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部屋の中の3つの色

1. 日曜日の午後の埃

 最初に埃があった。赤ん坊のころ、ゆりかごに寝転がって、空間を舞う埃を見つめていたときのことを僕は覚えている。まだ小さな手を、僕は埃に向かって伸ばした。その頃から僕は埃について知っていた気がする。「埃」という言葉を覚える前から、ほとんど目にも見えないその微小な物体について、漠然とした知識を備えていた気がする。僕という人間はどうやら、埃を眺めるという行為から出発したらしい。
 部屋には光が満ちていた。埃はその光とまじりあいながら空間を漂っている。日曜日の午後の部屋でひとり、ベッドの上で赤ん坊のころと同じ体勢で横になって埃を眺めていると、肉体が腐敗する音が聞こえる。それは内臓と骨と皮膚の隙間から響く。ゴロギュウルルグロギュウルウル。それは木が折れたり、地面が揺れたり、高波が岩に砕けたりするような、そんな音だった。腹の中で暴風が吹き荒れているみたいだった。嵐、台風、かまいたち、ハリケイン、そういったものが僕の腹の中で吹き荒れていて、轟音を響かせているのだ。どういうわけかその音はこんな日曜日の午後にしか聞こえない。嵐たちは普段はどこに潜んでいるのだろうと僕は不思議に思う。しかし嵐というものは、人間にはコントロールできないものなのだ。それこそが嵐の最も良い点で、また僕が最も愛している性質だった。だから体内の嵐たちもまた僕のコントロール下にはない。それらは勝手気ままに暴れまわる。そしてその音色は、日曜日の午後のための効果的な背景音楽となる。
 長い時間をかけて埃は光をまといながら落下した。赤と青と黄色、まるでモンドリアンの絵みたい。あの三原色が白い壁を背にして部屋のあちこちで降る。色は目まぐるしく変化する。青に近い黄色、赤に近い緑、黄色に近い青、いや、僕は正確にはその色を認識できない。色は一瞬にしてすぐに別の色に変わってしまう。ある色を認識したときにはすでにそれは過ぎ去っている。どこからともなく部屋に差し込む神秘的な光が、そんな目もくらむような変容を可能にするらしい。気がつくと名前も知らない不思議な色が部屋中に満ちて降り注いでいた。そんな色彩の氾濫は日曜日の午後の部屋にしか生じない。そのさまはどれだけ眺めても見飽きることがない。僕は色の変化に目を奪われて動くことさえできない。
 どうしてみんなこの楽しみに目を向けないのだろう? 人々は混雑したデパートで買い物をし、わけのわからない愚劣なアトラクションのために行列を作り、騒々しく不衛生なカフェテリアで添加物だらけの食事をとる。そんなことをするくらいなら、埃を眺めていたほうがずっとましだというのに。ベッドに寝そべって、舞い散る埃をただ見つめるだけで、誰もが異なる世界に、あるいは宇宙に、あるいは遠い過去に、アクセスできるというのに。僕は太古の夢を見ていた。それはそのときは鈍色にきらめいていた埃がもたらした幻想。ジュラ紀だか白亜紀だか、とにかくわけがわからないほどの大昔、恐竜たちが台地を闊歩し、翼竜が原生林の上空を飛び回っていた。無添加の混じりけのない水色をたたえた空の色、穢れのない清浄な雲、そして噴火する火山と流れ出るマグマ。ジュラ紀の日曜日の午後、恐竜たちは暴れていた。地面を揺らしながら駆けまわり、咆哮し、湖に飛び込み、岩壁や森の木々に体をぶつけた。火山が彼らの何かを刺激している。しかしそれもまた彼らの日常である。地球が誕生して以来、幾度そんな日曜日が繰り返されたことだろう。恐竜たちにとっても日曜日は特別だったに違いない。
 光が寝室の床を斜めに区切っていた。その三角形の影の上でも埃がちらちらと揺れていた。僕はどこにもプテラノドンなどいないことを確かめた。ステゴサウルスもブロントサウルスもいない。視線は部屋の隅の、室内で最も暗い部分に向いた。そこでは一つの黒い塊がもぞもぞと動いていた。それは女の形をしていた。見慣れた姿かたちをした女、やがて僕はヒユのことを思い出すのだった。どこかをさまよっていた意識はようやく僕のもとに戻ってきた。
 横から見たヒユのシルエットはどことなく、曲がった釘の形に似ている。鏡の中の彼女のほうがどういうわけか痩せて見える。光の加減か何かのせいだろうか? 女は頬にパフを当てていて、釘に似た黒い塊もまた同じ動きをしていた。
 起きたの、と女が言った気がした。つまり唇がその言葉を発する形に動いた。
「夢を見ていたんだ」
「そりゃあ見るでしょう。珍しくもないわ、夢なんて誰でも見るわよ」
「恐竜がでてきたんだよ」
「へえ。……内容までありふれてる」
「今日も仕事?」
 どういうわけか女は答えない。黒い塊もやはり答えない。僕は寝そべったまま、両手を顔の前にかざし、手のひらを何度かゆっくり開いたり閉じたりした。そうやって自分の手のひらをしばらく見つめていた。その行為に大した意味はない。目覚めた直後にいつも行う儀式、というわけでさえなかった。
 化粧を終えた女が椅子から立ち上がった。僕はカレンダーに目をやる。今日の日付のところにも、ちゃんと黒いマジックで×がつけてあった。彼女は毎日そうやって一日ずつ×をつけるのだ。
「今日のお客はお得意様なの」と彼女が言った。「食品会社の支店長なの。おそろしく気前がいいのよ。あのお金の払い方は、単なる下心じゃないわ。私にお金を与えることそのものが、きっと喜びなのよ。誰もあんなふうにはお金は使えないわ」
「怖いんだよ。そいつは怖がりなのさ。他人に惜しみなく与えることのできるものが、お金しかないんだよ」
 ヒユは高い声で笑った。どこかで鳥が鳴いたのかと思わせるような声。
「彼はあなたとは何から何まで違うわ。あなたとはきっと決して理解しあえない種類の人物だと思うわ。世の中にはいろんな人がいるのよ。あなたには想像もつかないような価値を基準にして生きている人だってもちろんいる。それもたくさんいる。あなたはそうやって何でも知ったような気になって、何もかもに飽きて退屈しきったような顔をして、何だろうと自分の想像を上回るものなどないって、なぜか信じているみたいだけど、世の中ってあなたが思っているより複雑だし、多様なのよ。謎に満ちているのよ。あなたは何もかもみんな見てきたような顔をして生きているけど、そんなのただの勘違いだよ。あなたはあなたに想像可能な範囲の内側で充足しているだけ。外側にあるものには、ひたすら目を背けている。見て見ぬふりをしている。それだけのことだよ」
 隅の暗がりからそんな言葉は響いていた。僕はその間ずっと、自分の両手を開閉する作業を続けていた。すると誰かが大きく息をつく音が聞こえた。
「行ってくるわっ」少し後で女はそう言って立ち上がり、バッグを掴んで部屋から出て行った。

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