ。病気も何もなく、完全に健康なまま死んだんだよ。まさに大往生というやつだよ。ああいう死に方はいいものだね。死に顔は安らかだった。苦しみも恐怖もなかったはずだよ」

 廊下は暗く、冬太はその暗がりに身を隠したままでいる。その闇のほうから声が聞こえてくる。「お父さんは、自分がどんなふうに死ぬか考えたことはありますか」

 あるよ、と正太郎は答えた。「もちろんあるよ。それは誰だってある。私は兄を亡くしている。今ではお前も知っている通り、兄の孝蔵は自殺した。そういう経験をすると、死について深く考えるようになる。自分が死ぬことを想像して、その想像のために、深く苦しむようにもなる。若いころはその恐怖はもっと生々しく身近だったよ。本当は、考えたって無意味なんだけどね。いくら考えたところでわかるわけはないんだから。結局しかるべき時が来れば死はすべての人に等しく訪れる現象なんだからね。抗うことも逃げることもできない。人は死ななくちゃならない。だからなるべく考えずに住むように努力はしてきたよ。現実の問題だけに目を向けるようにしたりね」

 冬太が口元に笑みを浮かべたように見えた。しかし思い違いかもしれない。冬太は窓から差しこむ光の届かない位置に立っていて、その表情は判然としなかった。どのような表情を浮かべていようと、正太郎のいるところからは見えない。

「お父さんの言う通り、人はいずれ死ぬ。いろんな死に方がありますよ。今のひいおじいさんのお話のように、眠るように安らかに死ぬ人もいれば、伯父の孝蔵さんのように、自殺する人もいる。そして殺される人だっていますしね。僕は近頃、自分がどんなふうに死ぬかについてよく考えるのです。そして僕は、あくまで予感でしかないのですが、自分は幸福な死に方などできないという気がするのです! 来たるべき僕の死は、とりわけ惨め不幸な酷いものになりそうだという予感がするのです。そういう予感が付きまとって離れないのです! これはちょっとした地獄ですよ。病気とか老衰とか癌とか、僕はそんなありふれた原因で死ぬとは思えないんです。そもそも老齢まで生きられる気がしない。僕は誰かの憎しみをすぐ間近に感じながら、ひどい苦痛とともに、嬲り殺されるように死んでゆくのに違いない、と思えてならないのです。あるいは僕は殺されるのかもしれない。ひどく残酷な方法で殺されてしまうのかもしれない。それも思いもよらないような人物の手によってです。とてもその人に殺されるなんて信じられないといったような人物に殺されてしまうのです。そんな恐怖と予感にとらわれたままでいるぐらいなら、いっそのこと自分で命を絶ってしまうほうがましのようにも思えますよ。実際に何度かそのことについては考えましたよ。とくに少し前、都会からこの土地に戻って来て、部屋に引きこもって暮らしていたときには、毎日のように考えたものでしたよ。当時僕の心には絶望と挫折感しかありませんでしたからね。まるで深い穴の底でわけのわからない虫に囲まれながらそれらの虫に全身をかじられているような、そんな救いのない気分にとらわれていたのです。でも結局僕が死ななかったのは、僕が自殺というやつをどうしても受け入れることができなかったからです。それはどうも気に入らない。そんなやり方で強引に不安を解決させてしまうことが、どうも気に入らないんです。それだけじゃない。そもそも自殺というのは良くないことです! 間違ったことです。これは道徳的な倫理的な意味で言うのではないのですよ。自殺というのは思っている以上に罪深いものですよ。なぜならそれは現在生きている人の生を、ある意味では否定することにもなるのです。僕はいつも自殺者のニュースを見聞きするたびにそう感じたものです。まるで自分の生をないがしろにされたような、無意味だと否定されたような、そういう気分にさせられたのです。何の面識もない人物の自殺の知らせを聞いただけでも嫌な気分になるのはつまりそのためですよ。生きることそのものを、様々な苦しみを抱えながらそれでも生きようとする自分を否定されたような気がするからですよ。僕が死んだらお母さんもおばあさんも悲しむでしょう。もちろんお父さんもね。僕は家族にそんな思いはさせたくなかった。世の自殺者たちには同情はします。伯父さんと伯母さんにも同情しています。しかし最終的に自殺という手段を選んでしまったことについては、否定的な立場でいます。だから僕は今もこうして生きているのです、かろうじてね。誰かに殺されるのではないかという不安に絶えず怯えながらね」

 この男は知っている! 正太郎はまたしてもそう思った。その思いは今やついに確信に変わったかのようだった。息子が長々と話すのを聞きながら、正太郎はまるで兄の言葉を聞くような気がした。死の床にあった兄の口からとうとうとほとばしったあの奇怪なうわごとが、30年の時を隔てて、また耳によみがえるかのようだった。冬太は知っている。感づいている、兄の死の真相、彼が実の兄の目にナイフを突き立てたこと。いや、感づいているなどといった段階ではない。兄は冬太の身体を借りて私の罪を暴くために戻ってきたのだ。過去から亡霊としてよみがえり、同じ青い目を持つ息子に乗り移り、目にナイフを突き立てた私の罪を思い出させようとしているのだ……。

 馬鹿げている、と正太郎は思った。彼は笑い出そうとしたが、上手く笑うことはできない。冬太の青い目が彼を恐怖へと引き戻す。今や正太郎は冬太を恐れていた。それは単に息子の異変、その不気味な言動や態度に対する恐怖でもあり、また自分が兄になしたのと同じ行為に及んでしまう可能性に対する恐怖でもあった。冬太の青い目を見るたびに、正太郎は彼の死んだ兄のほかには誰も知らない、あの恐るべき凶行のことを思い出してしまう。

 冬太が入り口をくぐった。彼が居間に入ってきたことにより、部屋の空気がわずかに乱れるのを正太郎は感じた。いつになく感覚が鋭くなっている。光の加減で青い瞳が一瞬きらめいた。正太郎はその光に対して憎悪を覚えた。それは青い眼球という「物質」に対する憎悪であり、そのような目をいつしか宿すようになった冬太という一人の人間に向けられた憎悪だった。暗い光に青い眼が輝いたその瞬間だけ、彼は全身からかき集めたような激しい、悪寒を催すほどの憎悪を、実の息子に対して抱いたのだった。


 

 正太郎は夜中にも梯子をかけて屋根に上り、屋根裏部屋の窓を覗き込む自分を発見する。冬太は今では毎晩屋根裏で眠るようになっていたのだ。自分が何をしているのか、どんな考えを抱きながら室内の様子をうかがっていたのかに気づくとき、正太郎は息がつまるような思いに駆られた。ある強い力が何度も正太郎を同じように屋根裏の窓辺へと運ぶ。彼の自我はそれに逆らうことができない。正太郎は耳を澄ませたり、身を乗り出して暗い室内を覗き込んだりしながら、いつしか自分のうちに芽生え取りついていたある意思に、困惑し、狼狽し、そして興奮していた。彼はすでにぎりぎりの直前のところまで自分が行きついてしまっていることを自覚した。足をあと何歩か踏み出すだけで、自分はその最終的な一線を踏み越えてしまうだろう。

 そしてある日の夜中、二階から恐るべき悲鳴が響いた。正太郎とユミとカズヨだけでなく、石上家の近隣半径百メートルに住む家庭の眠りが破られた。叫び声は立て続けに何度も繰り返され、その度に家の壁や天井がびりびりと震えた。およそ人間が発したものとは思えないほど太く低い、地を這うように伸びる悲痛な咆哮だった。

 目を覚ましたカズヨは仏間に入って何かぶつぶつと仏壇に向かって呟いていた。正太郎とユミは二階に上がった。階段を上る途中にも何度か耳をふさぐような咆哮は響いた。音は屋根裏のほうから聞こえた。屋根裏に続く部屋のドアを開けると、そのとたんに思いもよらない突風が吹きこんできた。その風のあまりの強さに、二人は顔をそむけた。バサバサと何かがはためく音がして、机の上の書類が飛び散って壁に張り付き床を滑っていた。しかし奇妙なことに部屋の窓は閉ざされている。だとしたら風はどこから来るのか。それはすぐにわかった。クローゼットの天井、屋根裏へ続く扉が開いていたのだ。風はそこから吹きこんでいた。

 正太郎は屋根裏に続く梯子を上った。床から顔を出したとき、彼は窓から差し込む月明かりを浴びながら床に横たわる冬太の姿を目にした。息子はなおも大声を発しながら、床の上を文字通りのたうち回っていた。正太郎は床に上がって息子に駆け寄る。冬太は目を閉じていた。悪夢にうなされて大声を出していたのだった。正太郎は息子の身体を揺さぶったり頬を叩いたりして、無理やり目を覚まさせた。

 がくがくと震えながら冬太は数分後に目を覚ました。冬太は意識を取り戻すなり、「ムマ」が現れて自分を殺そうとするのだ、と言った。よく話を聞いてみたところムマとは「夢魔」のことであるらしかった。冬太の呼吸は大きく乱れ、全身は小刻みに震えていた。起き上がる力が出ないのか、床に横たわったままだった。

 夢の内容について冬太は何も口にしなかった。しかし正太郎には息子の眠りの最中に夢の中で何が起こったのかがわかっていた。

9

 8月の、最後の土曜日のことだった。午後5時27分、正太郎は屋根裏のある部屋のクローゼットに入り、梯子に足をかけた。彼の胸にはある決意が渦巻いていた。この何週間もずっとそのことだけを考えていたのだ。ポケットの中には果物ナイフを忍ばせている。その硬く冷ややかな感触が、ズボンの布を通じて彼の腿に伝わっている。それまで数日間、ずっと繰り返されていたイメージが頭の中で再生され続けていた。眠る冬太の枕元に立ってナイフを構える。それをあの青い目に突き刺す。それは想像であると同時に、過去に行った行為の記憶でもあった。

 正太郎は梯子を上りはじめた。慎重に、音を立てないようにゆっくりと、一段ずつ、息をひそめて上った。土曜日の午後のその時刻にはいつも冬太が屋根裏部屋で昼寝をしていることは知っていた。何度も彼は同じ時刻に屋根から室内を覗いてそれを確かめたのだ。もし冬太が起きていた場合には言い訳をして逃げる。しかし正太郎は確信を持っていた。一度ゆっくりと深呼吸してから、彼はゆっくりと梯子を上りはじめる。手のひらには汗をかいているし、心臓がひどく早く打っている。今さら恐れる必要などないのだ、と自分に言い聞かせながら梯子を頂上まで登った。それから扉を数センチほど押し開いて耳を澄ませる。物音は聞こえてこない。隙間からおそるおそる室内を覗きこむ。窓が目に入った。そのカーテンは最近ではいつも開いている。ぎらぎらしたオレンジ色の西日が差し込んで床に四角い光を落としていた。その陽だまりの真ん中に冬太が横たわっていた。黒いTシャツと紺色のジーンズという服装の冬太は窓に背を向けて背中に日差しを浴びながら例によって胎児のような姿勢で床に転がっていた。いつ見ても、彼が眠るさまはまるで死んでいるみたいに見える。

 正太郎は部屋にあがった。床の軋む音を立てないようにゆっくりと歩いて、正太郎は冬太のすぐ目の前に立った。すぐ近くで冬太の顔を見下ろしたとき、正太郎の呼吸は一瞬止まった。眠っているものとばかり思っていた冬太の目が開いていた。二つの小さな青い球体は、不自然なほどに澄んだきらめきをたたえて逆光の影の中に浮かび上がっていた。見開かれた目は正太郎を見てはいない。視線は正太郎の足元のあたりの空間に向かっていた。二つのその目は、何かを見ているようには見えなかった。やはり彼は眠っているのではないかと正太郎は思う。たまたま目が開いているだけで、やはり眠り続けているのだ。そう思わせるような目つきだった。息子の青い目はどのような感情も思考も伝えてはこなかった。それは人間の目ではなくただのガラス玉に見えた。たまたまそこにあるだけの二つの青いガラス玉。また記憶が逆流した。兄の目にナイフを突き立てた後の、あの病室の異様な静けさを思い出していた。どうしてあののとき、兄は悲鳴一つ上げなかったのだろう。正太郎は脳がぐらぐらと揺らぐ感じがした。地面が巨大な振り子になったような気がする。兄はまるで無感覚であるかのようにナイフを受け止めた。その不自然さ、その異常さ。

 やがて眩暈に耐えきれず正太郎はその場に膝をついた。全身から汗が流れ、胃の中で何かが暴れまわっていた。首筋や指先が氷を当てられたみたいに冷えていた。そのくせ汗は流れ続け、それ以外の部分はひどく熱を持っているのだった。外はひどく静かだった。あの豪雨のような蝉の音が懐かしく感じられるほどの静けさだった。その静寂の奥深くから、誰かの声が響いて来た。その声は「大丈夫ですか、お父さん」と正太郎に呼びかけている。

「お前は誰だ?」正太郎は反射的に口にしていた。「どこから来て、なぜここにいるんだ?」

「僕が誰なのか、これは難しい問題です」すぐ近くから返事が聞こえた。「簡単には答えられない問いかけです。自分が誰でどこから来たのか、そんな質問に自信をもって答えられる人はいるのでしょうか? なぜなら人は誰しも、自分であると同時に別の誰かでもあるからです。僕の中にもやはり、僕ではない別の人間が息づいているはずだし、しかもそれは一人や二人ではない。それぞれが、いずれもみんな同じように僕自身なのです。僕という人間の中にはいくつもの人格が集まっている。生きる過程で人は多くの人に出会う。そして彼らからいろんなものを吸収する。表情を模倣し、言葉を盗み、思想を自分のものにする。そうした要素が集まって、僕という一個人をなしているのです。人はみなそんな風にして自らの人格を作り上げているのだと僕は信じます。人格というものをなす一つ一つの要素は、すべていわば借り物なんでです」

「ああ、前にも似たようなことを言っていたね」正太郎は相変わらず震えた、かすれた声で相槌を打つ。

「時には会ったことも見かけたこともない、知るはずもない人物から、借りてくることだってありますよ」

「まさか、そんなことはあり得ないよ」 

「わかりませんよ。決してないとは言い切れないと思いますよ。例えば芸術家が、過去の偉大な芸術家の作品に影響を受けるといったことは、それに当てはまりますよ。ほかにもいろんな要素が、時間も空間も遠く隔たった人間同士を結び付けることは、ありうると思います」

「どんな要素が?」その声は図らずも叫び声のようになっていたが、冬太は気にした様子を見せなかった。息子は答えなかった。彼は依然として正太郎の足元を見据えていた。視線は彼の履いたスリッパにまっすぐに注がれていたが、明らかに彼はそれを見ているのではなかった。青いその網膜には何も反映していない。

 正太郎は息詰まる思いをこらえながら、冬太の横を通り抜けて窓に近づいた。そしてそこから夕暮れが近づいた夏の終わりの景色を眺めた。家々の連なった屋根はみんな同じオレンジ色に染まっていた。見慣れた物でありながら、その眺めはどこか荒涼としていた。正太郎はしばらくそうして西日の中に身をさらした。

「僕は毎日この部屋でこうして、西日に身をさらしているのですよ」と背後から声がした。

 正太郎は黙っていた。

「僕は西日が好きなのです。ずっと前からね。西日というものの中には何か不浄なものがあります。そして僕はその不浄な何かを愛しているんです。その光の中に身をさらしていると、なんだか自分の内部にある得体の知れないものが、どろどろした形も名前もない何かが、熱によって焼き尽くされるような感じがするのです。その感じを僕は愛しているのです。とてもすっきりするのですよ」

 正太郎は振り向いた。冬太は相変わらず胎児の姿勢のまま首を曲げて正太郎のほうを見ていた。正太郎は二つの青い眼を見つめ返す。その目の不思議な輝きが彼から思考を奪う。何か固く黒々とした物体が、相変わらず胃の中で暴れていた。それは吐き気に似ていながら、決して体外に排出されることはない。西日を浴びた冬太の瞳はぞっとするほど青く深く透き通っている。どう考えてもこの世の色ではない。どこか別のところからやって来て、息子の肉体を通じてこの世界に侵入しようとしている色だ。阻まなければならない。食い止めなくてはならない。この世界にあってはならない色なのだ。正太郎は唾を飲み込み、そしてポケットの中のナイフの柄を握り締めた。

 またあの時と同じように、一瞬認識が乱れた。しかし今度は正太郎は自分を失わなかった。彼は冬太の顔のすぐ横に膝をつき、逆手に握ったナイフを彼の顔の上に静止させた。冬太は身動きせずにその銀色の刃の先端を見つめていた。つぎの瞬間にはナイフの刃先と澄んだ青みをたたえた小さな球体とが結ばれていた。そして刃物は嘘のように何の抵抗もなく冬太の眼窩の奥へと沈んでいった。柔らかい泥を突くような感触だった。床に横たわった人物は人形のように身じろぎ一つしない。血と透明な眼房水の混じった液体が刃と眼窩の隙間から流れ出した。正太郎は自分の呼吸の音を聞いていた。その息遣いは意外なほど落ち着いている。体には汗さえほとんどかいていない。全身から水分が失われてしまったようだった。口の中がひどく乾いていた。

 西日の色は少しずつ褪せ、代わりに闇が空間を満たした。重く、手触りのある粘度を持った闇が部屋に滑り込んできてそこにいた二人の人物を包んだ。

「どうしてこんなに静かなんだろうな」と正太郎は呟いた。

 床の上の人物は動かず、すでに呼吸もしていなかった。残ったもう一つの青い目は大きく見開かれたまま静止していて、それは濁った池のように光も色も失われていた。屋根裏のいつもの匂いの中に、別の臭気が混じっている。ずっと昔、同じ匂いがこの部屋に立ち込めていたことを正太郎は思った。

 何もかもを後に残して正太郎は屋根裏部屋から出た。洗面所で手と顔を洗ってから食堂に行くと、妻が夕食の準備をしていた。正太郎はユミに、夕食はいらない、少し外出してくる、と告げた。彼女は何か口にしたが、正太郎の耳には聞こえなかった。

 

 正太郎は夕闇の街路を歩き出した。歩きながら何度か自分の手を見た。手のひらの皮膚は血とその他わけのわからない液体や欠片でどろどろに汚れている。しばらく後で歩みを止めて顔を上げたとき、目の前には墓地が広がっていた。緩やかな坂に沿っていくつもの墓石が並んでいる。墓地は無人だった。彼の足は自然と石上家の墓のほうへ向かった。

 墓石の正面に立った正太郎は何をするでもなくぼんやりしていた。感情らしい感情はすでになかった。後悔も罪悪感もなかった。あたりには夜の虫の声が響いている。ふと顔を上げると、遠くの山が描く暗い稜線が、まるで巨大な亀の影のように見えた。空の大部分を覆う亀の怪物は、なおも膨張を続けながら、こちらへ向けて襲いかかってくるかのようだ。正太郎は目を閉じる。すると瞼の裏の闇に兄の孝蔵の顔が浮かび上がった。記憶とも想像とも区別のつかないその映像の中で兄はまるで彫像のような首だけの存在と化していた。そしてやはり彫刻と同じようにその顔には表情がなかった。しかしその存在感は生々しく確かなものだった。正太郎はかつて子供のころ、兄と一緒に遊んでいたときの、あの懐かしい気配を感じた。正太郎と孝蔵は沈黙したままお互いを見つめていた。瞳の青色が正太郎のすぐ目の前に浮かんでいた。その透き通るように澄んだ青色は、どこかここではない別の世界の空の色を映していた。眼窩が貫通して細い穴となり、その向こうに広がる未知の世界の空を覗かせているのだ。正太郎はその色から目が離せなかった。


 

終わり

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