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仮面音楽の皮膚

1

 兄はもう戻ってくるつもりはないのだ、と二井は悟った。力が尽きるまで、泳げなくなるまで泳ぎ続けるつもりなのだ。兄の頭は今では水平線上に浮かぶ点でしかなく、さらに遠ざかって小さくなっていった。兄は戻ってこない。あのまま溺れて死ぬつもりなのだ。その考えは雷鳴のように二井の頭に襲いかかった。
 大勢の海水浴客の頭や体が海に浮かんでいる。砂浜には人々のざわめきが満ちている。二井は可能性を否定しようとした。兄の頭だと思って見つめ続けていたあの黒い点は、ことによると兄ではないのかもしれない。黒い点と二井とは数百メートルも離れていた。その距離から見ると、ほかの人間の頭と兄の頭を正確に区別することはできない。おそらく自分はいつの間にか見間違えて別の人物の頭を目で追いかけていたのだ。それはありうる。そういえば何度か途中で目を離して飛行機雲を見上げたり、通りがかりの人々に視線をやったり、水上スキーで遊ぶ人を眺めたりした。どこかできっと間違えてしまって、兄によく似た、兄とは別人の頭を、いつしか目で追うようになっていたのだろう。本物の兄は、すでにとっくに海から上がっていて、今では露店でホットドッグでも買っているかもしれない。
 そんなことを考えながらも、兄を探しに立ち上がる、と言ったことはしなかった。二井は砂の上に敷いたシートの上に座り続けて、別人かもしれない水平線上の黒い点のような頭を、なおも見つめ続けていた。
 午後の太陽はゆっくりと傾き、それでもまだ日射しは嫌というほど砂浜に照り付けていた。水上スキーのモーター音は、なぜかどこか物悲しく響いた。
 二井は少しずつ落ち着きを失っていった。どれだけ否定しようとしても、嫌な考えがとりついて離れなかった。あれが別人であるはずがない。あれは兄の頭だ。その思いは確信に近い強さをもって頭の中に居座っていた。
 海になど別に来たくなかったのだ、と二井は思う。彼は島根県の北部の海沿いの町に生まれ、家を出て十分も歩けば海岸に出る、といった環境で生まれ育ったにもかかわらず、海にろくに興味を持たない少年だった。海水浴の経験さえろくになかった。その日、夏休みで帰省していた六歳年上の兄が、二井を海水浴に誘ったのだ。「佑、海に行かないか? こんな日に泳ぐと、きっと気持ちいいよ」
 もちろん二井は、最初は拒絶した。しかし兄は妙な熱心さで説得をつづけた。兄のほうは二井とは違って昔から海水浴が好きだった。泳ぎも得意だった。海のない土地で一人暮らしをしながら大学に通っていた兄は、故郷の海が懐かしいのだろう、と二井は思った。それで仕方なく誘いを受け入れたのだった。
 海に着くと、兄は自分から誘った割には、ほとんど海に入らなかった。砂浜に座って海を眺めているばかりだった。二井はもっぱら一人で泳いだ。仰向けに水に浮かんで空を眺めているとカモメが輪を描いて飛び交うのが見えた。ギラギラと照り付ける太陽の熱が胸と腹を焼き、背中は生暖かい水で冷やされていた。その板挟みの感覚は意外なほどに心地よかった。二井は海水浴の喜びを無視して生きてきた過去の日々を少しだけ後悔した。
 二井が海から上がり、兄の隣に腰かけてラムネを飲んでいると、兄が立ち上がった。
「そろそろ、泳いでこようかな」と兄は言った。
 二井は頷いた。そして海に向かう兄の背中を二井は見送った。
 それから兄は一度も戻ってこない。今、彼方の黒い点はもう二井の視力では見えなくなった。それは消えてしまった。そのあとも二井はその場から動かずに海を眺め続けていた。
 やがて海面の色が少しずつ輝きを失い、色あせていった。海辺のざわめきは、徐々に遠ざかり、やがて完全に静かになった。もはや水平線には何も見えなかった。兄の頭も、誰の頭も見えなかった。
 真夏の海岸の温度は低下していた。二井は手のひらで両腕を何度か撫でた。皮膚は冷たく、ざらざらしていた。薄い毛が逆立っていた。
 日が暮れると、二井は自分と兄の荷物を抱えて歩いて家に帰り、母親に報告した。

 兄の死体は数時間後に海岸に打ち上げられた。全身に海藻をはり付かせ、顔を青黒く膨らませて、兄は死んでいた。遺体の傍らで声をあげて泣く母親のそばで、二井は警察に事情を聞かれた。海に入ったきり戻って来ませんでした。ずっと遠くまで泳いでいくのを見ていました。いえ、普段と変わったところは何もありませんでした、体調が悪そうな様子もなかったと思います、と二井は答えた。
 兄の死因は溺死だった。二日後に葬儀が行われ、遺骸は火葬場で燃えて灰になった。
 兄の死は自殺だった、と二井は思う。でもなぜ彼が、自ら死を選ばなくてはならなかったのか? そんなことをしなくてはならない理由は何もなかった。兄の友人たちの話では、兄の大学での成績は優秀で、人間関係におけるトラブルのようなものもなかった。何かに深く思い悩むような様子も見受けられなかった。所属していた吹奏楽サークルではドラムを担当していて、その演奏能力が多くの人々から高く評価されていた。
 二井は水平線と重なった兄の頭を目で追っていたときの気分が忘れられなかった。遠ざかってゆく兄が海の中の群衆の中で見分けがつかなくなる、その不安と恐怖は二井の中にずっと残った。その記憶は起きたまま見る悪夢のように、映像となってことあるごとに二井に襲い掛かる。
 二井はまた海に近づかなくなった。

 かつて兄が練習に使用していたドラム・セットが家の納屋に残っていた。同じ家に暮らしていたころ、二井は兄がドラムを叩く音を何度となく聞いたことがあった。音楽に興味のなかった二井の耳にも、それは相当に上手な演奏であるように聞こえた。
 すでに兄が死んで二か月が経過していた。何か探し物をしていて納屋に入った二井は、薄暗い納屋の一角に鎮座するドラム・セットを見た。それまで二井はドラムも音楽も、どちらかと言えば嫌っていた。兄に対する無意識的な反発から、彼は音楽に関心を示さなかったのである。
 しかしその日、二井はドラム・セットに歩み寄った。シンバルの上にうっすらと埃が積もっていて、二井はそれを人差し指の腹で拭った。シンバルがその動作のためにかすかに揺れて、埃が取り除かれた部分から金色の表面が覗いた。
 その金色を見た途端に、ある衝動が二井の中に芽生えた。バス・ドラムに立て掛けられていたドラム・スティックを手に取り、それでシンバルをそっと叩いてみた。澄んだ固い音が納屋に響いた。二井は目を閉じて、その音を体に染み込ませた。音が完全に消えると、やや強くもう一度叩き、同じように耳を澄ませる。そうしたことを繰り返した。力の強弱による音色の変化を確かめりした。
 二井はまわりこんでセットの中に入り、中心に置かれた丸椅子に腰かけた。そして手に持ったスティックで力任せにスネア・ドラムやハイ・ハットを打ち付けたり、足でバス・ドラムを踏んだりしした。
 それまでもちろん二井は兄のドラム・セットに手を触れたことはなかった。触れてみたいと思ったことさえなかった。音楽や楽器は二井の関心のはるか外にあるものだった。衝動は突如として二井をとらえたのだった。それぞれのキットと、それらを支える銀色の骨のようなスタンドが、そのとき二井の目に初めて美しいものとして映った。
 自らが生み出す粗野な音に囲まれながら、二井は身体の奥の方で何かがざわざわと騒ぎ立てるのを感じていた。それが単なる好奇心でも、兄を懐かしみ悼む気持ちでもないのは明らかだった。
 二井は探し物のことなど忘れていたし、それきり思い出すこともなかった。もっと重要なものが二井を捉えていた。夜になるまでずっと、二井はドラムをでたらめに叩き続けた。

 二井は父と母に伺いを立てた。納屋のドラム・セットを使ってもいいか、と。
 父は意外そうな顔をして言った。そんなこといちいち尋ねなくても、勝手に使えばいいじゃないか。
 でもあれは兄さんのものだったから、と二井は言った。
 好きに使いなよ、と母が言った。あのまま埃をかぶったままでいるより、あんたが使ってくれた方が、お兄ちゃんも喜ぶよ。
 二井はドラムを練習するようになった。毎日学校から帰るとすぐに納屋にこもった。休みの日にはほとんど一日中ドラムを叩いていた。その納屋は、兄がドラムをはじめた頃に、父の手によって壁に防音加工を施されていた。島根県内の様々な建築業務を請け負う建築会社の社長をしていた父は、かつて十五年ほど大工として働いた経験があって、そのような工事は造作もなく行うことができた。おかげで二井は心置きなく大きな音を出すことができた。
 昼間は毎日何時間も練習し、夜には兄が使っていた教則本やCDで演奏法や音楽理論を学習した。そうやって二井は貪欲に知識と技術を吸収し自分のものにしていった。演奏技術は恐るべき速さで上達した。それまではテレビから歌が流れて来るだけでチャンネルを変えるほど音楽に無関心だった少年は、別人のように音楽に取り憑かれていた。その過程で少しずつあの真夏の水平線の光景の記憶とそのとき抱いた不安と悲しみの残滓は薄れていった。
 二井は音楽以外のものに対する関心を失くした。音楽が与えてくれる以上に昂揚や解放感をもたらすものは他になかった。所属していたバドミントン部にはほとんど顔を出さなくなった。二井はバドミントンという競技をそれほど気に入っていたわけでもなかった。すでに中学三年生になっていたので、どうせ数カ月後には受験のために引退することになるのだから別にいいだろうとも思った。部活をさぼることについて教師たちから注意を受けたり叱られたりはしたが、二井は意に介さなかった。
 成績のほうはドラムをはじめて以降むしろ上がっていた。もともと二井は比較的優秀な生徒で、テストの順位は常に学年全体の上の下ぐらいに位置していた。だからろくに勉強もせずにドラムに熱中しても、そのことで両親から注意されるようなことはなかった。そして二井は、自宅で過ごす時間を演奏の練習に充てるために、家で勉強しなくても済むように、以前よりもずっと熱心に学校の授業を受けるようになっていた。
 ドラム演奏で培った集中力が授業の理解を促進した。50分間、一度も集中を切らさずに教師の話を聞きノートをとるなどといったことは、ドラムの演奏に比べれば対して難しくないことを二井は知った。授業中、しばしば彼は頭の中でハイ・ハットやライド・シンバルのリズムを刻んだ。そうやって授業を受けていると、雑念はすべて排除できたし、しかもいろんなことが不思議なほど容易に理解できるのだった。知識が吸収されて頭におさまる一連のプロセスを、リズムが手助けしてくれるような感覚があった。
 そうやって二井の成績は安定したまま、中学を卒業すると、彼はそれほど悪くない進学校に進んだ。
 高校入学後も生活は変わらなかった。毎日学校に通い、学校以外の時間はすべてドラムに捧げた。お小遣いやお年玉で購入したキットは増え続け、兄から受け継いだドラム・セットは着実に巨大化していった。
 ある日父が彼に言った。バンドでも組んでみればいいじゃないか。
 やってみたよ、と息子は答える。でもすぐに首になってしまうんだ、というより拒絶される。彼らと僕とは「音楽性」が合わないんだよ。
 その頃、二井はすでにどんな楽曲でも一度聴けばたやすく再現できる程度の演奏技術を備えていた。二井は実際に高校の同級生とバンドの真似事のようなことをやってみたことがあった。しかし同級生たちが志向するポップで当り障りのない音楽には二井の演奏はまるでそぐわなかった。同級生たちの耳には二井の演奏はひどく個性的で変則的なものとして聞こえた。そしておきまりの「音楽性の違い」とやらを理由に、二井は脱退を申し渡されたのだった。
 二井には仲間らしい仲間がいない。バンドを首になるのと似たような理由で彼は吹奏楽部にも軽音楽部にも入らなかった。それぞれの部活を覗いてみたことはあったが、ここは自分の居るべき場所ではない、とすぐに思った。二井が志向する音楽はそこにあるようなわかりやすく耳辺りの良いものではなかった。
 結局二井は相変わらず納屋で一人でドラムを叩き続けた。孤独であることについて、彼は特に気にするでもなかった。

 十七歳の誕生日に、父が不思議な形の打楽器をプレゼントとしてくれた。四十センチほどの高さの円筒形の打楽器だった。「マダル」という名のネパールの民族楽器だと父は言った。どこでどのようにして入手したのかは父は教えてくれなかった。
 山羊の皮が張られた二つの底面はどちらも打面で、面積がわずかに異なっており、それぞれ異なる音色を立てた。広い方は高く、どこか可愛らしい音がして、狭いほうの音はそれよりやや低く、豊かな音がした。音を出すうちに、二井はその楽器がすぐに好きになった。
 そしてその楽器は二井に新しい認識を与えた。つまりすべての国には固有の音楽文化を持ち、そしてそれを演奏するための独自の楽器が存在する。目も眩むほど多様な形と音色を備えた打楽器が、それこそ無数に存在するのだ。一つのネパールの打楽器がそのことを二井に教えた。自明のことのようだが、ロック・ドラムを構成するもの以外の打楽器に触れたことのなかった二井にとって、その認識はちょっとしたショックだった。
 それを機に二井の関心はドラムだけでなく打楽器全般に移った。それまでドラム・キットにばかり費やしていたお金は新しい未知なる打楽器に費やされた。そのうちに納屋はたくさんの打楽器で埋め尽くされるようになった。ガンジーラ、タブラ、コンガ、ジャンベ、クレイ・タシャ、フィンガーシンバル、そうした楽器を二井は楽器屋の店頭や、インターネット通販を通じて購入した。
 同じ打楽器に分類されていてもそれらは音色も演奏方法も見た目もすべて異なる。そして当然音もまたそれぞれに異なる響きを備えている。その楽器を生み出した民族が、美しいと信じる音を、それぞれの楽器は発するのだ。そうだ、それらの楽器の一つとして、ひとりでに自然に生まれたものはない。それらはみな人の手によって作り出されたものなのだ。人々は自分たちに必要とする音を生み出すために自らその楽器を作った。それらの楽器は長い歳月を経て改良され発展し洗練されていったのだ。
 そうした進化と発展の結晶がこの納屋に集まっている。二井は楽器群に手を触れ、音に耳を澄ませながら、遠い国々に思いを馳せるのだった。

 そんな日々を送るうち、いつしか二井は音楽におけるリズム以外の要素に対して関心を失くしていた。リズムこそが音楽であり、メロディーやハーモニーは副次的な要素でしかない、と考えるようになった。音楽を聴くとき、二井の耳には基本的には打楽器の音しか入らなかった。
 高校二年の夏に家族とともに大阪を旅行した際、二井はある音楽大学の打楽器科の学生によるコンサートを見る機会があった。「打楽器科」という、打楽器を専門に学ぶ学生の演奏を聴く機会を得たことについて二井は大いに興奮していたのだが、そのコンサートは期待はずれに終わった。そこで演奏された「打楽器のための」楽曲のいずれにも、マリンバやグロッケンシュピール、スチール・ドラムやシロフォンやヴァイブラフォンといった楽器が使われていたためである。それらの楽器は、一般的には打楽器とみなされているが、二井の基準では違っていた。たとえそれが実際に打ち付けたり叩いたりして音を出すといった演奏形態をとっていたとしても、音階の変化が可能な楽器は純粋な打楽器ではない、と二井は考えていた。基本的に同じ高さの一つの音しか発さず、純粋なリズムのみを生み出すために存在するものが、彼にとっての打楽器なのだった。
 そのような原理主義的な音楽観を抱く二井は、彼が考えるところの「純粋な」打楽器のみを用いて演奏される音楽がどこかにないかと、探し求めるようになった。理想に適う音楽を彼は一度として聴いたことがなかった。テレビやラジオからはまず流れない。民族音楽における打楽器にしたところで、歌の伴奏のリズムを刻むものでしかない。
 しかし探求の果てに、二井は理想に近い音楽をいくつか見つけた。多くはなかったが、彼が考えるところの「純粋な」打楽器のみで演奏される曲はちゃんと存在した。いわゆる「現代音楽」と呼ばれるジャンルの中に、特に多く発見された。
 二井は父からパソコンを借りて、その手の音楽について検索した。ある英国の作曲家が、音階やハーモニーを一切排した打楽器による作品を書いていた。また別のドイツ人の作曲家は、ロック・ドラム独奏による、つまりロック・バンドのドラマーが行うドラム・ソロのような形式の作品を発表していた。それらの作品の一部や全体を、作曲家自身のウェブサイトや、動画視聴サイトで視聴することもできた。
 二井が思い描いていた理想の音楽は彼が世界で最初に考えついたものではなかった。そのことを知って、彼は特にがっかりするでもなかった。
 二井は自ら作曲を行うようになった。自らの手でも理想の音楽を実現させたいという欲求が膨らんだのだ。納屋にこもり、打楽器群とドラム・セットに取り囲まれながら二井は作曲した。いくつもリズム・パターンを考案し、それらをつなぎ合わせ発展させた。何時間でも彼はその作業に没頭した。
 二井が人生で最初の楽曲を完成させたのは、高校二年の秋のことである。いくつかの異なる音色によるリズム・パターンがポリリズミックに絡み合い展開する五分ほどのその楽曲は、もちろんすべて打楽器のみで成立していた。バス・ドラムとハイ・ハット、そして二種類の民族楽器。二井はその曲に名前をつけなかった。いくつかの言葉を当てはめようとして、どれもみんな不適当に思えた。結局その曲は『第一番』と呼ばれることになった。
 高校を卒業するまでに、作品番号は十五番まで増えた。ドラム・セットといくつかの民族打楽器を組み合わせて演奏される作品が多くを占めていたが、手持ちの楽器一つ一つのために、それぞれ独奏で演奏するための曲も作った。
 音楽への傾倒は深まる一方だったが、それでも私生活や学業に支障をきたすほどではなかった。ただ性格だけは少し変わった。二井は以前は鷹揚でのんびりした性格だった。何かに強い関心を向けたり、他のことが目に入らなくなるほどひとつのことに集中したりといったようなことはなかった。バドミントンにしたって特に好きだったわけではなく、ただ中学校では部活動をひとつ選ばなければならないという決まりがあったために選んだだけだった。彼は単なる平均的で平凡な少年だった。
 いつしか二井は物静かで思索的な、内に閉じこもりがちな少年になっていた。頬がこけ、目つきが鋭くなり、声には抑揚がなくなった。兄が生きていた頃とはまるで別人みたいだ、と二井は自分でさえしばしば思った。
 あるとき二井が納屋でドラムを叩いていたところに母が姿を見せたことがあった。夏の午後のことだった。二井は目を閉じて、頭の中に生まれつつある新しい曲のイメージを追いかけながら、一つずつその断片を音に変えていた。タム・タムが沸騰する沼のような音を立てた。
 母の姿に気付いたのは演奏を終えたのと同時だった。目を開けた二井は、納屋の入口に立ち尽くす母の姿を見た。母はコーヒーカップとドーナツが載ったお盆を手に持って二井を見つめていたの。どういうわけかその顔は青ざめていた。二井の目には青ざめているように見えた。しかしあるいは納屋の薄暗さのせいかもしれない。母は無理に作ったような微笑を浮かべ、コーヒーを持ってきたよ、と言いながらお盆を二井に渡した。二井はお礼を言った。母は何も言わず背を向け、納屋から出て行った。
 その時二井は、母は何かの理由で機嫌を損ねているのだと思った。無視して演奏に夢中になっていたことに対して怒ったのかもしれない、と考えていた。しかしおそらくそうではなかった。あの時、母は怯えていたのだ。母の表情はそんな風に見えなくもなかった。かつては無邪気にバドミントンに興じていた無邪気で無害な息子が、納屋にわけのわからない謎めいた打楽器を数多く集めて、怪しげな音を洪水のように響かせている。怯えるのも無理はないような気がした。
 母はその日のことについて何も言わないし、二井も尋ねなかった。親子関係が特に変化することもなかった。
 二井は高校を卒業し、西東京の大学の文学部に進学した。文学にさほど興味があったわけではなかった。音楽によって身を立てることを真剣に望むようになっていて、その足掛かりとするためだけに、東京の大学を志望したのだった。大学も学部も学科も何でもよかった。音楽系の大学や専門学校ははじめから彼の選択肢にはなかった。あまりに長く一人で音楽を演奏し続けてきた二井は、誰かから音楽をあえて教わりたいとは思えなかった。東京に進学することについて両親は反対はしなかった。
 
 故郷で過ごす最後の日の夕方、二井は町を散歩した。彼の足は自然と海の方へと向かった。二井が海岸に行くのは、冬に限られている。夏の間は彼は決して海のそばに近づかなかった。
 海岸は無人だった。濃さの異なる灰色の雲が重なって、空を埋め尽くし、それは象の大群のように見えた。象たちはのろのろとした速度で西へと歩を進めている。海面は空と同じ暗い色に染まり、波が溜息のような音を立てながら打ち寄せていた。冷たい風がコートの襟元を掠めていった。
 彼方の水平線には幻は見えなかった。兄の後頭部はそこにはなかった。
 二井は防波堤に座って海を眺めた。雲の暗色は少しずつ濃くなり、風は冷たさを増した。暗くなるまで二井はそこにたたずんでいた。


2

 二井は八王子市のアパートでひとり暮らしを始めた。狭いアパートにドラム・セットなど置くことはもちろんできない。アパートで暮らすということは他人と共同で生活するということであり、迷惑になるような行為は行ってはならない、打楽器の演奏などもってのほかである、といったことを母から聞かされていたので、二井は楽器は一つも持ってこなかった。持ってきたのはケースに収めた六組のドラム・スティックだけだった。
 二井は楽器の演奏が不可能な状況でも練習ができるように自らを訓練していた。頭の中に想像のドラム・セットを組み上げ、想像の中でそれを演奏するのである。アパート暮らしのためにこれまでと同じような練習ができなくなることを危惧した二井は、進学が決まって以来、毎日努力してその技術を身につけたのだった。二井はその行為を透明ドラミングと名付けた。そもそもドラムという楽器は持ち運びが困難なので、練習ができないという状況に置かれることは少なくない。練習を怠って演奏技術が衰えることは、二井にとって恐怖だった。これから先の将来のためにも、透明ドラミングの技習得は必要不可欠なものに思えた。
 目を閉じて、頭の中にドラム・セットを構成する楽器をひとつひとつ想像する。集中力を研ぎ澄ませて、可能な限り明確に、楽器の形と質感を思い浮かべる。そうした想像に二井はそれほどの困難を覚えなかった。彼はすぐに慣れた。それまでにも彼は何度も自分が同じことを行っていたことに気づいた。高校時代にも退屈なときには目を閉じて頭の中で演奏をしていたものだった。その行為をさらに発展させ、空想をより明確にさせるだけのことだ。手を触れられそうなほどに明瞭な形に楽器の一つ一つの姿を闇の中に描くこと。毎日何時間もドラムと打楽器群に触れる生活をしていた彼にとっては、さほど難しいことでもなかった。目を閉じるだけで彼はきらめくシンバルやハイ・ハットを、威圧的なバスドラムを、従順な動物のように並ぶタム・タム群を、それほどの時間をかけずに思い描くことができた。それは想像というよりは記憶の反芻だった。
 何度もそれを繰り返すうち、意識の暗闇に浮かぶ楽器群の姿は正確になっていった。手を触れられそうなほどにありありとリアルに描き出された像は、しかるべき重みさえ備えていた。
 彼は透明ドラム・セットを演奏する。描き出された楽器群の中心に腰かけ、想像上のスティックを手にして楽器を叩く。状況によって、現実の肉体を動かすこともあれば、一切動かさないこともある。音もまたもちろん想像でしかない。
 二井は暇さえあれば想像の中でストロークや各種ビートやフィル・インの練習を行った。やがて空想的な演奏にも実際の演奏と同じほどに没入できるようになった。
 透明ドラミングの素晴らしい点は、制限がないところだった。キットは思うがままに好きなだけ増やせるし、高価で手に入らない楽器だっていくらでも置くことができる。二井の脳内にはすでに十五個の大小さまざまなタムタムと十二枚の各種シンバルが並ぶお化け透明ドラム・キットができあがっていた。
 
 二井は大学に入学した。入学式から数日が経ったある日、大学の構内を歩いていた二井は、メッセージ・ボードのようなところに張られていた一枚の貼紙を目にした。それは「新入生歓迎ライヴ」を告知する軽音楽サークルの貼紙だった。日時は四月の第三週の土曜日、出演予定のバンドの名前が書き連ねられた下に、小さな文字で「腕に覚えのある新入生の参加も歓迎しています」と書いてあった。つまり新入生であっても新入生歓迎ライヴのステージに立つことが許されている。
 二井はさっそく軽音楽サークルの部室に向かった。キャンパスのはずれの灰色のビルのような建物の三階の、落書きとわけのわからないステッカーや写真や紙片がびっしりと貼られたドアをノックすると、数秒後にドアが開き、妙に目がぎょろぎょろした髪の長い男が現れた。
 二井は男に向かって言った。「新入生歓迎ライヴ」に出演したいのです。
 男は五秒間ほど二井を見つめた。「君は、新入生?」
 そうです、と二井は答えた。
「バンドで出るの?」
 二井は首を振った。一人で出ます。
 男は頷いて、二井を部室内に案内した。中は広く、なぜか鶏小屋のような匂いがした。何本ものギターやベースが壁やスタンドに立て掛けられ、マーシャルやメサ・ブギーのアンプが置かれていた。もちろんドラム・セットもあった。部室には他に人の姿はなかった。
 男は細長い机に向かって何か書いていたが、やがて顔をあげて、妙に事務的な口調で二井に言った。
「新歓ライヴに出演した新入生はその日から軽音楽サークルに所属することになる」
 二井は同意した。

 新入生歓迎ライヴは大学の中庭に設営されたステージ上で行われた。誰でも無料で観覧することができるようになっていた。出演者はほとんど全てバンドかあるいは二人組のユニットで、ソロで出演するのは二井だけだった。
 出番を告げられた二井はステージに上がった。派手なオレンジ色の「つなぎ」を着て観客の前に現れた二井は(彼はある映画で見た殺人鬼に憧れてそのような衣装を選んだ)、ゆっくりと歩いてステージの中央に向かうと、その場に立ち尽くし、そのまましばらく無言で客席を見下ろした。そのとき二井は特に何の考えもなく、これから自分の曲を初めて聴く人々を眺めていただけだったのだが、観客はなぜかどよめきはじめ、一部からは悲鳴のような声が上がった。鋭い目の猛禽類のような顔つきをした小男、それが二井の風貌である。小柄ではあるが、不自然に手足が長く、それが彼の容貌を均衡を欠いたものに見せている。ある種の人々は彼の立つ姿に不安に似た感情を抱く。
 ステージには一基のドラム・セットのほかに何もなかった。二井はそのセットの真ん中に腰を下ろし、最初の音を鳴らした。それは彼が上京後に作曲した最初の楽曲の、最初の音だった。作品番号は『第十七番』にあたる。シンバルとハイ・ハットが、それぞれ異なる拍子を同時に刻みつつ、奇数連符と細かい休符からなるリズムを叩き出した。やがてバス・ドラムが加わり、タム・タムも追加された。
 場内のどよめきは音楽がはじまってすぐに止んだ。それは静かな楽曲だった。誰も一台のドラム・セットでそのような静かな音世界が出現することは予期しなかった。不自然なほどの静けさを維持したまま、複数のリズムは絡み合い、揺らぎ続けるアクセントがうねるような模様を空間に描き出した。
聴衆の大半は石のように固まっていた。しかし少数の者はかすかに頭を振ったり体を揺らしたりしていた。その音楽は二井の直前に出演したギター・ロック・バンドとは何から何まで違っていた。
 演奏を終えると二井は無言でステージを降りた。聴衆もまた無言だった。彼らは拍手をすることを思いつかなかったみたいだった。

 軽音楽サークルの一員となった二井は、いろんなバンドに掛け持ちで参加するようになった。どのバンドでもドラマー探しには難儀するものらしい。新歓ライヴで披露したようなシュールな音楽だけでなく、普通のロック音楽も演奏できるということが知られると、すぐに二井はいくつかのバンドから加入の誘いを受けた。二井はできる限り自分を自由にしておきたかったので、束縛するものを少なくしたかったので、正式なメンバーとしてではなくサポートという形で引き受けた。
 軽音楽サークルにはあらゆるジャンルを志向するバンドが集まっていた。これまで音楽に対して極めて限定的な嗜好しか持っていなかった二井は、目を開かれる思いがした。二井は呼ばれるままにいろんなバンドに参加して、あらゆるジャンルのバンドでドラムを叩いた。その過程で彼はジャズやプログレやフュージョンなどといった音楽に触れた。二井は割と苦もなく、そういった未知のジャンルの音楽にも対応して演奏することができたので、彼の評判はますます高まって、困ったときは彼に頼めばよいという、「便利屋」のようなドラマーになった。高校生の頃のように、音楽性の違いによりお払い箱にされることはもうなかった。
 プロのような演奏技術をもつギタリストや、音楽について深遠な知識を持つキーボーディストと出会い、一緒に演奏することは二井に刺激を与えた。音楽関係の知り合いや友人は少しずつ増えた。そういったことは、入学前には想像もしなかったようなことだった。二井は高校時代と同じように、一人で楽器の練習をして作曲を続けるのだろうと考えていたのだった。
 大学のクラスの中で二井が特に親しくなったのは佐藤という男だった。彼はずんぐりした体系で、いつも何かに急かされるるようなしゃべり方をして、そして音楽を愛好していた。佐藤の音楽の趣味は、二井とは似ても似つかないものだった。佐藤が愛好するのはクラシック音楽のみ、それもバロック期までのクラシック音楽しか認めないという硬派でハード・コアなクラシック・ファンだった。彼は本当にバロック期より後の時代の音楽には一切興味を示さず、大バッハの死をもって西洋音楽の歴史は事実上終わりを告げたと考えていた。
 二井は自分の音楽の嗜好も佐藤のそれほど極端で過激ではないと思った。それでもその極端ぶりにはどこか共感できるものがある。そのために、音楽の趣味においては重なり合う部分がひとかけらもなかったにもかかわらず、彼らは友人になった。
 佐藤は新歓ライヴの二井の演奏を客席で観ていて、その感想を二井に伝えた。彼に言わせるとステージ上に現れた二井は「どこからか紛れ込んだ不審者」のように見えたとのことだった。
「なんだか変な派手な服を着た縮れた長い髪の男がステージの真ん中に固まったみたいに立ってて、そのうえまるで鉄仮面でも被っているみたいに無表情なものだから、みんな怯えてたんだよ。実際僕の近くにいた女の子は、あの人、仮面被ってるのって、隣りの人に訊いてたよ」
 二井は笑った。
「でも演奏はすごかった。打楽器の音だけなのに、どこかバッハの音楽に通じるものを感じた。僕はとても感銘を受けたし、例の近くにいた女の子もすっかり気に入ってたよ」
 佐藤のアパートでバロック音楽を聴かせてもらうこともあった。バロック音楽や古楽についての佐藤の知識は生半可ではなく、専門書を丸暗記したような話し方でとうとうと数百年前の音楽について語った。とくに彼は大バッハことヨハン・ゼバスティアン・バッハを敬愛しその音楽に心酔していた。
 二井はバッハについてまったく何も知らないと言ってもよいほど無知だった。佐藤は二井に向けてことあるごとにバッハの音楽のすばらしさについて語った。主題が曲の中にあまねく展開し、すべての音に意味があり、すべてのフレーズは一つの主題から抽出されたものであり、根拠のなく書かれた音符が一つも存在しない、その完璧な美について。
「たいていの作曲家は和音があって、和音と旋律の美しさを最も重視する。バッハは違うよ。バッハの音楽はすべての声部が旋律なんだよ。すべてが線なんだよ。ひたすら線が絡み合い、その錯綜が美しく荘厳な音世界を描くんだよ。すべての作品にそのポリフォニーの精神が息づいている。線の錯綜が生み出す調和、そしてときどき規則から逸脱する自由さと不協和音、それが作品を支えている。絡まり合う線がぶつかり合い絡み合って生まれる音世界のスリルを知ると、もうそれから離れられないんだよ。
 同時代の音楽家たちの誰も、そして後にも先にも、彼ほどの水準で彼ほど完全にポリフォニックな音楽を書き続けたりはしなかった。誰も作れない。作っていない。彼のたくさんの息子たちでさえも。音楽史上でバッハ一人だけがそれを成しえた。
 モーツァルトの音楽になら代わるものはある。いや、厳密に言うとないのかもしれないけれど、でも無理やり探せばどうにか見つかる。ベートーヴェンの音楽だって同じ。でもバッハの代わりはない。ないんだよ」
 佐藤の解説を聴いたあとで『インヴェンション』や『管弦楽組曲』や『音楽の捧げもの』を聴くと、ただの退屈な音の羅列に思えていた音楽が、スリリングなものに思えてくるのだった。

 夏までに、二井は合計11回のライヴに出演した。そのうち3回はソロの打楽器奏者としてドラムや民族楽器の演奏を披露した。二井が独奏するオリジナル曲に対して、観客は概して目立った反応を示さなかったが、二井は特に気にしなかった。打楽器独奏というジャンルが広く大衆に受け入れられるなどとは、彼ははじめから考えてはいなかった。それでも何人かは、演奏を誉めてくれたり、気に入ったと声をかけてくれる人がいた。
 二井は観客としてもライヴやコンサートに可能な限り足を運んだ。故郷の島根にはそもそもコンサート会場やライヴ・ハウスが少なく、誰でも名前を知っているような有名アーティストしか見る機会はなかったため、東京で様々な無名の演奏家によるマニアックな演目に触れる機会が増えたことは、彼にとってスリリングなことだった。
 二井は分け隔てなくいろんな音楽の生演奏を観覧した。時には客席がほとんど全て老人ばかりだったり、または二井を含めて客席に全部で三人しかいなかったりといったこともあった。そしてもちろん良い演奏もあれば悪い演奏もあった。それでも手当たり次第にあらゆるジャンルや演奏に触れるうちに、どんなものからでも何かしら意味のありそうなものを見出すことができるようになり、そしてそれらを貪欲に吸収した。
 基本的に息子に甘い二井の両親は彼に十分な額の仕送りを与えており、さらに月に一度は食べ物やら衣服やらを送ってきていたので、二井は特にアルバイトをする必要もなかった。学校以外の時間のほとんどを彼は音楽に費やした。いろんなバンドで演奏し、いくつもの楽曲を作曲した。作曲に際しても彼は楽器を使わずに行うことができるようになっていた。静かな部屋で一人で頭の中だけで音楽を組み立てる。楽譜に書き留めなくても二井は作った曲のすべてを記憶していた。
 音楽活動ばかりに没頭していたようだが、大学にもさぼることなくちゃんと通っていた。彼は決して勉強が嫌いなわけではなかった。音楽のことを考えて講義がうわの空になるといったことはなかった。二井は集中するべき時にはその対象に向けて集中することのできる能力を持っていたし、それはドラムによって培われたものだと信じていた。「透明ドラミング」のおかげだ、と二井はしばしば思った。あれが俺の集中力を高めたのだ、きっと精神修養のような効果をもたらしたのに違いない。無から闇の中にドラム・セットを現出させるのに必要な集中力が、俺の精神を研ぎ澄ませ磨き上げたのだ。二井は半ば真剣にそう信じていた。
 二井は試験をまあまあの成績で通過して夏休みに入った。夏休みなっても、一週間ほど島根に帰省したほかは、生活は変わらなかった。学校に行かずに済むぶんだけさらに多くの時間を音楽に費やした。
 彼は誘われるがままにいろんなバンドを手伝った。生まれて初めて人気者になったみたいで、彼は自分が多くの人たちから必要とされることに喜びを覚えていた。

 夏が終わるとそれまでびっしりと埋め尽くされていた二井の予定表に空白が目立つようになった。ひっきりなしに舞い込んできた勧誘は嘘のように止み、予定していたライヴや約束は次々と反故になった。二井がそれまでサポートしていたバンドが次々と、メンバー同士の人間関係の悪化や音楽性の相違などの理由で、申し合わせたように一斉に活動を休止したのだった。またいくつかのバンドは正式なドラマーを迎え入れたためにサポートを必要としなくなった。二井はそんなわけで突然暇になった。
 二井にとってはしかしそれは生活を見直すちょうど良い機会だった。いろんなバンドでいろんなミュージシャンと共に演奏することの喜びを知って以来、いい気になってあまり多くの依頼を引き受け過ぎていた。自分はいくらか浮かれていたのかも知れないとも思った。このままでは自分のための時間がなくなってしまう。どこかのバンドにメンバーとして所属して音楽活動をすることには初めから関心はなかったし、彼の欲求はあくまで打楽器の独奏という分野に向かっていた。そんなわけで二井はまた一人の打楽器奏者に戻った。自由になった時間を、二井はこれまで以上に作曲や練習に費やし、さらに技量を高めた。それ以外の時間は勉強をするか、いろんなライヴやコンサートを見に行くことに使った。
 十一月のある日、二井はあるコンサートを観覧するために八王子市内にあるホールに赴いた。二井はそのコンサートの告知を八王子市民に無料で配布される地域情報誌の中に見つけた。アパートの郵便受けに入っていたその紙を何気なく眺めていたとき、二井は「イベント情報」という項目に『打楽器アンサンブルの夕べ』という活字を見出したのだった。若手演奏家による現代打楽器曲コンサート。11月19日(金)19時開演。入場料五百円。どんな内容であろうと打楽器曲を演奏するとあれば行かないわけにはいかない。
 会場のホールは二井の地元にあった公民館を思い出させた。風は冷たく、街路を埋めた落ち葉がかさかさと音を立てて舞っていた。隣には小さな古びた喫茶店があった。開場まで時間があったので、二井は喫茶店に入って簡単な食事をとった。
 喫茶店を出た二井は公民館風ホールに入り、入場チケットを購入した。そしてホールに入って椅子に腰かけて開演を待った。入場客の入りはまばらだったが、現代音楽のコンサートにおいては特に珍しいことでもなかった。おうおうにして現代音楽のコンサートには程度の差はあれどことなくもの悲しい空気が漂っているものだと、二井は東京でいくつかのその手の音楽のコンサートに通ううちに感じるようになっていた。今日のコンサートはまさにその典型であるように思えた。会場も、季節も、天候さえも、何もかもがどことなく悲惨さに彩られている。しかし二井はそんな雰囲気が嫌いなわけではなかった。薄暗い会場で怪しげな現代音楽を聴くという体験にむしろ彼は魅惑的なものを見出した。
 プログラムによると、演奏曲目はすべて現代の海外の作曲家による作品だった。出演予定の打楽器奏者は三人で、そのうちの一人は女性だった。
 ステージ上には巨大な箱のような物体が三組、並べて設置されていた。実際にはそれらは箱ではなく、コの字型に並んだティンパニやシロフォンやヴィブラフォンに、シンバルや銅鑼やトライアングルやカウベルが取り付けられた、箱型をした一組の打楽器セットだった。
 十九時になると照明が落とされて客席は静かになった。三人の演奏家がステージに現れると拍手が起こった。黒のダブルのスーツに身を包んだ二人の男性奏者は、二人とも髪が短く、目鼻立ちがこじんまりとしたとらえどころのない顔だちをしていた。二人とも不機嫌そうな表情をして、まるで人前に立って演奏することにまるで気乗りがしないといった風に見えた。拍手を受けてもにこりともしない。
 真っ黒な髪をアップにして黒いドレスに身を包んだほっそりした体型の女性奏者のシルエットはどこかカラスに似ていた。どう見ても美人と言えるような顔立ちではなかった。目が細く、唇がぼってりしていて、やはりどこか機嫌が悪そうに見えたが、それでも彼女は一応微笑みらしきものを浮かべて拍手に応えた。しかしその笑みアスファルトに落ちたひとひらの雪のようにすぐに消えた。
 彼ら三人とも不思議なほど似て見えた。顔だちも背格好もそれぞれ違うのに、たたえている雰囲気が三つ子のようにそっくりなのだった。
 演奏家たちはそれぞれ三組の打楽器セットの前に移動した。男性二人は両端の、女性奏者は中央の打楽器セットの前にそれぞれ立ち、片手にマレットを、もう片方の手にスティックを一組ずつ持った。そして演奏がはじまった。
 その夜演奏された曲はいずれも、二井には未知のものだったが、曲自体にも演奏にも特に二井は興味深いものを見出すことはなかった。それほど悪くはない曲と、それほど悪くはない演奏によって手堅くまとまってはいるが、興奮や感動を覚えることはなかった。もちろんそのような経験は何度もあったし、がっかりするようなことでもなかった。
 プログラムに記された5曲の演奏が終わった。演奏家たちは再びステージ前方に出てきて、頭を下げた。観客は拍手をして三人はステージを去った。それでこの日のコンサートは終了のはずだった。
 すぐに舞台袖から女性奏者が一人で戻ってきた。すでに大半の客が帰る準備を始めていた。出口に向かっている者もいた。
 女は無言で茫然とステージ中央に立ち尽くしていた。二井はなぜか目を離せずに座ったまま彼女を見ていた。拍手は起きなかった。女性奏者は滑るように移動して中央の打楽器セットの前に立った。先ほどと同じようにマレットとスティックを構えると、そのうちの一本のマレットを、目の前に吊るされていたシンバルに触れさせた。そしてその表面を撫でるようにマレットをそっと動かしはじめた。
 耳を澄ませても聞こえないほどかすかな音がホールに響いた。残りのマレットとスティックも一本ずつ加わってやがて同じ一枚のシンバルに四本の棒が触れた。音量はわずかに増したがそれでもまだほとんど聞こえないに等しいものだった。ただ空気が揺らぐ感じだけが伝わってきた。
 一枚のシンバルから発せられているとはとても信じられない多様な音色がそこに生じていた。つかみどころのない、たいそう不思議で、不安定な音楽だった。音楽というより音の泡とか音の煙とか呼ぶべきものだった。または何かの自然の音を再現しているような、例えば森の木々のざわめきとか、波の音とか……、そうだ、波の音だ。二井は島根の故郷の町にいつも響いていた海鳴りの音を耳に聞いていた。
 音だけではなかった。風に乗って潮の香りが届いて、あたりに漂っていたし、波の飛沫が顔に当たるのを感じさえした。灰色の水平線が眼前に広がっていた。故郷で過ごした最後の日に見た、あの冬の海の光景だった。二井は実際に眼前にそれを見ていた。彼はその瞬間だけ故郷に、過去の日に戻っていた。
 海辺の光景は唐突に消えた。いつしか音楽は終わっていて、二井の意識はうらぶれたコンサートホールに引き戻された。女性奏者はすでに舞台袖に向けて歩き出していた。誰も拍手をしなかった。いや、二井の耳には聞こえなかっただけかもしれなかった。女性奏者はそのままステージを去った。場内に明かりが灯り、観客たちは立ち上がって出口へと向かいはじめた。
 二井は椅子に座ったまま、最後の曲について考えていた。二井の心に生じていたのは一種の混乱だった。あの鴉のような女性演奏家が、ただ一枚のシンバルだけを使って演奏した短い曲が突然起こってすぐに通り過ぎて行った突風のように彼の精神をかき乱していた。
 二井はプログラムを見た。最後に演奏されたシンバル独奏曲の題名と思しきものはそこには見あたらなかった。記載されていた最後の演目は、スティーヴ・ハートというアメリカの作曲家による『打楽器によるアンサンブル』で、それは三人の奏者による長大な楽曲だった。
 だとしたらあの曲は何だったのか? アンコールのようなものだったのだろうか。この手の現代音楽のコンサートにおいてアンコールのようなものが演奏されることがあるのかどうか、二井は知らなかった。少なくとも二井がこれまで行ったコンサートにはなかった。
 二井は女性演奏家の名前を見た。「山瀬雪乃」、それが彼女の名前だった。二人の男性演奏家の経歴はバスト・アップの写真付きでこと細かにそれぞれ十行ほどにわたって書かれているのに、山瀬雪乃の経歴は一行で終わっていた。「八王子市生まれ」、それだけ。名前と出身地だけで、生年も経歴も出身大学も一切書かれていない。彼女にだけ写真もない。
 二井は「山瀬雪乃」という活字を睨みながら最後のシンバルの曲を頭の中で反芻していた。その楽曲は二井にショックを与えた。自分が理想とする音楽と類似するものを、彼はその曲の中に聴いた気がした。
 しばらくすると誰かが横から声をかけてきた。お客様、申し訳ございませんがコンサートは終了いたしました。いつの間にかそばに立っていたスタッフの女性が、二井に向かってそう告げていたのだった。二井は我に返り、すみません、と言いながら立ち上がった。しかしふと思い立って二井はその女性に尋ねてみた。女性の演奏家が最後に演奏した曲は、誰の何という作品だろうか。
 女性はやや困惑した表情を浮かべた。そして、自分は何も知らないという意味のことを丁寧な言葉づかいで言った。
 二井は客席に長く居座っていたことを詫びて会場を出た。
 しかしなおもあきらめきれなかった二井はすぐにはホールを出ず、館内で目についたスタッフらしき人たちに、手当たり次第に最後のシンバルの曲について質問してみた。ほとんどの人が知らないと答えた。場合によっては無視された。
 なおも館内をうろついていると先ほどコンサートホール内で彼に退出を命じた女性スタッフと再び出くわした。彼女は二井を見てまだ帰らないのかこの男はという表情を浮かべたがすぐにそれを笑顔で隠して会釈をした。二井はわらにもすがるつもりで彼女に声をかけた。山瀬雪乃に会うことはできないだろうか、それが無理ならせめて彼女に、最後のシンバルの曲の題名と作曲者を尋ねてきてもらえないだろうか。 
 女性は最初の申し出を断り、後のほうをしぶしぶ了承してくれた。彼女は廊下の奥に消えていき、五分ほどで戻ってきた。
「題名は『夢見るユートピア』だそうです。『ハンス・ベルグナー』という作曲家による作品だということです」
「『ハンス・ベルグナー』? 聞いたことのない名前だな。それはどういう音楽家なのですか。どこの国の、いつの時代の、どんな作風の作曲家なのですか」
 女性スタッフは答えなかった。答えずにじっと二井の顔を見つめていた。彼女の目つきの意味するところは明らかだった。二井は丁重に礼を言って会場を後にしたのだった。
 歩いてアパートに帰る途中、二井は「山瀬雪乃」なる女性について考え続けていた。その日に見た三人の演奏家の中で、二井には彼女がもっとも優れているように思えた。思い返してみると彼女が演奏中に銅鑼を強打したとき、華奢な体型からは思いもよらないその破壊的な音に二井は慄然としたものだった。しかしそれも、最後の「ハンス・ベルグナー」の曲のために、判断に偏りが生じているのかもしれなかった。
 その夜、二井は故郷の海を夢に見た。泳ぎながら遠ざかる兄の頭の夢だった。

 二井は暇さえあれば「ハンス・ベルグナー」の正体を追い求めるようになったが、すべて徒労に終わった。インターネットや図書館を駆使したり、あちこちのCDショップや楽譜店に問い合わせたりもしたが、何の情報も得られなかった。山瀬雪乃という名の女性演奏家はいったいどうやって、そんなマイナーな音楽家を発掘したのだろう。二井は『夢見るユートピア』をもう一度聴きたかった。故郷の海を再現したあの美しい曲を改めて聴いてみたかった。一つの音色のみを使って冬の海岸と潮の匂いと冷たい風をその場に立ち上げるような音楽。
 二井はドラムを練習するとき、しばしば記憶を頼りにその曲を再現しようとした。似た音を出すことはできても、何かが決定的に、遠く及ばない気がした。

 二井が再び「山瀬雪乃」の名前を目にしたのはそれから三か月後のことだった。春休みを目前に控えたある日のことだった。昼過ぎにアパートに帰った二井は、ポストに入っていた例の八王子市の地域情報誌のチラシのイベント情報の欄を階段を登りながら読んだ(その行為はすでに習慣になっていた)。そこに『第二回・打楽器アンサンブルの夕べ』という文字を見つけたのだった。会場も、出演する演奏家も前回と同じだった。二井はついにこのときが来たと思った。山瀬雪乃と再び会う機会を得たのだ。
 数日後、二井は前回と同じ会場の前に立っていた。その日はどういうわけか前回と似た天候だった。冬は終わりかけていたがまだ寒く、空は曇っていて風は冷たかった。
『第二回・打楽器アンサンブルの夕べ』では国内の作曲家による打楽器の作品を取り上げるとのことで、プログラムには諸井誠、一柳慧、石井眞木、といった名前が並んでいた。しかし曲目など今日の二井にとってはどうでもよいことだった。彼の目的は山瀬雪乃と会うことであり、ハンス・ベルグナーについての情報を聞き出すことだった。
 開演まで二時間も早く会場に着いてしまった二井は特にやることもなかったので館内で時間をつぶすことにした。廊下のベンチに座って目を閉じ、透明ドラミングをはじめたのだった。
 二井が先日出来上がったばかりの作品番号『第二十五番』を頭の中で演奏し終えて目を開いたとき、視界の中には一人の女がいた。背が高く痩せた、カラスに似た女のシルエットには見覚えがあった。
 二井はほとんど反射的に声をかけた。「待ってたんですよ」
 そんなにすかさずそんな言葉が出たことに、二井は自分で驚いていた。いくらなんでも唐突すぎる! それに本当に彼女だろうか? 別人ではないだろうか。しかしどう見ても目の前を滑るように移動する女性は彼の記憶にある山瀬雪乃だった。前と同じような黒いドレスを着ている。そしてどこか不機嫌そうな顔つきも、何度も思い出した彼女のものだった。もし別人だとしても、言葉はすでに放たれてしまったし、ひっこめることはできない。二井もまたひっこめることを望んではいない。
「ハンス・ベルグナーなんていなかったんですね。そんな音楽家は実在しない。あなたがついた嘘だったんだね」
 女は自動販売機の前に立ち、硬貨を入れてのボタンを押した。がちゃんという音がして、彼女は
販売機から『午後の紅茶』を取り出した。その缶を手にした彼女は振り向いて、二井の顔を見た。そして細い目をさらに細めるような表情をした。
 いきなり話しかけられて困惑し迷惑している顔ではない、と二井は思った。女はやはり滑るように歩いて、二井の斜め前に立った。一メートル半ほど離れたその位置から、女は二井をじっと見下ろしていた。何だか幽霊みたいに存在感がない。二井は見つめられながら、少し落ち着かない気分になった。
「私ね、ずっと想像してたの」女はいきなり言った。その声は小さく、ほとんど隙間風のようだった。「あのとき曲について質問してきた人が、私の答えを真に受けて、存在しない音楽家について調べまわったり想像を巡らせたりするところ。そのことを思い描くとき、私は笑みを抑えきれなかった」
 悪い女みたいだね、と二井は言った。
 彼女はベンチの二井の隣りに腰かけて、缶のプルタブを引っ張り、熱そうに一口飲んだ。
「あちこち探しまわったんです。まるっきり信じていたからね。一度も疑わなかったよ」と二井は言った。
「いつ、嘘だって知ったの?」
「今日ここで、あなたを見たとき」
 彼女は唇を曲げた。それは微笑みらしく見えた。
「私もすぐにわかったわ」
「何が?」
「あなたを見て、この人があのときの質問者さんなんだって」
 まさか、と二井は言った。
「だってあなたは、いかにもそういう人らしく見えるわ」と彼女は言った。
「そういう人って?」
「いかにも、何かの実在を疑っても、それが存在しないとわかった後でも、夢中で追い求めそうな人。追い求めるという行為そのものに、価値を見出しそうな人」
 二井はその言葉について考えていた。すると彼女がフフフと笑った。
「冗談だよ。冗談に決まっているじゃない。一目でそんなことまで、わかるわけないでしょう」
「でも当たっているような気もするよ」
「たいてい誰でも心当たりのある、誰にでも当てはまることだからね。占い師のテクニックだわ。それにしてもあなたって、どうしてあの時、あんな質問をしたの? どうしてあの曲の詳細を知りたがったの」
「もちろん、気に入ったからだよ。僕はあの曲に、ほとんど感動したんだ」
「何度もあの曲を演奏してきたけど、いつも反応なんてなかった。あの日だって、聴衆はあの曲をまるっきり無視していたでしょう、まるで聞こえてないみたいに。でもそれでいいの。あの曲はそういう曲なの。作曲した時に私が意図していたのは、まさにそういう効果だったから。短くて静かで、一瞬のうちに風みたいに通り過ぎていく音楽。耳にしたそばから消えて、あとに何も残さず、思い出そうとしてもひとかけらも覚えていないような……」
 二井は彼女の顔を見た。「あの曲を作ったのは、君なの」
「そうよ」山瀬雪乃はなんでもなさそうに言った。「私が作った曲。ずっと昔にね」
「それで、どれだけ探しても見つからなかったんだ」
「そんなに探してたの? 気の毒なことしちゃったね」彼女はさほど気の毒そうでもない口調で言った。
「あれは僕にとって理想的な音楽だった、完璧な音楽だった。聴きながら僕は故郷の海に連れ戻されたんです、潮風の匂いと海鳴りの音があたりを取り囲んだ。砂浜の砂が顔にかかる気さえした。あなたはシンバルの音色だけで、海を描き出したんですよ」
「へえ。面白い感想だね」と山瀬雪乃は言ったが、その表情は満足そうに見えなくもなかった。二井は用意しておいた口説き文句がそれなりに功を奏したことを知った。
「じゃああなたの故郷には海があるんだ」
 二井は故郷について話し、ついでに自分のことについても少し話した。島根の海辺の町から来たこと。自分は大学生で、打楽器を演奏していて、作曲もすること。山瀬雪乃はいちおうは耳を傾けているように見えた。
「今日は『夢見るユートピア』は演奏する予定なの?」と二井は尋ねた。
「『夢見るユートピア』? 何それ」
「何って、曲のタイトル。あなたがスタッフの女性を通じて教えてくれたタイトル」
 彼女はぽかんと口を開けて何か思い出そうとしていた。それからしばらく一人でクスクスと笑っていた。「そう、そうだった、『夢見るユートピア』ね。確かにそう言ったわ。どうしてそんな言葉が出てきたのか、もう思い出せないけど割とわけわかんないタイトルだよね。、あれは口から出まかせでつけた名前だよ。正式なタイトルにはできそうもないなあ。『夢見るユートピア』。あの曲は今日は演奏しないと思う。時間が足りないから」
「そう、残念だな」
「ねえ、またあの曲を聴きたい?」
「もちろん。だって三か月も探し求め続けていたんだから」
「じゃあ今度私の家に来なさいよ。あなたのために演奏してあげるわ。三か月も無益な努力をさせてしまったことの埋め合わせに。寺田町にある、『ブルー・ヒル』っていうマンションの、1309号なの。わかりやすい建物だから、すぐにわかると思うわ。いつでもいいわ。あなたが来たいと思った時に来ればいいわ」
 その不思議な誘いが真剣なものなのかどうか、二井が考えていると、山瀬雪乃は立ち上がって、滑るように去って行った。

 『ブルー・ヒル』は小高い坂の上にある青い真四角の建物だった。玄関前の植え込みには花が咲き乱れ、立派な門構えのエントランスがあった。オートロックのパネルに部屋番号を入力すると女の声がした。彼女は「いらっしゃい」と平然とした口調で言った。
 部屋のインターフォンを鳴らすと山瀬雪乃が出迎えた。彼女は黒のワンピースを身に着けていた。二井の訪問を受けても、彼女は驚いた風にも意外そうにも見えなかった。まさかあんな誘いを真に受けるなんて、というような態度にも見えなかった。まるでその日二井が訪問することを知っていたかのような、あらかじめ予定にあったかのような態度だった。もちろん二井だって事前に連絡したかったのだが、連絡先を知らなかったのでどうしようもなかった。直接訪ねる以外になかった。
 部屋は広かった。彼女はそこに一人で暮らしているのだと言った。実家がお金持ちなの、となぜか言い訳をするように彼女は言った。
 リヴィングの大きな窓からは八王子市の街並みを見渡すことができた。家々の屋根とビルとところどころに点在する緑が連なって山の方まで伸びている。
「飛び降りてみたくならない?」と山瀬雪乃が言った。
 まさか、と二井は言った。
「私はしょっちゅうそんな気になるよ。試したことはまだないんだけどね」
 冬の終わりの午後のことだった。山瀬雪乃はコーヒーとクッキーをふるまってくれた。食べ終えると、彼女は別の部屋に消え、しばらくしてスティックとマレットと、シンバルを吊り下げたスタンドを手に持って戻ってきた。そして窓を背にして立ち、鉤状のスタンドを床に置いた。
 彼女は両手に一組ずつ持ったスティックとマレットを、床と平行に吊るされて浮かんだシンバルの表面に、そっと触れさせた。たちまちのうちに、耳にぎりぎり届くほどの小さな音が、細かな水滴のように部屋に立ち込めた。二井はダイニングの椅子に腰かけたままそれを聞いた。山瀬雪乃との間隔は数メートルほどしか離れていない。それでも二井は耳を澄ませてしまう。それほどにひそやかな音だった。それはあの秋の終わりにうらぶれたコンサート・ホールで聴いたものと同じ音楽だった。数か月ぶりに耳にするのに、二井はその楽曲を覚えていた。不思議なほど正確に覚えていた。そしてあのときと同じ感覚をその曲は二井にもたらした。二井はいつの間にか海岸に立って、潮風と砂を浴びていた。ひんやりとした海辺の空気に包まれていた。彼は故郷の冬の海辺に立ち返っていた。遠くの波の音が耳を震わせていた。
 山瀬雪乃はどことなく虚ろな表情を浮かべて演奏していた。それは落とし物を探しながらだんだん自分が本当にそれを所有していたのかどうかが疑わしくなる、といった表情に見えた。
 曲が終わった。二井は自分が故郷の町の海岸海ではなく山瀬雪乃のマンションのリヴィングにいる、ということをを確かめた。しかし空間を移動して遠く隔てた場所から戻ってきたという感覚は確かに残っていた。

 一年ぶりの『新歓ライヴ』に二井はまたしても一人で出演した。二井は山瀬雪乃をそこに招待していた。その日の夕方、ライヴ後に二人で『ロイヤル・ホスト』に夕食を食べに行った。山瀬雪乃はガーリック・クリームソースのかかったハンバーグを食べながら二井の演奏について感想を述べた。
「あなたの演奏って独特だね。独特っていうか変だね。変過ぎる。まともじゃないわ。あんなのヘンタイの音楽じゃない。どこの世界にドラム・セットをあんな風に叩く人がいるの? あんなに薄気味の悪い音楽もないね。でもそうはいってもけっこう面白かった。あちこちでポリリズムっぽい部分があったね。手と足が違う拍子を刻んだりとか、右手と左手がそれぞれ、7と9のリズムを刻んだりとか。あれは良いわ。ああいうのは面白いわ。ロック・ドラムってもっとストレートっていうか、もっと単純なものだと思っていたんだけど、あなたの演奏は全然違うね。ありていに言うと知的興奮みたいなものを味わえたわ。しかも難解なばかりじゃなくて変に覚えやすくてキャッチ―だし」

 二井は何度も『ブルー・ヒル』に通い、いつも同じように過ごした。山瀬雪乃が演奏する『夢見るユートピア』は、聞くたびに彼に同じ感覚を及ぼした。その曲がもたらす幻想は、繰り返されるごとに強度を増した。その音楽は彼が到達したいと願いながら今だ届かずにいる何かを象徴していた。目に映っていながら実際には目も眩むほど遠くにあるもの。
「他に作曲した作品はないの。それも聴いてみたいな」あるとき二井は言った。
「もうないわ」
「もう?」
「過去にはいくつか書いたの。でもほとんどは失われてしまった。自分で破棄したの。楽譜も、それらについての記憶もね。努力して記憶から消したの」
「どうして、もったいない。聴いてみたかったよ」
「作曲するのは怖いの」と彼女は言った。「曲を作っているとね、自分の中の深淵めいた場所の存在を感じるの。自分の中にある、その深みまで降りて行くと、赤い裂け目が口を開けているの。血のように赤いの。まるでマグマみたい。中はドロドロして煮えたぎっているいる。それが黒々した地面の裂け目から覗いている。私が必要とするものは、その赤い裂け目の中にあるの。私はその中に手をつっ込む。私の手は熱を感じる。どんなに手を伸ばしても届かないところに、欲しいものはあるの。皮膚が溶けて爛れるのを感じる。それでもそれを掴み取るまでは、私は手を引き抜くことができない。ようやくそれを掴んだ時、私の手はあとかたもなく溶けてしまっている。そういうのが私にとって作曲することだった。そういう感じってわかる?」
 二井は、わからないと思う、と答えた。そういう感覚を覚えたことはなかった。彼にとって作曲とは、いちばん最初のほんの少しの衝動のほかは、機械的で論理的な作業でしかなかった。
「あなたにはわからないよ。だって私より三つも若いもの」
「関係あるのかな、それ」
「あるにきまってるじゃない」
 山瀬雪乃はそんな風にことあるごとに自分の方が三歳年上であることを強調した。そして二井が彼女について知り得た個人的な情報といえば、それぐらいのものだった。つまり彼よりも三年早く生まれたということ。詳しい家族構成も、普段何をして暮らしているのかも知らない。二井がマンションを訪れると彼女はいつも部屋にいた。早朝でも真夜中でも、平日でも日曜日でも。学校に通っているような気配はなかったし、演奏家として練習やコンサートを頻繁に行っているわけでもなさそうだった。プライベートに立ち入るような質問はたいていはぐらかされるか黙殺されるかした。
「でもだからって、せっかく作った曲を破棄しなくてもよかったのに」と二井は言った。
「正確に言うと、作ってもいないんだよ。最後まで完成させられた曲はほとんどなかった。だって手が爛れちゃってたから。唯一ちゃんと掴みとれたのが、『夢見るユートピア』だけだったんだよ」

 二井は山瀬雪乃の声が好きだった。クラリネットの中音域のような豊かで丸みを帯びた柔らかさのなかに、金属的で硬質な芯が通っているようなその声。彼女の身体を熱がめぐるようなとき、声色もそれに伴って変化した。
 山瀬雪乃はその声で二井にいろんな物語を語った。彼女にとって物語を語ることは苦にはならないらしく、放っておくとずっと話していた。民話やお伽噺や昔話、そして彼女自身による創作のお話。それらオリジナルの物語の舞台は、六万年前の原始時代だったり、二百年後の未来だったりした。大抵の場合彼女の分身と思しき少女が主人公で、内容は時として荒唐無稽だった。二井は時々それらの夢物語に込められた寓意や教訓について質問してみたが、山瀬雪乃は呆れてクスクス笑うだけで答えなかった。笑い声を聞くために二井はわざと愚かなな質問をすることもあった。
 最も語られる機会が多かったのは、例の架空の作曲家「ハンス・ベルグナー」についての物語だった。二井と山瀬雪乃にとっての共通の幻想であるその名前は、二人の間ではいつしか実在の人物のようになっていた。彼らはことあるごとにハンス・ベルグナーの人生について語り合った。いつしか正式なタイトルとなっていた『夢見るユートピア』の作曲者は二人にとっては「ハンス・ベルグナー」であり続けた。
「ハンスは1908年にワルシャワでユダヤ系の家庭に生まれた」。真夜中、窓辺の椅子に腰かけてコーヒーを飲みながら山瀬雪乃は語りはじめた。二井はソファに座り、彼女と同じものを飲みながら聞いた。
「父親は歴史学者で、母はピアノ教師だった。年の離れた姉が一人いた。母親から手ほどきを受けて、ハンスは三歳のときにピアノをはじめるの。はじめて作曲したのは七歳のときだった。ハンスはその作品を学校の音楽の授業で自らピアノを弾いて披露した。その作品は同級生や教師から、予想外の反発を受けた。彼の人生にはそんな風に、いつも周囲からの無理解が付きまとうの」
 山瀬雪乃は語り続ける。ハンスは十八歳でワルシャワ音楽院に入学する、旺盛に作曲を続けていて、二十歳の頃にはすでに五十を超える作品を書きあげており、そのジャンルも多岐にわたっていた。ピアノ曲、弦楽四重奏曲、ピアノやヴァイオリンの協奏曲、交響詩、交響曲。プライドの高かった彼は自分には書けない形式など存在しないと信じ、そのことを証明するようにあらゆるジャンルに手を染めたのである。
 しかしハンスの作風は当時の東欧においてはいくらか前衛的過ぎた。そのために周囲の人々はその作品にほとんど理解を示さなかった。彼らは口をそろえて彼の音楽を批判した。どんなに批判されてもハンスは作風を変化させることはなかった。彼は決して周囲に迎合するタイプではなかったし、もし人々が自分を理解しないのならばそれは彼らの知性と感性が劣っているためだと、真剣に考えていた。バルトークやラヴェルやドビュッシーといった、当代の大作曲家たちさえ、「大衆におもねり過ぎた」、「それほどの才能もない」音楽家であると、ハンスはみなしていた。
 ハンスの作品は確かに大衆におもねってはいない。楽譜を最初に読むことになる演奏家に対してさえおもねっていない。偏屈で激しやすい性格にも似つかず、楽譜は極めて美しく清書されていたが、その音楽は決して理解しやすいものではなかった。というより理解をはねつけているように演奏家たちは感じた。すべての音符に強弱記号が指定され、音符と同じほどの注釈が余白に埋め尽くされている。その上ハンスは非常にしばしば、二本の腕しか持たない人間にはどう考えても演奏できないフレーズやパッセージを書いた。そのことについて演奏家が質問したり文句をつけたりしようものならハンスは火がついたように怒りだして悪口を浴びた。作品に関心を持った演奏家たちも愛想をつかせて去って行った。しかしハンスは誰に何と言われようとも完成した作品を書きなおしたりはしなかった。
「私がある音を書くのは」とハンスは年の離れた姉に宛てた手紙に書いている。「そこにその音が必要だからです。私は演奏者に自らの限界を超えることを求める。指が届かないとか手が足りないとか、そんな不平を洩らす者に用はないのです」
 ハンスが理想とする演奏家はしかし彼の前には現れなかった。誰もが彼の作品の演奏を拒んだ。演奏家たちは一様に、ハンスの楽器や演奏方法についての知識の不足を指摘した。
 作品は音楽院の教授たちからもこてんぱんにやられ、評価はいつも最低に近かった。しかし傲岸不遜といえるほど自信過剰な彼は自らの才能を一度たりとも疑うことはなく、自分は選ばれた人間であると真剣に信じていた。周囲からの無理解は、そういった人物が往々にして味わう試練のようなものだと考えていたので、誰に何を言われても気に病むことはなかった。
 音楽院をどうにか卒業したハンスは作曲家として生きていこうとする。両親は反対するが彼は耳を貸さなかった。彼はワルシャワのはずれにあるアパートに部屋を借りてそこで音楽家として生活をはじめた。しかしいまだにまともに作品を演奏してもらった経験もない作曲家が生きていく道は険しかった。彼は頭の中に鳴り響く音を紙の上に移し続け、完成した作品の楽譜は机や床に積み上げられていき、手狭なアパートの一室はやがて楽譜でいっぱいになった。それらの作品は音になるどころかハンス本人以外の誰も、楽譜に目を通すことさえなかった。書いた作品が音にならないということは作曲家にとって致命的な事態である。いくら精密に音符を書いても演奏してもらわなければそれは音楽にはならず単なる紙の束でしかない。そんな紙の束に埋もれて彼は生きた。
 作品が収入を得る手立てとなる可能性など一向に見えない。そして彼は音楽以外の労働を軽蔑し、拒絶していた。本来なら必然的に貧困に追いやられるはずなのだったが、ハンスのおそらくこの世で唯一の味方と言ってもよい年の離れた姉が、彼を経済的に援助してくれたので(姉はワルシャワの国立図書館の職員だった)彼はどうにか生き延びることができたのだった。
 二十五歳のときに、ハンスは初めて彼の作品と真剣に向き合ってくれる演奏家と出会った。モーリス・ブラントという名前のその若いピアニストはまだ十代で、音楽大学の学生だった。金色の髪をした背の高いその青年は、他人に関心を示すことの少ないハンスでさえ心配を覚えるほど痩せていた。
 初対面でモーリスは、ハンスに現代の音楽に対する不満を吐露した。現存する作曲家の作品のほとんどに魅力を感じず、知的な刺激も興奮も見出すことができない。つまりモーリスもまたハンスと似た思想の持主だった。
 友人の演奏家からあなたの話を聞きました、とモーリスは言う。友人はあなたについて「音楽について救いがたく無知」だとか「鼻持ちならない自惚れを抱いたいけすかない野郎」だとか「犬も食わないようなろくでもない作品ばかり」だとか言っていました。友人は、かつてあなたのピアノ・ソナタの書法上の欠陥を指摘した際に、あなたから手ひどく鬼のように罵詈雑言を浴びせられたことを、今も根に持っていて、それであなたのことを悪しざまに非難するようになったのです。友人が文句をつけた箇所について僕は教えてもらいました。両手で同時に十二度の音程を押さえながら半音ずつ平行に移行するフレーズ、そんなものは演奏できない、と彼は言いました。でも僕はその話を聞いて、あなたとあなたの作品に興味を持ったのです。
 モーリスが問題のピアノ・ソナタの楽譜を見せて欲しいと言ったので、ハンスは紙の山の中からそれを引っ張り出して渡した。モーリスは楽譜を一通り読み終えた後、僕ならこの曲を弾くことができます、と言った。
 モーリスは実際には楽譜の通りに弾けなかったし、ハンスにもそのことはわかっていた。そんな無謀なフレーズは化物でもない限り演奏することはできない。それでもハンスは満足していた。彼はモーリスのような態度で作品と向き合う演奏家の出現を求めていたのだった。
 モーリスが初演した『ピアノソナタ第一番』は意外な反響を呼び起こした。ハンスの特異なセンスはある種の人々を惹きつけ、多くの演奏家が彼の作品を演奏したいと申し出るようになった。一年後には管弦楽作品も初演された。彼は少しずつ有名になった。
 しかしその時期、欧州においてナチス・ドイツが台頭し、ポーランドのユダヤ人コミュニティには恐怖が吹き荒れていた。1936年にはハンスの両親がナチスに逮捕されて収容所に送られた。作曲家としてのキャリアを歩みはじめた矢先、ハンスは姉と共にアメリカに亡命することになる。
 
「ヘヴィーな人生みたいだね」と二井は言った。
「これまではね。でもここから先は違うよ。ハンスはハリウッドで開花するの。そう、『大成功』をおさめるの。それで一躍彼の名前は有名になる。そう、あのハリウッドとかいう大舞台に彼は一躍有名花形作曲家として躍り出ることになる」
「どんな風に?」
「その先は、まだ考えていない」と山瀬雪乃は言った。彼女がその台詞を口にすると、夜ごと語られる物語は断ち切られ、架空の作曲家の姿は二人の間から消滅する。そして彼らは現実に戻って眠るのだった。

 山瀬雪乃が話すたび、どういうわけかハンス・ベルグナーの人生は悲惨な方向へ傾くばかりだった。彼女は映画にしても小説にしても漫画にしても暗く救いのない筋書きを好むタイプだった。そんな彼女がハンス・ベルグナーの生涯を輝かしい成功へと導くはずもなく、ハリウッドで「大成功」をおさめるという言葉はいつしか完全に忘れられた。アメリカにおけるハンスは故国ポーランドにいた頃よりもさらに転落してゆく。ハンスはロサンゼルスのスラムすれすれの低所得者が多く住む地域に一人で暮らし、ピアノもないような部屋で相変わらず彼の頭の中の宇宙を紙に書き写す作業に没頭する。その作業に没頭するほど、ハンスをめぐる状況は悪くなっていく。唯一の肉親であった年の離れた姉は肺を病んで客死し、彼は完全に孤独になる。作品はアメリカでは全く受け入れられず、傲慢な性格は年を経るごとにひどくなり、周囲からはますます人が離れていく。
 
 夜明けに近い真夜中の時刻、山瀬雪乃はいつものように窓の外を見ながらコーヒーを飲んでいる。彼女はパジャマの上にニットのカーディガンを羽織っただけといった格好だったが、寒さを感じていないように見えた。彼女は小さな声で話し続けている。不幸な境遇について語るときの山瀬雪乃の弁舌は冴えわたっていた。経済的に裕福な家庭に生まれついた彼女は一人で暮らすには広すぎるマンションの一室で不遇の作曲家の悲運の生涯を物語るのだった。
「ハンスには作曲のほかにできることはない。肉親も友人も数少ない理解者もみんな失っても、薄暗い狭い部屋で彼は一人で音符を書き続ける。いろんなオーケストラや演奏家に作品を持ちこむけれど、誰も演奏してくれない。楽譜に目を通しもしない。それでも彼は、自分の音楽のスタイルを曲げたりはしない。
 部屋にはカーテンさえない。床に積み上げた楽譜の山はところどころ鼠に齧られている。ありとあらゆるものの上に埃が積もっている。着る服は毎日同じものばかり、体は瘦せ細る一方。見かねたアパートの大家がときどき、食事や衣類を提供したり、部屋を掃除してやったりしていた。
 五線紙を買うためのお金も無くなる。ハンスはやむなく、大嫌いな労働に身をやつすことになる。ビルの窓磨きや靴磨きや新聞配達などの労働を転々としながらなんとか身銭を稼いで生き続ける。空いた時間にはひたすらに音符を書き連ねる。それでも創作力だけは衰えず、頭の中には音楽が絶えず鳴り響いていた。ハンスは実に多くの作品を書いた。しかしやがて世界への怒りと憎しみと悲しみが、彼を蝕んでゆく。自らの才能と作品が評価されないことへの怒り、ナチス・ドイツに対する憎しみ、そして最愛の姉を失ったことによる悲しみ。彼の正気をぎりぎりのところで保っていたのはただ音楽への情熱だけだった。
 戦争が終わっても生活は変わらなかった。ハンスはすでに五十を過ぎて、持ち前の傲岸不遜ぶりさえ衰えを見せはじめていた。作品を人に見せたり、どこかに持ち込んだりすることも止めてしまった。身も心も賃金労働者そのものになりかけていた。日々のきゅうきゅうとした暮らしにただ流されるだけになっていた。作品が音にならないことについて不満を抱くことさえなくなりつつあった。ハンスは孤独に苦しめられるようになった。孤独の苦しみ、辛さが彼に襲いかかる。彼は痛みさえ感じる。実際に胸の奥がキリキリと痛むの。立っていられないくらい。彼は生まれて初めて弱気になったのだわ。それまでは孤独なんてなんとも思っていなかった。苦痛でもなんでもなかった。人間はだれしも孤独だ、なんてうそぶいていた。それが晩年になって孤独の痛みが顕現した。ずっと彼は自分が見て見ぬふりをしてきたことを知る。傲岸で傍若無人な態度で押さえつけていたことを悟る。ああ、可哀想なハンス!(山瀬雪乃は叫んだ)」
「いつハリウッドは彼に微笑むのかなあ」と二井は言った。
 山瀬雪乃は無視して続ける。「ハンスは最後に気が狂ってしまう。十九世紀の芸術家みたいに。彼は机に向かって楽譜を書く。正気を失った状態で、夢中になって来る日も来る日も書き続ける。そしてめでたく完成すると、彼は右手の中指を噛みちぎって、その血を楽譜の扉のページに垂らすの。彼はそのあと机に伏せて、そのまま眠るように死ぬ。床には中指の欠片が転がっている。その作品が『夢見るユートピア』、題名は血に染まった扉に、ハンスらしくない書きなぐったような字で記されているの。彼の作品はすべて姉に捧げられていた。でも『夢見るユートピア』にだけ、献呈はなかった」


3

 二井はその頃、『デスク』という名前の、プログレッシヴ・ロック・バンドのサポート・ドラマーを務めていた。そのバンドのドラマーが突然連絡を断ったとかでサポートを打診され、引き受けたのだった。メンバーはフルートやサックスも含めて全部で七人もいて、楽曲はいずれもテクニカルで長大だった。聴衆よりもむしろミュージシャンに高く評価されるタイプのバンドだった。二井は何度かバンドのリーダーに正式な加入を打診されたが、その度に断っていた。
 年が終わろうとしていた。二井は島根に帰る予定だったのだが、その前日に山瀬雪乃に頼まれて、彼女のマンションの部屋の大掃除を手伝うことになった。
 彼女の部屋は二井が住むアパートの部屋の二倍以上の広さがある。二井は昔から大掃除というイベントが嫌いではなく、そのためにこそ彼女の頼みも引き受けたのだった。彼は窓を拭いたり床を磨いたり、不要なものをひとまとめにしたりした。
 山瀬雪乃の方は、少しも作業に身が入っていないように見えた。彼女は掃除の途中に出てくるいろんなものにいちいち気を取られては物思いに耽っていた。今、彼女は押し入れからサッカーボールを見つけて懐かしがっていた。どうして一人暮らしの女性のマンションにそんなものがあるのか二井は不思議だった。
「ねえ、私一時期真剣にサッカー選手を目指していたことがあったんだよ。知ってた?」
 知らない、と二井は雑巾を絞りながら言った。
「昔高校サッカーの決勝戦で、国立競技場が雪で真っ白だったときがあったでしょう。帝京高校と東福岡高校の、雪の日の決勝戦。覚えていない? あれは良かったなあ」
 覚えてない、と二井は言った。二井はサッカーに対して積極的な関心を持ったことがなかったし、だからもちろんその試合のことも知らなかった。三つ年が離れていたので、彼女が覚えていて二井が知らないという出来事はよくあった。
「ねえ、君が片付けるはずの押し入れは、一時間前から少しも変化してないように見えるんだけど」と二井は言った。
 山瀬雪乃は床に座ってボールを両手で抱えたままぼんやりしていた。彼女はまだサッカーのことを考えているようだった。
「試合中もずっと雪が降ってて、テレビの中継画面はずっと真っ白だったんだよ。そのさまがとても綺麗で、それを見て私はサッカー選手になろうと思ったの」
「どうしてあきらめたの?」二井はフローリングを拭きながら訊ねた。
「とうてい無理だったんだよ。だってそれまで、ボール蹴ったことだってろくになかったんだもの。このボールはその決勝戦を見た後で買ってもらったものなんだよ。でもそうだよね、諦めるべきじゃなかった。どうしてあんなに簡単に諦めてしまったんだろう。あんなに好きだったのに……」山瀬雪乃は、真剣に後悔しているように見えなくもなかった。
「気持ちはわかるけれど、今はどうか掃除に集中してもらえないだろうか、僕はただの手伝いのはずなのに、大掃除の八割は僕が終わらせたようなものだ、窓ふきも、台所の掃除も、風呂とトイレの掃除も、床の雑巾がけもみんな僕がやった、君がやったことといえば押し入れの扉を開けて中のものを引っ張り出して、そこらじゅうを散らかしたぐらいだ。せめて押し入れぐらいは片付けて欲しい」
「ねえ、これから海に行かない」と山瀬雪乃は言った。
「海?」
「砂浜でサッカーをするの。そうだ、行こうよ。海も見てみたいし」
 無茶だよ、と二井は言った。彼女がそんな風に突拍子もない提案を持ちかけてくることは珍しいことではなかった。そしてたちの悪いことに、彼女のそういう提案たいてい抗いがたい魅力を有していた。少し楽しそうだ、と二井は思っていた。
「ねえどうする? 行きましょうよ」
「それより先に、掃除を終わらせないと」
「あなたも本当は悪くない思い付きだなって思ってるでしょう」
「ただ押し入れが……」
「そんなに押し入れが気になるんだったらあなたが片付ければいいじゃない」
「押し入れは君の担当のはずだよ。僕はもう疲れたんだよ。これ以上動きたくないんだよ」
 彼女はため息をつき、仕方がない、といった表情を浮かべた。「でも、あなたも少しは手伝ってね」
「手伝うって、今日の掃除の九割は僕がやったんだ」
「手伝いなさい」と彼女は言った。その声に冗談めかした響きはもはやなく、彼女の目つきは真剣だった。本能的に二井は逆らわない方がいいと思った。彼らは押し入れの掃除をはじめた。
 午後三時過ぎ、ようやく大掃除のすべての工程が完了した。その後で二井と山瀬雪乃は電車に乗って出かけた。
 冬の江ノ島の海岸は当然のことながら寒かった。空は曇っていて風も強く、すでに日も暮れかかっていたし、そのうえ思いのほか人がいて、ボールを蹴って遊ぶことなどできそうもなかった。
 結局二井と山瀬雪乃は鞄にサッカーボールを入れたまま海岸を散歩した。歩き疲れると砂浜に転がっていた大きな流木に腰かけて休憩した。それでも山瀬雪乃は満足そうで、ほとんどはしゃいでいた。
 暗くなると、二人は電車に乗って帰った。

 古い年が過ぎ、新しい年がやって来た。
 1月の半ばに二井はまた山瀬雪乃のマンションを訪れた。その日は成人の日で、山瀬雪乃の誕生日でもあった。彼女の部屋で彼らはささやかなパーティを行った。二井と山瀬雪乃はケーキを食べながらテレビで高校サッカーの決勝戦を見た。
「ねえ、二井君は大学を出たらどうするの」と山瀬雪乃が言った。
 何も考えていない、と二井は答えた。
 二井は大学の三年になる年だった。つまり周りの級友たちが就職について考えるようになる時期だった。二井は最初から、大学に入学するずっと前から就職するつもりなどなかった。だからこそ文学部という学部を選んだというわけでもなかったが、しかしその大学の文学部は就職にめっぽう弱いとして知られていた。そのようなことを気にすることもなく二井が文学部を選んだのは単に経済や法律などと言ったものよりはまだ興味が持てそうだったから、という理由だった。物事をそのような基準のもとに選択し決定する態度はドラムをはじめる以前とそう変わってはいない。しかし卒業後に生計を立てるめどは全く立っていなかった。独奏者として単独で生活していくには、まだいろいろなものが足りない。
「音楽のプロになるつもりなんじゃないの?」
「まあね。そうなれたらいいんだけどね」
「あなたは技術的には今でもプロに引けを取らないと思うけど、でもあなたが目指すような打楽器の独奏というジャンルは一般受けしそうもないし、それだけで生計を立てるのは難しそうだね」
「何かしら世に出る手段はあるはずだよ。別にどこかに所属しないといけないわけでもない。一人でもやっていけるやり方が、何か……」そうは言ったものの二井には何の見通しもなかった。音楽活動を続けてさえいれば、そのうち何とかなるだろうという漠然とした考えしか持っていなかった。
「ねえ、私は思うんだけど、あなたいろんなバンドに参加しているんだから、どこかのプロ志向のバンドに入って、そこでデビューを目指せばいいんじゃないの」
「そんなに簡単じゃないよ。バンドなんて星の数ほどいるのだし」
「でもソロの打楽器奏者よりは、可能性が高いと思うよ。いくら技術が高くて独創的でも、それだけではそんなにお客さんは集まらない。つまりあなたの音楽は誰にも届かない」
「なんだかバンドに所属するというのが、苦手なんだ。怖いんだ」二井はそう言いながら、自分の言葉に驚いていた。俺は怖がっていたのか? しかしその通りだと思った。所属するということに対して自分は本能的に恐怖を抱いている。なぜそんな恐怖を抱くようになったのかはわからない。所属することで自分の中の何かが失われたり損なわれたりするものと、なぜか思い込んでいる。
「何が怖いんだろう。自分でもわからない。きっと生まれつきなんだろうね。一人が性に合っているんだよ」
「駄目だよ、あんまり一人に慣れすぎると。ハンスみたいになっちゃうよ」
 嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれちゃうよ、と言われるのと同じようなものだったのに、二井は彼女のその言葉にことのほか考え込んでしまった。ハンスのようになってしまう。誰にも顧みられず報われることのないまま孤独に苦しみその果てに死んでしまう。そのイメージは恐怖だった。そんな生き方だけはしたくないと思った。何しろ救いがなさすぎる。いや、自分はハンスとは違う、いつか自分にとっての「ハリウッド」が、微笑む日が来るはずだ、二井は自分が根拠もなくそんな風に信じていることに気づいた。
「ねえ、あの選手はきっと有名になるよ」と山瀬雪乃が言った。彼女はテレビ画面から目を離さない。
「君はサッカーに詳しいんだね。僕には違いがわからないよ」
「かっこいいから」
 なんだそんな理由か、と二井は言った。
 試合が終わると、山瀬雪乃は例のサッカーボールを持って近所の公園にサッカーをしに行こうと言った。それは彼女によれば年末の江ノ島でボールを蹴ることができなかったことの「雪辱」であるとのことだった。
 想像した以上に山瀬雪乃はサッカーが上手だった。二井はしょっちゅうあさっての方向にボールを飛ばしてしまい、彼女は冗談めかして文句を言った。

 一月の終わり頃、二井はライヴ・ハウスの廊下で一人の男から声をかけられた。小柄な男で、黒い上等そうなスーツを身に着けていた。綺麗な卵型の頭に髪の毛をぴったりと撫でつけ、小さな丸眼鏡をかけていた。そんな風貌の作曲家を音楽の教科書で見たことがある、と二井は思った。
「二井さんですね」と男は言った。軽くて歯切れのよい、いかにも知的な声だった
 二井は肯定した。
「あなたにお話があるのです」
 彼の風貌も雰囲気も、声の感じも、ライヴ・ハウスに出入りするような連中とはまるで異質に思えた。バンドをやっている風にとても見えない。二井は話を聞いてみることにした。
 近くの喫茶店に入った。小柄な男は自己紹介をした。名前は光村光、あるバンドのリーダーであり、シンセサイザーを弾いている。それはいつものバンド加入のお誘いだった。
光村が率いるバンドはドラマーが不在で、二井に加入を求めているのだ。
 光村は言った。「ドラマーを探しているのです。我々の音楽にぴったりくるようなドラマー。適した人物が、これまでどうしても見つからなかったのです。何人ものドラマーをこれまで試しました。彼らは皆、我々の楽曲の小節の構造すら把握できずに辞めていったのです。そんなときに、あなたの噂を聞いたのです。出演されていた『デスク』のライヴも見ました。あのテクニカルな集団の中にあって、あなたは特に異彩を放っていた。普通のドラマーとは違うことが、一目でわかった。我々はあなたこそが最もふさわしいドラマーだと判断したのです」
 二井にとっては、珍しくもない状況だった。多くの人がこれまでこうして彼のもとに打診にやって来た。二井は普段ならろくに話も聞かずに申し出を承諾する。メンバーではなくサポートでなら、という条件で。今回も同じように答えようと思っていた。しかしそのとき、二井は光村が口にしたある言葉に、これまで覚えたことのない興味を惹かれていた。「楽曲の小節の構造すら把握できずに」、その一節が気になっていた。それで彼は光村に、バンドの音楽性について詳しく聞かせてくれるよう尋ねたのだった。二井が相手に対して自分からそうした質問を投げかけるのは初めてのことだった。
 光村は鞄からCDを取り出して、二井に手渡した。
「バンドの音源です。三曲入っています。ジャンルで言うと、そうですね、一応形式はロック・バンドです。シンセサイザーとベースとドラム。音楽は、何というのかな、少なくともわかりやすいエイト・ビートのロック音楽ではない。でもいわゆるプログレとか、フュージョンとか、そういうのとも違う。あえて言うなら、現代音楽に一番近いかもしれない。でも編成はバンドだし、ビートのある音楽です。そしていくらか激しくて騒々しい部分もあります。だからこそちゃんとしたドラムの音が必要なのです」
「よほど難解な音楽なのですか。つまり普通のドラマーが音を上げてしまうほどの……」
「そうですね。かなり複雑な音楽だとは思います。テンポが変わったり、拍子が変わったり、そういうことです。普通の音楽はやりたくないんです。ありきたりな音には、僕はもううんざりしているのです。申し遅れましたが、僕は今音楽大学で、作曲を学んでいます。幼いころからピアノを学んでいて、クラシカルな音楽教育を受けてきました。でも現代音楽の作曲家になることは興味がない。だいいちそうした音楽は多くの人に届きませんからね。一部の愛好家、好事家を満足させるだけです。その世界は狭い輪の内側で完結している。もちろん僕はその輪の内部で演奏される音楽にもそれなりに敬意と愛着を持っている。でも僕がやりたいのはそうしたことではないのです。僕はもっと広い世界を相手取りたいのです。クラシック以外にも好きだった電子音楽やロック音楽と、クラシックや近・現代の音楽を融合させたい、と考えるようになりました。複雑でありきたりでなくて、美しい音楽、そうしたものを我々は追及しているのです」
 光村は座席に座り直し、コーヒーを一口飲んだ。
「すでに多くの楽曲を書き溜めています。それらの曲はたいていのロック・ドラマーでは、まず演奏不可能なんです。演奏するには高度な技術と、豊かな音楽的な素養が必要とされる。そういう能力を備えたドラマーというのは、滅多に見つかるものではない。だからこそあなたが必要なんです。演奏を聴いて、この上なく適任だと思いました。あなたは明らかに普通ではない。単なるロック一辺倒のドラマーではないとすぐにわかった。そうじゃないですか?」
「確かに僕も多くの現代音楽は好んでいます。もともとはソロの打楽器奏者として活動することを望んでいたから」
「あなたの演奏には、ある種の無機質さがあった。そのことも僕をひきつけました。あなたの演奏は徹底して感情を排しているように聞こえる。僕らの音楽にピッタリだと思いました」
「確かにそんなことは考えたことがある。感情や気分による揺らぎを演奏に表出させるべきじゃない、演奏は機械のようにあるべきだと。それについて褒められたことはないけど」
「あなたもきっと僕らの音楽を気に入ってくれると思う。バンドの名前はまだ言っていませんでしたかね? 『恐竜族』というのです。メンバーは今のところ僕を含めて三人です。ベーシストとヴォーカリスト。ベーシストは二十歳で、彼が一番最初のバンド加入者でした。インターネットのメンバー募集のためのサイトを通じて連絡を送ってきたんです。
彼はすごいベーシストですよ。十二歳の頃から学校に行くのをやめて、家にこもりっきりで一人でベースを弾いていた、と初めて会ったときに言葉少なに語りました。なぜ学校に行くのをやめたのかは知りません。僕が彼について知っていることはそれしかありません。。
 彼は病気なのではないかと思うほど痩せて、顔色も青白かったんですが、演奏はすごい。すさまじいです。初めて会ったとき、僕はそれを目の前で見たのですが、彼はヤマハの六弦ベースを、クラシック・ギターのように弾きました。目にも止まらない速さで滑らかに音が流れ、それでもフォルティシモは悪魔のように荒々しかった。ハーモニクスは夜の森に響くフクロウの鳴き声のようでした。青ざめた顔で、眠るような表情のまま、そんな音を弾きました。彼の指は彼自身の意思とは無関係に暴れまわる異形の生命体のようでした。そしてそれは実際に異界めいた音を生みだしていた。そう、そして彼は作詞家でもあるのです。楽曲の大半の詞はベーシストが書いたものです。
 本当はバンドマンではなく詩人になりたかったのだと彼は言っていました。現代の日本で詩人として生きることは困難で、バンドの楽曲の歌詞として自作の詩を発表することを選んだのだった。実際に読むまでは、どうせ引きこもりの青年が書いた独りよがりで陰鬱な言葉の羅列だろうと思っていたんです。でもその予測は裏切られました。彼の詩は、シンプルで抽象的でありながら、言いようのない残酷な気配が漂っていた。そして美しく、一つ言葉を抜いただけでも、語順を一部分だけ変えただけでも、台無しになってしまいそうな、そういう繊細で傷つきやすい詩だという印象を受けたのです。その危うさが気に入ったのです。これは使えるなと思った。もともと僕は恐竜族の音楽に歌を乗せるつもりはなかった。インストルメンタルを志向していたのです。でも彼の詩を読んで考えを改めました。それで、バンドの募集広告に、ドラムのほかにヴォーカリストも付け加えたんです。
 それでそのヴォーカリストですが、彼は八杉という名前で、大学の工学部の学生です。彼もまた、自分が志向する音楽に共鳴してくれる仲間を見つけられずにいました。そんな折に募集告知を目にして、僕のもとに連絡してきたのです。
 八杉は自身で作ったというデモCDを持参していました。収められていた楽曲は、ひどく風変りなものでした。いわゆるブラスト・ビートと呼ばれる、極端に速いドラム、ノイズみたいなギターとシンセサイザー、それらの伴奏の上に、演歌か民謡のようにも聞こえる奇妙でエキゾチックなメロディーの歌唱が乗っていた。八杉の歌唱法もまた、独特かつ多様でした。金切り声をあげたり囁いたり、あるときには赤ん坊に子守唄を聞かせる母親のように優しく、またあるときにはバリトン歌手のように朗々と歌うのです。
 それまで僕が書き溜めていたインストルメンタルの楽曲に、八杉が新たにメロディーを作曲して乗せてみた。すると曲はまるで異なるものに変貌しました。ベーシストの詩も、八杉が作るシュールで東洋的なメロディーに意外なほど調和しましたよ。
 それでその三人で、恐竜族は最初のライヴを行ったんです。下北沢のライヴ・ハウスでした。聴衆の反応は、冷ややかなものでしたよ。踊ることも体を揺らすこともできない難解なリズム、覚えにくい複雑な曲展開、悪趣味なほど東洋的で懐古的な旋律、呪文めいた詩。聴衆はたぶん、理解を超えた超常現象のように受け止めていた。あの日客席にいて、僕らの音楽に共鳴した人は、せいぜい四、五人ではなかったでしょうか? ライヴ途中から、ブーイングや悲鳴や野次が起こりはじめて、それはやがて会場全体に広がりました。でも僕らは気にしていなかった。僕らはその日のパフォーマンスに満足していた。
 でもやはり、ドラムについてだけは不満でした。リズム・マシンやコンピュータによる打ち込みで、リズム・パートをおぎなっていたのですが、やはりそれでは迫力に欠けるんです」
「ギタリストはいらないのですか?」と二井は言った。「たいていどんなロック・バンドにもいるものだけど」
 光村は顔をしかめて、首を横に振った。「あの連中は、自己満足に走りすぎる」
 二井はただ頷くことしかできなかった。
 光村の話は終わっていた。二井はいつものように、サポートという形でよいなら、とは言わなかった。彼は恐竜族に興味を覚えていた。それでもこの場で結論を出すことは避けた。
 少し考えさせてくれないだろうか、と二井は言った。
 もちろん、と光村は言った。光村は二井に連絡先を教えた。そしてその日彼らは別れた。

 アパートに帰った二井は受け取ったデモCDを聴いた。収録されていた三曲のうちの最初の曲を聞いただけで、二井は歴代のドラム担当候補者が逃げ出したという理由を理解した。とにかくテンポや拍子の変化が激しく、一曲中に異なるリズム・パターンがいくつも現れ、同一の小節がほとんど存在しないのではないかと思えるほど、繰り返しが極端に少ない。一度や二度聴いただけでは、何がどうなっているのかもわからない。二井は楽曲を覚えるために楽譜に書き起こしたが、それにも相当な困難を覚えた。
 恐竜族の音楽は独特なものだった。恐ろしく独特と言ってもよかった。少なくとも似た音楽を志向しているバンドを二井は他に知らなかった。二井は三つの曲を何度も聴き返した。かつてあのうらぶれたコンサートホールで『夢見るユートピア』を初めて聴いた時以来の気分を彼は覚えていた。
 次の日、二井は軽音楽サークルの部室に行って、デモCDに収録されていたうちの一曲をドラムで叩いてみた。実際に演奏してみて、その楽曲を演奏することには想像した以上の肉体的な負荷がかかることを知った。二井はこれまで様々なバンドを手伝ってきて、楽曲を習得することに困難を覚えた経験などほとんどなかった。だからそれは新鮮な体験だった。彼は時間の許す限り練習し、楽曲の構造を身体に馴染ませた。練習するほどに音楽が自分を飲み込んでいくようだった。挑戦する価値のある音楽だった。
 二井は山瀬雪乃の言葉を思い出す。あんまり一人に慣れすぎると、ハンスみたいになっちゃうよ。そう言われたとき、自分には確かにハンスと同じように敢えて孤独を求める性向があったことを二井は思った。あの架空の作曲家には確かに芸術家として尊敬に値する部分はある。しかしそうだとしても、音楽を志す者にとって、ろくに演奏もされずに貧困のうちに死んでい行くという生き様は、あえて目指したいと思うようなものではなかった。というよりはむしろ絶対に避けたいものだった。誰にも理解されず孤独なまま大衆に呪詛を吐き世界を憎悪しながら貧しく人知れず死んでゆく、残された作品がどれほど優れていて美しかったとしても、音にならなければ存在しないのと同じだ。自分はハンスのように生きるわけにはいかないと二井は思った。
 翌日二井は光村に連絡した。そして恐竜族への加入を申し入れた。

 一週間後、二井はバンドの練習に参加するために日野市にあるスタジオに向かった。二井がスタジオに入るとそこには光村のほかに二人の男がいた。光村が彼らを二井のことを紹介した。
 ベーシストはスタジオの隅で椅子に座ってベースを弾いていた。表情はほとんど見えなかった。なぜなら長くまっすぐな髪の毛で顔の大部分が隠れていたためである。彼はその髪の毛の隙間から切れ長の目をのぞかせ、二井の方を二秒間ほどちらと見た。彼が二井に対して示した反応はそれだけだった。すぐに視線を落とし、音階練習に戻った。
 精悍な顔つきの大柄な男が二井に近寄ってきて自己紹介をした。「八杉です」彼はそう言って手を差し出した。握手をしながら彼は言った。「あなたのことは知っていますよ、何度か演奏するところをお見かけしたことがあります。僕はあなたの演奏に感銘を受けたんです! なんでもないような八分音符のリズムを刻んでいるだけのときでも、注意深く聴くと、まるでグラデーションのように、ライド・シンバルやハイ・ハットの音色やタイミングが繊細に少しずつ揺らいで、変化していた。あんな演奏は初めて聴きました」
 光村が、さっそく音を合わせてみようと言った。二井がすでに曲をマスターしていたことに、光村と八杉は驚いた。
 さすがですね、と八杉が言った。「みんなあの三曲をろくに覚えることもできずに逃げ出したのに」
 四人は実際に演奏した。バンドの音は不思議なほど合った。

 メンバーは三人とも、特異な才能と高い演奏力を備えていた。彼らは音楽に対して異常なほど真摯でストイックだった。そして一様に他人に関心が薄い。必要以上に馴れ合おうとしない。バンドの活動と関係のないところで遊んだりつるんだりするようなことはまずなかった。ただ音楽でつながるだけの関係だった。そのぶんだけ二井は楽だった。そんな集団の中にいて、二井は居心地の良ささえ覚えていた。
 あるとき二井は、兄を亡くしたことを、光村に話した。すると彼は
「あなたもそうなのですね」と言った。
「あなたも、って?」
「僕らのバンドは、みんな、何かしらの不幸な体験を持っていますよ。不幸な人の集まりだ。ベーシストは不登校でろくに教育も受けていない元引きこもりだし、僕は僕で、幼い頃に両親を亡くしているのです。事故でね。トラックにはねられたんです。僕は伯母の家に預けられていて、僕だけ無事だった。その伯母に引き取られて、今も彼らとともに暮らしているのです。八杉もそういう過去をもっていますよ。いずれ八杉から、彼の過去の話を聞くことになると思いますよ。僕とベーシストはもう聞いた、何度も。結構なひどい話でした。あいつはどういうわけか、親しくなった人にはその話をしないと気が済まないらしいのです」

 二井の印象では、八杉は気分の安定しない男だった。ひどく機嫌の良いときがあるかと思えば、ろくに口を開かず暗い顔つきをしてふさぎこんでいることもあった。
 実際に二井が八杉の過去について知ったのは恐竜族に加入してから一か月が過ぎた頃のことである。スタジオでの練習の合間の休憩中に、八杉は前触れもなくいきなり身の上話を語りはじめた。そのときスタジオにいたのは八杉と二井とベーシストの三人だけで、光村は何かの用事で姿を消していた。
「そのとき俺は十二歳だった」と八杉は話しはじめた。「ある日学校から帰ると、家の中に異常な気配を感じた。どうとも説明できないような、とにかく違和感としか表現しようのない気配だった。俺は直観的に、何かがおかしい、と思った。何かが普段とは違う。空気の流れとか、肌触りが違っていた。そういうことに俺は割と敏感なんだ。俺は三和土に立ったまま耳を澄ませた。物音は聞こえない。玄関にはおかしなところはなかった。家族の靴が整然と並んでいて、見慣れない靴があるでもない。俺は家に上がった。なんだか自分の家じゃなくて、よその家に忍び込んでいるような気分になった。廊下を歩いて、リヴィングの入口のドアの前に立った。わずかに開いていたドアの隙間から、俺はその光景を見たんだ。母がリヴィングの床にあおむけに寝そべっていて、覆面を被った大きな男が、その上に覆いかぶさっていた。母親の顔は向こう側を向いていて表情は見えなかった。二人とも、下半身だけ服を脱いでいて、覆面の男は腰を動かしていた。床には衣服が散らばっていた。男の手にはナイフが握られていた。その刃は母の首筋にあてがわれていた。
 それを見て、俺は動けなくなった。声も出せなかった。男が腰を打ち付ける音だけがそこに響いていた。母親はすでに抵抗を諦めているようだった。俺は何もできなかった。もちろん、何をどうやったところでおそらく勝ち目などなかった。俺は無力な子供しかなく、相手は見るからに屈強な大人の男で、その上ナイフまで持っている。
 しばらくして、覆面の男が身体を大きく震わせた。そのときでさえ男は声を発しなかった。そのあと男は母親から身体を離して、立ち上がってズボンを拾い上げて身に着け、そのまま悠々と窓から外に出て行った。
 母親は横たわったまま、死んだように動かずにいた。首は相変わらず向こうを向いていた。俺は廊下に立ち尽くしてその様子を見つめていた。やがて俺はすべてに耐え切れなくなって、自分でも思いもよらない行動に出た。つまり振り向いて引き返し、玄関から外に出たんだ。まだランドセルを背負ったままだった。そのまま歩いて近所の公園に行って、そこにいた近所の子供たちと、夕方まで一緒に遊んでいた。日が暮れて家に帰ると、母は何事もなかったように夕食を作っていた。俺を見て、母は普段通りに『お帰り』と言ったよ。
 その日の出来事が俺と母の間で語られることはなかった。母はおそらく警察に通報さえしていない。俺たち二人の中ではそれはなかったことになった。父はその出来事について何も知らない。
 母を強姦した覆面の男を俺は深く憎んだ。時にその憎しみが、自分でも理解できないことに、母に向かうことがあった。むざむざ犯されることを許し、そしてそれを誰にも言わずに秘密にしてしまった母親に対して、理不尽な憎しみを抱いてしまうのだ。強姦魔に対するそれよりも強く感じられることさえあった。
 敵うはずはないとしても、殺されるかも知れないとしても、自分は何か行動を起こすべきだったのではないか、そういう考えにしばしば襲われた。あのとき、俺は事態を受け入れてしまっていたんだ。自分は子供で無力だから助けられない、そんな風に、傍観者であることを正当化した。そういう卑劣な人間として過ごした数分間の記憶は、俺の中に刻みつけられている。俺はその記憶を消したかったが、もちろんできるはずもない。結局のところ、俺という人間はそこから出発しているんだと思うよ。俺はそこから自由にはなれないんだよ。そのあとも、俺と母との親子関係は極めて良好なものだった。現在に至るまでずっとそうだ。俺には反抗期さえなかった」
 八杉は話終えた。二井は黙っていた。何を言えばよいのかわからなかった。ベーシストは八杉が話している間ずっとベースでアルペジオを弾いていた。間もなく光村が戻ってきて、練習が再開された。

 二井はベーシストについてほとんど何も知らない。彼は自らのことについて一切口をつぐんでいる。明らかになっているのは、彼が十二歳で学校に行くのをやめたということだけ。
 物静かな彼に何がそんな大胆な決断をさせたのだろうと思う。彼が書く陰惨な詩や、その表情に時折差す翳りのような暗い印象そして常軌を逸したベースの演奏技術までもが、普通ではない背景を想像させずにおかない。スタジオの隅で一心不乱に音階練習を行っているとき、しばしばベーシストは秘めたる強い感情を楽器にぶつけているようにも見えた。
 ベーシストはひどく無口な男だったが、口を開くときにはその発言はいつも冷静で的確なものだった。メンバー間で議論が白熱して出口が見えない状態となったとき、彼の発言が糸口となって局面が打開されたことは、一度や二度ではなかった。

 恐竜族は渋谷のライヴ・ハウスで四人編成になってから初のライヴを行った。二井が加入して二か月後のことだった。
 開演前の会場に雷鳴のような音が響いた。刺々しく耳障りなその音は断続的に繰り返された。観客たちの間にどよめきが起こった。彼らにはそれが何の音で、どこから聞こえてくるものなのかわからなかった。機材のトラブルとか、あるいは銃声とか、そういった音と勘違いする者もいた。悲鳴や怒鳴り声も起こり、場内は不穏なムードに包まれた。
 ある瞬間に断ち切られるように音は止んだ。ステージから、いくつもの光の帯があちこちから放射され、すでにそこに集まっていた四人のシルエットが浮かび上がった。聴衆は歓声を上げた。彼らの姿を目にしたためではなく、不愉快な音から解放された喜びのために。雷鳴のような音は光村と八杉が共同で制作したSE音源だった。ほんの一分半ほどの長さのSEは、彼らが意図した通りの効果を聴衆にもたらしていた。
 二井が32分音符によるドラム・ロールを打ち鳴らした。最初の曲が開始され、会場は暴力的な音圧に満たされた。八杉は二人か三人の人間が咽喉に住みついているのではないかと思うほど、多様な歌声を使い分け、なおかつ歌いながらコンピュータを操作する。光村は三台のシンセサイザーでそれぞれ異なる音色による和音を鳴らした。雷鳴のようなSEのためか、聴衆の気分は高揚し、音楽に対する飢えは高められていた。人々は徐々に白熱化してゆき、拍子とテンポがめまぐるしく入れ替わる複雑なリズムに合わせて、無理やり踊り出す者まで現れた。
 ベーシストのライヴ・パフォーマンスを、二井はその夜初めて目の当たりにした。寡黙に低音を支えていたベーシストが突然、毒を喰らった人間のように、身体をびくんびくんと大きく前後させた。そして六弦ベースを肩の高さまで持ち上げ、弦を歯でかみ切ろうとするような、古典的ロック・スター然とした仕草をした。それから彼は身をくねらせながら両手の指を激しく、目にもとまらぬ速さで動かした。刺々しい音の粒子がその楽器から放たれた。異常な数小節が過ぎ去ったあと、ベーシストは電池が切れたみたいに再び直立不動の状態に戻った。
 そのようにしてバンドの持ち時間の三十分は過ぎた。
 
 恐竜族に加入してからは二井はよそのバンドからのサポートの依頼をみんな断っていた。軽音楽サークルにもほとんど顔を出さずほとんど幽霊部員のようになった(そのような部員は特に珍しくもなく、気にする者はいない)。三年になっても、二井は以前と同じように講義を受け、それなりの成績で試験を通過していた。
 夏が近づく頃、同級生たちの中には、すでに本格化に就職活動を開始している者もいた。ある日二井はクラスメイトの佐藤と一緒に食堂で昼食をとっていた。佐藤が彼に尋ねた。「君は就職活動はしないの」
 しない、と二井は答えた。「興味がないからね」
「じゃあこれからどうやって生きていくの」
「卒業しても音楽を続けるさ。僕にはそれぐらいしかできない」
「何だったかな、君がやっていたバンドの名前。そうだ恐竜族。あのバンドに君は就職するつもりなんだね!」
 佐藤はそんなことを言った。佐藤は恐竜族のライヴを見に来たことがあった。はじめて見たときの彼の感想は「意味がわからない」というものであった。しかしその言葉とは裏腹に彼はそのあとも何度か見に来た。佐藤はロックやバンド系の音楽にはまず関心を示さなかったが、どういうわけか恐竜族の音楽には惹かれると言った。ひどくうるさいしわけがわからないし、最初に聴いた時にはどちらかと言えば不愉快だったんだけど、でもなぜか何度も聴きたくなる。あの音楽の中になる何かが引き寄せるみたい。 
「バンドに就職なんて変な表現だな」と二井は言った。
「君が人生をかけたくなる気持ちはわかるよ。あのバンドは面白い。ただねえ、あの音楽性で人気出るのかな? ちゃんと聴くと面白いんだけど、僕もそうだったように最初の印象がすこぶる悪いからね。刺々しくて激しい、思わず顔をしかめたくなるような音の洪水。その上バンドのメンバーときたらろくにMCもやらずに黙々と演奏するばかり。観客のことなんか知ったことじゃない、それでもついて来たいなら勝手について来ればいいといった感じだ。すごく高飛車なバンドだ」
 そういった感想は、二井がこれまで何度もいろんな人から聞かされていたものだった。恐竜族は多くの曲を作り、何度もライヴを重ね、支持者を着実に増やしていた。好きになった人はとことん好きになってくれたが、しかしそれ以上の広がりがなかった。二井も他のメンバーたちも、自分たちの楽曲や演奏には自信を持っていたし、ライヴを行うのは楽しかったのだが、それでもどことなくバンドが停滞しているように感じてもいた。しかし何をどうすれば状況を突破できるのか二井にはわからずにいた。
 二井はふと思いついて佐藤に尋ねた。「そういえば、君がリクルート・スーツを着ているところも、見たことがないような気がするけど」
「僕も就職活動はしないよ。実家の家業をつぐんだ」
「家業?」
「家が魚屋なんだよ」
 へえ、と二井は言った。そんなことは初耳だった。佐藤には魚屋の息子らしいところなど微塵も見えなかった(もっともどんなのが魚屋の息子らしいのかと考えてみても二井には思いつかない)。そして魚屋の息子が古楽のマニアになるということもうまくイメージできなかった。二井がそのようなことを言うと、佐藤は「君は何もわかってないんだね」とため息をついた。
「それは偏見というものだよ。魚屋の息子が古楽マニアで文学部に通っちゃいけないとでもいうのか? 君はあんな非凡な音楽をやってる割には、ずいぶん画一的な考え方をするんだね!」
「そうだね。悪かった。でもじゃあどうして、文学部に入ったの?」
「ああ、それは、父の勧めでもある。つまり今時の魚屋には、教育も必要だという考えを父は持っていた。父は高校までしか出ていないけど、教育の重要性についてしばしば僕に語ったものだ。何か思うところがあったのだろうね。父が文学部を勧めたんだ。文学部出の魚屋、どことなくいいじゃないか、と父親は言ったものだよ。僕も小説を読むのが好きだったから、まあいいかと思って。ねえ、今度僕の実家に魚を買いに来ておくれよ。実家は山梨なんだ。山梨県には海がないけど、魚の消費量はすごく多いんだよ」
 いわゆる一般的な就職活動とは無縁の二人の就職についての話題はそれで終わった。彼らは食堂を出て別れた。

4

真夜中のことだった。その夜、山瀬雪乃は一度短く眠ってからまた目を覚ました。そしてコーヒーを作り、窓際の椅子に座って(彼女はその椅子がひどくお気に入りなのだった)飲んでいた。
 山瀬雪乃は恐竜族の音楽を聴いた感想について語った。一度彼女はライヴを見に来たのだ。彼女もまたバンドについて佐藤と似たようなことを言った。技術は高いし、曲も良い。でも音楽性がマニアック過ぎる。
「そう、マニアック過ぎる! どんなに高度で上手でも、あれじゃあ一部の熱心なカルト的ファンか、アングラ音楽愛好家のひねくれものぐらいしか、支持してくれないよ」
 僕らは自分たちの音楽を信じているし、大衆に迎合したくない、そういう確固たる信念があるのだ、という意味のことを二井は言った。
 ああ、と言って山瀬雪乃は溜息をつき、呆れたように首を振るのだった。「どうせあなたたちみたいなヘンタイ音楽集団は大衆を軽蔑し大衆に背を向けて難解な音楽を追求することに酔いしれているんでしょうけど、それって、ある種の逃避じゃないかしら? たくさんの人に聴いてもらえる音楽を作ることって、そんなに簡単じゃない。まして馬鹿にできることでもない。ねえ、ハンス・ベルグナーが書いた楽譜はほとんど全部結局はただの紙の山で終わったのよ。音楽の価値は人の耳に届くことで初めて生まれる。大勢からの理解を拒むということは、どんなに高尚な信念とやらを持っていたとしても、ただの自己満足と紙一重なんだよ」
 彼女の言うことは正しいと二井は思う。恐竜族で演奏することは充実感があったし楽曲のクオリティにも自信を持ってはいたが、彼女が言う通り今のままでは、ただ音楽マニアを喜ばせるだけで終わってしまいそうでもあった。二井は光村の才能を高く評価していたが、彼が書く複雑で難解な楽曲が、多くの人々の支持を得ることを想像するのは難しかった。何度も通った現代音楽のコンサートを二井は思い出す。そこに漂っていた、悲壮な、世間に背を向けた隠微な雰囲気。二井は個人的にはそんな雰囲気を愛してはいた。しかしバンドとして目指すべき地点ではないように思える。
「どうしたらいいんだろう」と二井は呟いた。山瀬雪乃は答えない。二井と山瀬雪乃の間では沈黙が支配することが多くなっていた。架空の作曲家ハンス・ベルグナーの死について語った後、彼女はもう多くの物語を語らなかった。
「あなたが考えるのよ。あなたたち自身の問題なんだから」
 夜の最も暗い時刻だった。それだけ言ってしまうと、山瀬雪乃は立ち上がり、部屋の隅に置かれていたシンバルを吊るしたスタンドを、椅子のそばに引き寄せた。そしてスティックとマレットを手に取り、演奏をはじめた。金色のシンバルが『夢見るユートピア』の出だしの音を発した。いつもよりもさらにそれは静かな演奏だった。すべての音が、ピアニシモよりもっと小さい強度で鳴らされ、途中に何度か挟まれるアクセント的な強打さえ、レースのカーテンが風にそよぐ程度の音しか立てない。
 二井はソファに座ったまま聴いていた。音は真夜中の室内を満たし二人の肉体を包んだ。そしていつものように夢見る気分にさせる。二井は故郷の郷の海を目にしていた。どういうわけかいつもその音が描き出すのは冬の故郷の海の光景だった。あの故郷で過ごした最後の日の夕方に歩いて見に行った海。侘しげな波の音と海鳥の鳴き声。
 山瀬雪乃が手にした四本の棒は、彼女の手から伸びた新しい器官のように見える。それぞれが異なる意思を持つように、自由に、生き生きと動いている。二井は何度も山瀬雪乃に『夢見るユートピア』を教えてもらおうとした。しかしロック・ドラムから音楽をはじめた彼には、そもそも片手に二本以上の棒を持つということが困難だった。『夢見るユートピア』の繊細で神秘的な音色を鳴らせるようになるまでには、気が遠くなるほどの時間が必要だろう。二井は半ばあきらめていた。それに結局のところ、それは山瀬雪乃の手によって演奏されるべき音楽なのだ。
 幻想が前触れもなく突然破れ、我に返った二井は部屋の壁を見る。音楽はまだ続いていた。首を傾けて山瀬雪乃のほうを向くと、彼女が叩くシンバルの表面に、何か得体の知れない物体が付着しているのに気付いた。二井は見間違いかと思ってじっと見つめた。確かにそこに何かがある。小さくて丸く、楕円体をしていた。そして全体が金色に発光していた。山瀬雪乃の「ジルジャン」のシンバルよりも、さらに澄んだ、鮮やかな金色だった。薄暗い室内で、物体の周辺がぼうっと明るくなっていた。
 物体は動いていた。重力に引っ張られていた。まるで金色のゼリーみたいに、楽器の湾曲した表面に沿って滑り、淵からどろりと垂れ、楕円体から細長い線上に形を変え、奇妙なほどにゆっくりと垂直に落下した。音もなくカーペットの上に落ちた。
 物体の形はまた変わっていた。今では平たい円形になって、そのまま床にしばらく静止していた。金色のホットケーキのようだった。山瀬雪乃のすぐ足元だったが、彼女はそれに気づいてもいない様子だった。彼女は演奏を続けている。
 そのうちに金色のかたまりはまた動きだした。丸まったり細長く伸びたりねじれたり、絶えず柔らかく動きながら、スタンドの周りをうろついていた。ときどき金色の飛沫のようなものがそこから散った。飛沫はベージュ色のカーペットの上に染みを作った。
 二井は動かずにただそのさまを見つめていた。目を離すことができなかった。発光する金色のかたまりは、不気味ではあったが、美しくもあった。彼は見とれていたのだった。音楽は続いていた。かたまりはそのうち、二井のほうに接近してきた。彼は凍りついたように動けない。逃げるべきなのか、それとも黙って迎えるべきなのか、それも二井にはわからなかった。ただ見つめているしかなかった。それはゆっくりとにじり寄り、やがて二井の足元に到達した。金色の表面が二井の右足の皮膚に触れようとしていた。二井はかすかな温かみのようなものを感じる。その温かみは確かなものだった。気のせいではなかった。いつしか冷え切っていた二井の肉体は、右足の側部の一点のみにそのとき仄かな熱を確かに感じたのだ。しかしそれとほとんど同時に、音楽は止んだ。
 二井は顔をあげた。山瀬雪乃は、いつも演奏を終えたときに浮かべる表情を浮かべていた。金色のかたまりはあとかたもなく消えていた。右足の熱もなくなっていたし、身体も意識も普段通りだった。二井は夢を見ていたのだと思った。息を大きく吸って吐き出し、音を立てずに拍手をした。

 眠る間際、山瀬雪乃は冬に開催するコンサートで演奏する予定の作品について話した。「ハリー・パーチっていう、アメリカの作曲家の作品なの。それはこれまで経験したことないほど難しくて、それでいて美しくて、脳だけではなくて肉体のあらゆる力を総動員しなければならないような曲で、練習するたびにすごく集中するからくたくたに疲れるんだけど、でも演奏するのが楽しいの。心地好いの。その曲をマスターしたら、演奏家としてより成長できそう」
 そんなことを話すうち、いつしか彼女は眠ってしまった。
 二井はそのあともしばらく起きていた。そして彼の足元まで迫り来ていた金色のかたまりのことを思った。きっとあいつは、俺の中に入るつもりだったんだろうな。
 二井が眠るに落ちる頃には、空はもう明るくなっていた。

5

秋、恐竜族はある一つの楽曲を完成させた。一つのゆるやかなリズム・パターンが全体を貫く静かな楽曲で、いつも通りに展開は入り組んでいるが、彼らの曲にしては珍しく、拍子もテンポも曲中一度も変化しない。
 基となったアイデアは、二井がバンドに持ち込んだものだった。『夢見るユートピア』のような曲を自分でも作ろうと試みているうちに、二井はひとつの風変りなリズム・パターンを生み出していたのだった。
 他の三人は当初、それほどの手ごたえを感じていないようだったが、光村がキーボードでいくつかの和音をリズムに乗せて叩いた時、曲は違う色彩を帯びたように聞こえた。ベーシストがとぎれとぎれの低音を追加すると、曲はさらに色合いを変えた。
「なんだか『プリミティヴ』な曲だね」と光村が言った。「霧に包まれた湖のほとりにたたずむ恐竜たちの姿が、目に浮かぶようだ」
 コード進行に合わせて八杉がメロディーを書いた。簡素でどこか陰鬱なムードが漂う、美しく印象的なメロディーだった。普段のエキゾチックでオリエンタルなメロディーとはまるで異なっていた。
 八杉は彼が子供の頃に見た、どうしても思い出せない映画のエンディング・テーマを再現するように、そのメロディーを書いたのだと自ら語った。
「映画の終わりに女性が一人で坂の上でその歌を歌うんだ。とても美しいメロディーだった。もう一度それが聞きたくて、その映画を探したんだけど、どうしても見つからない。邦画だったか洋画だったか、いつの時代の作品なのかもおぼえていないから。そのうちに思ったんだ、俺はミュージシャンなんだから、美しいメロディーが聴きたければ、自分で作ればいいんだってね」
 最終的に細かいアレンジを光村が固めて楽曲は完成した。その曲は四人での共作となった。
 バンドで作業を進めていくうちに、当初に想定していたものとは形を変えて行くことを、二井は興味深く思った。当初彼が思い描いていた意図や理想のようなものは、その過程で失われたり損なわれたりするどころか、むしろ明瞭に、明確になってゆき、磨き上げられ洗練されていった。
 プリミティヴなリズムと美しいメロディーを持つ四分半の楽曲がそのようにして完成した。いつものようにベーシストが歌詞を書いた。曲は『翡翠色の太陽』と名付けられた。

 初めてバンドが『翡翠色の太陽』を聴衆の前で披露したとき、かつて恐竜族のライヴではなかったことが起こった。つまり観客の中にメロディーを口ずさむものが現れた。一度聞けばすぐに覚えられるメロディーだったので、二回目の繰り返しにはすでに誰でも歌うことができたのだった。
 そしてその日のライヴではもう一つ、異常なことが発生した。それはライヴの終わり近くに起こった。ある楽曲の間奏中、シンセサイザーの平坦なコードだけが鳴る静かな場面において、観客の中から場違いな声が上がった。悲鳴にも笑い声にも聞こえる、高い、そして鋭い声。声援や歓声を上げるタイミングとしては明らかに間違っていて、静かに聞き入っていた聴衆の間に苛立ちを含んだ緊迫した空気が流れた。やがてその声は明らかに笑い声に変わった。それも普通の笑い声ではなく、けたたましいケタケタというまるで子供の笑い声のようなものだったが、静かな楽曲を邪魔するのには十分だった。
 ステージ上の四人はその声に一切反応を示さなかった。演奏する光村はシンセサイザーの鍵盤だけを見つめ、他の三人は集中して演奏を再開するタイミングを待っていた。聴衆もまたメンバーにならってその声を無視することを決めたが、曲が再び音量を増し、終わりに近づくにつれて、笑い声はますます大きくなった。聴衆の間に異様な雰囲気が伝染していった。
 曲が終わって場内が歓声と拍手に包まれても笑い声はまだ続いていた。そのあとしばらくして観客の一部からどよめきが起こった。笑い声の主は一人の女だったのだが、その女が明らかに異常な様子を示していたためである。
 女は笑い続けていた。ひきつったような表情も笑い方も笑い声も常軌を逸していた。彼女はわざとコンサートの邪魔をしようとしたのではなかった。他の観客たちや、駆け付けた警備のスタッフが何をしても、女は笑うのを止めなかった。女はスタッフによって会場の外に担ぎ出されたが、その間もずっと笑い続けていた。
 すべての曲目を終えたバンドはすでにステージから消えていた。その日のライヴはそのまま終了となった。
 病院に運ばれたの二十五歳の女性で、その日は一緒に来る予定だった友人が急遽キャンセルしたために一人だった。女は救急車の中でも病院に着いてからも、笑ったり何かわけのわからない譫言を言ったりしていたという。
 女の意識が正常に戻ったのは三日後のことだった。ライヴ中に笑い出したことはもちろん、ライヴに参加したことすら彼女は覚えていなかった。 

 秋の終わり、山瀬雪乃が旅行を提案した。
「父の別荘があるの。箱根に。そこに行きましょう。」
「ご家族と一緒に?」
「まさか。私が連れてってあげるわ。父から車を借りてね」
 そして数日後、山瀬雪乃が運転するえんじ色のポルシェが二井のアパートの前に停まる。
「免許持っていたんだね」
「当り前じゃない」彼女は軽快に車を走らせる。車内には香水のような匂いがする。エンジンは静かだった。彼女の運転は自然だった。発車もブレーキングも滑らかだった。
 彼女は黙って車を走らせる。何しろ彼女は運転中は集中しているのか、ろくに話を聞いていない風だった。相槌も打たなかった。二井は最近山瀬雪乃が久しぶりに行ったコンサートの感想を語っていた。
「コンサートは良かったよ。君が演奏かとしての君を久しぶりに見て、とてもいい曲だった。いや、あんな曲があったなんてね。君に合っていたよ」
「届かないわ。うまく届かないものだわ。理想とするものがあって、それに届かないもどかしい気持ち。音楽を続ける限り、その感覚がずっと付きまとうのかしら」
「でも僕は思うんだけど、そういう思いが演奏を良いものにするんじゃないかな、渇望というか願いと言うか、必死で手を伸ばす様が、ときに人を感動させるのだよ」
 山瀬雪乃は、ふふん、と言った。
 道は少しずつ起伏を増し、あたりからは建物の姿が消えて行った。
「別荘、お父さんが購入したの。自由に使わせてもらっているの。お父さんは忙しくて、買ったはいいけど別荘に来る暇なんてないのよ。時々そこにこもるの。一人になりたいときにね」
「いつも一人で来るの?」
「もちろん。だって誰も一緒に来てくれないもの。家族以外では、あなたが初めてなのだよ」

 別荘は川のそばにあった。車を降りて二井が最初に感じたのは静けさだった。川の流れる音のほかには、基本的に何の音もなかった。都会からやって来た二井は、故郷の実家に帰ったときと同じ気分になった。いや、あの海辺の町よりずっと静かだ。
 中には寝室とダイニングとキッチン。楽器はどこにも一つもなかった。
「ここに来るときは、何も考えないの」山瀬雪乃は言った。「頭を空っぽにするの。空っぽにすることができるの。だからとても気に入っている。お父さんは、滅多に来ないわ。忙しいからねあの人は。あなたも頭を空っぽにするのよ。ここにいる間は、何もかも忘れなさい」
「難しそうだね」と二井は言った。そして彼は言われ通りにした。音楽のことは考えないようにした。それは想像したほど難しくはない。その場所の空気は自然と彼の頭を、空っぽにした。いや、おそらく静けさがそうしていた。

 彼らは特に何もせずに過ごした。小屋からデッキチェアを運んで、河原に置き、その上に寝そべって過ごした。二人ともときどきぽつりぽつりと言葉を交わすほかは、ほとんど黙っていた。しかしその沈黙は、気詰まりなものではない。山瀬雪乃は東京にいる時よりリラックスしているようだった。二井も同様だった。静かに川が流れるばかりで、周辺には誰一人通りかからない。
「世界の果てに二人きりでいるみたいだね」と二井は言った。
 彼女は笑った。サンバル・アンティークみたいな笑い声。「あなた意外に陳腐なこと言うのね」
 山瀬雪乃はサヴァイヴァル・ナイフを手の中でもてあそんでいた。それは別荘の引き出しの中にあったものだった。彼女がそれを手にして眺めまわすのを二井は見ていた。彼女の表情はどこかうっとりしている。「綺麗でしょう。私、ナイフって昔っから好きだったわ。どんなナイフでも。薄くて、滑らかで、繊細で、そしてその用途も。あらゆるものを切り裂くという用途も」
 彼女はそう言うとチェアから立ち上がり、その辺から丸い太い木の枝を拾って持ってきた。そして右手で持ったそれそれに向けて、左手で持ったナイフ(彼女は左利きなのだ)を振り下ろした。小気味の良い音を立てて、枝は二つに分かれ、彼女の手には半分だけが残った。もう半分は葉に覆われた地面の上に落ちた。断面は白く、滑らかだった。その滑らかさには美しささえ感じさせる。彼女はナイフを手にしたまま、指でそっとその断面を撫でた。「このナイフは特にお気に入り。いつもこれで、いろんなものを切るの。木の枝とか、小石とかね。小石も切れちゃうんだよ。すごいでしょう」

 山瀬雪乃が夕食にカレーを作って食べることを提案した。
「キャンプみたいに。いいでしょう?」
「よさそうだね。でも道具はあるの?」
 山瀬雪乃は頷く。そして別荘に戻って、再び現れた問いには、彼女は鍋と飯盒とクーラーボックスと折り畳み式の火起こし器を抱えていた。米と牛肉と玉葱とバターとカレーのルウもあった。まるでカレー作りは最初から予定に入っていたかのようだった。
 二人は夕方の河原で準備をした。山瀬雪乃は切った玉葱と肉をバターで炒め、水を入れてしばらく火にかけた後でその中にルウを放り込んだ。二井は米を洗い、飯盒に入れて火にかけた。辺りに香ばしい匂いが立ちこめた。
 夕日に照らされてきらきら輝く川面を眺めながら彼らは出来上がったカレーを食べた。作りすぎたカレーを彼らは二人で皆平らげた。
 闇が降りて空に星が浮かぶ。二井は頭上を見上げて息をのんだ。夜空に散らばって瞬く無数の星々に圧倒されていた。星は一瞬だけ強く輝いたり、光の直線を描きながら消えたりした。
「ねえ、私がどこから来たか知ってる?」と山瀬雪乃が言った。
「どこから来た? どこで生まれたかということ?」
 彼女は夜空を見つめたまま頷く。
「見当もつかないなあ」
「私はよその星から来たの」
「やっぱり」
「驚かないの?」
「そんなに、不思議なことじゃない気がする」
 僕等は少しの間黙った。
「君の星はどれ?」と僕は訊いた。
「ここからじゃ……あんまり見えないね」
「すごく遠いの?」
「もちろん。いえ……、どうだったかしら」
 星々のせいで彼らはだんだん無口になった。川の音に重なって森から夜行性の鳥たちと虫の声が響いた。二人は山荘に戻った。

 真夜中、二井は彼女の服を脱がせ、ベッドに横たえる。黒い髪がシーツの上に模様を描き、二井はその上に横になった。芳香が彼をとらえ、縛り、閉じ込めるようだった。二井は彼女の背中に口づけをした。
 いつしか山瀬雪乃の髪の毛はロッジの部屋いっぱいに蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。二井は芳香に包まれたまま、彼女の鎖骨や肩や脇腹に口づけをする。ときどき背後にあの金色の気配を感じたが、二井は無視した。すべてが終わるまで無視していた。
 もっと夜が深まるとすべてが沈黙した。ときどき鳥の鳴き声が、ずっと遠くから届くばかりだった。二井は眠る山瀬雪乃の傍らでその鳴き声を聞いた。鳴き声は五つの音で一つのパターンをなしていた。一つ目の音は低く、真ん中の音が最も高く、最後の音は最初の音よりもやや低い。鳥は一定の間隔をあけて、そのパターンを何度も反復していた。
 今世界に生きているのは、自分と山瀬雪乃と、そしてあの夜の鳥だけ。そう思うと二井は不思議なほど安らかな気分になった。
 明け方に目を覚ました二井は、隣で眠っていたはずの山瀬雪乃が消えていることに気づいた。二井は上着を羽織って部屋を出た。山荘のどこにも彼女の姿はなかった。外に出ると、川の近くのチェアに彼女の頭が見えた。二井はそちらに歩み寄った。
 空は明るくなりかけていた。森の木々の暗いシルエットに沿って、空は黄金色と白のグラデーションをたたえて輝いていた。川べりに彼女はいて、河原に座って前方を眺めていた。
 わけもなく言い知れぬ不安に襲われていた二井は、彼女がちゃんと生きて目を開けていることに安堵した。まるで子供のころに迷子になったときの気分だった。
「夜明けが綺麗なんだよ。」と山瀬雪乃が小さな声で言った。「いつもここに来るとね、明け方に必ず目が覚めるの。夜明け前にね。ここで見る夜明けの空の色が大好きだから、その思いが目を覚まさせるんだろうね」
 二井ももう一つのチェアに腰かけて同じように空を眺めた。
 
 二井は山瀬雪乃とその小屋で三日間を過ごした。それは静謐な三日間だった。二人ともお互いのほかに誰とも会うことはなく、誰とも言葉を交わさず、音楽も聴かなかったし演奏もしなかった。二井はドラムを始めて以来初めて三日間もの間一度も音楽のことを考えもしなかった。透明ドラム・セットを起動させることもなかった。彼はまるで空白の真っ白な霧の中にいるみたいに落ち着いた気分を味わった。兄の死以来、そんな気分を味わったことはなかった。世界の果ての暮らし。「永遠に続いてほしいな」
 山瀬雪乃は笑う。「だめだよ、まだ若いのにそんなこと言ってちゃあ」
 三日間過ごした山小屋を後にするとき、小屋はがらんとしていた。それは内臓を抜き取られた怪物のよう。
「いつも寂しい気分になるわ。後ろ髪を引かれるみたいな」
「それは、陳腐なたとえだね」と二井は言った。
「夏になったらまた来ましょう」
 彼らは山小屋を去った。高速を通って東京に帰り、山瀬雪乃はアパートまで二井を送った。
 それきり二井は山瀬雪乃に会うことはなかった。

6

聞くかぎりでは、それは事故だということだった。彼女はベランダの鉢を整えていて、その最中に誤って体を滑らせてしまったのだ。真下の駐車場に体は叩きつけられ、アスファルトは血に染まり、肉や臓器があたりにぐしゃぐしゃになって散らばっていたということだった。二井が駆け付けたとき、マンション『ブルー・ヒル』は立ち入り禁止のテープによって封鎖されていた。山瀬雪乃は遺書も残していない。警察は現場の状況から自殺ではないと断定した。ベランダには水が入ったままのじょうろと、スコップが置かれていた。自殺するつもりの人間が、その直前まで鉢植えの中身を移し替えたりはしない、というのが警察の見解だった。
 どうして誤ってベランダの柵を乗り越えて落ちたりするだろう? 何をしようとしたらそんなことになるのか、二井はどれだけ想像を巡らせてもわからなかった。しかし彼女が自殺しなければならない理由も、同じぐらい彼には思い当たらない。
 いずれにせよ山瀬雪乃はもういない。彼女は死んでしまった。あっけにとられるほど唐突にこの世から去ってしまった。

 葬儀はひっそりとしたものだった。雨が降っていて、親族と、何人かの山瀬雪乃の音楽仲間と思しき人たちが集まっていた。二井はそのとき初めて山瀬雪乃の父親と顔を合わせた。座敷に正座して身じろぎ一つせずどこか怒ったような表情で真っ直ぐ一点を見つめていた父親は、二井が頭を下げても何の反応も示さなかった。隣りにいた母親はハンカチを目に当てて泣き続けていた。
 遺影の山瀬雪乃はカメラに向かって微笑を浮かべていた。二井は彼女の微笑を久しぶりに見るような気がした。何度も彼女が微笑むところを見たことがあるはずだったが、写真の中の彼女の微笑は、どこか新鮮な印象を彼に与えた。もう二度と彼女の微笑を見る機会はない。冷たい雨の日に、山瀬雪乃は燃えて灰になる。
 それからの数日間を二井は沼の底を漂うような気分で過ごした。底のない沼の底に向かって、日ごと二井は自分が沈みゆくのを感じた。
 夜はまともに眠れず、起きたまま夜を明かして明け方が近づくと窓辺に立って白みゆく空を眺めながらコーヒーを飲んだ。いつしか二井もまた山瀬雪乃の影響を受けてその時間帯を愛するようになっていた。彼は死者を悼むようにコーヒーを飲んだ。時々ハンス・ベルグナーのことを思い出しそうになって、すぐに打ち消した。その記憶はなぜか痛みしかもたらさなかった。

 山瀬雪乃が最後に彼の前で演奏したあの真夜中に目にした金色のかたまりについて、なぜか二井は一度も彼女に話さなかった。そのことがどういうわけか二井の心残りになった。話しておけばよかった、と今になって二井は思う。本当にそこにあったものではないにしても、幻だったとしても、話しておくべきだった。
 山瀬雪乃は『翡翠色の太陽』を気に入ってくれた。あの曲を彼女は珍しく褒めてくれた。箱根からの帰りの車中での会話。
「君が気に入ってくれて良かった。あの曲は君に多くを負っているんだ。『夢見るユートピア』を、僕は模倣しようとしていた。そのうちに出てきたアイデアが、原型になっているんだよ」
「まるで似てないじゃない」
「バンドのメンバーのそれぞれのアイデアによって、どんどん進化したんだ。そしてよりよいものになった」
「よかったわね。あれはいい曲だわ。すべての音が、有効に機能している感じ。理想的なバンドの音楽って感じがするわ」
「ねえ、僕はようやく、孤独から脱することができそうな気がしている」
「ハンスのようにならずにすみそう?」 
「うん。君の助言のおかげで、集団で音楽を作り上げる喜びを知ったんだよ」
 二井は記憶の中でその会話を何度となく反芻する。

 二井は毎日大学に通い、これまでにないほど集中して講義を受けた。熱心に教授の言葉に耳を傾けてメモを取り、積極的に質問や発言を行った。朝から晩までそんな風に過ごした。履修していない講義に出席することさえあった。「日本地誌学」だの「古典文学演習」だの「西洋哲学史」だのといった講義の内容について思考を巡らすことは今の二井にはむしろ喜びだった。少しでも現世のことを忘れさせてくれる者はみんな救いだった。二井のそんな唐突に起こった人並外れた学問への情熱は、周りのものを唖然とさせた。
 部屋に一人でいるときにはずっと沼を漂っていた。もはや二度と浮かび上がれないような深くにまで沈み、冷たく静かなその場所で、二井は山瀬雪乃に対する言動や行いをひとつひとつ思い返していた。そうするうちに、過去に自分が彼女に対して行ったことは、ほとんどすべて不適当で見当はずれなものだったように思えてくる。結局のところ彼女が死んでしまったのは自分のせいではないか、という考えに襲われもする。彼はその度に否定の材料を探すが、それはいつも見つからなかった。
 思考がそうした悪循環に陥る前に眠ろうとするのだが、容易に眠ることはできなかった。暗い部屋の片隅で、ひとりで横になっていると、思考はどんどん下方へと落ち込んでゆく。
 二井は眠るのを諦め、ヘッドフォンで音楽を聴いたり、あるいは勉強をしたりして夜を明かした。
そうやって彼は沼の底に閉じこもったまま秋を過ごした。彼は恋人の死について誰にも話さなかった。バンドのメンバーはおそらく気づいてもいなかった。
 彼らは練習を続け、楽曲を制作した。バンドの音は練習を繰り返すにつれてタイトになってゆく。彼らの信頼関係は強固になり、演奏はその分だけ緊密に、正確になった。

 十一月の半ば、恐竜族のライヴ中にまたある出来事が起こった。そしてそれはより重大で深刻なものだった。恐竜族のライヴ中に観客のうちの一人が失神するという出来事が起こった。
 バンドは8分の5拍子と16分の11拍子が交互に繰り返されるスピーディな楽曲を演奏していた。客席にいた一人の男が騒ぐ客のさなかで床に倒れた。周囲の客はそれに気づいたが、あまりに熱狂していたので構う余裕がなかった。
 曲が終わってフロアが一時的な落ち着きを取り戻したとき、倒れた男が意識を失っていることが判明した。男はスタッフに抱きかかえられて外に出された。ライヴはそのまま終了した。
 男は約二時間後に意識を取り戻した。体に別状はなかったが、ライヴのことは何も覚えていなかった。
 似たようなことは何度か起きた。観客のうちの一人が体調不良を訴えたり、気を失ったり、一時的なトランス状態に陥って、パニックを起こして騒ぎや喧嘩が起こったりした。そうした出来事がほとんどライヴの旅に起こり、そのことが皮肉にも、バンドを少しずつ有名にしていた。
 アンダーグラウンドシーンで一部のマニアックな層からの支持を受けるにとどまっていた恐竜族は、主にネガティヴな理由で注目を集めるようになった。人を狂気へ導く音楽、などと囁かれるようになり、メンバーは時にまるで神がかりかカルト宗教家のような扱いを受けた。
 彼らの音楽は毀誉褒貶を引き起こした。音楽性と技術の高さは多くの人の認めるところだったが、一部の人にはそれは悪趣味でやりすぎにも響いた。悪意に満ちた音楽だ、などと言うものもいた。人間が生理的に嫌悪感を抱く音を、意図的に、作為的に作っている、などと彼らは主張した。
 その一方で、新しくバンドに興味を持ち、その音楽を気に入るものも相当な数で現れていた。恐竜族の音楽を注意深く耳にする人は、否定的な言説が必ずしも正しくないことを知る。なぜなら『翡翠色の太陽』は美しい曲だった。その曲は少しずつインディーズ音楽のシーンで話題になっており、FM局のインディーズ番組で流れたこともあった。またラジオから録音されたものが、動画共有サイトにアップロードされて、着実に再生回数を増やしていた。
 感傷的なメロディーと、絹のように繊細に複雑に音を緻密に編み上げた伴奏は、一度耳にしただけで多くの人々の耳に強い印象の残した。その音楽は強い映像喚起力を備えていた。人々はそれぞれイメージや幻想を喚起し、内なるその映像に陶酔し虜となった。彼らは何度も繰り返して曲を聴いた。『翡翠色の太陽』は、耳にした人々を中毒のような状態にした。

 バンドに対する注目度は高まっていった。ロック・ミュージシャンには珍しい音大作曲科卒という光村の経歴や、ベーシストが書く高踏的で抽象的な詩は、野蛮でアングラな音楽性のイメージと好対照をなしていて、そのことも注目を集める要因となった。
 メンバーの四人はそれまでと変わることなく日々を送っていた。ひたすら曲を書き、練習をしてライヴをする。四人とも勤勉というよりは、そうすることなしにはうまく生きることができないのだった。何かしらの不幸やら欠落を埋めるために彼らは音楽に没頭していた。二井は悲しみを振り払うように音楽に自分を埋没させていた。そうした態度は、メンバーのストイックなメンバーの間にあっては、少しも不自然に映らなかった。
 それでも一人になると、冷たい沼が彼を取り囲み、足をからめとろうとする。そのまま彼は沼に沈む。どうにかして浮かび上がろうともがくが、腕も足もだんだん疲れてくる。もがけばもがくほど沈んでゆく。そのうち、底なしの沼の底の底まで沈むのも悪くない、という考えに襲われる。必死にもがいて浮かび上がったところで、そこに何があるのだろう? 沼の底から誰かが手招きしている。二井は誘惑にかられる。冷たく暗い沼の底の世界が、居心地がよさそうに思える。
 そうやって日々は過ぎた。冬休みが近づくある日、母親から電話があって、正月はどうするのか、と二井に尋ねた。二井は東京にとどまると母親に言った。努めて明るく、大学生活と音楽活動が充実してい、楽しくてしょうがないのだ、といった様子が声から伝わるように演技しながら、帰省しない旨を告げたのだった。

 冬休みの最初の日、ほとんど眠らないままに午前五時を迎えた二井は、簡単に身支度を整え、必要最小限の荷物だけをリュックに詰めて、アパートを出た。何も考えずに新宿駅へ向かい、そこから北へ向かう電車を選んで乗車した。
 バンドのメンバーには連絡もしなかったが、おそらく問題はないだろうと二井は思った。バンドもまた冬休みから新年にかけては休業状態に入っている。地方出身なのは八杉だけ、彼は冬休みには長野の実家に帰るのだと言っていた。
 二井は特に理由もなく北陸を目指した。一人で部屋の中で過ごし続けることに耐えられなくなり、ただその状態から逃れることだけが目的の旅。何度も乗り換えを行い、数えきれない駅を通り過ぎた。二井は窓の外に目をやることもなく、ずっと目を閉じるか眠るかしていた。
 二井の思考は山瀬雪乃から離れられなかった。彼女ついてのいろんなことを電車に揺られながら二井は思い出した。ほとんどは何気ない、それ自体に何の意味もないような言葉や仕草だった。脈絡のないような微笑みとか、意味がありそうでない謎めいた独り言とか、ときどき些細なことでひどく頑固になったりしたこととか、大掃除の日のこととか、思いのほか様になっていたサッカーボールの蹴り方とか、そして山荘がある『世界の果て』で過ごした静謐な三日間のことを思い出した。
 自分は山瀬雪乃について何を知っていたのだろうと二井は思う。ほとんど彼女について何も知らなかったのだ。彼女について確かだと思っていたことはすべて本当はあやふやだった。何も知らないまま、彼女を失ってしまった。もちろん人は他人について完全に知り得ることはない。しかし自分は彼女のほんの表層の部分さえ知らなかったのだ。
 二井は何度目かわからない溜息をついた。電車は見知らぬ街の見知らぬ線路を走り続けていた。
 思考を断ち切るために、二井は意識を無理やり透明ドラム・セットの中に閉じ込めた。目を閉じて脳内にドラム・セットを起動させる。バス・ドラム、ハイ・ハット、スネア・ドラム、タム・タム、フロア・タム、ライド・シンバル、クラッシュ・シンバル、そのような基本的なキットに加えて、歳月とともに彼の空想のドラム・セットは巨大化していた。想像には限りがなく、経済的な理由による制限もなく、つまり際限なくドラム・セットは拡大する運命にあるので、今では二井は壁のように積み上げられた打楽器群によって四方を取り囲まれたような有様となっていた。立ち上がって手を伸ばさないと届かない位置にもシンバルやらベルやらチャイムやらが据え付けられていたし、大小さまざまなタム・タムの数は、もはや数えることもできない。様々な種類の民族打楽器も追加されていて、それらの中にはかつて二井が買い集めた、実家の納屋に置いてきたままの楽器も存在している。
 二井は透明ドラム・セットの中心に腰を据えて演奏に没頭した。頭の中ではとめどなく音楽が鳴り響いていた。彼は恐竜族の楽曲や、自作の曲を一つずつ思い出し確かめながら演奏した。その間、現実の二井の肉体は一切動くことなく、彼はただ座席に座って目を閉じてじっとしていただけだった。
 長時間二井は透明ドラミングに没頭した。そのうちに、嫌な思考や感情は、一時的に遠くに追いやられていた。二井は今ほどその能力をありがたく感じたことはなかった。
 何時間経ったのか、二井が(脳内の)演奏を止めて再び目を開けたとき、電車は停車のためにスピードを落としはじめていた。そして電車はやがて止まった。二井はどこかわからないまま、立ち上がり荷物を抱えて電車を降りた。
 ホームの看板を見て二井はそこが新潟駅であることを知った。冷たい風が身をかすめていった。二井は深く疲労していた。そしてひどく寒い。それは皮膚や肉を貫いて骨にまで届くような寒さだった。故郷の島根の海辺の町の冬も寒かったが、それよりはるか北方の新潟はそれよりずっと寒い。雪までちらついていた。人ごみに押し流されるように改札に向かい、駅の外に出ると、町を当てもなくうろつきながら、最初に目に付いた旅館に飛び込んだ。宿泊の手続きをして部屋に入ると、そのまま夜まで眠った。
 七時に起きて風呂に入り、夕食をとる。そして九時過ぎには再び眠っていた。眠りと彼はかつてないほど今、親しかった。何一つ両者の間を妨げるものはなかった。目を閉じるだけで彼は親密な眠りの中に落ちてゆく。
 次の日も雪が降っていた。旅館には朝食がついていて、それは意外なほど立派なものだった。二井はひどく空腹を覚えていたので、普段なら残すようなものまでみんな食べた。旅館を出る際、主人が旅館の名前が書かれたライターをくれた。二井は礼を言って受け取った。
 また電車に乗って日本海をさらに北上しようかとも思ったが、あの長い移動をまた繰り返すことを思うとうんざりした。結局二井は新潟市にとどまることにして、雪の降る町を彼は当てもなく歩きはじめた。
 大きな川があり、橋を渡ってさらに歩くとやがて海に出た。白い波と灰色の海面、その上を飛び交う黒い鳥たちと、粘土のように固く重そうな雲、景色はそうしたもので構成されていた。寒々しく雄大な景色を二井は眺めた。強い風が吹き小雪がちらついて、波の音まで冷たく感じられたが、日本海を見て二井は不思議な安らぎを覚えた。自分はただ海が見たかったのだと二井は思った。嫌っていたはずの海を故郷を離れてからはしばしば懐かしく思うこともあった。人は生まれた土地が及ぼす影響から逃れられないのかもしれない。
 恋人が死んで悲しみのあまり北へ向かい、やがて冬の日本海へ行き着く。なんだか演歌みたい。光村ならきっとそんな行動は陳腐だとしてひどく嫌うだろう。何であれあの男はわかりやすくありきたりなものを嫌う。その思想が恐竜族の音楽性に反映されている。
 二井は海岸沿いの道路を歩いた。まっすぐ歩くことも難しいほどの強風が吹きつける中を歩き続けるうちに、風の強さにも冷たさにもいつしか慣れていた。道路沿いで工事をしていて、その付近で警備をしていた男が、同じ道を何往復もする二井に向けて、不審そうな視線を投げていた。
 昼になると近くの定食屋で昼食をとった。食べ終えるとまた海沿いの道に戻って歩いた。歩き続ける二井の頭の中には何もなかった。透明ドラム・セットも山瀬雪乃も消えていた。海沿いに響き渡る様々な音を聞きながら、二井は完全に空っぽになっていた。それは嫌な気分ではなかった。風も寒さも今では快くさえ感じられた。警備の男は二井を監視するのに飽きたのかもはや彼には見向きもせず水平線を眺めていた。
 駅に戻る途中の街角である古道具店を見かけた。二井はその店の前で足を止め、そして窓ガラスに近づいて店内を覗き込んだ。窓際にさまざまな品物が並んでいる。黒ずんだ光沢を放つ熊の置物、金髪の小さな人形、花の模様の食器、そうしたものに混じってそこに古びた打楽器が置かれていた。二井が興味を引かれたのはその楽器だった。
 その楽器の形状は、アフリカの民族音楽で使われる「ジャンベ」という楽器に似ていた。五十センチほどの高さの細長い円筒形をしていて、砂時計のように中心がわずかにくびれている。直径二十五センチほどの打面には動物の皮が張られ、それは全体に張り巡らされた赤い紐で固定されている。薄緑色の皮の表面は、打ちつ付けた跡や汚れのために黒ずんでいた。
 ずいぶん古い楽器であることが窺えた。見ているうちに興味はどんどん膨らんでいった。手を触れて音を出してみたいと思った。
 ドアを開けて店内に入るとストーヴの匂いがした。入口のすぐ横のカウンターに、老婆が座っていた。見るからに怪しげな老婆、奇妙なほど鼻が長く、垂れ下がった瞼が黒い瞳を半分隠し、皺だらけの顔の皮膚は雨に濡れた泥のような色と質感をしていた。
 老婆は二井を見て笑った。愛想笑いを浮かべたのではなく、実際に声を出して、ざらざらした声で笑ったのだった。
 二井は無視して目的の楽器のもとへ向かった。老婆の姿は棚に隠れて見えなくなった。二井は楽器の前に立ち、再びそれを観察した。間近で見ると、先ほど窓越しから見たときよりもさらに古びて見えたが、作りは精巧であることがわかった。古びていてもそれは美しい楽器だった。
 二井は打面の表面を指で撫でた。思いのほかつるつるした滑らかな感触が指先に伝わった。軽く叩いてみると、わずかな力で触れただけなのに、驚くほど明朗で澄んだ音が店内に響いた。
二井はその音にほとんど戸惑いを覚えた。彼が想像していたものとは異なる音が生じた。二井はそれが本当に楽器が発した音なのか疑いさえした。店内の奥のほうに、何か動物がいて、叩いたのと同時にその動物が鳴き声を発したのではないかと、二井は思った。
 しかしそんなはずはない。二井が何度叩いても楽器は同じ音を返した。色褪せた滑らかな側面の木材を撫でたり、紐を引っ張ったりしながら、二井は楽器のあらゆる細部を点検した。それは古いことには疑いがなかったが、その割には良好な状態を保っているようだった。二井は夢中になっていた。楽器のほかにそのとき何も見えていなかったので、いつ老婆が接近していたのかわからなかった。
 気が付くと老婆は彼のすぐ背後に立っていた。振り向いた二井は驚いて動きを止めた。カボチャの上に干からびた草を乗せたような老婆の頭部が、二井の目の前にあった。紺色の半纏のような服を着て、重そうな瞼の下からじっと二井を見つめている。そしていまだ老婆は笑みを浮かべていた。
 老婆が口を開き、何か音声を発した。声は小さく、ひどくしわがれていてので彼は聞き取ることができなかった。二井は聞き返した。
 たくさんの生き物の血を浴びたよ、と老婆は言った。少なくともそんな風に聞こえた。しかし二井にはもちろん何のことだかわからなかった。二井は黙っていた。すると老婆は再び口を開いた。
「たくさんの血を浴びたよ、ニワトリやカラスや、豚や羊や、犬や猫や小鳥や、ありとあらゆる血を浴びているんだよ」
 何のことですか、と二井は言った。
「その汚れは、古いからじゃないんだよ。血を吸い込んで、その汚れが今も残っているのさ。洗っても拭いても落ちやしない。この楽器を手にした者はこぞって血を捧げたのさ。生き物の血、あるいは自らの血をそれに降りかけたんだよ」
 二井は黙ったまま、楽器を眺めまわした。どこにも血痕のようなものは見当たらなかった。老婆はなおも続けた。
「その楽器が要求するのさ。血を求めるのさ。血が注がれるたびに楽器は音色を変えるんだよ。その音色が、演奏者を虜にしてしまう。その音にとらえられてしまうんだよ。だからみんな次々に、ひっきりなしに血を振りかける。より瑞々しく、魅惑的な音色を求めてね。どうしてもそうなっちまうんだよ。楽器が血を欲するのさ。誰もそれに抗えないのさ(老婆はしゃくりあげるように笑った)。どうだい、おもしろいだろう」
 二井は面白いとも思わなかったし、そもそもその話を信じていなかった。老婆はおそらくしょっちゅうこの類の口から出まかせのエピソードを客に語っているのだろうと思った。しかしそうだとしても二井は、自分がその楽器に強く惹かれていることは否定できなかった。先ほど発した音がまだ耳に残っている。そしてその音をもっと聞きたがっている。心ゆくまで演奏してみたいと思っている。その欲求は、ほとんど渇望と言ってもよかった。二井は実際に喉の渇きに似た感覚を覚えていた。
 二井はもう一度軽く楽器を叩いた。薄暗い店内に、鳴き声に似た音が響き渡り、丸みを帯びた柔らかい音が空間に満ちた後で減退をはじめた。余韻は不自然なほど長く続いた。余韻が消えるまでの間に二井は何かの気配を感じた。彼は血の匂いを嗅いだ。楽器に血を捧げて死んだ多くの生き物と人間の霊魂があたりの空間を飛び交っていた。
 老婆は彫像のように身動きせず微笑を浮かべたままだった。
 二井は口を開こうとして、咽喉がかすれてうまく声が発せなかった。何度か咳払いをしてから、ようやく彼は言った。「いくらですか」
 老婆が値段を提示した。二井が考えていたよりもずっと安い値段だった。二井が頷くと、老婆は楽器を両手で抱えてカウンターに運んだ。二井はお金をカウンターの上に置いた。
 老婆は楽器を大きな紙袋に入れて二井に手渡した。二井は受け取り、店を出ようとした。老婆が背中から彼に声をかけた。「たくさんの血を浴びせるんだよ」
 二井は答えなかった。

 アパートに戻って、床の上に砂時計型の打楽器を置いてそれを改めて観察したとき、二井は軽いショックと混乱に襲われた。自分の目が信じられず、その場にへたりこんだまましばらく呆然としていた。雪の新潟市の片隅の怪しげな薄暗い古道具屋の一隅ではそれなりに美しく精巧なものに見えたその楽器は、自室の蛍光灯の明かりの下では、ただの醜く得体の知れない、奇怪な物体でしかなかった。何かの手違いで、袋の中身がどこかで別のものにすり替わったのではないかとか、あの悪い魔法使いのような風貌の女主人が、本当に何か魔法のような不思議な力を使って、自分に幻を見せていたのではないかとか、そういった馬鹿げた考えが頭に浮かんだ。
 二井はこれまでいくつも楽器を購入してきた。今回のように旅先で衝動的に見つけた楽器を購入することだって、初めてではなかった。しかしこれほどまでに購入時と印象が異なる楽器もなかった。
 騙されたような気分のまま、二井は打面の皮をそっと叩いてみた。そしてその瞬間に疑いは晴れたのだった。楽器は確かにあの堤古道具店の店内で耳にしたのと同じ音を立てたし、また二井の精神に、あのときと同じ効果をもたらした。遠吠えか鳥の鳴き声を思わせるその音色は、ざわめく気配のようなものを周囲に呼び起こした。
 二井はその日、一晩中楽器を叩き続けた。あまりに深く没頭し、ほかの何も目に入らず、考えられなかった。騒音のことを気にするには、二井はあまりに深くその楽器に没頭しすぎていたが、幸いなことに苦情はどこからもなかった。二井の部屋は角部屋だったし、隣の学生は年末年始で里帰りしているはずだった。さらに楽器の音は、とてもかすかで、ひそやかだったので、ほとんど部屋の外にまで届かなかった。
 夜明け近くに、一つの曲が生まれ落ちていた。気がついた時には曲はすでに完成した形でそこにあった。二井にはそれは自分が作曲したものではなく、砂時計型の打楽器が与えてくれたもののように思えた。囁くような弱音による四つの異なるリズム・パターンが一つずつ現れ、それらが絡み合いながら変形し反復されて展開する、静かな曲だった。
 初めて二井は自作曲に名前を付けた。『黄金のアモルフィ』。

 毎日のように砂時計型の打楽器を叩いて過ごすうち、冬休みが明ける頃には、二井は底なし沼からもう遠ざかっていた。元通りの精神状態で大学に通い、関係ない講義に出席したりすることはもうなく、自然な態度で周囲の人々と接し自然な集中力で勉学に励んだ。
 いつまでも沼に沈んだままでいるわけにもいかない。生きていかなくてはならない。それは山瀬雪乃の分まで生きなければならないというロマンチックな思いよりもむしろ、音楽に対して生じた新たなる欲望のためだった。演奏や作曲の技術をさらに向上させたいという思いを以前にもまして強く抱くようになっていた。そのようなモチベーションは疑いなく、砂時計型の打楽器がもたらしたものだった。死ぬのはもう少し後でいいと二井は思った。

7

恐竜族のライヴの集客は増え続けた。 インディーズ専門の音楽雑誌などから取材やインタビューを申し込まれることもあったが、彼らはすべて拒否した。呪われたキャラバン、呪われた音楽、そのように表現されることについては、光村も八杉も(おそらくベーシストも)むしろ気に入っているようだった。
 ライヴは毎回、興奮した観客によるわけのわからない咆哮や悲鳴で埋め尽くされる。
「ビートルズみたいだ」と八杉が言った。バンドの人気が増したことで、彼だけは最近少し浮かれている。
「言い過ぎだよ」と光村が言う。「まだメジャーデビューさえしてないのに」
「いや、そんなことはない。この熱狂はただ事じゃない。彼らは気づいている。俺たちが類をみないほど独創的で、才能にあふれたミュージシャンの集まりであることを。それは一種の奇跡なんだよ。彼らは奇跡を目の当たりにしている。新しいものを欲する鋭敏な聴衆は本能的にそのことに気づいたんだ。だからこそ、あんなに騒ぐのさ。何にしても、これはいい機会だよ。俺たちに対する世間の関心は今、結構なものになっている。デビューにありつけるかもしれない。アルバムを作って手売りするんだ。それはきっと売れる。売れないはずがない」
 二井も光村もベーシストも、八杉の浮かれ気分には同調しなかったが、アルバムを作るという提案には賛同した。恐竜族は最初のアルバムの制作を開始した。
 二井は新潟で購入した例の砂時計型の打楽器をレコーディングに持ち込んだ。その楽器の音色は、特に静かな楽曲において効果を発揮した。八杉が呟くように歌う陰鬱なメロディーの背後に、生き物の鳴き声を思わせる音色がリズムを刻むと、幻惑的な効果が生まれた。
 度重なるライヴ活動と練習がバンドの結束力を強めていた。個々の技術は向上しアンサンブルは密度を増した。制作は順調に進み、アルバムは夏に完成した。光村が『チクシュルーブ』とタイトルをつけた。それは白亜紀の後期に地球に衝突した恐竜を滅ぼす原因となったとされる隕石の名前である。
 アート・ワークを決める段階になって、バンドは少しばかり困難にぶつかった。ふさわしい写真やイラストが見つからなかったためである。八杉が自分で絵を描くと言い出して、実際に絵を描いて持ってきたが、それは変な漫画のお化けみたいな絵で、アート・ワークに限らず何にも使えないような代物だったので、あっさり却下された。
 ベーシストが言った。アート・ワークは大事だよ、それはバンドのイメージを決定する。自主制作だからって、素人が描いたようないい加減な絵ではよくない。
 ベーシストにそのように言われて、八杉は素直に自作の絵を引っ込めたのだった。滅多に口を開くことのないベーシストが発言するとき、八杉はまず異を唱えなかった。
 光村がプロに依頼しようと提案した。値は張るかも知れないが仕方ない。確かにアート・ワークのデザインは重要だ。せっかく良いものができたんだから、それにふさわしいイメージが必要だよ。適当に決めるわけにはいかない。
 誰かあてがあるのかと八杉が訊た。「ひとりだけいる」と光村が答えた。「友人なんだ。美大に通っている。まだ学生だけど、もう挿絵とかイラストの仕事をしている。幻想的で、陰鬱な絵を描く画家なんだよ。彼に頼んでみるよ。
 約二週間後、光村は絵を持ってきた。彼の友人の画家は引き受けてくれたのだった。画家から送られてきた画像ファイルを光村はノートパソコンでみんなに見せた。
 立ち並ぶ木々の向こうに湖が広がっていて、遠くには岩山や火山が見える。翼竜や首長竜がシルエットで描かれていて、景色の全体が赤く染まっている。それは燃えるような夕日にも、燃え盛る火炎に包まれているようにも見える。
 そうやってアルバムは完成した。バンドはCDをプレスしてライヴ会場で売ったり、インターネットで配信したりした。アマチュアやインディーズのミュージシャンが自主制作したアルバムの販売を支援するウェブ・サイトは数多く存在していた。

 ライヴ会場で販売した500枚は、メンバー自身でさえ予期しなかったほどの早さで売り切れた。八杉の楽観的な見通しを裏付けるようにアルバムは評判になり、音楽雑誌や、若手ミュージシャンを紹介するウェブ・サイト等で取り上げられた。4曲目の『月面渓谷』という曲は人気の曲になった。その曲は、複雑すぎるとか技術偏重すぎるとか言われていたバンドのイメージを覆すような、人を喰ったようなポップでわかりやすいもので、彼らの曲にしてははじめて、全編が4分の4拍子で統一されていた。『チクシュルーブ』によって彼らの評価はまた高まった。

 アルバムの発売から数カ月が経過する頃、またしてもバンドについてオカルトめいた話題が囁かれるようになった。
それはある楽曲のある個所に妙な声が入っているとか、あるパートで飼い猫や鳥が暴れだすとかそう言ったよくある話ではあった。聴くうちに体調が悪くなり眩暈や吐き気を催すとか言う人もいた。そうした言説がインターネット通販サイトの商品レビューのページや、あるいは匿名の掲示板等に書き込まれた。
 そうした話はメンバーの耳にも届いたが、もちろん彼らには心当たりなどない。光村もベーシストも八杉も、そういった話題をむしろ面白がっていた。「バンドが神話化するために、こういうエピソードは必要不可欠なのだ」と八杉が言った。「これでアルバムの売れ行きはまた増えるだろう」
 二井だけは別のことを考えていた。
 多くの人々が主張する異常なことが起こる個所、それはアルバム8曲目のある部分に集中していた。十分を超える楽曲の後半の、長いインストルメンタルの途中、二井が一人で、打楽器のみで延々と独走するパートだった。楽器以外のすべての楽器はそこでは沈黙している。二井は数多くの打楽器を使用して演奏した。島根の実家に置きっぱなしになっていた民族打楽器のコレクションも取り寄せていくつか使用した。そしてもちろんあの砂時計型の打楽器も使われていた。
 彼らは何かを聞き取ったのだ、と二井は思った。砂時計型の打楽器の音色に含まれた何かを、感覚の鋭敏な動物たち、一部の人の感覚の鋭い人たちは聞き取ることができたのに違いない。あの音が呼び覚ます不浄な、不吉な気配。そのためにこそ二井をとらえて離さないあの音色には、やはり普通でないものがあるのだ。
 老婆が語ったあの逸話を二井は思い出す。あのとき彼は少しも信じていなかった。それでも、楽器を叩けば叩くほど、その音色が耳に響き、体内に浸透するほど、老婆の言葉が頭に何度もよみがえるのだった。
「楽器が血を欲するのさ。誰もそれに抗えないのさ」
 老婆の笑みまで頭に再現されそうになって、二井は首を振った。
 二井は部屋に一人だった。老婆の言葉について、自分がひどく真剣に考えていたことに気づき、それがひどく愚かで、滑稽に思えてきて、だんだん可笑しくてたまらなくなり、笑い出しそうになって、実際に笑った。二井は声を立てて、体をよじりながらひとりで笑い続けた。
 そしてそれきり、その問題については考えないようにした。

 恐竜族の人気はさらに高まった。『チクシュルーブ』はインディーズのバンドとしては異例の売れ行きを記録した。ライヴの観客動員数は以前の倍近くに及んだ。そしてなおもファンは増える一方だった。
 人々は口々にまくしたてる。こんな音楽は聞いたことがない、こんな体験は他では味わえない。こんな体験、とはつまり恐竜族の音楽を生で聴いたときに感じる、ある種の特別な高揚感のことだった。バンドのライヴを体験した人々は、巷でささやかれるおどろおどろしい噂が、決して根も葉もないものではないことを知る。その音楽のために気を失ったり記憶をなくしたり、笑いが止まらなくなったり、動物が騒ぎ出したり、それぐらいのことは起こっても不思議ではないと感じる。聴衆は熱狂する。
「凄いバンドだ」と八杉が言った。もちろん自分たちのバンドを指して言っているのである。彼は前にもまして浮かれていた。
「これだけ注目されるのは、俺たちが本物であることの証拠だよ。俺は最近、何だか宙に浮かんでいるみたいな気分だ。好きな本の一節に、こういうのがある。『彼は高度八百メートルの高みから吊り下げられた人の気分でいました』、まさしく今の俺はそういう気分なんだ」
 これぐらいで浮かれるな、と光村が言った。「まだはじまったばかりだ。いや、はじまってさえいない。デビューさえしていないんだ」
「こんな時に浮かれないでどうする? 自分で言うのもなんだが俺たちの音楽は大したもんだよ。きっとこの先もっと有名になるし、もっと売れるだろう。いずれ俺たちは音楽業界において孤高の位置を確立することだろう。目に浮かぶようだよ。俺たちはすでに誰にも到達できない高みにいる。でもどれだけ有名になっても、追従者はまず現れないだろうね。普通はあるバンドがぽっと売れると、その真似をする連中があとから続々と現れるものだけど、恐竜族の場合にはそういうことは起きないだろう。なぜなら誰にも真似できない」
 八杉がどれだけはしゃいでも、それを真剣にたしなめる者はいない。光村も二井も似たようなことを考えていたのだし、彼らもまたバンドに対して上昇気流を感じていた。ただベーシストだけが冷静だった。彼は相変わらず寡黙で、バンドが騒がれるようになっても、演奏や楽曲や歌詞を褒められても、表情一つ変えない。出会って以来二井はベーシストが笑うところを一度も見ていない。何が起これば彼の感情を動かせるのだろうと思う。

 二井は卒業に必要な単位はほとんど取得していた。バンド活動が忙しくなっていたにもかかわらず、山瀬雪乃の死後に熱心な勉強を続けていたおかげで、さほどの苦労もなく悪くはない成績で試験を通過していたのだった。
 彼は『近代自然主義文学における疎外者の系譜』という題目で卒業論文を書き、それはBプラスの評価を下された。そして大学を卒業した。
 両親は、二井が大学を無事に卒業したことについては祝福の言葉をかけてはくれたが、その将来の展望には難色を示していた。二井は卒業後も音楽を続け、それを職業にするつもりであることをすでに両親に伝えてはいたが、彼らはもちろん難色を示した。そんな生き方はリスクが大きく不安定でとても一生続くものではない、とお決まりの文句を彼らは口にした。バンド活動が少し軌道に乗ったぐらいでは、彼らの態度は変わりそうもなかった。
 おそらく両親の言う通りなのだろうと二井は思う。しかし自分にはそもそも最初から選択の余地などなかったのだと、彼は考えていた。安定した仕事を選ぶにしたって、それにありつけるとは思えなかったし、もしありつけたとしても、それを一生続けてゆくための能力が自分に備わっているとは、彼には思えずにいた。
 二井はラブホテルの清掃や、引っ越しの作業員などのアルバイトをしながらバンド活動をつづけた。大学を卒業して両親からの仕送りが終了してしまったので、自ら生活費を稼ぎ出す必要が生じたのだった。他のメンバーはお金には困っていないようだった。光村とベーシストは実家住まいだし、同じく大学を卒業した八杉はまだ両親から経済的な援助を受けているとのことだった。
 精力的なライヴ活動を続けるバンドの上昇気流は止んでいなかった。恐竜族はすっかり人気バンドになっていて、物販では八杉が描いた変な絵をプリントしたTシャツでさえそれなりに売れるようになっていた。
『チクシュル―ブ』のリリースからちょうど一年が経過した7月のことだった。ライヴ終演後の彼らの楽屋に、スーツを着た人物が現れた。ある大手レコード会社のレーベルの担当者だった。彼はレーベルとの契約をに提示したのだった。
 アマチュアでありながら五百枚を売り切ったこと、そして話題性豊かであること、ミュージシャンとしての技量を、スーツを着た人物は評価した。

「ついに来たね。まあ俺にはわかっていたけどね。この日がいつか来るのは」と言ったのは八杉だった。
 バンドはレーベルと契約を交わした。デビュー・シングルとして『翡翠色の太陽』が発売されることになった。
 デビュー曲はおよそ四か月後に発売された。それは週間ランキングで26位を記録した。デビュー曲としては悪くない売れ行きだった。
 レコード会社に籍を置いたからといって、すぐに生活が楽になるわけでもなかった。二井はバンド活動と平行して、依然としてアルバイトを続けていた。あるときレコード会社の社員の一人に二井がそのことを何気なく話したところ、その社員は同情したのか、二井にスタジオ・ミュージシャンの仕事を紹介してくれた。いろんな歌手やユニットやアイドルのバックでドラムを叩くのである。それらの音楽のほとんどは二井の好みではなかったが、そういう仕事には慣れていたし、音楽と関係のないアルバイトをするよりは良さそうだった。そしてそれは以外に悪くない収入になった。
 そのようにして二井は、かつていろんなバンドを手伝っていた頃と同じように「便利屋」としていろんなアーティストのバックで演奏するようになった。彼は通り一遍のワンパターンなドラマーではなく、音楽によってスタイルも音色も変化させることができたので、ずいぶん重宝された。
 その年の終わりごろから恐竜族は新しいアルバムの制作に入った。それまでにバンドが作った楽曲群からは一曲も採用せず、書き下ろしの新曲のみで構成することになった。その頃には恐竜族の曲作りの方法は、光村一人が最初から最後まで組み立てるのではなく、メンバーの四人がそれぞれアイデアを持ち寄るというスタイルに変わっていた。それは『翡翠色の太陽』のやり方がバンドにもたらした変化だった。
 四人とも多くのアイデアを書き溜めていたので、十分な数の新曲の原型がすぐにできあがった。それらを仕上げていく過程で、さらに別のアイデアが生まれたりして、そうやってあまりにとめどなく着想が湧き出てくるために、かえって制作は難航した。そうしておよそ4か月後にアルバムは完成した。
 デビュー・アルバムである『海と氷の星』は4月にリリースされた。アート・ワークは前作と同じ例の幻想画家が手掛けた。バンドの音楽性は『チクシュルーブ』からわずかに変貌を遂げていた。八杉のメロディーのセンスが全編においてさえわたっていて、複雑で緻密な演奏は相変わらずだったが、それ以前よりも格段に聴きやすくわかりやすい音楽になっていた。そのような変化を批判する初期からのファンが現われるだろうことは想定されたが、しかしメンバーたちはメジャーで音楽をリリースすることの意味を理解していた。何をおいても、まず売れなくては話にならない。アルバムはランキングで13位を記録した。
 バンドは少しずつ、着実に前進していた。二井はなぜかストレスを覚えていた。めでたくプロになり、音楽性も技術も高く評価され、セールスも悪くなく、人間関係にも不満はない。そんな状況の何が気に入らないのか、二井には自分でもわからない。

 二井はことあるごとに自室やスタジオで一人で砂時計型の打楽器を叩いた。迷いや不安、様々な記憶とそれが運ぶ悲しみ、そうした感情に襲われたときには、まるで楽器がそれを解消してくれると信じる者のように、彼は無心で何時間もその楽器を叩いた。そして実際にその行為は彼の感情を中和し解放した。音は耳から二井の体内に入り込み全てを忘れさせてくれた。そして楽器を叩けば叩くほど、古道具屋の老婆の言葉は彼の中でますます力と重みを持っていくのだった。
 ある時、二井は自宅で料理を作っている最中に過って包丁で左手の人差し指を切った。傷口から染み出てまな板に落ちた赤い液体を見た二井は、血を水で洗い流すこともせずに台所を離れ、半ば導かれるように、部屋の隅に置かれていた砂時計型の打楽器に近づいた。そしてその上に左手を掲げ、楽器の打面に血を垂らしたのだった。
 血は黒っぽい点のような染みを作り、滲んでじわじわと広がって、輪郭のギザギザした五ミリほどの円になった。
 二井は打面を軽く一度叩いた。たちまち彼の身体はしびれたみたいに硬直した。耳を通じて彼の体内に何かが侵入したが、その何かは彼には見慣れない、また親しみのないものだった。
 続けて何度も二井は楽器を叩いた。そのたびに耳を澄ませる。二井の肉体はそのとき、聴覚を除いて全くの無感覚だった。思考も感情も機能を停止していた。まるで頭蓋骨の内側に脳の代わりに丸めた紙屑がいっぱいに詰まっている気がした。彼は白紙の気分のまま夜まで楽器を叩き続けた。傷ついた左手も演奏に用いられ、打面には彼の血が多く付着した。

8

恐竜族は最初のツアーを行った。多くのライヴ・ハウスをまわり、東京と札幌ではホール公演も行う予定になっていた。そのツアー中、行く先々で何かが起こった。

 10月1日・東京 観客のうちの一人が気を失って倒れた。
 10月7日・福井  すべての照明が原因不明のショートを起こし、バンドは暗闇の中で演奏を行った。楽器のほうの電力はなぜか無事だった。
 10月12日 福岡 観客同士の間で殴り合いの喧嘩が起こり、ライヴが一時中断した。
 10月20日 広島 どこから入ったのかライヴ途中にホールでカラスが羽ばたいた。
 10月27日 熊本 会場のライヴ・ハウスのガラスが割れた。原因は不明。

 これほど行く先々でトラブルに見舞われたバンドはかつてなく、それでもツアーは中断することなく続いた。一連の奇妙な出来事の一部はマスコミでも取り上げられた。それによってバンドに対する注目度はまた高まったが、同時に批判も起こった。トラブルをネタにして注目を集める話題性目当ての色物バンドだとか、事故やトラブルは宣伝のために故意に引き起こされたものであるとか、そうした批判だった。メンバーや関係者のもとに取材やインタビューが申し込まれることもあった。
 二井も光村もベーシストもマスコミとかかわることを拒否していたが、唯一八杉だけは、気が向いたときに気まぐれにインタビューを受けた。
「我々が神に愛されているからさ(なぜこうした奇妙なトラブルが次々起こるのかと尋ねられて)。あるいは悪魔に魅入られているからさ。どちらでも構わない、大した違いはない。何にしても、人知を超えた力が働いているんだと思いますよ。伝説的な存在になるバンドには、たいていそういう神秘的な力が働きかけるものですよ。だからそれは恩寵と言ってもいいのかもしれない。
 そういう恩寵は不可欠なんだよ。そして我々は最初からそれを授かっていた。デビューする前から、すでに、神だか悪魔だかの寵愛を授かっていたんだ。神だか悪魔だかでさえ僕らを愛さずにはいられなかったんだろう(もっとも初期には観客にはあまり好かれなかったけどね)。未踏の荒野を行く四人の険しき道に加護あれ、って感じだ。いずれ恐竜族は伝説になる。ファンたちはそのことを誇りに思っていい。君たちは幸運だ。伝説が成立する過程を現在進行形で目撃している」
 ツアーはいつしか恐竜になぞらえて「呪われた大移動」などと呼ばれるようになった。

 オカルトめいた噂はバンドのイメージを損なうどころかむしろ神秘性を高めた。多くの人々が非日常的で刺激的な体験を求めてライヴに集まり、チケットはすぐに完売した。
 何が起こってもメンバーは特に動じることもなく、ライヴ・パフォーマンスは常に高いレベルで安定していた。根っからの音楽マニアである恐竜族の四人は、ツアー中にも時間があれば演奏の練習をしたり、曲のアイデアを書き溜めたりしていた。四人とも本質的に音楽にしか興味がなく、酒や女遊びには関心を示さなかった。古いタイプのロック・バンドのアティテュードは彼らには無縁のものだった。その非人間的なストイックさは、周囲の人々の目には、尊敬の対象としてよりは、むしろ不気味なものに映った。
 二井はツアーにも砂時計型の打楽器を持ち込んでいた。いつしか、ライヴの開演前に、自らの血を楽器に捧げることが習慣化していた。左手の甲をナイフやカッターで数ミリほど切り、その血を打面に塗りたくるのだった。
 「呪われた大移動」は11月1日の東京で最終日の公演を終えた。

 恐竜族は多くのライヴを行い、フェスティバルにも参加し、ツアーを行った。デビュー・アルバムとシングル・カット曲はいずれも好調な売れ行きを記録した。そしてバンドは相変わらず、常に何かしらのトラブルとともにあった。ライヴの途中で観客が体調を崩したり、精神に異常をきたしたりしたという話はしょっちゅうだった。その音楽性が青少年に悪影響だとして、親やPTAからの攻撃の対象にされることもあった。母親を殺害した容疑で逮捕された十六歳の少年が、恐竜族の熱心なファンだったという報道がなされたこともあった。
 あるゴシップ雑誌に恐竜族についての記事が掲載された。バンドの周囲でそれまで起こった事件や出来事を詳細に紹介しており、またどのようにして調べたのか、メンバーの生い立ちや経歴まで詳しく調べて書いていた。明言はしないまでも、まるでそんな暗い陰鬱な過去を持つ四人にかかわると、かかわった人まで不幸になる、言わんばかりの書き方をしていた。
「このバンドは人の不幸を養分にして成長してゆくかのようだ」とライターは締めくくっていた。

 メンバーの四人は口を閉ざしたままだった。彼らはメディアに一切顔を出さない。そしてひたすらひたむきに音楽を作り続けていた。
 デビューから二年が過ぎても、彼らはいまだにお互いの連絡先すら知らず、バンドの練習のとき以外にはまず会わない。彼らは友達同士ではなく、だからといって仲が悪いというのでもなく、ただ音楽だけで結束した集団だった。その距離感のおかげで彼らの関係は変わることなく良好だった。
 二井はバンド活動とは別にスタジオ・ミュージシャン的な仕事も続けていた。彼は学生時代から引き続き住んでいたアパートから、川崎市の外れにあるオフィス・ビルのような形をした古いマンションに引っ越した。一階に雀荘があるそのマンションの、最上階が彼の住居だった。

 

9

ライヴ後の打ち上げの席で、その男は二井の隣に座っていた。二井は何者であるのかも知らないままその男と話していた、というより彼が話すのを聞いていた。尖った顎、高い鼻、突き出た喉仏など、身体のあちこちに妙に鋭角的な印象がある男だった。縮れた髪が耳までかかっていて、目つきは鋭かったが奇妙に光彩に乏しく、どこか眠たげに見えた。
 男は恐竜族の音楽、特に二井の演奏を熱心にほめそやした。二井は演奏を褒められることには慣れている、そして決してそれが嫌いなわけでもない。見知らぬ男は、初めて恐竜族の音楽を聴いたときの体験について語っていた。
「当時僕はひどく落ち込んでいたんです。ある私生活上の事情でね。何日も、外に出ずに部屋に閉じこもってどこにも出かけず、誰とも会話もせず暮らしてたのです。ある日、僕はソファに横になってラジオを流しっぱなしにしていた。その頃、僕は音楽を聴きたいという欲求さえ失っていました。ラジオを流していたのはただ部屋の静けさが耐えられなかったからです。静かな部屋に一人でいるといろんな人が話しかけて来るのです。DJのお喋りの間にいくつかの音楽が流れた。いずれも何の印象も残さずに耳を通り過ぎて行きました。そんな時に、恐竜族の曲がかかったんです! それまで失礼ながら、僕は恐竜族の存在も知らなかった。最初の数秒を耳にしたとき、思わず僕は文字通り飛び上がりました。なんだかわけのわからないことがはじまったという感じがして、半分眠っていた意識はすぐに覚醒したのです。体を起こして、ソファに前かがみに座りなおした。そして音に耳を傾けたのです。名状しがたい興奮のうちに、数分が一瞬のうちに過ぎて、曲は終わりました。気がつくと僕は元気になっていた。憂鬱な気分はどこかに消えていた。僕は立ち直っていたのです! そのことが自分でわかったのです」
 男はコップのビールをぐびぐびと飲んだ。
「何が起こったのだろうと思いましたよ。さっそくCDを購入しました。『チクシュルーブ』と、『氷と海の星』。僕は繰り返して聞いた、何度も。聴くたびに、あの複雑で美しい音楽が身も心も洗うようだった。それは久しく忘れていた感覚でした。
 それで、僕はやがて気づいたんだ、あの音楽の、奇妙な快感の根底には、あなたのドラミングが大いに寄与してるってことが。複雑怪奇な音楽の根幹にあるグルーヴを生みだしている。そのことがわかった。それが僕を踊らせたんですよ。どんな楽曲においてもあなたの演奏は常軌を逸している。手足が二本ずつしかない人間によるものだとは思えない。いつも僕は聴きながら、H・P・ラヴクラフトの小説に出てくる、タコだかイカだかに似た化物が、ドラムを叩くところを想像するんです」
 二井はその光景を想像して笑った。
「ああいうものを書けたらいいでしょうね。気分が解放されて、思わず踊り出してしまうようなね、もっとも、小説でそんなことを実現するのは難しいかもしれませんが」
「小説? じゃああなたは、小説家なんですか」
 二井がそのように問い返すと、男はやや驚いた顔をした。
「いや、違う、失礼。そういうわけじゃないんです。小説家ではないです。僕は単なる音楽ライターです。雑誌社などから依頼されて、ライヴやフェスティバルのレポートを書いたりしているんです。ただ最近、趣味と言うか遊びと言うか、そんな感じで小説を書いているんですよ。誰に見せるあてもなく、ただ自分のためにね」
 彼の名前は暮河原洋一郎といった。彼もかつてバンドを組んで音楽活動をしていた経験があるということだった。
「それでバンドは止めにしたんです。ちょっとトラブルがあって、いろいろと。昔のメンバーたちももう誰も、音楽にかかわっていない。いずれにしてもあのまま続けていても見込みはなかった。あの頃、僕はいつももどかしさのようなものを覚えていたよ。理想とする音は、いつも遠くにあった。かつては僕は自分のことを天才だと思っていた。もちろん音楽を志すような連中は、程度の差はあれそんな風に自分のことを思うものだ。心のどこかで、自分が選ばれた人間だって思いたがっているんだ。そうだ、僕もその一人だった。昔は『その一人』なんかじゃなく、自分だけがそうだと思っていたものだ。いや、でももし本当に実際に音楽的な才能があったんだとしても、その他のものが欠けていたんだと思う。つまり必要なものは一つじゃなかったんですよ。ゲームであるでしょう、必要なアイテムを全部揃えて祭壇に捧げると、天に続く階段が現れる、みたいなやつ。僕は一つか二つしかアイテムを集められなかったんだな。もし僕が本当に選ばれし勇者だったんだとしても、他のアイテムを集めるのを怠っちゃあ、道は開けないのですね。だったら勇者じゃないのと同じことだよ。それは一種の総合的な複合的な状況のことなんだろね。どんな場所で生まれて、どんな性格をしていて、どういう境遇に置かれていて、どんな人々と出会って、そうしたことのすべてが含まれて成り立つものなんだろう。
 でも当時はそういうことがわかっていなかった。僕はバンドがうまくいかないのは自分のせいではなくメンバーのせいだと思った。そうやって不満をメンバーにぶつけていたんです。僕の目には、彼らは努力不足で、技術も才能も不足しているように感じられた。僕はそれを指摘したんですよ、はっきりとね。そうすることが彼らにとってもよいことだと信じていた。僕も若かったし切羽詰まってもいたから、言い方に配慮する余裕もなかった。それがトラブルを生んだんですよ。当時の僕は、自分に問題があるだなんてこれっぽっちも思わなかった。みんな周りの人間が悪いんだと思っていた。バンドは何度もバラバラになった。新しくバンドを組んでは、分解する、そうしたことを繰り返しましたよ」
「どんな音楽をやっていたのですか」
「ロックですよ。広義のね。多少複雑だったり、長大だったりする。恐竜族の音楽ほどには、極端じゃないですけどね。」
 暮河原洋一郎は二井より三つ年上だった。二人には共通点があった。つまり川崎市に住んでいた。暮河原はJR川崎駅の近くのアパートに恋人の女性と一緒に暮らしているとのことだった。彼は酒が回ってますます饒舌になる。
「それで、いったんバンド活動はやめにしたんです。いろんなことに疲れたんですね。人前に出て演奏すること、曲を書くこと、楽器を練習すること……、そうしたことに疲れたんです。
それでしばらくぶらぶらしていたら、知り合いのライターが、あるとき僕に仕事を頼んだのです。あるライヴのレポートを書いてくれないかって。彼は行くはずだったライヴにどうしてもいけなくなってしまって、暇な僕に頼んだんですね。で、僕は引き受けて文章を書いた。そしたらそのレポートがまあまあ評価されて、別の仕事も回ってくるようになったんです。彼が雑誌社に紹介してくれてね。それから仕事が少しずつまわってくるようになった。思いもよらないほうに転ぶものですよ、人生なんて。そうだ、こないだね、恐竜族のライヴのレポートも書いたんですよ。あなたたちの音楽は、言葉で表現するのが大変で、だからこそやりがいがあるものなんです」
 何という雑誌かな、と二井は訊ねた。
「いえ、あなたには教えませんよ! あなたたちの音楽について書いた文章をあなたに読まれるのは、なんだか抵抗がある。いえ、もちろん批判的なことなんて書いてませんよ。何しろ僕は『恐竜族』の、熱心な信奉者ですからね! つまり、僕はどうにか感動や興奮を伝えようと、言葉の限りを尽くして書いたんですが、どうもどんな言葉も表現も十分ではない気がして、きっとあなたは不満を覚えるだろうという気がするんです。音楽を言葉で伝えるのなんて結局のところ不可能なんですよ。その行為にはどこか、どうしても滑稽さが付きまとう。
 でも音楽ライターをするうちに、文章を書くのは悪くないと思えたんです。僕の文章は意外に受けがいいんですよ。この仕事をはじめてわかりましたよ、結局自分は協調性がないし、一人でできる仕事が一番向いていたんだってね。僕は締め切りにも遅れないし、文章も書ける。自分では思わないけど、編集者とか、読者は褒めてくれる。意外な気がしましたよ。読みやすくてわかりやすい、それに変なユーモアがある、とか言われてね。文章を書くことについて、僕は自分でこれまでなんとも思ったことがなかった。僕がまとまった文章を書く機会なんて、成人してからはほとんどなかった。たまに面白い夢を書き留めるぐらいだった。だから自分に文章が書けるなんて、思ったこともなかったんです。結局僕の人格というか性格ははじめから、バンドという形態と相いれなかったんだな。僕は一人でやるべきだった。バンドなんて志すべきじゃなかった。そしてひとりでやるのが結局自分には向いていたんだな。ああ、すみませんね、なんだか、長々とろくでもないことを語ってしまって……悪い癖なんですよ。こういう独りよがりなところなんだな。自分のことを長々と語ってしまう」
 かまわないよ、と二井は言った。
 打ち上げ会場からは人が減っていった。その日彼らはそのまま別れた。

 二週間後に二井は暮河原洋一郎と再会した。ある日の午後、自宅近くの喫茶店に入ったところ、そこに暮河原洋一郎がいたのである。店員からコーヒーを受け取って店内を見渡したとき、二井は壁際の席に一人で座っていた暮河原洋一郎の姿を見た。よく似た別の人物かとも思ったが、確かにそれは暮河原洋一郎だった。彼の独特な鋭角的な印象は数メートルほど離れていても伝わった。暮河原は黒いトレンチ・コートを着込んだまま、腕を組んだ状態でテーブルに両肘をつき、目の前のコーヒーカップの中身を背中を曲げて真上からまっすぐに覗き込んでいた。その様子は蟻を観察する幼児を思わせた。
 二井は声をかけようか迷った。数カ月前に一度会っただけだし、その上あのとき暮河原はずいぶん酔っていたので、自分のことを覚えていないかもしれない。また、あまりにカップを見つめる暮河原の表情が真剣そうに見えたので、その邪魔をしては悪いのではないか、という変な考えも浮かんだ。
 暮河原は二井には気付いていなかった。明らかに彼はコーヒーカップの中身のほかには何にも関心を持っていない。隣のテーブルを横切るウェイトレスにも店内にいる他の客にも窓の外の景色にも一切視線を投げなかった。コップの中の何が一体あんなに強く彼の関心を惹きつけているのだろうと二井は思った。どう考えたってそこにはコーヒーか紅茶かココアか、その手のものしか入っていないはずなのに。
 いつまでも立ち尽くしているわけにもいかないので二井は暮河原の近くに歩み寄った。すぐそばに立っても、暮河原はまだ同じ姿勢のままでいた。
 二井は「やあ」と声をかけた。
 暮河原は意外なほど素早く顔を二井の方に向けた。どこかすばしっこい小動物を思わせるような仕草だった。彼は眠りから覚めたばかりのような目つきで二井をじっと見つめたまま数秒ほど静止し、そのあとでわずかに微笑んだ。
「あなたでしたか」と暮河原は言った。それからなぜか立ち上がろうとしてすぐにやめ、「久しぶりですね」と言った。どこか乾いてざらざらした、意外なほど高い声。
 邪魔したんじゃなければいいけど、と二井は言った。
「まさか? 邪魔じゃないですよ」
「でも何か考えごとをしていたんじゃないんですか」
「僕が?」
「ええ。ずいぶん真剣そうだったから、声をかけるのを少し迷ったんです」
 暮河原は眉をひそめるような表情をした。「そういえばそうだ、僕は何か考えていた。君に声をかけられる直前まで。そうだ、それはとても重要なことだったはずだ。歩きながらずっとそれについて考えていて、この店に入ってからもそのことが頭を離れなかったんだ。何だったかな……、いや、実際には大して重要なことでもなかったのかもしれないぞ! 何にしても綺麗に忘れてしまった。変なものだね」
「待ち合わせとかじゃないんですか」と二井は訊ねた。
「僕が? いえ、違いますよ。僕は誰とも待ち合わせなんかしない。そして僕が喫茶店に来るときは、必ず一人なんです」
 なるほど、と二井は言った。
「どうぞ掛けて下さい。僕もあなたに会いたかったですよ」と暮河原は言ってテーブルの向かいの椅子を示した。
 二井はその椅子に腰を下ろした。そのときさりげなく暮河原のカップの中身を見たが、それは底に二ミリほどコーヒーが残っているだけの何の変哲もないカップだった。熱心に覗き込むほどのものは二井の目には見つけられなかった。ウェイトレスが来て、二井に注文を尋ねた。彼はコーヒーを注文した。
「よくここに来るのですか」と暮河原が尋ねた。
「家が近くなんです」と二井は言った。
「なるほど」
「あなたはここで何を?」
「散歩の途中に寄ったんですよ。僕の家はここからずいぶん遠い、言いましたっけね? 川崎駅から歩いて十五分ぐらいのアパートなんですけどね。ときどき、とても長く歩くことがあるんですよ。さっき一仕事終えてたまたまこの店が目についたから、ちょっと入ってみたんです。ところで二井さんの家は、どのあたりなんです?」
 二井は住んでいる場所について簡単に話した。暮河原は意外なことに、二井が住む建物について知っていた。
「あの少し奥まったところにある、黒いビルでしょう。知ってますよ。言っては何だが、ひどく古くて、地味な建物ですよね」
「そう。目をそらしたら、その直後に一瞬で忘れてしまうようなね。あのビルの最上階なんですよ。それにしても、よく知ってましたね」
「あの建物の存在は、気になったことがあるんですよ。界隈に取り残されたみたいにぽつんと立っている。まるでそこだけ浮き上がって見える。そういう見捨てられたものとか古いものとかに、興味を持った時期があったんだ。なるほど、君はあそこに住んでたんですね。じゃあ今度遊びに行ってもいいですか。いや失礼、ずうずうしすぎるよね」
「別にいいですよ。でも何もないですよ。楽器しかない」
「確かに興味がある。あなたみたいなすごい演奏家が、普段どんな暮らしをしているのかって。ところで今日は仕事じゃなかったんですか」
「スタジオで練習してたんです。ひとりで」
「へえ、さすがですね。プロでもやはり練習はするんですね」
「もちろんだよ。そうしないと、技術はすぐ衰えるんです」
「僕は音楽に対して、そこまで勤勉にはなれなかったなあ」
 話しながら暮河原はコーヒーカップを口につけたが、中身はすでにほとんど空だった。少しして、ウェイトレスがやってきて二井の前にコーヒーを置いた。そのとき暮河原はウェイトレスにコーヒーのおかわりを頼んだが、そのようなサービスは行っていないとして退けられた。彼は仕方なく新たにコーヒーを注文した。
 二井もまたコーヒーを一口飲んだ。
「今日僕は、ずっと小説を書いていたんですよ。朝から」と暮河原が言った。
「へえ」
「小説って書いたことある?」
「ない。読むのは好きだけど」
「僕もなかった。やってみて初めてわかったんだけど、あんなに簡単な種類の創作ってないよ。子供のころから今まで、僕はこれまでいろんな創作をやったんです。もちろんプロとしてではないけどね。作曲はもちろん、ほかにもいろんなことをやった。絵を描いたり、短編映画を撮ったり、粘土細工を作ったり、漫画を描いたりした。もちろんいずれもアマチュア・レベルだよ。低いレベルでの話だよ。でもたとえ低いレベルでの話だとしても、小説を書くことは作業として最も楽なのは事実だった。
 もちろん作ったものを世に出して、それで他人を感動させたり、楽しませたり喜ばせたり、そうしたことは簡単じゃない。何しろ僕は音楽家として失敗したんだから、作品を人に届けて、それで共感を得ることが難しいことは知っている。でもそれは別の話だ。単に作品を完成させるだけなら、小説はどんな創作よりも簡単だよ。知識も何もいらない。特別な道具もいらない。練習も訓練もいらない。人生体験だって、読み書きができる程度にまで成長していれば、それまでに得た経験で十分だよ。想像力さえほとんどいらないかもしれない。字が書ければ書けるんだよ。僕は小説だけは書けないし、書かないだろうと思ってきたよ。そんなことだけはしたくないと思っていたよ。そんな人間にだけはならないって。多分恥ずかしかったんだろうね、自分に対して。これまで、なぜかね。でもやってみるとこれほどたやすいこともなかった。実に簡単に満足感を得られる。
 なぜ恥ずかしさがなくなったのか? それはきっと、今の僕がつまはじき者だからだと思う。何かに挫折したり、集団や共同体から締め出されたり、そうした状況に置かれると、人は自らの恥の意識に直面する。だから正確には恥は消えたんじゃない。むしろそれに向き合うようになったんだ。そしてそれを言葉にしようとしている。あれはまさしく、よく言われる通り、つまはじき者のための芸術だよ。不適応者のための表現だよ。あんなのを職業にしている人たちは、よく罪悪感を覚えずにいられるなと思うよ。ろくに役に立たない、ちょっとした暇つぶしな娯楽を提供するだけで、原稿料や印税を得るなんてね。もちろんそうじゃない、暇つぶし的じゃない立派で高級なものもあるかもしれないが、そんなのを書く人が何人いる? いつか書けるようにと努力している作家さえろくにいないよ。小説家と呼ばれる連中の大半は、芸術家とみなすこともできないただの俗物だと思うよ。ところで僕は毎日一万文字ぐらい、ここのところ書いている。するとね、周りの人が自分より偉く見えるようになったよ。自分の堕落っぷりますますひどくなって、そのことにはさほどなんとも思わなくなって、まるで麻痺したみたいにね、そして単純に人の役に立つ仕事に従事している人たちが、ひどく立派に見えるんだ。僕はこの世で最も容易な創作に夢中になっていて、彼らは働いている。他人の役に立っている。やくざなつまはじきものはますます堕落してゆく。これが小説なんて書く人間の宿命なんだろうね。でも僕は何としてでも、今書いているやつだけは完成させたい気がする。死にたくない、なんてはっきり思ったのははじめてのことだ。とにかくあれを完成させるまでは生きていなきゃならない。もっとも、誰にも見せるあてはないんだけどね。誰も読んではくれないんだよ。無名の素人が書いた、長い小説なんてね。そんなの人に読ませるなんて、ほとんどの場合、迷惑以外の何物でもないよ。今の時点で、小説はだいたい予定の三分の一ぐらいまで書きあがっている。最終的には、二十五万字ぐらいになるはずだよ。それは原稿用紙六百枚超、本にすると、結構な分厚い本になるよ。もっとも本になる見込みなどないんだけどね」
「どんな小説なの?」
「小説はね、音楽をテーマにしているんです。音楽家、ピアニストの話。僕が人より多少なりとも知っていることと言えば、音楽のことしかなかったですからね。主人公のピアニストはね、仮面をかぶっているんです。いつも仮面をかぶって演奏するんです。そんなピアニストって実在しますかね? 僕は一人も知らないんだけど」
 僕も知らない、と二井は言った。
「まあ一人ぐらい入るでしょうね、世界は広いから。なぜ彼が仮面をつけるかというと、彼は顔に大きな傷を持っているんです。額から、目の間を斜めに走って、頬にまで及ぶ傷。ある事故で彼はその傷を負う。傷が完治しても、跡は消えないんだ。主人公はそのせいで、一種の醜形恐怖の症状に陥るんだよ。つまり傷跡を人目にさらすのが嫌で、ほとんど引きこもりのようにして生きてきたんです。それで成長してピアニストになるんだけど、その顔の傷を隠すために仮面をかぶってステージに立つんです。そういうお話」
「じゃあ割と深刻な感じの小説なのかな」
「できればそんな風にはしたくないな。僕は主人公に幸福になってもらいたいですよ。なにしろそれは僕の分身なわけだし、あんまり暗い話にはしたくないからね。もっとも最後にどうなるのかは、まだわからないんだ。書きながら考えているんです」
「完成したら読ませてくださいよ」
 暮河原は大声で笑った。「まさか! 僕がいくら厚かましくたって、そんなことは頼みませんよ」
「いや、真剣だよ。興味があるんだ。まさか君だって、誰にも読ませるつもりもなく書いてるわけじゃないでしょ」
「そうですね、ええ、あなたがいいのなら僕は構わないけど。でもきっと退屈だよ」
「退屈でもいいんですよ。退屈な小説なんて僕にはないんです。僕はどんな小説でも読む。退屈な本のほうが、場合によっては楽しむかもしれない。それは面白い本と同じくらいに、いろんなことを考えさせてくれることがあるからね」
「でも現役の同世代の優れた音楽家に読んでもらえるとすれば、これは面白いな。小説を書いているときにはね、僕はよく恐竜族のCDをヘッドフォンで聴くんです。あの複雑怪奇な音楽に引きずられるように文章を書くのは、相当に特殊な体験ですよ。何しろときどき視界に白亜紀の景色が展開される。燃え盛る火山や、地面を闊歩する恐竜たちを目にすることができるんだよ! 僕は一億年前の地球で小説を書いている。それは一種のドーピングみたいですよ」
 そのあと二人はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。外を歩く人たちは風を浴びながら寒そうに首をすくめて窓の外を通り過ぎていった。店内には一切音楽が流れていない。二井はそのためにこそこの喫茶店を気に入っていた。暮河原は両肘をテーブルについて、窓の外を眺めながらぼんやりしていた。彼は二杯目のコーヒーもすでに空にしていた。やがて暮河原は突然思い出したみたいに尋ねた。
「ねえ、あなたはすべてぶっ壊したくなる気分のときってないのですか」
「どういう意味で?」
「むしゃくしゃして、何もかも嫌になって、そういう自暴自棄な気分にならないのかなって」
「もちろんあるよ。それは誰にだってあるよ。あるに決まっているよ。僕だって人間なのだよ」
「あなたをはじめ、恐竜族の人たちはみんな、そういう気分とは無縁のように思えたんです。みんな理知的でクールで、決して感情的にならず、ステージでもほとんど無言だし。激情や衝動に駆られてアクションを起こすなんてことがあるのだろうかといつも思っていたんです」
「それはいわばバンドのコンセプトのようなものだよ。ステージではそういう風に見えたとしても、僕らだってそれなりに苦しみや悲しみを背負っているんだよ」
「あなたも悲しんだり苦しんだりすることがあるんですか」
「僕は全然タフな人間じゃない」
「そうなんだね。でも僕はあなたたちの、そういう『ありよう』にも惹かれたんです。冷たいほど非人間的で鋭利で、血が通っていないような感じ。演奏はいつも機械みたいに正確だし、決して感情や気分に流されるということがない。そのアティテュードに、僕は憧れに近い思いを抱いたんです。そんなロック・バンドって少ないですからね」
 血が通ってない、という表現を聞いて、二井はまた笑いそうになった。

10

ある日のスタジオでの練習中、八杉はやたらに陽気だった。ギターを弾きながらでたらめに歌ったり、また楽曲の練習中に数多くのアドリブのフレーズ・ラインを歌ったりした。それから意味もなく笑ったり踊ったり、何かわけのわからないことを喚いたりした。みなぎるエネルギーが外にほとばしるかのようだった。
 最近の彼の精神状態は安定していなかった。ひどくはしゃぐ日があるかと思うと、ひどく沈鬱になって一言も口を開かない日もあった。しかし八杉はもともとそういうむらのある性格だったので、二井を含めて周囲の人々はそれほど気にしていなかった。
 八杉は騒ぐのをやめて、今では椅子に腰かけている。彼は目を開けたまま意識を失ったようにも見えた。ベーシストは黙々と難しいパッセージを練習している。指板の上の彼の長い指はときどきぎょっとするほど速く動く。
 光村が八杉に歩み寄り、目の前から見下ろすように立った。そして言った。お前コカインをやっているだろう。
 八杉は光村を一瞬だけ見て、すぐにそらした。黙ったままだった。
 光村はなおも言った。「今のお前とそっくりな様子の奴を、俺は前に見たことがある。だからわかるんだ。俺はね、酒や薬物に溺れるような古いタイプのロック・スター像は大嫌いだ。そんな平凡なミュージシャンのイメージをなぞるのだけは止めてくれ。恐竜族にはそんな人間はいらない。そういう凡庸さは俺に吐き気を催させるんだ」
 どうやら光村は薬物の使用について、その違法性ではなく、また健康面への悪影響や依存性の強さでもなく、露見した場合のバンド活動への影響を危惧するわけでもなく、ただ単に、薬物に耽溺するロック・ミュージシャンというイメージが、あまりにステレオタイプであることを問題視しているようだった。
 八杉の憂鬱そうな表情はますます深まっていった。目の下に見たこともないしわが刻まれているのを二井は見た。頬も心なしか垂れて見える。八杉はかつては健康そうな、血色の良い顔をしていたはずだった。いつからこんなに老け込んで、病気みたいに見えるようになったのだろう。ずっと一緒に過ごしていたのに、二井はそのことにこれまで気がつかなかった。そのことが不思議だった。
「お前たちには話してなかったけど」と八杉がが口を開いた。「一か月前に母親が死んだんだ。癌でね。助からないことは、ずっと以前からわかっていた。俺は、前にも話した通り、幼い頃に母親が知らない男に犯されるのを見た。その時見た光景、その記憶、その時に感じた無力感は俺の中から片時も去ることはない。その体験が俺の行動のすべての原動力になっているともいえる。バンドが高い評価を得て、成功の階段を登り行くにつれ、あの時の無力だった自分とのギャップがどんどん拡大していく気がするんだ。なんだか間違った場所で、間違った環境のもとで、間違った人生を歩んでいるような気分になる。母の葬儀を終えたあと、俺は長野の実家で、子供の頃に感じた気分を思い出した。強姦魔に対してではなく、されるがままに犯されていた母親に対して生じた理不尽な憎しみのことだよ。久しぶりにその強い憎しみを思い出したんだ、ありありと、まざまざとね。どう考えても悪いのは母親じゃない。それでもかつて俺は母に怒りを向けたし、その気分が生々しくよみがえった。そしていつものようにひどい無力感に襲われた。俺は時間をかけてその記憶を克服したと信じていた。でもそうじゃなかったんだ」
「それから逃れるために薬物に手を出したと? ますますありふれているな。知っていると思うけど、俺はそういうありきたりな物語が嫌いなんだよ。ありきたりなものを拒否するというコンセプトで恐竜族ははじまったんだからね」
 そうじゃないさ、と八杉は言う。「俺はこうやって自分を傷つけ、汚しているんだよ。そうやって自分を罰しているんだよ」
 好きにすればいい、と滅多に発言をしないベーシストが言った。あんたがやりたいなら、それが正しい行為だと信じるのなら、好きなだけやればいい。いずれ露見するだろうけどそれも仕方がない。どうせバンドはそのうち終わる。
 光村がベーシストを見て言った。「どういう意味だ?」
 ベーシストは答えなかった。

 八杉が書くメロディーのクオリティが落ちることはなかった。薬物の力を得ているのかいないのか、相変わらず彼は優れたメロディーをほとんど無尽蔵のように生み出し、そのセンスは専門的な音楽教育を受けた光村をも時に感嘆させる。バンドは危うい均衡を保ちながら新たに音楽を生み出し続けた。

 二井の手の甲の傷はいえることがなかった。彼はまだ砂時計型の打楽器に血を分け与え続けていた。八杉の言葉を聞いたとき、二井は自分も同じだと思った。自宅の一室で一人、淫するように何時間も、彼は砂時計型の打楽器と向き合って過ごすことがあった。音を出せば出すほど、二井は楽器に強く魅せられてゆく自分自身を発見した。楽器は二井の技量に明敏に反応し、あらゆる音楽上の欲求を満足させた。強さや角度をわずかに変えるだけでまるで異なる音色を響かせ、一つの楽器によるものとは思えないほど色彩豊かな音世界を描き出した。同じ部分を同じ強さで叩いても、場合によっては予期しないような意外な音を立てることがあった。そういう不規則さ、気まぐれさが、二井をとらえて離さないのだった。それは彼がこれまで手にした中で最も底が知れない楽器だった。
 自分も八杉と同じかもしれない、と二井は思う。自分もまた麻薬に溺れるように楽器の要求に従い、その力によって、自らの暗部を治癒しようとしている。あるいはそれから逃れようとしている。


 11月の横浜、恐竜族の三度目のツアーの最終日だった。ライヴの中盤で二井はドラム・ソロを演奏していた。他のメンバーは袖に引っ込み、一人ステージに残った二井は自らを取り囲む無数の打楽器を叩いている。
 初めて二井の独奏を聴いた聴衆は、その音が一人の人間から発せられているという事実に驚く。二井が発する音があまりに多様で複雑で、いつか暮河原が言った通り「二本しか腕がないとは思えない」ものであるため、多くの人は認識がずれるような混乱めいた気分に襲われる。直接目の当たりにしてもなお、ひとりで全て演奏していることを信じようとしない者もいる。あらかじめ録音しておいた音源を同時に流しているのだ、と彼らは主張する。
 そのドラム・ソロの最中に、袖に引っ込んでいた八杉がステージに戻ってきた。それは予定にない行動だった。観客は歓声を上げたが、八杉は応えず、ステージ上をふらふらと歩き回りはじめた。二井もまた八杉に気付き、かすかに不審を覚えはしたが、構わずに演奏を続けた。
 八杉は右手に小型のポケット・ナイフを握っていた。銀色の刃が照明にきらめいて、前列の観客のうちの何人かがそれに気づいたが、特に反応を示す者はなかった。
 八杉はナイフを手にしたまま、演奏する二井の間をうろついたり、にやにやした笑みを浮かべながらマイクに近づいて何もせずに引き返したり、シンセサイザーに手を触れようとして止めたりした。そのあといきなり動きを止めて、ステージの左手端で立ち尽くした。
 観客は八杉と、彼が手にしたナイフを注視していた。音楽は続いていた。やがて八杉はいきなり、手に持っていたナイフで自らの左手首を切りつけた。
 客席から悲鳴のような声が上がった。二井は構うことなく演奏を続けていて、またその演奏は鬼か悪魔のような迫力に満ちていた。八杉は手首から血を流しながら笑みを浮かべていた。客席のどよめきが次第に大きくなって伝染し、会場は異様な雰囲気に包まれた。八杉の手首から滴り落ちる血がギミックなのか本物なのか、また彼の異常な様子が演技なのかどうか、観客は判断できずにいた。
 八杉がさらに奇怪なパフォーマンスをはじめた。二井が叩き出すリズムに合わせて、身体を動かしはじめたのだった。それは踊りのように見えたが、もちろんかつて八杉がステージで踊りなど披露したことはなかった。八杉は舌を突き出し、腕を蛇のようにうねらせて踊った。滑稽なその動きとは対照的に、彼の顔色は青ざめていた。おまけに手首から流れ続ける血は飛び散ってステージ上に滴っていた。音楽のテンポが急速になると、それに伴ってグロテスクな舞踊はいっそう激しくなり、奇怪さを増した。
 いつの間にか先ほどまでのどよめきは止んで、誰もが息を呑んでステージを見つめていた。彼らはそうすることしかできずにいた。それは目を離したくても離せないタイプの舞踊だった。
 そのうちに、最前列にいた一人の若い男が八杉の動きに合わせて踊り出した。それは一緒に踊りたいという欲求が芽生えたからというよりは、じっとしていることに耐えられなくなって思わず身体を動かしてしまったというような踊りだった。本当は床をのたうち回ったり叫び声をあげたりしたかったのだが状況的にできないので仕方なく踊ることを選んだといったような踊りだった。
 その男の近くにいた何人かの観客も一緒になって踊りはじめ、さらに別の客へと伝播して、踊りはついには客席の大半を覆いつくすムーヴメントとなった。あちこちから叫びや呻きのような声が響いた。それらは原始人の唸りや野生動物の雄叫びを思わせた。古代の地球の混沌がホールに満ちた。
 それまで他の何にも一切目をやることなく演奏に集中していた二井は、八杉がすぐそばに立っているのに気付いた。そしてそのとき初めて、八杉の手首から流れる血を見た。
 二井は砂時計型の打楽器を叩いていた。彼が演奏していたのは『黄金のアモルフィ』だった。砂時計型の打楽器だけを使って演奏される、彼にとって重要な意味を持つ曲。
 二井がその曲をコンサートで演奏することはめったになかった。その日彼は半ば即興的にその曲を演奏したのだ。
 八杉は踊るのを止めて石のように静止したまま二井の前に立っていた。聴衆の騒ぎは止んでいた。喧騒は途絶え、砂時計型の打楽器の静謐な音色だけが響いていた。
 八杉が突然左手を振った。血が打楽器の打面や側部に飛び散って、点々と赤い染みを作った。二井の手にも血飛沫はかかった。八杉は手首から流れる血を砂時計型の打楽器に浴びせかけたのだった。
 そこにいたすべての人々の中で、おそらく二井が一番動揺していた。演奏を中断することこそなかったが、彼は珍しく二度ほどミスをした。二井が考えていたのは、なぜ八杉がそのことを知っているのだろう、といったことだった。誰にも砂時計型の打楽器について話したことはない。それがたくさんの血を吸い込んだ楽器であることは誰も知らないはずだった。八杉も知るはずはない。それなのに、彼はまるで誘われるように楽器に血を振りかけた。
 八杉の衣装もまた血で汚れていた。彼はそのまましばらく動かなかったが、やがて背中を後ろに曲げるようにして身体を反りかえらせて、金切り声のような大声をあげた。マイクを通していなかったにもかかわらず、その叫びは会場のほとんどの者の耳に届いた。歌唱におけるいわゆる「シャウト」とは違う種類の叫びだった。狂人の、あるいは発狂しつつある者があげる悲痛で絶望的な咆哮だった。観客の誰も、その叫びに歓声を上げて応えたりはしなかった。
 耳を刺す鋭いその叫びが、息継ぎも挟まずに、ぞっとするほど、信じられないほどに長く続いた。八杉は身体をくの字に折ったり反り返らせたりを繰り返しながら叫び続けた。まるで彼の眼前に彼の目にしか見えない魔人が立っていてその恐怖に耐え切れずに叫んでいるように見えた。会場のあちこちから不安げな声が起こりはじめた。「やめろ」とか「耐えられない」とか「怖い」とかいった声も聞こえた。八杉の振る舞いは単なるステージ・パフォーマンスなどではないのではないかと、彼らは察し始めていた。
 二井が演奏を終えた。音楽が止むと、その直後に八杉もまた叫ぶのをやめた。手首からはまだ血が流れていたが、八杉はそのまま何事もなかったようにステージから降りた。二井もそれに続いた。
 舞台袖で八杉が二井に言った。「楽器を汚して悪かった、なんだか、普段通りの気分じゃなくてね」
 別にかまわない、と二井は言った。八杉に、あの楽器について何か知っていたのかと訊ねようかどうか迷い、結局訊ねなかった。ただ八杉をねぎらっただけだった。あんたのパフォーマンスも良かったよ。まるでロック・スターみたいだった。
 そうだな、と近くにいた光村が唇を曲げながら同意した。「六十年代風ロック・スターってところだ」
 スタッフが八杉の手首の治療をはじめた。
 その後数分の休止を挟んで、恐竜族の四人は再びステージに上がった。そのあとバンドは既定の曲目を演奏した。八杉は手首に包帯を巻いて普段と変わりないパフォーマンスを見せた。
 すべての曲が終わり、場内に明かりが灯った。アナウンスが流れた。……ありがとうございました。コンサートは終了となります。足元にお気をつけてお帰り下さい……出口の扉に向かって、観客は落ち着きはらった足取りで秩序正しく会場から歩き出した。途中の八杉の異常な様子のことなど、みんなすでに忘れていた。

 ライヴのあと、ツアーの最終日ということもあって、普段はほとんどアルコールを口にすることのない恐竜族のメンバーたちも少しばかり酒を飲んだ。打ち上げの席には、誰かが連れて来たのか、あるいはどこからか紛れ込んだのか、素性の知れない女が何人か混じっていた。八杉はそのうちの一人の女と、何か熱心そうに話していた。特に美人なわけでもない、そこにいた女たちの中でもむしろ最も地味で平凡な容貌の女だった。
 打ち上げが終わる頃になると、八杉は女を伴って会場から出て行った。二人が背後を通りかかるとき、二井は八杉が女に低い声で囁く声を聞いた。「あんたみたいな人を殺してみたいな」とそれは聞こえた気がした。女はそれに対して何か返事をしたが、それは二井には聞き取れなかった。

 次の日の朝、八杉が姿を見せなかった。マネージャーの女性がホテルの彼の部屋まで様子を見に行って、しばらくするとホテル中に悲鳴が響き渡った。
駆けつけたホテルの従業員や支配人、そして恐竜族のツアーに帯同するスタッフ、そしてバンドのメンバーの三人がその現場を目にした。
  ドアが開いていて、部屋の前にマネージャーが立ちすくんでいた。彼女が指示した部屋から、むせかえるような異常な臭気が流れ出ていた。ドアのすぐ前の床のカーペットに黒い染みのようなものが点々と飛び散っている。
 集まった人々は浴室を覗いた。内部の壁も天井もくまなく真っ赤に染まり、床にも血があふれていた。バスタブの中では大柄な男性が腰まで血に浸かって膝を折り曲げた姿勢で死んでいた。それが八杉だった。切り裂かれた腹部から内臓が飛び出していた。浴室の床に血まみれのポケット・ナイフが落ちていた。
 部屋のベッドの上には女が横たわっていて、彼女もまた死んでいる。打ち上げにいた例の女だった。頬や腹部や腕や性器に刃物で切り付けられたような痕跡がみられ、凝固して黒ずんだ血液が女の肌を覆いつくしていた。白かったはずのシーツは真っ赤に染まっていた。、
 誰もが混乱した。人々は現場を見て泣き叫んだり吐いたりした。光村は青ざめた顔で呆然としていたし、二井もまた冷静でいることはできなかった。彼は吐き気を押さえつつ廊下の壁にもたれかかる。目を閉じても赤黒い血の色が瞼の裏に浮かび上がる。二井はそのとき、頭の中で古道具屋の老婆の言葉が反復されるのを、止めることができなかった。たくさんの血を浴びせるんだよ。二井はこのような状況でそんなことを考える自分を忌々しく思った。
 ただ一人ベーシストだけが落ち着ていた。彼はろくに動揺した様子も見せず、この程度の現場なら見慣れているとでもいうように、眉一つ動かさずに普段通りに振舞っていた。
 警察が到着して現場検証が行われた。部屋からは八杉と女以外の第三者の指紋は発見されなかった。ナイフにも八杉の指紋だけが残っていた。
 検死の結果、八杉と女性の双方の血液中から薬物反応が検出された。性交渉(女性の遺体の状態から、それはおそらくは強姦に近いような形のものだったと推定された)の後で、八杉は首を絞めて女を殺害し、その死体をナイフで損壊し、そのあと浴室に入って自ら腹を切って命を絶ったものとみられた。
 女の身元は不明だった。前の夜に女を見かけた人々は彼女の素性を誰も知らなかった。その地味な平凡な女の顔さえ誰も正確に覚えていなかった。部屋に残っていた女のバッグには身元がわかるようなものは入っていなかった。運転免許証も携帯電話も保険証もパスポートもなかった。
 八杉が女とともに部屋に消えた前日の夜十一時以降、二人の姿を見かけたものはいない。

 八杉がほかにも複数の女性と似たようなことを行っていたことが、のちに明らかになった。知り合った女性を部屋に連れ込み、性交渉の際にはしばしば、女の肉体を刃物で傷つけたりした。
 彼と関係を持った女性のうちの一人がそのことについて語った記事がある週刊誌に掲載された。
 八杉の死は、周囲の人々にとっては、まったく予期できなかったといった出来事でもなかった。彼の精神状態はここ数年で以前にも増して不安定になっていて、薬物に溺れていたこともすでに多くの人間が知るか、あるいは勘づくかしていた。いずれこのようなことが起こるかもしれないという予感は常に漂っていた。
 また人が死んだ、と二井は思う。深く関わった人がまたしても死に至った。二井は兄のことを思い出し、山瀬雪乃のことを思い出した。死者たちの列に今では八杉が加わった。事件の前夜に偶然耳にした八杉の声を思い出した。「あんたみたいな人を殺してみたい」、彼はあのとき確かにそう言った。それが二井が聞いた八杉の最後の言葉になった。

 それ以降、恐竜族のライヴやレコーディングの予定は滞った。一時的にサポート・メンバーを入れるとか、ヴォーカル抜きでライヴを行うとかスタッフが提案したが、光村も二井もベーシストも、そうまでしてバンドとしての活動を続けるつもりはすでになかった。
 ある日リハーサルスタジオに集まったメンバーの三人は、ライヴで行う予定の曲を順番通りに、ヴォーカル抜きでひととおり演奏した。それを終えたあと、三人ともこれ以上バンドとしての活動を続けることが無意味であることを悟っていた。
 我々は、もう終わりみたいだね、と無口なベーシストが言った。
 光村が頷いた。「そうだな……、きっともうこれ以上続ける意味も理由もない。その必要もないんだろう」
 理知的で滅多に感情を昂らせることのない光村も、八杉の死以来憔悴しきっていた。
「あいつが書くメロディーがなければ、恐竜族の音楽は成立しない。そしてあいつと同じようにメロディーを生み出せる人間は他にいない」と光村は言った。
「そうだね」と二井は言った。「代わりはいない。代わりを入れてまで続けるぐらいなら、終わらせたほうがいい」
 これまで楽しかったよ、とベーシストが言った。
 最後に光村が言った。「俺たちは伝説のバンドになった」
 それはどことなく感傷的になってしまった場の空気を和ませるための、おそらく冗談だった。
 八杉の死の一カ月後に、恐竜族は解散を発表した。彼らの活動は四年しか続かなかった。

 

11

恐竜族の活動を終えた二井はしばらく何もせずに過ごした。ほとんどの時間は眠って過ごし、ときどき気が向くと食事をした。彼はまるで病人のように日々を過ごした。外出するのは食料品を買い出しのときぐらいだった。明け方には窓辺に立って街並みを眺めた。空の端がだんだん明るくなってゆくのを、二井は異様なほどの真剣さで見つめた。
 砂時計型の打楽器は自宅の物置として使っている一室に安置されていた。八杉が楽器に浴びせた血は、もちろんすでに拭き取られている。バンドの最後のコンサート以来、二井はその楽器を使用していなかった。血も捧げていなかった。二井はその楽器を目にしたくなかった。何度か捨てるか売るかすることを考えたが、実行には移せなかった。
 砂時計型の打楽器だけでなく、二井は音楽そのものから遠ざかっていた。練習も作曲もせず、ときどき来るスタジオ仕事はすべて断っていた。レコード会社には病気になったのでしばらく静養すると伝えていた。電話やインターフォンが鳴っても無視した。楽器や機材を詰め込んだスタジオのようにして使っている一室にも足を踏み入れなくなった。
 音楽を演奏したくない。どうしてだろう、と二井は思う。そんな気分になったことはこれまでなかった。山瀬雪乃が死んだときでさえ、彼は音楽によって自分を立ち直らせたのだ。プロになる前も、なってからも、二井は基本的に日々の練習を怠ったことはなかった。それは演奏家としての義務とか責任とかプライドとかそういったものとは関係なく、また努力ですらなく、彼はただ自らの肉体が求めるところに従っていただけだった。自分にとって最も自然なことを行っていただけだった。二井は音楽が好きだとか愛しているとかわざわざ思ったことは一度もなかったが、演奏や練習が辛いと感じたこともなかった。一晩中、あるいは一日中演奏や作曲に没頭しても苦痛ではなかった。風をひいたり体調がすぐれないときには、むしろすすんで楽器に触った。そういうときにはベッドに横になっているよりは演奏していた方が楽だった。
 それが今では楽器に見向きもしない。演奏スタイルが変わったわけでも、技術が衰えたわけでもない。彼が発する音は以前と変わりはないはずだった。それなのに二井は、自分の出す音に耐えられなくなった。
 演奏の最中、自らが発する音に耳を澄ませていると、何かヤスデとかヒルみたいなグネグネしてうねうねしてグロテスクなそれなりの大きさの生き物が、体のあちこちで蠢き蠕動するような感覚に襲われた。それは内臓を揺れ動かし、血管を疼かせた。体内で何が起きているのかは不明だったが、その感覚はひたすらに耐えがたいものだった。どんな打楽器の音色も同じ感覚をもたらした。

 季節は春になっていた。四月のある日、二井は特に理由もなく島根に帰った。帰郷は二年ぶりのことだった。両親はすでに二人とも六十を越している。父はまだ建築会社の仕事を続けていた。当分引退する気はなさそうだった。最近飼いはじめたという大きな柴犬が、家族に加わっていた。
 二井は十数年ぶりに納屋に入った。兄から受け継いだドラム・セットはまだそこにあった。二井は楽器に積もった埃を取り除き、それから椅子に座ってドラムを叩きはじめた。演奏するのは実に久しぶりのことで、しばらくの間彼は無心になることができた。納屋の空気の匂いとそこにに響く音、そしてスティックを通じて楽器に触れた感触は二井を過去に引き戻した。彼はかつての、何かわけのわからないものに引き寄せられるように音楽に夢中になって行った頃の気分を思い出した。自分は確かに何かに引っ張られていたと二井は思う。それは意志とか願望とか欲求を超えた何かだった。自分は導き誘うそれにただ従っていただけだった。それが俺を音楽に向かわせたのだ。その力のようなものはまだ死んでいない。今も俺を引き寄せようとしている。
 どういうわけか二井は苛立ちを覚えていた。それはほとんど怒りだった。彼は憤怒をぶつけるようにドラム・セットを力任せに叩いた。轟音が納屋に響き渡り、壁と天井を震わせた。
 数分ほど爆撃のような音を響かせた後で二井は演奏を止めた。いつしか怒りはどこかに流れ去ってしまっていた。あとにはどんな感情も残っていなかった。

 二井は納屋を出て町を歩きはじめた。通りですれ違った人々は、誰も二井に注意を払わなかった。恐竜族は知らない人はとことん知らないタイプのバンドだったし、そのドラマーである二井の顔は、故郷の町でさえほとんど知られていない。
 海にたどり着いた。天気の良い春の午後だったが、平日のためか海岸に人けはなかった。二井は防波堤の上に腰かけて海を眺めた。風景は変わっていなかった。遠くに生い茂る松の木、視界の右端の小さな岬、海岸に沿って立ち並ぶ電波塔。空にはカモメが輪を描きながら飛んでいた。
 二井はひたすら波の音を聞き続けた。その音は様々な記憶を運んできた。そのうちに波の音が遠ざかっていった。それは水平線に浮かぶ兄の頭を眺めているときと同じ感覚だった。ひとりずつ、どこからともなく死者たちが彼の目の前に集まってきた。最初に現れたのは八杉だった。彼は最後に出演したライヴでの衣装を身に着けていた。その衣装は血に染まっている。手首から血を流していた。八杉の隣には彼に絞殺されたあの地味な女もいた。女は血まみれで、傷だらけだった。死体のまま、彼女は八杉に手を引かれて歩いていた。次には山瀬雪乃が現れた。山荘にいたとき、眠るときに身に着けていた白く薄いローブのような服を着ていた。なぜだろう? 彼女は横を向いている。髪の毛で顔が隠れている。まるで眠ったまま歩いているみたいに見える。そして最後に兄、兄はあの膨れ上がった青緑色の水死体、その姿で歩いていた。
 凪いだ春の海の上を、かつて二井と親しく今は死者となってしまった人たちが列をなして、歩いていた。彼らは死んだままで歩いていた。誰もが無言だった。二井には恐怖もなかったし、悲しみもなかった。彼の感情はまだニュートラルなままだった。懐かしささえない。そのとき二井は、死者たちが自分のもとに戻ってきたのだと思った。死んだままの姿だとしても、彼らは自分の前に戻ってきてくれたのだ。そのことをについて二井は何かに感謝したいような気分だった。彼はひたすら死者の行進を見守っていた。
 大きな音が聞こえて、二井は我に返った。海岸沿いの道路に設置された拡声スピーカーが、けたたましい音量で電子音を鳴らしていたのだった。
 二井の目の前には、ただの夕日に照らされた海が広がっていた。死者たちは消えていた。メロディーが鳴り響く。ドヴォルザークの交響曲から取られた有名なメロディー。すべてはただの幻覚だった。二井は死者たちが今もまだ死んだままであること、そして自分がずっと一人きりだったことを知った。海沿いは依然として無人だった。
 二井が子供だった頃からメロディーは変わっていない。それは午後五時の合図だった。二井は曲が終わるまで防波堤に座っていた。


 川崎の自宅に戻った二井は郵便受けの中に一通の封筒を見つけた。切手も宛先もなかったが、裏返してみると隅に小さく「暮河原」と書かれていた。封はされていなくて、開けてみると小さな紙片が入っていて、そこには携帯電話の番号と、「よければ連絡してほしい」というメッセージが書かれていた。
 あの春先の喫茶店で偶然出くわした時以来、暮河原とは会っていなかった。ほとんど無為に過ごしたバンド解散後の数か月間、二井は誰とも会わなかった。電話にも出なかった。暮河原洋一郎はこの建物を知っていたし、部屋は最上階に一つしかないので、彼はおそらく直接郵便箱に封筒を投函したものと思われる。投函されたのはいつ頃のことだろう? ずいぶん前のことに違いない。封筒は、溜まりに溜まった不要なチラシの束の中から出てきたのだ。そもそも自分が最後に一階の郵便受けを見たのはいつだっただろうか?
 二井は紙片に書かれていた番号に電話を掛けた。暮河原は七回目のコールで電話に出た。二井が名前を名乗ると暮河原は「やあ、久しぶりだね」と言った。記憶にあるよりも、その声は明るく聞こえた。彼らは会う約束をした。

 暮河原が待ち合わせ場所に指定したのはJR川崎駅の近くのバーだった。外からはとてもバーには見えない、ただの一軒家のような建物だった。二井は半信半疑ながらドアを押して中に入った。およそ酒場とは思えないほどの静寂に満ちていて、天井から吊るされたいくつかのランプが店内のところどころをぼんやりと照らし、テーブルに腰かけた客たちは、恐ろしく物静かだった。店には音楽もかかっていなかった。
 暮河原はカウンターに腰かけていた。顔が赤く、すでにずいぶん酒を飲んでいるように見えた。彼らは簡単な挨拶を交わして暮河原の隣りに腰かけた。
 酒がほとんど飲めない二井は、酒について全く無知だったので、暮河原に注文を任せた。暮河原は店主にジントニックを注文した。口の周り一杯に髯を生やしたマスターが二井の前に青い液体を満たしたグラスを差し出した。二井は口をつけてみたが、その液体はやはり彼にとって異物でしかないように思われた。
「ほら穴みたいなところだろう」と暮河原が言った。「ずっと前に知り合いと一緒に一度来たことがあってね、それ以来気に入って、よく来てるんだ」
「そうだね。とても落ち着ける」
「でも会えてよかった。恐竜族が解散してから、君がどうしているか気になってね。それで一度、君のビルに行って、インターフォンを鳴らしたことがあったんだよ。部屋はわからなかったんだけど、最上階には一室しかなかったからそれだろうと思って。でも誰も出なかった。心配してたんですよ」
「しばらく島根に帰っていたんだ」と二井は言った。
「そう? 元気そうでよかった」
「うん、まあ見かけほどは元気でない時期もあったけれど。解散したばかりの時は特にね。でもどうにか生きてはいるよ」
「最近はどんな活動をしているの」と暮河原は訊ねた。
「何もしてない。バンドが解散して以来、ろくに楽器も触っていないよ」
 それから二人はしばらく酒を飲んだ。二井はわずか数ミリリットルの酒で、すでに酔いを感じはじめていた。
「解散は残念だったね」と暮河原が言った。「僕も残念でショックで、しばらく何も手につかなかったよ」
「仕方ないさ。前から決まっていたんだよ、ああなることはね。いずれあのバンドは破綻する運命だったんだ。なんだか今思うと、メンバー全員がそのことを感じていた気がする」
「その感じはわかる気がするな。終わりが近づいているのが、何となくわかるんだね。僕もいくつものバンドを終わらせてきたちょっとしたベテランだから、よく知ってる」
 暮河原は一瞬笑ってすぐに真剣な顔に戻った。
「あの横浜での最後のライヴ、僕も客席にいたんだ。八杉氏が手首を切って、そのあとあの身の毛がよだつようなすごい叫び声をあげたところを、最前列近くで見ていた。あのとき、なんだか幻覚を見ているみたいだった。ステージにいる君と八杉氏が、何だか作り物みたいに見えてね。それで八杉氏は変な踊りをはじめた。異様な踊りだった。見ているうちにほとんど不愉快な気分になるような。君のほうは何も目に入らないみたいに、一心不乱に演奏を続けていた」
「そうだったね。あいつは踊っていたね。僕はあまり覚えていないんだけど」
「僕はあれから何度もあの光景の記憶を反芻したよ。忘れようがない。夢にも出てきた。嫌でも記憶に残る光景だった。そしてあのとき君が演奏していたあの曲もね。今考えてみると、八杉氏の異常なパフォーマンスよりも、君の演奏のほうがすごかった。あのほうがよほど異常だった。八杉氏が踊る背後で、君の演奏が会場に響いていた。いくつかの楽器を組み合わせた演奏しているのかと思ったけど、君は一つの楽器しか使っていなかったんだね。よく見ると君はあの砂時計みたいな形の打楽器しか叩いていなかった。そしてあの音こそが僕を惑わせていたんだ。僕だけじゃない、会場中のお客たちもそうだったんだ。あのときのどよめきは、八杉氏が流した血のために起こったんじゃない。君の音楽が引き起こしたんだと思うよ」
 二井は何も言わずにグラスに口をつけた。
「あの感覚は特別だった。まるで皮膚を内側から引っ掻かれているみたいに、体内がぞわぞわするようなね。あんなのはとてもそれに合わせて踊れるような音楽じゃないよ。八杉氏はそれでも無理にステップを踏み、手足を振り動かしていたね。そんなものがグロテスクに見えないはずがない。ねえ、僕はあのとき君が演奏した曲は聞いたことがなかった。君が作ったものなんだろう?」
「そうだよ。ずっと昔に作ったものだよ。砂時計型の打楽器を使って、一晩でね」
「タイトルはなんていうの?」
 二井は教えた。
「『黄金のアモルフィ』」暮河原は繰り返した。「もう一度聞いてみたい気がするな。あの曲はアルバムに収録されていないよね?」
「入ってない。アルバムのコンセプト的に、入れようがなかったんだ。ああやってライヴのソロ演奏の時間に、部分的に演奏することがあるだけだよ。でもこの先もう、あの曲を人前で演奏することはないと思う。あの砂時計型の打楽器は、もう使わないことにしたんだ」
「どうして?」
「誰もこれ以上は呪いに巻き込みたくないからさ」
 真剣な顔でそう言った二井の顔を、暮河原は不思議そうな表情で見つめた。
 二井は自分があの古道具屋の女主人と似たようなことを言ったこと気付いて、思わず笑い出したくなった。そしておそらく慣れない酒に酔っていたこともあるのだろう、実際に声を立てて笑った。二井は砂時計型の打楽器のいわれについて、つまりそれが多くの血を浴びた楽器であることについて、いくらか冗談めかした、おどけた調子で、暮河原に話した。自分で手の甲を切って血を注いだことまでは言わなかった。
「僕は驚かないよ」と暮河原は言った。「実際にあの音は魔法みたいな効果をもたらしていたからね」
「きっとバンドをまつわるいろんないかがわしい噂も、あの楽器が原因だったんじゃないかって、馬鹿げていると思われても、僕は真剣に思っている。だから使うわけにいかない。本当はもっと早く、あんなものは捨ててしまうべきだったんだろう」
「もう捨ててしまったの?」
「いや、今は家の物置にしまい込んでいる。いずれ捨てることになるだろう。きっとね……」
 そのあと二人はしばらく世間話をした。暮河原は一緒に暮らしている彼女が今静岡の実家に帰っていてそれで退屈しているけどのんびりもできるのだという話をした。
 次第に二人とも口数が少なくなった。話題が尽きたためというよりは、店内の静けさに順応するような感じだった。それなりの客が集まっているはずの店内からはろくに物音もせず、ひどく静かだった。本当にほら穴みたいだと二井は思った。無口な髯のバーテンダーはカウンターの内部を行き来していたが、彼はまるで水中にいるみたいにゆっくりと動いた。
 二井は砂時計型の打楽器について考えていた。そのことについて他人に話したのは初めてだった。「呪い」などという言葉を口走ってしまったことについて、二井はちょっとした自己嫌悪に陥っていた。愚かな言葉だ。しかし俺はずっとそれを感じ続けてきた気がする。『黄金のアモルフィ』を完成させて以来、いやもっと前、あの楽器に初めて手を触れたとき、いや、それよりもずっと前? 最初からそれは、その得体の知れない邪悪な力は、自分の中にあったのではないか? そんな風に考えることは、二井の気分をなぜか暗くさせた。楽器はただの触媒だったのかもしれない。あの楽器は、最初から俺が背負っていた呪いを、明らかにし、具現化した。あの音色が、俺が抱える呪いと共鳴して、そして……
 暮河原が何か言うのが聞こえて、二井は聞き返した。
「どこか別の場所で飲みなおさないか?」
 二井はカウンターの壁の時計を見た。時計は午後十一時を指していた。
 いいよ、と二井は言った。「時間ならいくらでもあるからね、今の僕は。でもどこへ行くの?」
「僕の家に行こうよ」と暮河原は言った。「ここから近いし、彼女もいないし」

 二人はバーを出て十分ほど歩いた。曲がり角を五つ曲がったところに暮河原のアパートはあった。レンガ造りを模したようなデザインの茶色い建物。二人はオート・ロックの扉をくぐりエレベータに乗りこんだ。暮河原は8階のボタンを押した。
「こないだ、隣の住人が入れ替わったんだよ」とエレベータの中で暮河原は言った。「前に住んでいたのは、どこか変な奴だった。あれはどうも、中に誰か監禁していたんじゃないかと思う」
「監禁?」聞き間違いかと思って二井は聞き返した。
「ベランダに出るとね、隣から時々妙な声が聞こえたんだ。悲鳴とか唸り声とか、そういう声。一人じゃないこともあった。複数の人間の声が聞こえることもあったよ」
「大きな音で映画でも見ていたんだろう」と二井は言った。
「いや、そんなんじゃない。それならすぐにわかるよ。人の声のほかには何も聞こえないんだ。音楽も、ほかの物音も聞こえない。とにかく気味が悪かった。顔を合わせたこともなかったけど、引っ越してくれてよかった」
 暮河原の部屋は、綺麗に整頓されてはいたが、どこか奇妙な印象を与えた。その印象がどこから来るものかは二井にはすぐにわかった。誰にでもすぐにわかる奇妙さだった。つまり物がとても多い。それだけなら、たいして珍しくもないのだが、問題は同じ種類のものがやたらと多いことだった。オーヴン・トースターが三台、電子レンジが二台、同じ形のフライパンや鍋が二つとか三つずつ、ポットも二台、電気掃除機も三台ほどあった。夫婦二人きりで暮らしているにしては多すぎる家具だった。いや、二人でなく何人だろうと、大家族だとしてもやはり多すぎるように思われた。三台のオーヴン・トースター。二井は疑問符が張り付いたような顔をしていたに違いない。暮河原が言った。
「言いたいことはわかるよ。全く狂っている。正気の沙汰ではない。これはみんな彼女のしわざなんだよ。彼女は一種の買い物狂なんだ。とにかく店に行って、あるいはコマーシャルや広告を見たりして、気に入ったデザインのものや、新機能が追加された新製品を見つけると、欲しいという気持ちを抑えきれないんだ。広告の謳い文句に少しでも心を動かされるともうそれを買わずにはいられない。どう考えても役に立たなくても、あるいはすでに持っているものでも、買ってしまう。これでも相当制限したほうなんだ、そのことについてずいぶん言い争ったものだ。この部屋のありさまが、僕たちの妥協点なんだよ。彼女は冷蔵庫さえ新たにもう一台買おうとした。どうしてこんな大して広くもない部屋で一組の夫婦が暮らすのに、二台もの冷蔵庫が必要なんだ、って僕は反論したけれども、彼女はなかなか引き下がらなかった。それは相当に骨の折れる口論だったよ。付き合いだしたころから、彼女はそんな風に極端な買い物好きだった。何が彼女をあんなふうにしてしまったんだろう彼女は? 物質的に恵まれない環境で育った女だというわけでもないんだ。それどころか彼女の生家はずいぶん裕福なんだよ。まあ、買い物の対象がブランド品や宝石や高価な衣類ではないことだけが救いだね。そうだったらとっくに破産してる。彼女は特に家電製品に惹かれるみたいで、そういうものをやたら買いまくる。それが彼女と暮らすことの代償というわけ」
 暮河原がコーヒーを作ってくれて、二井はリヴィングのソファに腰かけてそれを飲んだ。とても香ばしくおいしいコーヒーだった。
「なにしろ最新型のコーヒー・メイカーだからね」と彼は皮肉っぽく笑った。暮河原はウィスキーの瓶と氷とグラスを持ってきてテーブルに置き、もう一つのソファに座った。
 暮河原がグラスにウィスキーを注ぎながら言った。「実はね、彼女が実家に戻ったのはここ二、三日の話じゃない。もう三週間にも及ぶんだよ。そしてそれ以前から長らく、僕らの関係は良好ではなかった。彼女は僕が酒を飲みすぎるといって、それが気に入らないらしい。アル中呼ばわりするんだ。でも僕は決して飲みすぎたりはしないよ。決して中毒などではない。僕のアルコール摂取量なんて平均的なものだよ。そう思わない?」
 二井は曖昧な返事をした。少なくとも二井が見る限りでは、暮河原は無茶な飲み方をするわけでも、前後不覚になるほど酔うわけでもなかった。しかし彼が酒を飲むところを今日を含めてまだ二度しか見ていないので何とも言えない。酒を飲まない二井の目からすれば、暮河原はすごくよく飲むようにも見えた。
「僕だって以前は君と同じように、アルコールは口にしなかった。そんなものとは無縁の人生だった。飲むようになったのは、つい最近のことだよ。突然興味を覚えたんだ。つまり世界には信じられないほど多くの種類の酒が存在している、そのことがひどく不思議に思えたんだ。そこには何かあるんじゃないかと思ったんだね。僕にはときどきそういうことがある。つまり前触れもなくそれまで縁もゆかりもなかったものにすごくのめり込んでしまうというようなことが。それで飲むようになった。酒は僕の数ある関心の対象のうちの一つに過ぎない。でも彼女は酒が嫌いだから、急に酒飲みになった僕を批判し糾弾した。飲みすぎだとかアル中だとか言われたよ。この程度でアル中なんだとしたら、彼女の買い物好きはどうなるんだ? あっちのほうがよっぽどひどい。よっぽど中毒患者だ。僕は彼女のそういうところは受け入れてきたのに、彼女ときたら……悪い、愚痴になってしまった」
「今も小説は書いてるの?」
「ああ。もちろん。僕は書くことによって自分自身に近づいている。最近気づいたんだけど、というかどうしてこれまで気がつかなかったのか不思議なんだけど、あの小説は、仮面ピアニストの物語は、まさに僕自身の物語でもあった。僕もまた傷を顔に持っている。そして僕もまた、その傷をひどく気に病んだ経験があるんだよ」
 暮河原は長い髪を右手で押さえ、顔の右半分をあらわにした。右目と、右のこめかみの間のあたりに、直線を引いたような三センチほどの傷の縫い跡があった。髪にすっかり隠れていたというわけでもないのに、二井がその傷の存在に気付いたのは初めてのことだった。おそらく言われなければこの先も気づかなかったであろうという程度の傷だった。
「この傷」と暮河原は言った。「僕の傷。今は確かに目立たない。でも昔は、ずっと生々しくて鮮明だった。つまり傷ができたばかりのころはね。大げさじゃなくこの傷は、幼少期の人格形成にずいぶん影響を与えたと思うよ。嫌で仕方がなくて、耐えられない時期があった。引きこもりにはぎりぎりならずに済んだけれど、でもずいぶん長い間、僕を苦しめてきた」
「事故か何かの傷?」
「うん。子供のころ住んでいた町に、ひどく長い階段があってね、そこを上る途中に転げ落ちたんだ。あと少しで頂上に着くというところから、真っ逆さまにね。そのときに顔を擦りむいたんだよ。結構な高さだったから、この程度の傷で済んだということはほとんど奇跡だった。死んでたっておかしくなかったんだ。当時十歳だった。それ以来傷はずっとここにある。消えない傷があるというのは嫌なものだよ。顔だからね。鏡で見るたびに嫌悪感に苛まれていたものだ。すれ違う人の視線が気になったり、友人や異性が、傷を見て嫌悪感を抱いているんじゃないかとか、あるいは嘲笑っているんじゃないかとか、そういう思いにとらわれたこともあった。特に気分が沈んでいるときなんかは、腹の底に何か重いものが居座っているような感じがして、何もする気が起きなくなる。外に出たくなくなって、何時間も何もせずに横になっていたりした。そういう感情は今も覚えているよ。どうしてあんなに憂鬱だったんだろうな? 今思うと我ながら滑稽な気がするな。当時僕の歩く速度は、今の半分だった。いつも胃の底のあたりに重みを感じていてね、速く歩けなかったんだ。それほどにいつも落ち込んでいたんだよ。だから傷は僕の人格に影響を与えているんだ」
 暮河原はグラスの中身を飲み干し、氷を噛み砕いた。がりがりという音が部屋に響いた。
 数秒間の間暮河原は沈黙した。都会の真ん中とは思えない不自然なほどの静けさが部屋に降りた。暮河原は右手で頬の傷をずっと撫でていた。
「仮面ピアニストは僕自身だった。そのことに気づいたのは、彼女がこの部屋から消えてからのことだった。一人きりの部屋で、僕はあのときの憂鬱、胃の底の重み、あの嫌悪感を思い出したよ。傷が嫌で仕方なかったときの気分を思い出したんだよ。そしてそのあとから、小説の執筆は、不思議なほど勢いを増したよ」
 暮河原は立ち上がってキッチンに入り、冷蔵庫を開けてビールの缶を取り出した。二井のコーヒーカップは空になっていた。
「君には彼女はいる?」と暮河原が訊ねた。
 二井は首を振った。「長らくいない。最後に交際していた女性が死んでしまってからずっと」
「死んだ?」
「うん。事故でね」
「その彼女が忘れられないというわけ?」
「大事な人だったからね。彼女がいなかったら、僕はミュージシャンにもなっていなかっただろうし」
 暮河原は少しの間何か考え込んでいた。
「でも彼女ぐらい作ればいいのに。寄ってこないわけじゃないんだろう?」
「いや、もういいんだ。僕とかかわると、みんな不幸になるんだよ」
 暮河原は笑った。「そういう考え方はよくないよ。あんまり暗いからね」
 そうだね、と二井も言って笑った。

 その夜帰宅した二井は、どうしてそんな気分になったのか、物置部屋に入り、砂時計型の打楽器と向かい合った。数カ月ぶりに二井はその楽器が放つ匂いを吸い込んだ。二井はそんな匂いの存在に、それまで気がつかなかった。木材と鉄がまじりあったような匂い、それは血の匂いに似ている。いや、似ているのではない。それは確かに血の匂いだった。何しろあれだけ多くの血を吸い込んだのだ。楽器に匂いがうつっていたってなんら不思議ではない。
 二井は椅子を引き寄せて座った。そして汚れた打面を間近で見つめた。全身の皮膚が波だって騒ぐような感覚を覚えていて、その感覚に懐かしさを覚えた。確かにそれは懐かしさの感情だった。その懐かしさと共に、渇望と呼んでもよいほど強い欲求が二井を襲った。彼は砂時計型の打楽器の音が聞きたいと思った。それもひどく強く、これまでにないほどその音を求めていた。
 内なる何かに導かれるように、誘われるように打面に指先を触れると、すぐにかつての感触がよみがえった。音はとめどもなく湧き出た。二井は目を閉じ、自らが作り出す音の世界に没入した。
 数分が経過する頃には、二井の意識は全く別の感情に塗りこめられていた。砂時計型の打楽器に対する憎しみが彼を支配していた。彼は楽器を破壊することを願っていた。皮をナイフで裂き、のこぎりで切り刻みハンマーで粉砕したかった。彼は自分が実際にそうしているところを思い描いていた。古道具屋の主人の老婆のしゃくりあげる笑い声が耳に響いていた。
 閉じた目を開いたとき、二井は視界の端にそれをとらえた。仄かに発光しながら床の上を這う、あの金色をしたゼリーのような物体。山瀬雪乃が最後に『夢見るユートピア』を演奏した夜にシンバルからこぼれ落ちた、あの物体だった。まぎれもなくそれと同じものだった。
 いつからそこにあったのかわからなかった。つぶれたような平べったい形をした金色のかたまりは、金色の飛沫をあたりにまき散らしながら、二井がいるところに向かって床の上をにじり寄っていた。
 二井は手を動かしたまま、金色のかたまりを見つめた。以前にはそれを美しいと感じたものだが、今ではとてもそんな風には思えない。ぎらぎらと輝く金色は狂暴な爬虫類の鱗を思わせた。かたまりは二井の足元に到達した。そして小動物がじゃれるように、彼の足の周りをぐるぐるとうろつきはじめた。
 二井の両足は震えていた。椅子に腰かけまま、膝はがくがくと目に見えるほどに大きく震えている。二井は恐怖を覚えているわけではなかった。少なくともその自覚はなかった。しかし震えはどうしてもおさまらない。
 二井の両腕は休むことなく動いていたが、彼の耳に自分が叩き出す音はすでに聞こえていなかった。二井は本能的に、途中で曲を中止するべきではないと思った。『黄金のアモルフィ』はもはや原型をとどめていなかったが、そんなことはどうでもよかった。彼は目の端に金色をとらえたまま曲を最後まで演奏した。
 最後の一音が暗がりに吸い込まれたとき、金色のかたまりも同時に足元から消えた。あたりには静寂が戻った。二井は椅子から離れ、身を屈めて床を調べた。何の痕跡も残っていなかった。飛び散った飛沫の跡もなかった。金色のかたまりは跡形もなく消えていた。物陰にもどこにも隠れていない。今では二井は全身を震わせていた。歯がカタカタと音を立てた。
 二井は物置部屋を出て寝室に入り、布団にもぐりこんだ。眠るまでずっと、震えはおさまらなかった。
 朝になって目を覚ましたときには身体の震えは止んでいたが、恐怖に似た得体の知れない感覚はまだ残っていた。
 その感覚を抱えたまま生活を続けるうち、それは二井の常態に近い気分になった。
 砂時計型の打楽器はそのあとも物置部屋に置かれたままだった。


 

12

元恐竜族のメンバーたちはそれぞれに音楽活動を続けていた。光村は様々なアーティストに楽曲を提供する作曲家として活動しながら個人名義で交響作品を発表したりしていた。ベーシストは恐竜族とは音楽性が全く異なるアコースティック・プログレッシヴ・バンドに加入して、そこでエレクトリック・ベースではなくコントラバスを弾いているとのことだった。
 二井もまたミュージシャンとしての活動を再開した。あちこちのバンドのライヴやレコーディングにサポートとして参加し、その合間に、打楽器独奏の曲の作曲も再び行うようになった。
 夏のはじめに、二井は恐竜族を解散して以来初めてのソロ・コンサートを開いた。出演者は二井一人だけで、最初から最後まで打楽器のほかには何も演奏しない、メロディーとハーモニーの要素を完全に排したマニアックな様式のコンサートだった。それでも恐竜族の元ドラマーという肩書が手伝ってそれなりの集客があった。二井は暮河原も招待した。
 演奏の途中、二井は突然場内の空気の肌触りが変わるのを感じた。深い集中によって澄み渡った意識はどこかはるか遠くをさまようようだった。それは恐竜族を解散してから久しく忘れていた感覚だった。客席のあちこちからかすかな溜息のような声が聞こえた。
 曲が半分を過ぎたとき、二井は誰かの視線を感じた。もちろんホールにはたくさんの人がひしめいていて、彼らの視線がステージ上の二井に向けて注がれている。しかし二井が感じたのは、それら不特定多数の視線ではなかった。それは視線というよりは気配に近く、客席よりもずっと近いところで感じるものだった。二井は演奏しながら、違和感の正体を探るために顔をわずかに上げた。彼がそこに見たのは八杉の姿だった。
 八杉は最後のライヴの時と同じ衣装を身につけていた。銀のラメが入った丈の長い黒のジャケットと黒いブーツ、じゃらじゃらしたいくつものネックレスやペンダント。八杉は観客席に背を向けて二井の目の前に立ち、手首から血を流していた。そしてまっすぐに二井を見つめている。
 二井の呼吸が止まった。そのために演奏はごくわずかにだけ正確なリズムから外れた。二井は八杉のジャケットの端が血で汚れているのを見た。紛れもなくそれは生前最後にステージに上がった日の八杉の姿だった。数か月前に故郷の海で見たあの幻よりも遥かに生々しく存在感を備えていた。それは幻に見えなかった。二井は生きている人間を見るように八杉を見ていた。突然ステージに紛れ込んだ人物に対して、観衆が反応も示さないことを、二井は不審に思いさえした。
 二井の両腕はせわしなく動き続けていた。人々は二井のミスタッチには気づいたかもしれないが、特に異変を察した様子もなく、依然として熱心に音楽に耳を傾けていた。聴衆には八杉の姿は見えていない。そのことは二井を余計に混乱させた。
 どう見ても目の前の八杉は生きていた。彼はかつてライヴ中によく見せた目つきをしていた。集中と興奮のためにどこか虚ろに見える目つき。しかし八杉は死んだ。そのことには間違いがない。二井は八杉が死んだ夜のことを思い出した。ホテルの部屋に漂っていた臭気を嗅ぎ、床に飛び散った血や脱ぎ捨てられた衣類を目にした。ベッドに横たわっていた女の死体も、浴室で腹を切り裂いて死んでいた血まみれの死体も見た。あの男が生きているはずがない。それなら今俺の目の前に立っているこれは誰だ? 精神は集中を欠き、意識が混乱した。二井はさらにいくつかのミスを犯した。
 演奏を終えて、観客が拍手をした。二井はかつてないほどの不満を自身の演奏に対して抱いていたが、拍手の音を聞く限りでは観客はそうでもないようだった。八杉は傍らで見守っていた。
 二井は続けて別の曲を演奏した。それはバンド解散後に作曲した、数多くの打楽器を使用して演奏される大曲だった。彼はもう二度と顔をあげることはなく、演奏に集中した。

 コンサートのスタッフも二井のマネージャーもレコード会社の担当者たちも誰一人、ステージに紛れ込んだ人物について言及しなかった。彼らは二井をねぎらい演奏を褒めてくれた。普段より良かった、などという人もいた。

 ライヴのあとで二井は暮河原と例のほら穴のようなバーで会った。暮河原はどことなく興奮していた。それは酒のせいかもしれない。
「やっぱり君の演奏はすごいですね。どこかに連れていかれますよ。音の中に何かが潜んでいて、それは未知で得体が知れなくてグロテスクな、深海魚めいた何かなんだけど、そいつが聴く人を未知なる領域へといざなうんですよ。それはすごく遠くにあるようで、すぐ近くのような気もする。そしてそこから永遠に出られないんじゃないかって、少し怖くなる。怖いんだけど、それも悪くない、とも思ってしまいそうな、そういう感じ。不思議とそれは快感なんだ」
 暮河原は熱っぽく演奏を称賛した。しかし彼もまた八杉の幽霊については一言も言及しなかった。

 八月に二井はある音楽祭に出演するために札幌に赴いた。打楽器奏者だけで演奏を行うというイベントがあり、二井はそれに招かれたのだった。
 フェスティバルは想像以上に大規模だった。二井が出演する予定の打楽器イベントには、世界各地から多様なジャンルの打楽器奏者やドラマーが集まっていた。
 二井はあるカナダ人のドラマーと出会った。イベントには海外の音楽家も何組か参加していて、フロレンスという名前のそのドラマーもそのうちの一人だった。フロレンスはグラインド・コア・バンドのメンバーとしてデビューしたあと脱退して今ではそれよりはいくらか大人しい音楽性のハード・ロックバンドでドラムを叩いていた。彼は二井が知る演奏家の中でも群を抜いて特徴的だった。つまり血管が切れて死んでしまうのではないかと思うほどの迫力で全ての音を強打する。ふつう上手いドラマーほど余分な力が抜けるのでどんなに激しいフレーズを叩くときでもその姿はリラックスして見えるものだが、フロレンスは違った。ドラム・セットを叩き壊そうとしているのではないかと、二井は真剣に思ったものである。実際にリハーサル途中に二井は彼がクラッシュ・シンバルを割るのを見た。まさにそれを割るつもりで叩いているように見えた。
 二井は不完全な英語で何度かフロレンスと言葉を交わした。フロレンスは髪が短く体型が引き締まっていて、ミュージシャンというよりは陸上競技の選手のように見える。そして実際にアスリートのように自らを律していた。朝は六時に起きて毎日ランニングをして間食は取らず夜は十二時前に眠る。今でも一日最低六時間はドラムを練習すると彼は言った。
 演奏中の鬼のような形相とは異なり普段の彼は穏やかで屈託がなく、過去に二井が出会ったことのあるミュージシャンの中でもっとも爽やかな人物だった。
 どうしてあんなに思い切り、まるで破壊しようとでもするように叩くのか、と二井は質問した。
 その方が楽しいし、気持ちいいからだよ、とフロレンスは答えた。
 そうした発想は、二井が一度も持ったことがないものだった。演奏することが楽しいと思ったことなど二井には一度もなかった。演奏中にはいつも張りつめたような緊張感とともにあり、それは喜びとも楽しさとも無縁だった。プロとして音楽を演奏するということはそういうことなのだろうと彼は考えていた。音楽に対して二井が喜びらしきものを覚えることがあるとすれば、それは一人で部屋にこもって砂時計型の打楽器を演奏しているときだけだった。考えてみればそれだって、演奏することでもたらされる快感ではなかったかもしれない。何か別のところから生じた感覚を、音楽によってもたらされたものだと勘違いしていたのではなかったか? 何にしてもこの爽やかなカナダ人ドラマーと自分とは音楽観も人生観もドラムの演奏方法もまるで違う、と二井は思った。
 斬新な考えだね、と二井は不完全な英語で言った。フロレンスは不思議そうな顔をした。

 北海道滞在中、一日だけオフの日があった。二井は一人で札幌の町を散歩した。道は幅が広く、直線的だった。見知らぬ都会の街角を二井はなかばでたらめに歩いた。そんな風な気まぐれな、思いつくままの散歩を何度も彼はツアー等で訪れた土地で行ったことがある。慣れない土地でそんなことをすれば道に迷うことは必然だった。二井は札幌の町中で自ら迷おうとして、実際に迷った。いざとなればタクシーを拾ってホテルまで帰ればいい。そうやっていつしかずいぶん都心部を離れていた。二井はあたりを眺めまわして既視感に襲われた。周辺の街並みは、生まれ故郷の島根の海辺の町と似ていた。
 二井は歩くのをやめた。音は途絶えていた。即興演奏の途中で展開の手がかりを失くしてしまった気分だった。二井は電柱の陰や街路樹の隙間に死んだ音符の姿を目にした。
 二井は人気のない狭い路地の真ん中で立ち止まった。突き当りにある家の塀の向こうから、一人の女が彼のほうを見つめていた。女は塀越しに首から上だけ覗かせて二井を見つめていた。
 二井は他紙すくんだまま動けなかった。その女は山瀬雪乃に似ていた。ほとんど生き写しかと思うほどに似ていた。長い髪の毛も、青ざめた、どこか心ここにあらずといった表情もそっくりだった。二井は彼女がそこにいるのだと思った。彼女は八王子を離れて今は札幌に住んでいたのだ。二井はその家のほうに歩み寄った。山瀬雪乃に似た女は近づいてくる二井を見つめていたが、やがて口を開いた。そこで何をしているのか、という意味のことを女は言った。その声は記憶にある山瀬雪乃の声とは、明らかに違っていた。あの柔らかさの中に堅い芯を含んだような声とは似ても似つかない、かすれた低い声だった。
 二井は山瀬雪乃が死んだ存在であることを、その声とともに思い出した。彼女は死んだ。ここだろうとどこだろうと、もう存在していない。ということはこの女は誰なのか。赤の他人にしては似すぎている。いとことか、姉妹とかだろうか。北海道に親類が住んでいるとかいう話を山瀬雪乃から聞いた記憶はなかった。
 道に迷ったのです、ととっさに二井は口にしていた。
 どうしてあんなにじろじろ、家を見ていたんです、と女は言った。
 二井はもごもごと口ごもりながら言い訳めいたことを口にした。
 女は何も言わなかった。彼女は表情も変えずにじっと二井に視線を注いでいた。
 しばらく二人はそうして向かい合っていた。二井はどうしても最初の印象を覆すことができずにいた。よほど女に向かって山瀬雪乃の名を呼び掛けてみようかと思った。見つめるうちに、女の顔が塀の上に備え付けられた人間の首を模した作り物のように見えてきて、二井の現実感は揺らぎだしだ。もしかしたらこの女もまた、前に演奏中のステージに現れた八杉と同じ種類の存在なのではないか?
 女の背後の家のほうから声がした。男の声だった。その声は女の名前を呼んでいるようだった。それは山瀬雪乃の名前とは明らかに異なる、似ても似つかない別の名前を発音していた。
 女は振り返って返事をすると、それきり二井のことなど忘れ去ったかのように、その場を歩き去って家の中に消えていった。

 何度も二井は幽霊や幻のようなものと遭遇した。次第に二井は霊のそばで演奏することにも慣れた。
 9月に故郷の島根で開かれたコンサートでは、兄の幽霊と出くわした。
 松江にあるコンサート・ホールで、そのとき二井は地元のバンドと一緒に恐竜族時代の楽曲を演奏していた。恐竜族の曲はいずれも非常に独特で技術的にも高度であるため、カヴァーされる機会はまずなかったのだが、松江で結成され今は大阪で演奏活動を行っているというそのバンドは、メンバーの多くがかつては恐竜族の熱心なファンだったらしく、いくつかの楽曲をほとんど完全に再現していた。彼らの要望によって二井は一曲だけ、恐竜族時代の楽曲を演奏することを了承したのだった。
 二井の演奏スタイルは以前とは少し変化していた。ストロークは強く、激しくなっていて、それは明らかにフロレンスからの影響だった。それによって音は以前よりも重みと迫力を増し、恐竜族の楽曲は当時よりも力強く響いた。聴衆の反応も良かった。
 二井は集中していた。意識は宇宙の果てを見通すほど澄み渡り、心は氷のように静まっていた。極度な昂揚の果ての絶対的な静寂といった境地のさなかにいて、二井は一瞬、自分を取り囲むすべての物体の様相が変転するような感覚に襲われた。そのとき、二井は頭上に兄の姿を見出したのだった。
 兄はステージの床から二メートル上の宙に浮かんで二井を見下ろしていた。海に打ちあげられたときと同じ恰好で、水着だけを身に着けて、全身に海藻を張り付かせ、顔は青黒く膨張していた。
 二井は当然のようにその存在を受け入れた。驚くことも取り乱すことも怖れることもなく、兄の姿を見上げながら演奏を続けた。微笑みかけさえしたかもしれない。その日、二井は一つの音符も間違わなかった。

 

13

その夜、暮河原はひっきりなしに愚痴をこぼしていた。もっとも彼は普段からよく愚痴をこぼす。同業のライターや、編集者に対する悪口めいた愚痴が主である。そんなとき、彼は混じり気のない純粋な憎悪を、その対象に向けて話しているのだが、その言葉の中にはいつもどこかねじれたユーモアのようなものが漂っていて、彼自身さえ意図しないところで発生したそのユーモアのために、容赦のない非難も呪詛もどこか深刻さを欠いて響いた。時としてそれはどこか微笑ましくさえあった。
 しかし今夜の暮河原は、普段とは少し違った。違和感の正体は何だろうと、隣で話を聞きながら二井は考えていた。少し疲れているようには見える。顔色が悪く、瞼がぴくぴくと動き、細く長い指は時々震える。しかしそうした様子は別に今夜だけのことではない。それは普段の暮河原の特徴でもあった。ということは単なる気のせいだろうか? それともつかれているのは自分なのだろうか。
 あれこれ考えているうちに二井は気づいた。つまり愚痴の内容が、ただ一つのことだけに向かって集中している。暮河原はひたすら彼の恋人の女性について語っていた。今も静岡の実家に帰ったままだという彼女について、その浪費癖、彼女と生活を共にすることが、いかに負担と忍従を強いられるものであるか、それについて語っていた。
「まったくあの女が出て行ってからというもの、僕の生活はまるで変った。もちろん良い方向にだよ。僕は解放感に包まれている。嘘みたいに健康的な生活が続いているんだ。仕事にも以前より集中して取り組めるし、小説だってどんどん書ける。孤独というのは悪くはないものだね。生活費に問題が生じるようなこともないし。僕はつつましい生活を送るタイプだから一人で暮らす分にはそんなに生活費がかからないんだ。彼女の浪費癖がどれだけ家計に影響を及ぼしていたことか! そのことを知ったよ。それは単に経済を圧迫するだけでなく、僕に対する心理的なストレスにもなっていたんだ。実際のところ、僕はせいせいしている。彼女がこのまま永遠に僕のもとを去っても、別にいいんじゃないかと思っているよ。そのほうが彼女にとってもいいのかもしれない。彼女はより幸福になれるかもしれないって思うようになったんだ。僕は自分がそんな風に考えていることに気付いて自分で驚いたよ。彼女の幸福を願う、そんなことができるほど、今の僕の精神は安定しているんだ」
 しかし二井の目には暮河原はさほど健康的にも安定しているようにも見えない。話すうちに、彼の顔つきは憔悴の度合いを深めていくみたいに感じられた。彼はひどく疲れた人のように見えた。目の下の隈は依然として黒々として深く、肌の色つやも悪かった。
 二井は簡単な相槌を打つだけでほとんど話さなかった。飲めもしない酒を飲みたい気分になり、マスターに注文した。無口なバーテンダーは彼の前に水色のカクテルを置き、二井はそれに口をつけた。
「ねえ、こないだのことなんだけどね」と暮河原が言った。「彼女と会ったんだ。いや、会ったんじゃない。思いもよらない場所で見かけたんだよ。一週間ほど前のことだ。あるデパートで、そっくりな後ろ姿を見かけた。でも静岡にいるはずの彼女が、そんなところにいるはずはないから、僕はもちろんよく似た他人だと思った。でも気になって眺めていると、それはやはり彼女だった。間違いなく彼女だった。そして彼女はそのとき、男と一緒にいたんだ。僕の知らない男だった。アルマーニのスーツを着て顎髯を生やした、いかにも業界人風の男だった。二人は腕を組んで歩いていたのだ。その様子はどう見ても、知り合いとか友人とかいったものではなかった。それで僕がどうしたと思う? 僕は自分でも思いもよらない行動に出た。つまり、二人の後をつけたんだよ。大したものだろう?」
「無理もないよ、僕もたぶん同じことをする」と二井は言った。
「僕は彼らの後ろをついて歩いたんだ。見つからないように用心する必要がほとんどなかった。なぜなら二人はずいぶん親密そうで、ろくに周囲が目に入っていないようだったからね。デパートを出た彼らは駐車場に行った。僕はもちろんそこまで追いかけて、彼らが車に乗って走り去るところまで見届けたよ。銀色のジャガー、品川302、『に』の24ー64、車種もナンバーも覚えている。それきり彼らがどこに行ったのかは知らない。いくらなんでも走って車を追いかけるのは不可能だからね」
 暮河原は数秒ほど言葉を切った。
「つまり彼女はずっと僕を欺いていたんだよ。彼女は僕の飲酒癖が理由で出て行ったのではなかった。浮気していたんだ。静岡に帰っているなんて嘘だったんだ。いずれ彼女とは話し合わなくちゃいけない。電話したんだ、こないだ。静岡に帰ったことの嘘を指摘したら、彼女は認めた上に開き直ったよ。それでまたお決まりの口論だよ。堂々巡りみたいだ。こんな中途半端な状態じゃ良くないから、ちゃんと話し合おうって僕は言ったけれど、彼女は応じるつもりがないのだよ」
 暮河原は黙り込んだ。店内の静寂はより深まったように感じた。
 二井はグラスに口をつけ、適当な楽曲を頭の中で再現しようとしていたが、できなかった。音楽はその日なにも浮かばなかった。
 
 店を出た彼らは、夜の道を歩いた。暮河原は執筆中の小説について語りはじめた。前にも話した、例の顔に傷のある男が主人公の小説である。
「仮面のピアニストは人気者なんだよ。見た目はふざけているのに、演奏は立派で、ほとんどけちのつけようがない、硬質で流麗な演奏をするピアニストとして、名前が知られている。人々はそのギャップを面白がる。あちこちのコンサートに招待されて世界中で演奏する。テレビにも出る。人前では決して仮面を外さない。人前でだけでなく、部屋に一人でいるような時でも仮面をつけたままのことがある。つまり仮面は彼の一部のようになっていたんだ。眼鏡みたいにね。もともと仮面をつけたのは顔の傷を隠すためだった。彼自身でさえその傷を見たくはない。見なければ存在しないのと同じだからね。それでも彼は片時も自分の顔の傷について忘れたことはない。忘れることができない。それどころかその傷の存在は彼の中でどんどん膨らんでいく。名声が高まるほどに膨らんでいく。
 仮面音楽家としての自分が、醜い傷に苦しみ悩む自分を追い越し、呑み込んでくれることを、彼はどこかで望んでいた。ところが実際はそうはならない。そうだ、そんなことは起るはずはないんだ。だってそれはただの仮面に過ぎない。むしろ彼は顔に傷のある、仮面のない自分自身を強く意識することになる。
 真夜中、窓ガラスに映った自分の顔を見ながら(彼の家には鏡がないんだよ)、そこに映った傷跡を見つめる。できてから何年経っても、傷は変わらない姿でそこにある。その傷を見つめながら、彼はそれをはじめて聴衆の前にさらすことを、考えるようになるのだ。一度も聴衆の前で外したことのない仮面を外してステージに上がることを、考えるようになる。それでもなお、聴衆は自分の音楽を支持してくれるだろうか、そんなことを考えるようになるんだ。
 よりによってピエロの仮面なんて選んだことが、滑稽な符号に感じる。ピエロの中身に興味を持つ者なんていない。それと同じように、観客が興味を持っていたのは彼の音楽ではなく、仮面をつけたピアニストという存在に対する面白味、興味だったのではないか。あんなに隠したかった傷をさらけ出すことを、いつしか彼は考えるようになる。
 それである日、彼は仮面を外すのだ。聴衆の面前でね。聴衆は一瞬驚く。そして初めて彼の素顔は人前にさらされる。
 彼はピアノに向かい、演奏する。腕を持ち上げ、指が鍵盤に触れ……、そう、もちろん何も変わるはずはない。ただ仮面をつけていないだけで、ピアニストとして何も変わるわけはない。それでもそのとき、彼はうまく演奏できなかった。つまり彼の頭にある、彼が理想とする音楽には遠く及ばなかった。そう思うと、肩や腕の筋肉が強張って感じられるようになって、ますます演奏は破綻していった。最後にはもう、ただの音の塊をでたらめに投げつけているだけ、といった格好になった。そうしてコンサートは終わる。
 観客たちはどうしたか? 彼らがピアニストのパフォーマンスに満足していないことは明らかだった。ブーイングこそ起きなかったものの、拍手はただ演奏をねぎらうためだけのおざなりなものだった。
 何度もコンサートを行った。仮面なしのね。結果は同じだった。ピアニストの演奏は精彩を欠き魅力を失った。技術までもが損なわれているみたいだった。人々は噂する、「あの男はあの仮面に多くを負っていたのだ。仮面をつけてあの男は初めて音楽家として完成するのだ」』
 暮河原は黙った。
「そのあとはどうなるの。また仮面をつけて活動を再開するの」
「それはね、僕にもわからないんだよ。でもとにかく、彼はもう偽ることに疲れてしまっている。仮面がなければ力が出ない、という指摘が真実だとしても、彼はもう仮面をつける気になれない。というより傷を隠す気になれない。彼はある日仮面を燃やしてしまう。演奏活動は続けるが、以前の人気はもうない。坂を転がるように彼は名声を失ってゆく。そして……」
「やっぱり暗い話になりそうだよ!」
「僕としても、そうなってほしくはなかったんだけどね。今のところ、どうすることもできない。次に君に会うときには、小説は完成していると思うよ。何しろ最近毎日すごい勢いで書いているからね。自分のどこにこんな力があったのかと、疑うぐらいだよ。確かに書くことは、ある種の救いにはなるね。もつれた糸がほどけていくような……いや、違うな、そこまではっきりしたものじゃない。とにかく何かしらの治癒的な効果はあるよ、自分自身に対してね。ねえ、完成したら君の所へ持って行くよ。書くうちにね、誰かに、誰でもいいから読んでもらいたいという気がしてきたんだ。君にとっては迷惑だろうけど……」
「そんなことはないよ。僕はぜひ読んでみたいよ。なんだか他人に思えないからね、そのピアニストのことが」
 暮河原は冗談だと思ったのか、笑みを浮かべた。

 二井は普段通りの日常を送った。あるバンドのライヴとレコーディングに参加し、何度かソロ・コンサートを開き、いくつかの打楽器独奏のための曲を作曲した。彼は自分がただの音楽を演奏する機械であると考えるようになった。演奏する際には、以前にもまして極端な集中へと自身を追いやった。
 奇妙なことに、演奏家としての二井の評価はさらに高まっていくようだった。恐竜族時代には「イロモノ」呼ばわりされることもあったが、今ではそのような声もなく、高い技術を変幻自在な音色を叩き出す優れたドラマーであるという評価が定着していた。

 長い間暮河原には会わなかった。秋の終わりごろ、二井は一人である土地を旅行した。ずっと前に新潟に行ったときみたいに、適当な電車に乗り、適当な駅で降りた。川が流れていた。大きな川で、いくつも鉄橋が掛かっていた。自然の多い土地だった。彼は町を歩く。目立つものといえば大きな川しかない静かな町。遠くでときどき、ドオオンという大きな音が鳴った。猟銃の音だった。二井の足はどんどん人けのない方向へと向かった。辺りには田んぼとか畑が増えはじめた。山の木々は黄や赤に染まり、日暮らしが鳴いていた。細い川が流れていて彼は川沿いの道を歩いた。
 川はあの山瀬雪乃と訪れた山荘を二井に思い出させた。いまだに彼女の記憶から自由になれない。彼女が死んでからもう五年も過ぎたというのに。いや、あの時冗談めかして暮河原に言った言葉、自分と親しくかかわる女性はみんな不幸になる、あの言葉は本心だった、次の女性もなくすことになるかもしれない、と思うと誰とも交際する気になれない。畦道に、頭の毛を逆立てたような形の鳥が群らがっていた。
 開けた広場のような場所に人だかりができていた。女性はエプロンを身に着け、男性は作業服やジャージと言った動きやすい服装をしていた。大勢の子供がいた。子供たちはテーブルに向かったり、あるいは舗道の縁石ブロックに腰かけて、果物を食べていた。ミカン、カキ、ブドウ、リンゴ、そうしたものが木製のテーブルの上に大きな皿に盛られている。
 子供たちのうちの一人が、通りかかった二井に向けて挨拶をした。するとほかの子供たちも一斉に同じようにあいさつした。二井は挨拶を返した。大人たちが彼に会釈をする。彼には一目で二井がよそ者であることがすぐにわかったものと思われる。
 人のよさそうな女性が二井に向けて言った。「一つおあがりになりませんか、たくさんあるので」
 二井が財布を取り出そうとすると、夫人は手を振っていった。お代はいいんですのよ。どうぞ好きなだけ、食べてください。とれたてなんですよ。
 二井は礼を言って、リンゴを一つだけもらった。
 人々は果物の果汁をアスファルトや土の上に滴らせながら食べていた。子供たちの何人かが、二井のほうをじっと見ていた。
「お兄さんどこから来たの」と一人の少年が大声で尋ねた。
 東京だよ、と二井は答える。
「旅行?」
「そんなところだね」
 二井は二十代半ばだが、大学生と間違われることもある。そのような雑談をしながらリンゴを齧っていると、二井はテーブルの隅で一人の少女が泣いているのに気づいた。彼女は椅子に座ったまま顔を真下に向けて深くうつむき、声もたてずに涙を流しているのだった。少女の前には一房のブドウを乗せた皿が置かれている。涙は彼女と皿の間のテーブルの上に落ちていた。皆が果物を食べまくる中、少女はブドウに一粒も手をつけていない。
 なんとなく二井は気になったが、なぜあの子は泣いているのか、と質問することはなかった。少女は十歳ぐらいに見えた。それぐらいの年齢の子供が泣くようなことは、そんなに珍しいことでもないし、通りがかりの旅人でしかない自分がそこまで干渉するのは、やりすぎに思えた。
 リンゴを齧りながら、二井は子供のころに自分にも似た経験があったような気がした。いや、確かに同じようなことが自分にもあったはずだ。こういう大勢集まる状況で、周りがみんなはしゃいでいて、自分だけが何かひどく叱られたか何かのために泣いていて、友人たちはみな、気を遣っているのか関わりたくないのか、無言のもとに自分を無視している。そのときの孤独な気持ちには覚えがある。それでもいくつごろのことだったかとか、何のために叱られたのかとか、具体的なことは何一つ思い出せないのだった。
 風が吹いて、それは枯れた草の匂いを運んできた。リンゴを食べ終えた二井は、水筒に入れて持ってきていた熱いレモンティーを注ぎ、ゆっくりと飲んだ。少女はまだ泣き続けていた。泣き方は激しくなることも鎮まることもなかった。彼女は同じペースで泣き続けていた。細い肩がずっとかすかに震えていた。
 二井は人々に礼を言って立ち去った。そして駅に戻り、電車に乗った。
 車窓から二井は空を眺めた。山際の空の色は少しずつ青みを失い、紅茶に似た琥珀色に変わり、さらに少しずつ紫が侵しはじめた。トンネルに入ると二井は目を閉じ、そのまま東京に着くまで目を開けなかった。

 秋が過ぎ、冬になった。
 十二月のある日、二井は買い物に出かけた帰りに街角で暮河原洋一郎の姿を見かけた。彼はJR川崎駅の近くの「ビックカメラ」の前にひとりで立っていた。
 車道を挟んだ反対側の歩道を歩いていた二井は、思わず立ちどまって彼のほうを見た。距離はあったが、それが暮河原であることはすぐにわかった。見覚えのある黒いトレンチ・コートを彼は身に着けていた。
 暮河原の様子はどことなく妙だった。立ち尽くしたまま、特に何をするでもなく、口をぽかんと開けて、目の高さよりやや上の空間をじっと睨んでいた。人々は暮河原を避けるように歩きながら、どこか疑わしげな視線を彼の方に向けていた。暮河原のほうは、二井に少しも気がつかなかった。
 彼がそこでいったい何をしているのか、どれだけ眺めても二井にはわからなかった。荷物も持っていないし、買い物の途中にも見えず、煙草を吸うでも何か飲むでもない。待ち合わせでもしているのかもしれないと思ったが、辺りを見回したり、時間を気にしたりする様子もなかった。暮河原はただひたすらに空間の一点を凝視していた。まるでそこにひどく興味を引かれる何かが浮かんでいるかのように。もちろんそこには何もない。少なくとも二井がいるところからは何も見えない。二井が見ている間、暮河原はその何かから一度も目を離さなかった。
 二井はそのままその場を去った。暮河原は今、声をかけられることを望まないだろうと思った。そして二井もまた彼に話しかけたいとは思わなかった。

14

バッハの音楽を聴くことが今や二井の習慣になっている。大学の同級生で今は魚屋の佐藤とは、卒業以来会っていないが、彼からの影響は今も二井に残っていて、今ではバッハは二井にとっても最も敬愛する作曲家になっていたのだった。時々二井は一日中聴く。『ヨハネ受難曲』『マタイ受難曲』『ロ短調ミサ』を一日で聴くこともあるし、カンタータばかり聴くこともある。絡み合う対位法の線と線の間に、彼はある神聖なものの存在を感じるのだった。
 その日、二井は朝から繰り返して『モテット集』を十六回聴いた。目を閉じて、ほかに何もせずにソファに寝そべり、ひたすら聞き続けるのだった。空腹を覚えると簡単な料理を作って食べた。十二月の終わりの、のんびりとした休日だった。二井はバッハの音楽のこと以外には基本的に何も考えずに過ごした。

 午後十時に眠りについた二井は、夜中に目を覚ました。何か怖い夢をみていた気がして、彼は寝汗をいっぱい書いていたが、夢の内容は目を開けた瞬間に消えてしまって思い出せない。二井は起き上がり、本棚から一枚の大きな五線紙を取り出す。それは山瀬雪乃が彼に残した『夢見るユートピア』の自筆譜だった。
 二井はそれをもってリヴィングに行き、そこにあるソファに寝そべって、楽譜を読みはじめた。
 たちまちのうちに音楽が頭の中に再現される。二井は音符を目で追いながら、暗い部屋に音もなく響く音楽に耳を澄ませていた。山瀬雪乃が書いた音符は印刷されたもののように美しかった。彼女はどんな場合においても、音符を書く必要があるときは決して書きなぐったりせずいつも丁寧に綺麗に書いた。二井は「ハンス・ベルグナー」を思い出す。ハンスはいつも楽譜を美しく書いた、と山瀬雪乃は語ったが、その設定は明らかに、彼女自身の特質が反映されている。
 頭の中で鳴る『夢見るユートピア』はなぜか二井を辛くさせた。柔らかい針が皮膚を撫でるような、痛みともくすぐったさとも異なる感覚が彼を襲った。物置部屋に籠ろうかと考えていると、インターフォンの音が鳴った。
 玄関に行ってドアのレンズを覗くと、そこには暮河原洋一郎の姿が映っていた。さらに長く伸びた髪の毛が黒いコートの肩に落ちかかっており、こけた頬は廊下の明かりの下で影になっていた。眠たげな、それでいて鋭い目つきで、彼はレンズを真っ直ぐに見つめていた。
 ドアを開けると暮河原は「やあ」と言った。「よかった、起こしたんじゃなければいいけど」
 眠れなくて、ずっと起きていたんだよ、と二井は言った。
「部屋にいてくれてよかった。いきなり押しかけてしまって悪いね。小説が完成したんだ。君に読んでもらおうと思って」
 二井は部屋に入るよう促した。暮河原は震えていて、ひどく寒そうに見えた。外は確かに寒く、開いたドアから冷気が部屋に入り込んできた。
 暮河原はリヴィングに入った。コートを脱ぎながらひとしきり部屋を見渡した後、「いい部屋だね」と彼は言った。「とても整っている。想像した通りだ。それにしても寒い、震えが止まらないんだ」
 暮河原はぎこちない笑みを浮かべた。リヴィングには暖房がついていたが、暮河原の唇や指先はまだ小刻みに震えていた。彼の顔色は血管が透けそうなほど青ざめて見えた。二井はストーヴのスイッチもつけた。
「ココアでいいかな、悪いけど酒は置いてないんだ」と二井は言った。
「ああ、ありがとう。僕も今夜は酒を飲みたい気分じゃないんだ。ところで、何だかいい匂いがするね」
 夕食にシチューを作って食べたのだと二井は言った。
「へえ。いいね」と暮河原は言った。
 よかったら食べないか、と二井は言った。
「有難い。実は、昼から何も食べていないんだよ」
 二井はシチューを温めなおし、皿に入れてリヴィングのテーブルの上に置いた。ストーヴにあたっていた暮河原はのそのそと動いて椅子に座り、シチューを食べはじめた。
「何から何まで悪いね。でもこれは美味しい。君は料理も上手なんだね」
「シチューなんて誰にでも作れるさ、具を炒めて茹でて小麦粉やコンソメや牛乳を放り込むだけだよ」
 暮河原は苦い顔をした。「別れた彼女は、シチューさえろくに作ってくれなかったよ。そもそも彼女は料理が得意じゃなかったし、特に近年では、何ひとつまともなものを作ってくれたことがなかった。食器やら調理器具やらはやたらと買い込むくせにね。僕のほうも料理なんてできないから、食事はもっぱら出前とか外食とかあるいはコンビニやスーパーで買ってくるようなものばかりだった。ねえ、食事というのは重要だよ。ひどい食事ばかりいっしょに食べてると男女の仲は冷えてゆく。僕はたびたび思ったものだよ、どちらかがまともな料理を作ることができていたら、僕らは別れずに済んだのではないかってね。もちろんこじつけかも知れないが」
 彼女とは別れたんだね、と二井は言った。
 暮河原は頷いた。「ああ。彼女は去ってしまった。もう僕のもとに戻ってくることはない」
 彼はそれ以上話さななかった。彼は黙ってゆっくりとシチューを食べていた。
 二井はテーブルに向かい合って座り、熱いココアに口をつけた。
「ようやく、生き返った気がする」と少し後で暮河原は言った。彼の震えは確かにおさまっていて、顔色も随分血色を取り戻していた。
「ようやく完成したんだ、小説が。そのことを伝えたかったんだよ。この何週間か、僕は部屋に籠りきりだった。まるで山籠もりみたいに。でも今日ようやく終わったんだ。ついさっき、書き上げたばかりなんだよ。毎日十二時間執筆して、ついに完成した。身も心も干しっぱなしの雑巾みたいになってる。でも悪くない気分だよ。これまで経験したことがないほどいい気分なんだよ」
 暮河原はズボンのポケットからUSBスティックを取り出してテーブルに置いた。
「ファイルはこの中に入っているんだ。これを君に渡すために今日は来たんだよ。もしよかったら、読んでほしいんだ。いや、読まなくてもいい。僕は君に小説を完成させたことを、ただ伝えたかったんだよ」
「読むよ、もちろん。楽しみにしてたんだよ。完成させたのは、すごいと思うよ。だって初めて書いた小説なんだろう?」
「いや、じつのところね、前に小説の筋書きを君に話したときには、そのあとの展開なんて何も頭になかったんだ。でも書くうちにね、何かが僕を引っ張るように、操られるように、急かされるように、自分のものではない力に引っ張られるみたいにね。精霊だよ。僕はその力を精霊と呼んでいたよ。あの精霊ときたら、僕のことを導くどころか、ほとんど引きずっていたよ! 執筆中の僕は彼らのしもべだった」
「せっかく書いたのなら、どこかに送ってみればいいんじゃないの。それか、出版社に持ち込んでみるとか」
「いや、そういうのはいいんだ。僕の目的はもともと、そういうところにはなかったからね。小説家になりたいとか、本にして出版したいとか、そんな願望はゼロだったし、今もないんだよ。だからこのままでいいんだ。僕の目的は一種の自己治癒だったんだよ。書き上げてそのことがわかった。この小説を書くことによって、僕はあちこち狂いはじめていた自分自身を修正し、修復した。ドロドロした渦巻くものを浄化し、リフレッシュした。そしてそれはある程度まで成功したよ」
 暮河原の口調に含まれた何かが、二井を落ち着かなくさせていた。二井はなぜか八杉のことを思い出していた。アルコールと薬物に耽溺し、ステージで手首を切り、そのあと見知らぬ女を殺して死んだ八杉。
 ココアを飲むかと尋ねると、暮河原は肯定した。二井は新しくココアを作っり、彼の前にカップを置いた。暮河原はココアを一口飲んだ。
 外で強い風が吹き抜けた。二人は黙ってココアを飲んだ。
「ときどき八杉氏のことを思い出すんだ」と暮河原が言った。二井は自分の頭の中を見透かされたような気がした。
「彼が出演した最後のライヴのことだよ。あのときの、手首から血を流していた時の八杉氏のことをよく思い出すんだ。あのときの彼の表情が忘れられない。君も見ただろう? 彼はまさに苦痛と快楽を同時に味わう表情をしていたよ。ひどく苦しくて、ひどく気持ちが良い、といったような……。ねえ、僕にはあの時の八杉氏は金色に輝いて見えたよ。その瞬間、僕はおそらく世界中の誰よりも強く、八杉氏に対して憧れを抱いていたよ。彼が体験した恍惚を、僕も体験したいと思った。彼の訃報の知らせを聞いた時、僕はそんなに驚かなかった。不思議なことにそれほど悲しくもなかった。あのライヴが八杉氏の最後のライヴになることをどこかで予感していたのかもしれない」
 その言葉の後、しばらく暮河原は沈黙の中に沈んだ。時計は午前二時を指していた。室内は静寂に包まれ、外の風の音だけが響いていた。二井はなぜか気づまりに感じて、そのことを不思議に思った。これまでにも二人ともが黙り込むことは何度もあったし、それを気にしたことなどなかった。
 沈黙を埋めるために二井は夏に北海道に行った時の話をした。街並みの印象や、フェスティバルの感想や、そこで出会ったミュージシャンについて。暮河原は頷いたり簡単な相槌を打ったりしたが、心は何か別のことに占められているようだった。そのうちに、二井の話も尽きてしまった。
 窓の外で一陣の突風が悲鳴のような音を上げた。
 暮河原はテーブルに肘をついてしばらく何かを考えていた。
「頼みがあるんだ」と暮河原が言った。「あの曲、『黄金のアモルフィ』を、今ここで演奏して聞かせてくれないかな?」
 二井は無言で暮河原の顔を見つめた。彼の顔色は再び血色を失っていた。この部屋に来たばかりのときと同じ青白さに戻っていた。 
「失礼な頼みだってことはわかっているよ。プロの音楽家に対して、ただで演奏を聴かせてくれなんてね。でもね、どうしても、あの曲がもう一度聴きたいんだよ。ほとんど飢えていると言ってもいいぐらいだよ。ずっとあの曲のことを考えていたんだ。『黄金のアモルフィ』のことだよ。あの音色が忘れられないんだよ。身体中の血が静かにざわめくようなあの音。今もときどき、耳や内臓に響きがよみがるんだ。執筆中にも何度も思い出したものだよ。砂時計型の打楽器は、今ここにあるんだろう? 物置にしまったままだって、こないだ君は言っていたよね」
 暮河原の目つきは真剣だった。風が耳にするだけで凍りついてしまいそうな冷たい音を立てて吹き抜けていった。
 暮河原の切実な、どこか異常めいた態度にひるみながらも、二井はその申し出に抗いがたい魅力を感じていた。寒く暗い真夜中に、誰かたった一人に向けて演奏すること、それは『黄金のアモルフィ』という楽曲にとって、最も似つかわしい状況に思えた。それでも二井の内部では、その申し出を拒絶したほうがいいという考えもまた頭にあった。二つの思いが彼の中でせめぎあっていた。しかし欲求のほうがどんどん膨らんでゆき、やがて否定的な意見を飲み込んでしまった。二井は無言のまま頷いた。

 演奏の練習や作曲に使っているスタジオ部屋に、二井は暮河原を案内した。そこには長年にわたって集めてきた様々な打楽器が置かれている。楽器のほかにはほとんど何もない部屋だった。二井は暮河原に椅子を勧めて、少し待つように言い、それから物置部屋に行って砂時計型の打楽器を取りに行った。
 楽器を抱えてスタジオ部屋に戻った二井は、楽器を床に置いて、自分は演奏用のチェアに腰かけた。暮河原はどこか茫然とした顔つきのまま、椅子に座って音楽がはじまるのを待っていた。二人とも一言も発しなかった。いつものライヴやコンサートがはじまるときの雰囲気と同じだった。たとえ演奏家と聴衆がそれぞれ一人ずつしかいなくても、ちゃんとそういう空気は生じる。
 防音加工を施された海底のように静かなスタジオには風の音も届かなかった。それは『黄金のアモルフィ』という楽曲にとって理想的な環境だった。静かな場所で、演奏者と、すぐそばにいる聴衆にだけ届く程度の音量によって演奏されること。
 二井は小さくひとつ息を吐き、そして楽器の表面を人差し指の先でそっと撫でた。それは『黄金のアモルフィ』の最初の一音を鳴らす動作だった。指の腹と打面の摩擦は、雪が地面に落ちるほどの微弱な音を生む。それが一つ目の主題を形作る。二井は何度も楽器の表面を擦る。腕の動きは少しずつ急速になる。少しずつ、音はクレシェンドし、テンポは急速になり、しかし依然として弱音のまま、もう片方の手が、五連符や七連符を含む複雑な音型によってリズムを刻みはじめる。音楽は闇夜の色をはらんで空間に広がった。拍節の不明瞭なリズムが反復した。
 やがて唐突に休止が入る。その無音の奥から引きずり出されるように、第二主題が現れる。それは悲鳴と雷鳴が同時になるような複合リズム的な音型で、二井は十本の指をバラバラに動かしながら、さらに次々と音型を追加していった。太鼓や、鈴や、雨音や、煮沸音に似た音色が次々に生まれ、それらが重なり合って複雑な織物模様を描き出す。
 曲の後半において、二つの主題は再現され、反復される。そして複雑に絡み合いながら発展する。さらに複雑化したリズムは暴力的なフォルティシモの洪水となって、音楽の強度は最高潮に達する。
 それらの喧騒と混沌は突然断ち切られるようについえる。そして金属が擦れるような硬く冷たい高音によって、コーダ主題が現れる。とぎれとぎれに鳴る澄んだ高音は、遠い昔の夢のような余韻を残しつつ、次第に衰えて、やがて死に絶える。

 壁の時計は二時三十五分を指していた。演奏を終え、大きく息をついてから、二井は顔をあげた。目の前では暮河原が先ほどよりもさらに青ざめた顔をして、椅子に座っていた。彼の目の焦点は合っていなかった。その表情は、二井がいつもコンサートで客席の中に見る、聴衆が浮かべる表情と同じものだった。聴衆の中には戸惑いに似た表情を浮かべる者がいる。自分が今どこにいて何をしているのかさえ忘れてしまったような表情。
 暮河原は微笑もうとした。薄い頬の肉にいくつもの皺が浮かび、唇がいびつに歪んだ。それは笑顔にはとても見えなかった。
 そのとき二井はようやくそのことに気づいた。背を曲げ、膝の間にだらんと両手を置いた姿勢で椅子に腰かけていた暮河原の、その左の手首から、血が流れているのを二井は見た。血は暮河原の手首の全体を赤く染め、手のひらを伝い、指先から滴り落ちて、床の上に赤黒い小さなたまりを作っていた。彼の右手にはナイフが握られていた。
 二井は驚いて立ち上がり、暮河原のもとに駆け寄った。
「このまま死ねたらいいなと思ったんだ。素敵な演奏だったよ、これまでの人生で聴いた音楽の中でも、最高のものだったよ。こんな夜に、そして今の僕にふさわしい音楽だったよ。聴きながら、僕は宝石のような色の冷たいシャワーを浴びていた。世界は光と輝きに満ちていた。僕を取り囲んでいた闇は遥か彼方に遠のき、僕の肉体は、光り輝く飛沫を浴びながら、静かに腐食していった。いや、もっとずっと前から、とっくに腐っていたんだろうね。肉体も、そこに宿る魂も。それでも僕はあのとき、この上ない心地よさに包まれていた。世界には僕と、音楽のほかには何もなかった。それで十分だと思った。そう、他には何も必要ないんだよ」
 喋るのは止せ、と二井は言った。
「平気だよ、人間は、手首をちょっと切ったぐらいでは死にはしない」
 それから暮河原は高い声を立てて五秒間ほど笑い、またすぐに元の表情に戻った。暮河原の手からナイフが落ちて床に転がった。暮河原は突然立ち上がると、砂時計型の打楽器に歩み寄った。二井はその場に立ち尽くしたまま、動くことができずにいた。
 暮河原は血に濡れた左手を打面に乗せ、表面をこするようにして血を塗りたくった。時間をかけて、執拗なほど念入りに彼はそれを行った。不思議なほどその行為は、少しの音も立てなかった。彼の顔には表情と呼べそうなものは浮かんでいなかった。二井は濁った赤色が打面の上に少しずつ広がって行くのを黙って見ていた。やがて色は大部分を覆った。
 これでよし、と言って暮河原は手を離し、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ぜひこの楽器をライヴで使ってくれよ。それで僕は君の音楽の一部になれるんだからね」
 傷の手当てをしよう、と二井は言った。
「傷のことはもういいんだよ」と暮河原は言った。笑いをこらえているような言い方だった。
「でもそうだな、君の部屋をこれ以上血で汚すわけにはいかないね。悪いけど何枚かティッシュを取ってくれないかな? いや、ティッシュだけで十分だよ……ありがとう。ところでそんなことより、約束してほしいんだ。この楽器をどこかのライヴで演奏すると。ぜひ大勢の観客の前で、その楽器を鳴らして欲しいんだよ。僕の血を浴びた楽器をね。僕からの、最初で最後の頼みだよ」
 二井は無言で頷いた。
 暮河原はティッシュを巻き付けた手首を押さえながら、そのままふらふらと部屋を出て行き、二井はその後を追った。暮河原はダイニングの椅子に掛けてあったコートを手に取り、それを羽織って玄関へと向かった。二井はせめて血を洗い流すよう言ったが、暮河原は無視した。
 ドアを開けて廊下に出ると暮河原は振り向いた。
「ねえ、君の音楽はまさしく魔法のようだね。おかげで僕は活力を得た。とても元気なんだよ。今なら何だってできそうな気がする。自力でこの傷を治すことだってできるよ」
 二井には彼の言葉が冗談なのかどうかわからなかった。
 気をつけて、と二井は言った。暮河原は唇を曲げた。そして廊下を歩き去って行った。
 スタジオ部屋には砂時計型の打楽器と、床に広がった血と、そしナイフがそのままになっていた。黒い取っ手の果物ナイフは血に濡れていた。二井は雑巾で血を拭きとり、砂時計型の打楽器を物置に戻した。それからナイフを台所の水で洗い、引き出しにしまった。
 二井は浴室に入り、長い時間をかけて熱いシャワーを浴びた。そのあと寝室に行ってベッドに横になった。
 夜明けはまだ遠い。眠ることなどできなかった。二井は氷漬けにされたような気分でじっと目を閉じていた。冷気はいつまでも消えなかった。

 ろくに眠れないまま二井は朝を迎えた。顔を洗ってダイニングに入ったとき、彼はテーブルに置かれたままのUSBスティックを見た。その物体を目にして突然、二井は胸騒ぎと後悔に襲われた。昨夜、どうして自分は暮河原の応急処置さえせずに、あんなにあっさりと彼を帰してしまったのだろう。無理やりにでも病院に連れていくべきだった。救急車を呼ぶべきだった。暮河原の、あの苦痛と快感を同時に味わうような表情を思い出すと、冷気がまたよみがえる気がした。あの男はあれから無事に家に帰り着くことができただろうか? しかしあのときの二井は、暮河原と離れたい気分だった。二井はそのことを認めないわけにいかなかった。血を流しながら笑う暮河原と、二井は一緒に居たくなかった。
 二井は携帯電話で暮河原の番号を呼び出して電話をかけた。しかし電話はつながらず、留守番電話にも切り替わらなかった。何度電話をかけても、長々とコール音が続くばかりで誰も出なかった。
 二井は簡単に身だしなみを整えると部屋を出た。タクシーを捕まえて暮河原のアパートに向かった。十分後には二井は暮河原のアパートの前に立っていた。エントランスをくぐり、部屋番号を押してインターフォンを鳴らした。反応はなかった。時間をおいてもう一度同じことを繰り返したが、結果は同じだった。
 それ以上暮河原の行方を追う手立てはなかった。仕方なく二井は自宅に引き返した。

 その二日後、二井はテレビのニュース画面に、レンガ造りを模したアパートが映し出されるのを見た。暮河原のアパートだった。
 ――今朝未明、川崎市のアパートの一室で、女性の遺体が発見された。遺体は首に縄が巻き付けられており、また全身に暴行の跡があった。死後一週間以上経過したものとみられる。アパートの住人の男性は、行方をくらませており、警察では、重要参考人として行方を捜索中である――
 暮河原洋一郎の名前が画面に表示された。二井はテレビのスイッチを切った。

 年末の休暇に入ってからも、二井は一人で部屋に閉じこもっていた。何をする気にもならなかった。旅行にも行かず、島根の実家にも帰らず、楽器の演奏もせず、音楽も聴かなかった。部屋から一歩も出ることなく過ごし、そのまま一人きりで年明けを迎えた。二井はソファにもたれかかって、あるいはベッドに横たわって、暮河原のことを考えたり、死んでいった人々を思い出したりした。幽霊たちが現れて話しかけてきたりもした。二井は無言のもとに彼らをやり過ごした。
 いまだに二井は暮河原から託されたUSBスティックの中身を見ていなかった。それはテーブルの上に置かれたままになっている。それをパソコンに差し込むだけの行為が、どうしても二井にはできなかった。それを行うためには、身体中の力をみんなかき集めてもまだ足りないように思われた。
 一日のほとんどを二井は眠るように過ごした。あるいは実際に長い時間眠った。

 年が明けた。休暇の最後の日の朝のニュースで、二井はテレビ画面上に再び暮河原の顔を見出した。
 ……4日未明、多摩川近くの林の中で男性の首吊り死体が発見された。遺体は警察が殺人事件の参考人として行方を追っていた男性(29)のものとみられる。先月20日、男性の自宅アパートで、交際相手とみられる女性の絞殺遺体が発見されており、警察では男性の行方を捜索中だった。男性は自殺したものとみられ、手首には……
 二井はテレビを切った。そしてまたベッドにもぐりこんだ。

 ようやく二井がテーブルの上のUSBスティックを手に取り、それをコンピュータのUSBポートに差し込んだのは、一月の終わりのことだった。
 テキストファイルが一つだけ入っていた。タイトルは『仮面音楽の皮膚』、421キロバイト、最終更新日は12月20日午後10時54分。二井は画面に表示されたその日付と時刻をしばらく見つめていた。その日付はまさに、二井が最後に暮河原と会った日だった。午後10時54分。そのおよそ一時間後に、二井は暮河原の訪問を受けたのだ。
 ニュースによると、殺害された女性は発見された時点ですでに死後一週間以上経過していたということだった。つまりこの文書ファイルが最後に保存された時点では、女性はすでに殺されて死んでいたのだ。
 二井は想像した。死体があるアパートの一室で、コンピュータに向かい、すごい勢いでキーボードを叩きながら、小説を書き続ける暮河原の姿。彼は実際に見たかのようにありありとその光景を思い浮べることができた。

 長い間迷ったあとで、ファイルをダブル・クリックした。ソフトが起動してテキストファイルの中身が画面に表示された。二井の目は文字の塊をとらえた。二井はそれを読もうとした。しかしどれだけ時間をかけても、視線が画面の上をすべるだけで、書かれた内容は何も頭に入ってこなかった。黒々と画面を埋め尽くした文字の羅列は、二井には文字にさえ見えなかった。曲線と直線と点が入り乱れたわけのわからない図形の集合でしかなかった。二井は抽象画を眺めるようにそれを見つめた。それはとても清潔に見えた。もし手書きの原稿だったら、おそらくそこにはいろんな痕跡が残っていたはずだ。筆跡の乱れ、修正の跡、いろんな汚れ、そういったものが残っていて、何かしらを伝えたかもしれない。暮河原の感情の動きや、乱れや、他にも様々な情報を伝えたかもしれない。
 テキストファイルには何もなかった。清潔で機械的な一個のデータでしかなかった。
 そのまま一時間以上も、二井は画面に向かって、読むことを試みていたが、どうしてもできなかった。一行もまともに読めなかった。日本語を読む能力を失ってしまったみたいだった。
 彼が唯一読むことができたのは『仮面音楽の皮膚』というタイトルのみだったが、その言葉が意味するところはやはり謎でしかなかった。その一節はひどく奇妙で、意味が通らないように感じられた。二井にはそれが自分の頭のせいなのかどうか判断がつかなかった。

 やがて二井は諦めてソフトを終了させた。そしてパソコンからUSBスティックを引き抜き、机の引き出しの奥にしまい込んだ。

15

二井は音楽家として日々を送った。楽器の練習をし、作曲をした。誘われればどんなバンドのサポートでも引き受けた。それらの仕事は情熱のようなものとは無縁だった。ただ時間を潰すために音楽に取り組んでいるような気がした。生活の中に隙間の時間を生まないために、それを埋めるために演奏している。二井は相変わらず自分を機械だとみなしていた。
 しばしば夢に暮河原が現れた。どこかの部屋のベッドの上で暮河原と女が交わっている。暮河原は女の耳元に何か囁き、女は笑い声を立てる。やがて暮河原はどこからともなく縄を取り出し、それを女の首に巻き付ける。暮河原は両手に力を込め、縄は細い首に食いつき喉を締め上げる。女は身動きひとつしない。それどころか、忍び笑いのようなものを洩らしている。
 またある時の夢には、執筆中の暮河原が現われた。暮河原は仕事部屋でノートパソコンに向かって、キーボードを壊しそうなほどの勢いで怖ろしく早くキーを叩いている。彼の目つきは以前い路上で見かけたときと同じものだった。何かに追われながら同時に何かを強く追い求める者の目つき。その視線はパソコンのディスプレイばかりを向いているわけではなかった。彼はしきりにあちこちを見渡していた。誰もいない自室で、まるで何かの気配を感じようとするかのように。
 夢から目を覚ますたびに、二井は冷たい汗に全身を濡らしながら、何かひどく巨大なものの重みを背後に感じた。
 夢は二井に暮河原の行為を追体験するような気分にさせた。首を絞めて女を殺害したのは本当は自分だったのではないかと、真剣に考えることさえあった。何度目かの夢では、女の首を絞めているのは暮河原ではなく二井自身だった。女が息絶えたあと、彼は部屋を出て逃げ出そうとする。しかしすでに逃げ場などないことを知っている。
 
 ある日の夜中、二井は物置部屋に入った。そして暮河原と最後に会った夜以来そのままだった砂時計型の打楽器と向き合った。二井は椅子に座って目の前の楽器を観察した。楽器は美しく見えた。二井はあの冬の新潟の街角で初めて目にしたときよりもずっと強く、その美しさと精巧さに魅せられていた。確かに美しい、しかしどこかが、何かが間違っている、と二井は思う。この美しさはこの世にあるべき美しさではない。人間ではない別の生き物が支配する異界の美だ。何かの間違いで人間の世界に運び込まれてしまったものだ。
 二井は指先で打面をそっと叩いた。いつものようにその音は空気を震わせるとともに何者かの気配を呼びさました。暮河原の血をも吸い込んだその楽器が生じさせる不穏な気配は、今や混沌に満ちていた。魔界の獣たちが二井を取り囲んで騒ぎ立てていた。
 二井は何度か力任せに楽器を叩いた。それは音楽でも演奏でもないただの音だった。それらの粗野な騒音に囲まれながら、二井は自らの意識のずっと奥底にある沼のような場所に深々と突き刺さる、巨大な杭のようなものについて想像した。いや、それは想像ではなく確かに存在している。自らの内部に確かに存在している。それはすでに彼の一部だった。それも相当に重要な、ほとんど根幹をなすような一部だった。脳や臓器やそういったものと同じように一部だった。
 様々な人々の血で汚れながら杭は彼の内部に黒々とそびえている。自分はそれと共に生きてきたのだと二井は思った。その杭は彼のすべてを象徴し体現していた。もし何らかの力のようなものを自分が持っていたとしたら、それはその杭がもたらしたものだった。不浄で、忌まわしい力だとしても、自分はそれと共に生きてきたのだ。あまりに長い間自分がそれに多くを負ってきたことを二井は思った。
 兄が死んで、俺がドラムを叩くようになったとき、あのときから、あんたは俺の中にいたんだろう。いつしか二井は、その内なる杭に向けて、声に出して語りかけていた。実際に彼の目の前にあるのは砂時計型の打楽器だけだった。
 あの日、吸い寄せられるようにドラム・セットに近寄って、最初の音を鳴らした時、明らかに何か自分の力を超えた何かが、俺を動かしていたよ。そうだ、俺は操られていたんだ 操られて、人形みたいに踊らされていたんだ。俺はあんたの力に対して自分の意思では抵抗できなかった。ねえ、そうだ、俺はただの操り人形みたいなもの。踊りたいわけでもないのに、半ば強制的に踊らされ続けていた。あんたが俺を操っていたんだ。
 俺は抗うことも出来ずに音楽にのめりこんでいった。のめりこまされていった、と言うべきだろうか? 俺はあの頃の、自分の意識が追い付かないほど急速に演奏が上達していく感覚を、今も覚えているよ。目もくらむような気分だったよ。その感覚は、もともと俺の中にあった才能とか、能力がもたらしたものではなかった。今ではそのことがわかる。何か別の力が俺に働きかけていたんだ。俺が一度も欲したことのない、想像したこともなかったような、そんな力だった。どこかよそから俺の中に運び込まれた力だよ。俺はそんなの欲しくはなかった。あんたが俺に押し付けたんだ。欲しくもないその力をね。たぶん俺はもっと平穏に生きたかったんだ。
 でも俺はいつしか音楽を職業にして生きる人間になっていた。年月が経過するほどに、あんたの呪いからは逃げられなくなった。呪いが中心となって俺の人格は形成されていた。人が俺について才能と呼ぶものの多くは、あんたに負っていた。そのことを拒みたくてもできない。俺には拒否する力もなく、その資格もなかった。たくさんの人たちが死んでいった。みんな大切な人たちだったんだよ。誰一人として、俺がその死を願った人なんていなかった。俺は死に出くわすたびに死者から何かを奪い取った気がしていた。あんたはそれを養分にして、俺の内部でますます肥え太っていった。ますます力を増していった。ますます俺はあんたから逃げられない。閉じ込められている。
 もうとっくに手遅れな場所にまで来ているんだろうね。あんたを否定することは、自分のすべてを否定することに他ならないからね。そういう状態にまで到達してしまった。でももういい。俺はもう止めにした。どうなってもいい、これ以上誰も死なせたくないんだ。
 あたかもそれが彼の内部に突き刺さった杭そのものであるかのように、二井は砂時計型の打楽器と向き合い、それをでたらめに叩きながら、それに語りかけていた。
 ねえ、俺は今からお前を壊すよ。二井は言った。これ以上は付き合いきれないんだ。俺はもう引きずられるのも操られるのも嫌なんだよ。壊したところで、呪いが消えてなくなるわけでも、死んでしまった人たちが生き返るわけでもないだろう。それでも俺は壊すよ。それは一種の決意表明のようなもの、あるいは区切りみたいなものだ。区切りというのは必要なんだ。なぜならどんな楽譜にも終止線はあるんだからね。破壊という行為は、区切りとしてぴったりのもののように思える。だから俺はそれをやるんだ。あんたを壊してみたい。俺はもうじゅうぶん、そのことについて学んだからね。
 二井は言葉を切った。自分が口にした「そのこと」が何を指すのかは自分でもわからなかった。
 物置部屋の隅に置かれた工具箱から、二井は鋏やのこぎりといった道具を取り出した。それから部屋を出てダイニングに行った。暮河原が残した果物ナイフは、食器棚の引き出しにしまわれたままだった。二井はそれを手に取り、再び物置部屋に戻った。
 砂時計型の打楽器の前に立ち、息を吸って吐きだす。二井にはこれまで故意に楽器を壊した経験などなかった。そんなことは思いついたことさえなかった。
 二井は果物ナイフの先端を砂時計型の打楽器の打面の皮に当てて直線を引くように滑らせた。ほとんど力を入れる必要もなく、固く張った太鼓の表面に細長い楕円形の穴が開いた。穴の隙間から暗い空洞が覗き、二井は微かな血の匂いを嗅いだ。そして自分が後戻りできない領域に足を踏み入れたことを思った。
 側部に張り巡らされた赤い紐を鋏で切り、打面の皮を引き剥がした。二井はその皮を両手に持って目の前に掲げてしばらく眺めた。中心に裂け目が走った円形の薄い皮の表面は暮河原の乾いた血で黒ずんでいる。八杉の血の汚れもまだ残っているかもしれない。その他にも多くの血をそれは吸い込んで来たのだ。もちろん二井自身の血も。二井の所有物となる前からも、多くの人たちが自らの血をその楽器に分け与え(二井は古道具屋の店主が語ったその話を今では疑っていなかった)、そしてみんな死んだ。楽器に血を捧げたものの中で、今も生きているのは自分ひとりしかいない。
 二井は両手で皮を引き裂いた。ほとんど音もなくそれは二つに分かれた。切れた皮をさらに鋏で細かく切り、跡形もなくずたずたにした。破片は床に散らばった。
 二井はのこぎりを手に持ち、砂時計型の打楽器を床に横たえて、その木材の真ん中のくびれの部分に刃をあてがって動かした。丁寧に、最小限にしか力を込めることなく、ゆっくりとのこぎりを前後させながら慎重に切った。乾いた音が物置部屋に響いた。楽器は中心から切断されて二つの円筒形の木片に変わった。二井はそれらの円筒の真ん中から直角にのこぎりを当て、それぞれを半分に切った。
 床の上には、もはや打楽器ではなくなってしまった四つの木の切れ端が転がっていた。それほどの重労働でもないのに、二井はすでに肩で息をしていた。四つの木片をさらに切ろうとしたが、そのとき身体が震えはじめた。いや、作業をはじめたときからその震えは起こっていたのだ。彼はそのことに気付いてはいたが、これまでどうにか押しとどめていた。しかし次第に激しくなる震えは、今や制御できないものになった。手が大きく震えて、のこぎりの刃先が上下左右に揺れた。木片に刃をあてがうことさえ困難になった。
 身体の外側だけでなく、内臓も脳も震えているような気がした。自分は本心では作業を中止したいのかもしれない。その震えは、まるで二井の肉体が二井の意思に対して、中止を訴えかけているように感じられた。指先は冷えて、全身がおびただしい汗で濡れていた。
 それでも二井は止めるつもりはなかった。二井は道具を使うことを諦めた。ナイフものこぎりも床に放り投げて、自分の手と足を使って破壊を続行することにした。床に転がった木片を足で踏みつけ、両手で殴ったり引っ張ったり、壁にたたきつけたり、場合によって歯で噛んだりもした。四つの木片は細かい破片に変わった。
 大きく脈打つ心臓の音が銃声のように響いていた。汗は流れ続け、身体は震え続けていた。二井はひどく興奮し、そして何かを深く怖れていた。途中何度も手を止めて、鳥のように首を素早く動かして室内を見回した。そこには何もない。物置部屋にはがらくたしかない。古本や古雑誌、昔買って今は聴かなくなったCDやレコードやカセット・テープ、不要になったのになぜか捨てずにとっておいた家具、そういったものがあるばかりだった。誰ももいるはずなどないのに、二井は絶えず周囲に何かしらの気配を感じていた。彼は恐怖を誤魔化すために、何度か叫びさえした。
 この行為は殺人に似ている。死体を切り刻むような嫌悪と興奮を覚えながら、二井は楽器を切り刻み、叩き潰し、跡形もなく木っ端みじんにした。いや、それはあるいは殺人よりずっと深刻で重大な行為かもしれない。一つの美しい楽器、美しい音色を鳴らす楽器をこの世から失わせてしまった。それが殺人に比べて罪深くはないなどと、どうして言えるだろう。
 禁じられた悪事にひとり溺れるように、しかし背徳のもたらす快楽も優越もなく、二井は楽器を損壊した。ときどき死者たちが現れた。兄、山瀬雪乃、八杉、見知らぬ女、そして暮河原。彼らは二井の目の前に浮かび、しばらくとどまった後で消えて行った。何か話しかけられたような気もするが、二井には聞き取れなかった。
 すべてが終わったときには夜明けが近づいていた。二井は床に散らばったかつての砂時計型の打楽器の残骸を眺めた。皮も木材も、ほとんど粉末に近い状態に変わり果てていた。それらがかつては楽器を構成する部品であったことをうかがわせる痕跡はどこにも残っていなかった。
 二井は床のあちこちに向けて落ち着かない視線を投げながら、物置部屋の床をうろつきはじめる。がらくたの陰を覗き込んだりもした。まるで室内のどこかに隠れている何かを探し回るように。二井が探していたのは、あの金色のかたまりだった。必ずそれは今この部屋のどこかに潜んでいる。そうでなくてはならない。再びあれの姿を見ることができたら、きっと自分は救われる。二井はそう考えていた。
 しかし金色のかたまりは見つからなかった。そんなものはどこにもなかった。その代わりに物置部屋にあったのは、どこからともなく漂う重い血の匂いばかりだった。楽器を破壊しつくした後でも、その匂いは薄れるどころか、むしろ強くなっていた。二井は立ち込める血の匂いの中で探し続けていたが、やがて望みを捨てた。道具も破片もそのままにして部屋を出た。
 かつて経験したことのない疲労を覚えていた。身体の震えは止まらなかった。二井は浴室に行ってシャワーを浴び、石鹸を使って全身を時間をかけて洗い、熱い湯に浸かった。
 着替えて台所に入り時計を見ると午前4時47分だった。まだ山瀬雪乃が愛した時間帯の内側にいる。もちろん眠気など感じなかった。
 二井はコーヒーの入った湯気を立てるカップを持って、部屋で一番大きな窓のそばに立った。夜が明ける直前の時刻の街並み、遠くにある青白い雲、冷たい空気に包まれた冷たい色の建物、見慣れたその景色は今、二井の目にはどこか奇異に映った。意識が現実に対してうまく適応できていない。ピントの合っていないぼやけた映像を見ているみたいな気がした。カメラマンがわざとぼやけさせて撮影したのだ。それほど苛立たせる映像もない。しかし今の二井は、そんな違和感に対して特に何も思わなかった。彼はずっとピントの合わない風景を見つめ続けた。ずっとぼやけたままでいいと思った。俺はこのままでもきっと生きていくだろう。コーヒーを飲もうとすると、まだ続いていた震えのために歯がカップに当たって、かちかちと音を立てた。
 やがて建物の群れと空との境目が金色に光りはじめた。二井は失われた打楽器の姿を思い出そうとした。しかしあれほど強く惹きつけられ、数えきれないほどの音を共に生み出したにもかかわらず、彼は何も思い出せなかった。形も、音色さえも思い出せなかった。
 悪いね暮河原、あんたとの約束は守れない。あの楽器を演奏することはもうできない。楽器はなくなってしまった。『黄金のアモルフィ』はもう永遠に、誰の耳にも届かない。
 二井は時間をかけてコーヒーを飲み干した。眠ったのは正午近くになってからだった。

16

二井は毎日ひたすら機械として無感動に無機質な音を鳴らすことに徹した。演奏することは今の彼にとって何の刺激も興奮ももたらさない文字通りの作業でしかなかった。生活を維持するためだけに二井は音楽活動を続けた。単独のコンサートを行うことはなくなった。
 宗教のように二井の音楽を崇拝していた人々に、あなたたちは間違っているのだ、と言って回りたい気がした。俺の音楽には何の力もないんだよ。解脱も法悦もない。ただの音の羅列に過ぎない。時々複雑だったり、テクニカルだったりするだけで、本質的に重要なもの、マグマのようにたぎるものなんてどこにもない。山瀬雪乃が深淵の赤い裂け目と呼んだものを俺は知らない。きっとそこまでたどり着けなかったんだ。彼女が下りて行った場所まで僕はたどり着けなかった。自分はあなたたちを欺いていたのだ。俺はただ操られていただけだった。
 幽霊たちは二井のそばから去らなかった。二井は彼らの出現を待ち望むようにさえなっていた。二井はいろんな場所で、そこに現れた兄や山瀬雪乃や八杉と言葉を交わした。暮河原の霊だけはなぜかいつも物置部屋に現れた。 
 かつて二井は自分の技術が衰えることを恐れたものだった。練習を欠かすことに対して恐怖に近いほどの不安を抱いていた。そのために透明ドラミングまで身につけたのだ。今ではすべてがどうでもいいと思う。二井はもう個人練習を行わなかった。もちろん練習を怠れば楽器の腕前はみるみるうちに衰えていく。苦労して身につけた高度な技術も一日さぼるだけで鈍ってしまう。何日も怠ればどうなるかは言うまでもない。しかし今の二井はもう何とも思わなかった。
 演奏が下手になっても、音楽家として駄目になったとしても構わないと思った。砂でできた城が、波が打ち寄せる度に崩れて台無しになってゆく光景を、二井はよく思い浮かべた。今さら何をしたところで手遅れだと感じることが増えた。作曲もしなくなった。
 歳月とともに拡張を続けてきた彼の頭の中の透明ドラム・セットもまたある日崩壊した。架空のセットを構成していた架空の楽器が一つずつ失われていった。装飾的な打楽器が消え、民族楽器のコレクションが一つずつ廃棄され、数えきれないほど並んでいたタム・タムやシンバルが、一つまた一つと減っていった。二井が兄から受け継いだものよりさらにシンプルな、必要最低限の楽器しかないセットに戻った。そこからさらに楽器は減ってゆく。タム・タムが消え、スネアが消え、フロア・タムも消えて、バス・ドラムも、ハイ・ハットもなくなった。二井は一つずつ内臓を持ち去られるような感覚を覚えた。しかし崩壊を止めることはできない。
 最後に残ったのは一枚のシンバルだった。彼は山瀬雪乃のことを思ったが、そのシンバルもすぐに消えた。
 すべての透明な楽器が跡形もなく消滅した。かつて透明ドラム・セットが占めていた場所には、ただの空白が残った。

 二井は機械的に仕事をこなしながら数年を過ごした。幸か不幸かスタジオ・ミュージシャンとしての仕事は途絶えなかった。どんな音楽ジャンルにも対応できるドラマーとして、依然として二井は重宝されていたのだった。日に日に演奏技術が衰えつつあることを、二井は自覚していたが、周りの人間にそのことを指摘されることはなかった。ミュージシャンとしての二井に対する評価は高いままだった。
 オフィス・ビルのようなマンションに住み続け、家賃と税金を払い続け、基本的に誰とも深く関わることなく、二井は人生をすり減らすように生きた。
 
 恐竜族が解散してから五年が経った頃、光村から連絡があった。一日限りの恐竜族の再結成ライヴの誘いだった。舞台は京都で行われるフェスティバルで、主催者はかつて恐竜族の熱心なファンだったという。ライヴはヴォーカル抜きで行う予定だということだった。
 その手の誘いはそれまで断り続けていたのに、二井はその招待を受けた。その理由は単純なもので、ただ彼は久しぶりに光村とベーシストに会いたかった。音楽家としてのピークを共に過ごした、今もまだ生きている人たちに、彼は会いたいと思った。

 夏の京都で、二井は光村とベーシストに再会した。光村は現在多くの映画音楽を手掛ける作曲家として活動している。いくつかのテーマ曲が有名になり、彼の名前はバンド時代よりも広く知られるようになっていた。極端に個性的な作曲のスタイルは変わることなく、以前よりさらに洗練されていた。どんなジャンルや編成の曲でも、どんな音色や楽器を使っていても、光村が作る音楽には署名が刻まれている。一見場違いな音だらけのようでありながら不思議と流麗に響く和声、自然な展開を拒み、期待を裏切り続けながら進行するひねくれたメロディー。
 光村は近々結婚する予定なのだと言った。二井はそのことを祝福した。
 ベーシストは今も例のプログレッシヴ・アコースティック・バンドでベースを弾いている。最近では詩集を出版したそうである。彼はバンド解散後も詩を書き続けて、めでたく本当に詩人になったのだった。二井は彼が書いた本を受け取った。容姿は出会った頃からほとんど変わっていない。痩せた身体も顔色の悪さも腰まで伸びたまっすぐな髪の毛の黒さも昔のままだった。加齢によって容姿が衰えたり変化したりすることを彼だけ免除されているみたいだった。
 二井がベーシストと言葉を交わした回数は、恐竜族として共に活動した歳月を考えると、驚くほど少ないはずだが、それでも二井は彼のことを信頼していたし、人間的にも好感を持っていた。控室でヘッドフォンをつけて椅子に座って足を組み、一心不乱にベースを弾く彼の姿を見て、二井は懐かしい気持ちになった。
 私生活については、依然としてベーシストは何も語ろうとしない。
 リハーサルで音を鳴らすと三人ともすぐに昔の空気を取り戻した。二井は彼らが今も生きていることについて、何かに感謝したい気がした。演奏しながら、二井は自分の左手の甲を見た。いつもそこにあった傷跡は、今はもう癒えつつあった。

『仮面音楽の皮膚』

終わり

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