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部屋の中の3つの色

第1部 灰と鉄の街

1. 午後の埃

 

 最初に埃があった。赤ん坊のころ、ゆりかごに寝転がって、空間を舞う埃を見つめていたときのことを僕は覚えている。まだ小さな手を、僕は埃に向かって伸ばした。その頃から僕は埃について知っていた気がする。「埃」という言葉を覚える前から、ほとんど目にも見えないその微小な物体について、漠然とした知識を備えていた気がする。僕という人間はどうやら、埃を眺めるという行為から出発したらしい。

 部屋には光が満ちていた。埃はその光とまじりあいながら空間を漂っている。日曜日の午後の部屋でひとり、ベッドの上で赤ん坊のころと同じ体勢で横になって埃を眺めていると、肉体が腐敗する音が聞こえる。それは内臓と骨と皮膚の隙間から響く。ゴロギュウルルグロギュウルウル。それは木が折れたり、地面が揺れたり、高波が岩に砕けたりするような、そんな音だった。腹の中で暴風が吹き荒れているみたいだった。嵐、台風、かまいたち、ハリケイン、そういったものが僕の腹の中で吹き荒れていて、轟音を響かせているのだ。どういうわけかその音はこんな日曜日の午後にしか聞こえない。嵐たちは普段はどこに潜んでいるのだろうと僕は不思議に思う。しかし嵐というものは、人間にはコントロールできないものなのだ。それこそが嵐の最も良い点で、また僕が最も愛している性質だった。だから体内の嵐たちもまた僕のコントロール下にはない。それらは勝手気ままに暴れまわる。そしてその音色は、日曜日の午後のための効果的な背景音楽となる。

 長い時間をかけて埃は光をまといながら落下した。赤と青と黄色、まるでモンドリアンの絵みたい。あの三原色が白い壁を背にして部屋のあちこちで降る。色は目まぐるしく変化する。青に近い黄色、赤に近い緑、黄色に近い青、いや、僕は正確にはその色を認識できない。色は一瞬にしてすぐに別の色に変わってしまう。ある色を認識したときにはすでにそれは過ぎ去っている。どこからともなく部屋に差し込む神秘的な光が、そんな目もくらむような変容を可能にするらしい。気がつくと名前も知らない不思議な色が部屋中に満ちて降り注いでいた。そんな色彩の氾濫は日曜日の午後の部屋にしか生じない。そのさまはどれだけ眺めても見飽きることがない。僕は色の変化に目を奪われて動くことさえできない。

 どうしてみんなこの楽しみに目を向けないのだろう? 人々は混雑したデパートで買い物をし、わけのわからない愚劣なアトラクションのために行列を作り、騒々しく不衛生なカフェテリアで添加物だらけの食事をとる。そんなことをするくらいなら、埃を眺めていたほうがずっとましだというのに。ベッドに寝そべって、舞い散る埃をただ見つめるだけで、誰もが異なる世界に、あるいは宇宙に、あるいは遠い過去に、アクセスできるというのに。僕は太古の夢を見ていた。それはそのときは鈍色にきらめいていた埃がもたらした幻想。ジュラ紀だか白亜紀だか、とにかくわけがわからないほどの大昔、恐竜たちが台地を闊歩し、翼竜が原生林の上空を飛び回っていた。無添加の混じりけのない水色をたたえた空の色、穢れのない清浄な雲、そして噴火する火山と流れ出るマグマ。ジュラ紀の日曜日の午後、恐竜たちは暴れていた。地面を揺らしながら駆けまわり、咆哮し、湖に飛び込み、岩壁や森の木々に体をぶつけた。火山が彼らの何かを刺激している。しかしそれもまた彼らの日常である。地球が誕生して以来、幾度そんな日曜日が繰り返されたことだろう。恐竜たちにとっても日曜日は特別だったに違いない。

 光が寝室の床を斜めに区切っていた。その三角形の影の上でも埃がちらちらと揺れていた。僕はどこにもプテラノドンなどいないことを確かめた。ステゴサウルスもブロントサウルスもいない。視線は部屋の隅の、室内で最も暗い部分に向いた。そこでは一つの黒い塊がもぞもぞと動いていた。それは女の形をしていた。見慣れた姿かたちをした女、やがて僕はヒユのことを思い出すのだった。どこかをさまよっていた意識はようやく僕のもとに戻ってきた。

 横から見た彼女のシルエットはどことなく、曲がった釘の形に似ている。鏡の中の彼女のほうがどういうわけか痩せて見える。光の加減か何かのせいだろうか? 女は頬にパフを当てていて、釘に似た黒い塊もまた同じ動きをしていた。

 起きたの、と女は言った気がした。つまり唇がその言葉を発する形に動いた。

「夢を見ていたんだ」

「そりゃあ見るでしょう。珍しくもないわ、夢なんて誰でも見るわよ」

「恐竜がでてきたんだよ」

「へえ。……内容までありふれてる」

「今日も仕事?」

 どういうわけか女は答えない。黒い塊もやはり答えない。僕は寝そべったまま、両手を顔の前にかざし、手のひらを何度かゆっくり開いたり閉じたりした。そうやって自分の手のひらをしばらく見つめていた。その行為に大した意味はない。目覚めた直後にいつも行う儀式、というわけでさえなかった。

 化粧を終えた女が椅子から立ち上がった。僕はカレンダーに目をやる。今日の日付のところにも、ちゃんと黒いマジックで✖がつけてあった。彼女は毎日そうやって一日ずつ✖をつけるのだ。

「今日のお客はお得意様なの」と彼女が言った。「食品会社の支店長なの。おそろしく気前がいいのよ。あのお金の払い方は、単なる下心じゃないわ。私にお金を与えることそのものが、きっと喜びなのよ。誰もあんなふうにはお金は使えないわ」

「怖いんだよ。そいつは怖がりなのさ。他人に惜しみなく与えることのできるものが、お金しかないんだよ」

 ヒユは高い声で笑った。どこかで鳥が鳴いたのかと思わせるような声。

「彼はあなたとは何から何まで違うわ。あなたとはきっと決して理解しあえない種類の人物だと思うわ。世の中にはいろんな人がいるのよ。あなたには想像もつかないような価値を基準にして生きている人だってもちろんいる。それもたくさんいる。あなたはそうやって何でも知ったような気になって、何もかもに飽きて退屈しきったような顔をして、何だろうと自分の想像を上回るものなどないって、なぜか信じているみたいだけど、世の中ってあなたが思っているより複雑だし、多様なのよ。謎に満ちているのよ。あなたは何もかもみんな見てきたような顔をして生きているけど、そんなのただの勘違いだよ。あなたはあなたに想像可能な範囲の内側で充足しているだけ。外側にあるものには、ひたすら目を背けている。見て見ぬふりをしている。それだけのことだよ」

 隅の暗がりからそんな言葉は響いていた。僕はその間ずっと、自分の両手を開閉する作業を続けていた。すると誰かが大きく息をつく音が聞こえた。

「行ってくるわっ」少し後で女はそう言って立ち上がり、バッグを掴んで部屋から出て行った。 

2. 嫉妬

 

 ヒユが出かけてしまって、僕は一人になった。僕はベッドから降りて床に掃除機をかけた。それはほとんど意味のない行為だった――なぜなら数時間前に僕はヒユが寝室に掃除器をかけるところを見ている。彼女は綺麗好きなタイプではないはずだが、ときどきそうやって思い出したように掃除をはじめたりする。

 それでも僕は掃除機をかけた。入念に、隅々まで。何となくそうしたい気分だった。満足するまでひとしきり掃除を行った後、掃除機を部屋の隅に立てかけてから、何気なく鏡台を見た。ヒユが先ほどまで腰かけていた鏡台。そこにはいろんな形をした道具が、コース料理で使う食器みたいに整然と並んでいる。ヒユは他のところは大雑把なのに、鏡台の上だけはいつも綺麗に整頓していた。いつ見てもそれぞれの道具の位置にはほんのわずかなずれもない。そしてヒユは毎日それらの道具を使って、正確に同じ手順を踏んで化粧を完成させるのだった。

 そのさまを見ながらいつも僕は半ば感心し半ば呆れることになる。とても僕にはあんなことはできない。しかしヒユにとっては化粧という行為そのものも、そのための道具を整然と鏡台に並べることも、どうやら何の負担にもなっていないらしい。

 僕はカレンダーを見る。ヒユが×印をつけた11月27日を見る。僕のほうには何の予定もない。今日も、明日も何もない。僕がこれからするべきことといえば、ヒユが帰宅する明け方の時刻に合わせて食事を用意しておくことだけだった。それと洗濯や掃除といった些末な家事。そんなものは予定とは言えない。だから日付は僕にとって基本的に用をなさない。

 ヒユがカレンダーに✖をつけるところを、僕は実際に目にしたことがない。彼女はいつも僕が眠っている間にそれを行っているらしい。11月のカレンダーにはすでに27個の✖が書かれている。ちょっとした迫力のある眺めだった。僕はヒユにそうする理由を尋ねたことはない。初めてカレンダーに×がついているところを見つけたときにも、特に驚きもしなかった記憶がある。むしろ自然なことだと思った。

 食品会社の支店長――それはいったいどんな人物なのだろう。食品会社の人間が女を買う、金で女を買って性交する、そうしたことが僕には理解できない。想像もできない。想像することを避けているだけだろうか? 自分でも意識しないうちに。僕はヒユがさっきその人物について語ったときに、何らかの反応を示すべきだったのだろうか。僕の無反応がヒユを苛立たせてしまったのかもしれなかった。しかし僕の嫉妬心は長らく死んだままである。

 昔は僕も人並みに嫉妬していたはずだった。優れた容貌、優れた家柄、優れた頭脳、優れた経済力や優れた才能、そうした自分の持たない、あるいは自分よりずっと優れた特質を備えた人に対して、凡庸な嫉妬を覚えていた。それなのにいつしかその感情は消えてしまった。

 つまりあるとき僕は悟ったのだ。自分が心から欲する唯一のものとは、他人が決して持っていないものだということ。僕が欲するものを持つ人はこの世に存在しない。どんなに優れた性質であろうと、どれだけ世間的に高い価値を認められた要素であろうと、そのどれも、僕が本当に欲するものではない。僕という人間にとって必要なものではないのだ。僕は、世界で僕一人にしか見つけられないある「何か」を欲していて、それを手にしうる可能性を持つのは、世界にただ一人しか存在しない僕という人間のみなのだ。それは僕にとってのみ意味と価値を持つもので、他の誰にとっても無用なものでしかない。僕が欲するものとは、他人が決して持ちえないその「何か」だけなのだ。だとしたら、どうして他人に対して嫉妬なんてしなくてはならないのだろう。そうやって僕は嫉妬と無縁になった。

 僕が欲するその「何か」とは何なのか? それについては、いまだ僕は明確に言語化できていない。そして今述べたようなことが、僕の嫉妬心の欠如について本当にすべてを説明できているのか、そのこともわからない。あるいはほかにも理由はあるのに、僕がそのことを自覚できていないだけなのかもしれない。

 いずれにしても現在の僕は何にも嫉妬しない。嫉妬という感情は死んだまま、今のところ息を吹き返しそうな様子もなかった。ヒユが得体の知れない食品会社の支店長に抱かれる場面を可能な限り詳細に想像しても、僕の心は痛みも苦しみも覚えない。

3. 『花園シネマ』

 

 今日こそは街を出てゆく。ヒユのもとを去って、よその土地で一人で新しい生活を始める。何度そんなことを思ったか? そしていつものようにそんな「脱出」の可能性について考えながら、僕はマンションを出て、夕方の街を歩きだしていた。僕とヒユが二人で暮らす15階建てのマンションは小さな交差点の一角にそびえたっている。そびえたっていると言っても言い過ぎでないほど近隣においてはひときわ高い建物なのだ。花壇に囲まれたエントランス。ゆったりとした駐車場。細く濁った川が近くを流れ、歩いて五分ほどのところに小規模のショッピングモールがある。僕には逃げ出すことなどできない。僕がそんなマンションに暮らすことができるのもヒユのおかげなのだ。僕はときどきアルバイトをする。ティッシュを配ったり、映画館でジャンクフードを売ったり、深夜のデパートに荷物を搬入したりするが、得られる収入はヒユと比べるとほとんどなきに等しい。僕の収入だけでは10万円の家賃を払い続けることなどできない。そして最近では、僕はそうした労働からも遠ざかっている。

 十分ほど歩いて、僕は『花園シネマ』の前に立っていた。それはいわゆるシネマコンプレックスではなく昔ながらの小規模な映画館である。潜水艦の窓みたいな丸い窓が壁に二つあるが、その窓は深緑色をしていて、中の様子はまるで見えない。だからそれはほとんど窓にも見えないのだった。建築設計者が気まぐれで付けた思い付きの飾りだと思えなくもない。その建物は周囲のうらぶれて薄汚れた風景と完全に同化し埋もれてしまっている。灰色の壁面に銅色の字で『花園シネマ』と書かれてはいるものの、映画館にはまず見えないし、見えたとしても営業していると思えない。もしこの映画館のうわさをどこかで聞きつけてよそからやって来た人がいたとしても、よほど注意深くない限りは、目の前を通りかかっても気づかずに通り過ぎてしまうだろう。ひたすら何かに怯え続けてビルとビルの隙間でうずくまったまま死んでいった臆病な動物の死骸みたいな映画館なのだった。

 入り口の前の看板に、今月の上映中の作品リストが提示されていた。11月のラインナップは『ゴースト』『森』『渦巻』の三本だった。いずれも聞いたことのない題名の映画だった。入り口の横に四角い小窓があって、それがチケット窓口である。そこにはいつも、団子のように太った醜い女のスタッフがいる。僕がチケットを買うとき、その女はいつどんな場合でもひどく不機嫌そうだった。おそらく女は僕のことを憎んでいるのだろう。そんな気がしてならない。僕はいつもその女に千円札を手渡してチケットを購入する。とにかく彼女はひどく醜い。目と鼻は分厚い顔の肉の中にほとんど埋もれているし、長く伸ばした髪の毛がわかめみたいにいつも両肩にぞんざいに落ちている。化粧にもファッションにも明らかに何の関心も払っていない。首にたっぷりとついた肉にはだらしない皺が何本も走っている。もし彼女が痩せることができたとしても、その皺だけは消えないのではないかという気がする。それほどに深く刻まれた皺なのだった。それほどまでに醜い人間が、いつも不機嫌そうに見えるのは、ある意味では当然かもしれない。もし僕があの容姿だったら、きっと世界のすべてを憎むだろう。だから彼女が僕を憎んでいたとしても無理もないことなのだ。そう考えると彼女に同情しなくもない。そしてその同情のために、彼女がどれだけ不愛想で失礼でも、チケットを投げつけるように渡されても、彼女を許してもよい気になる。それどころか彼女を愛おしく思うことさえある。世界には美しい人も醜い人も含めていろんな人がいる、という事実をあの女は思い出させてくれる。すべての生命を祝福し、慈しみたくなるような、そんなほとんど博愛的といってもよい気分になるのだ。

 入り口の扉をくぐって中に入ると狭いロビーがある。正面には上映室へ続く大きな扉があり、フロアにはプラスチック製の駅のホームにあるような椅子が背中合わせに六脚設置されている。ハンチング帽をかぶった男性がひとり、隅の一脚に腰かけているだけで、ほかに客の姿はなかった。僕もまた椅子に座って上映室の扉が開くのを待った。館内は狭く薄暗くて何もかも古く色褪せてはいるが、清潔に整頓されていて、なぜか不思議なほど居心地が良い。今はもうどこにも残っていない古い時代の生活の空気のようなものが、この映画館にはまだ残っているような気がする。

 『花園シネマ』にはスクリーンは一つしかない。ラインナップの作品が、それぞれ一日に三度ずつ、立て続けに上映される。一枚のチケットで、建物の外に出ない限りは、何度でも見ることが許されている。上映作品はたいてい、一般には知れ渡っていないマニアックな作品ばかりで、それらは館長が自ら選んでいるらしい。そして館長の審美眼は確かなものだった。僕がこれまで『花園シネマ』で観た映画の中で、退屈だと感じたものはほとんどない。これはなかなかちょっとしたことだ。だから僕の館長に対する信頼はほとんど絶大なものである。もっとも僕はこれまで一度も館長の姿を見かけたことがない。そんな人物が本当に実在するのか、疑わしい気さえする。

 とにかくそんな映画館なので、どんなに外観がうらぶれていても、チケット売りの女が醜く不愛想であっても、好きになる人はとことん好きになって頻繁に足を運ぶようになるのだった。もちろん僕もそういう一人である。

 僕はその日は『森』と『渦巻』を観た。『森』はホラー映画で、『渦巻』はSF映画だった。『森』の主人公は犬に追いかけられるうちに森にたどり着く。隠れ場所を求めて森に入るが、そこでもまたありとあらゆるもの(生物/非生物、実在/非実在を問わず)に追いかけられて、さらに森の奥のほうへと迷い込むこととなり、最終的には簡単に言うと破滅する。救いのない絶望的な映画だった。その救いのなさには滑稽ささえ感じられる。

 『渦巻』は宇宙のどこかにある渦巻状の星雲の中で暮らすあるカップルの生態を描いたノンフィクション映画といった体裁をとっていた。タコとフクロウの合いの子のようなすこぶる愉快な形状をした生物のカップル。どちらが男で女なのかもわからない。彼らの星が突如発生した宇宙渦巻に巻き込まれてしまう。星はほとんど壊滅する。暴風が吹き荒れ、建物は倒壊し、あちこちで火柱が走って爆発が起こり、空から岩塊が降ってくる。多くの同胞が死にゆくなか、その終末的な世界でカップルは生き延びるために必死の努力を続けるが、最後にはついにどうしようもないやはり絶望的な状況に置かれてしまう。そして二人は来世での再会を約束しながら死ぬ。

 その映画が終わったのが夜の八時で、僕は空腹を覚えていた。あとの一本も観ようか迷ったが、結局あきらめて映画館を出た。

4. 夜明けの紫

 

 大声をあげる居酒屋の客引き、無表情に、あるいは笑いながら歩き去る人々、色とりどりのライトやネオン、代り映えのしないいつもの夜の都市の中を歩きながら、僕はなぜかずっとあの醜い女のことを考えていた。彼女と一緒にこの街を出て、どこか遠くの土地へ逃げ出すことを想像していた。そんなことを考えてしまったのは、いささかロマンチックな作品でもあった『渦巻』の余韻が尾を引いていたせいかもしれない。あの主人公のカップルは滅びゆく星と運命を共にする。映画の中では死は美しいものとして描かれていた。彼らは最後にごく控えめに少ない言葉を交わし、宇宙空間に投げ出されて宇宙の塵と化すのだった。僕はそのラストシーンに言い知れぬ感動のようなものを覚えていたことに気づいた。どうやらそこには、僕に共感を抱かせずにはいられない何かがあったものらしい。

 しかし僕がどれほど感情移入してしまっていたとしても、ロマンチックな夢想をするのだったら、その相手は醜いチケット売りの女などではなく、一緒に暮らしているヒユであるべきはずだった。あんなに醜い女の出る幕はどこにもないはずだった。どうしてあの太った醜悪な女が出てきたのか? 僕はあんな女にはいささかの好意も抱いていない。彼女が恋人になるとか、彼女と性交するとか、そんなことは一度も、たわむれに頭をよぎったことさえないのだ。顔を殴りつけたり身体を切り刻んだり首を絞めたりして殺害するところなら想像したことはある。そうだ、僕はあの醜い女を憎み、軽蔑している。そしておそらく彼女もまた、いや、彼女のほうがずっと強く、同じような思いを僕に対して抱いているはずなのだ。そんな相手となぜ、一緒に街を出ていくことなど考えてしまったのだろう。

 僕はそれ以上考えることを止めた。空腹が限界に達していて、思考はもうまともに働かなかった。それで目についたレストランに入って、ハンバーグ定食を注文した。そのレストランにはこれまで一度も入ったことがなかった。こうやってまた一つ、未知の店が未知ではなくなる。味は決して悪くはなかった。それどころか上々なものだという気がした。もっともハンバーグの味などどこでもそんなに変わりはしない。

 満腹になった僕はまた歩きはじめた。ヒユが帰宅するまでまだ三時間ほどもある。それまでこうして時間をつぶすか、それとも無人の部屋に帰るか? 僕は古本屋に立ち寄って本を二冊買い、ゲーム・センターに立ち寄って一時間ほどゲームをした。『Ultra Street Fighter IV』、僕が唯一まともに遊ぶことのできるゲーム。まともに遊べるようになるまでお金をつぎ込んで練習したゲーム。

 それら一連の時間つぶし的な行為はその日は単に時間をつぶすためではなくあの醜い女の幻影を振り払うためのものだった。きっと一人の静かな部屋に帰れば今にもましてあの女の記憶に付きまとわれるに違いなかった。それはちょっとした恐怖だった。

 おそらくこのままではいけないのだ。こんな風に無為に無目的に日々を過ごすのは良くない。そんなことは誰に聞くまでもなくわかっているのだ。かつて僕はこの無為な循環的日常から脱却するために、いろんな行動を起こしたことがあった。ケント紙とインクと各種ペンを買い込んで漫画を描きはじめたこともあったし、コンピュータのプログラミングを学ぼうとしたこともあった。私立探偵を開業しようかと考えたこともあった。

 しかしヒユは僕のそうした努力をただのふざけた現実逃避だと切り捨てたのだったし、事実その通りなのだった。何一つ僕は真剣にはやらなかったし、それは才能とか技術とか以前の問題だった。僕は一つのことに意識を長時間注ぎ込むことができない。そのような人間には、漫画だろうがプログラミングだろうが何も習得することはできない。

 子供のころ、僕は絵を描くことを好んでいた。思考とアイデアが、想像力と幻想が、腐敗するものであることを、僕は絵を描くことを通じて学んだ。最初に画用紙やスケッチブックに描き出された瞬間には、きらびやかに華やかな創意とアイデアとイマジネーションが躍るようにほとばしっていた僕の絵は、手を加えれば加えるほどどんどん駄目になってゆく。あからさまにはっきりとその腐敗の過程が目に見える。

 僕は嫌になって投げ出してしまう。それはちょっとした地獄を垣間見る気分だった。どこからともなく何かが侵入して、画面を汚しているのではないかという気がした。しかし言うまでもなく、それは誰のせいでもなく僕が自らの手で行った行為の結果なのだった。僕が自分でその画面を汚したのだ。

 最初の霊感のようなものは絵には跡形もない。絵を眺めながら、こんなものが描きたかったんじゃない、と僕は思う。そんなとき、僕はおそらく実際に、地獄の底のすぐ上のあたりにいたのだ。

 自分の手で何かを作ったり、何かを実行したりすることに対して、僕はそれ以来怯えと恐怖を抱えるようになってしまった。そしてその恐怖は今もまだ生きているらしい。おそらくそのせいで僕は何にも集中できない。僕が無為な日々から脱却しようとして行った努力のようなものは、今もまだ子供のころと同じように自分には何か重要なものが決定的に欠けている、という事実を、ただ確かめるためだけで終わった。僕という人間の本質はずっと変わっていないらしい。

 僕はヒユのことを思った。今この瞬間、この夜の街のどこかにある、どこかのホテルの一室で、「食品会社の支店長」に抱かれているであろうヒユ。僕は細かくその光景を想像してみようかと考えるが、やはりやめる。

 やはり僕は傷ついていたのだろうか、やはり嫉妬に苛まされていたのだろうか? 僕は普段より徹底して一人になることを避けていた。部屋に帰るという選択肢は頭に浮かびもしないのだった。小魚のように夜の都市を泳ぎまわるもうそれほど若くもない一人の男。欲しくもないものを買い、やりたくもない遊びに興じ、大勢の見知らぬ人間とすれ違いながら、街をぐるぐると回った。そして真夜中がやって来た。

 午前一時ごろ、僕は湾岸にいた。都市の北端は海峡と接しているのだ。コンクリートの足場のすぐ下に黒々とした海が広がっていた。もっともそれは大した海ではない。ほとんど海とも呼べない、ただの大量の水だった。海水は黒い油のようで、水らしい柔らかさもしなやかさもない。波も飛沫もない。ひたすらどろどろしていて重く濁っている。

 夜空に巨大な細長い影が浮かび上がっている。海沿いにある製鉄所の煙突だった。先端と真ん中にライトが点灯している。煙突を見上げるとき、いつも僕はわずかにだけ安らぎを覚える。

 冬の夜中に海辺にいるのは、当然ながらひどく寒い。それでも僕はその場所を立ち去る気になれない。暗い水と煙突のそばから離れる気になれない。海の彼方でいくつも小さな光が瞬いていた。高速道路のランプ、流れる自動車のヘッドライト、無数の建物の窓から漏れる光、それらが細い線を描くように散らばって、対岸の距離を教えた。僕は長い時間そこにとどまった。空は黒から濃い紫に変わり、だんだん青みを増していった。そろそろヒユが帰宅する時間だった。僕はマンションの部屋を思い浮かべた。部屋に戻ったヒユは、僕の不在について不審に思うかもしれない。ヒユは僕を探すだろうか、それとも特に気にすることなく、自分で食事の準備をして、ひとりでそれを食べるのだろうか。いや、すでに食事はどこかで済ませてきたのかもしれない。しかしそれは考えても仕方のないことだった。

5. 格闘ゲームのよいところ

 

 帰宅したのは午前7時すぎだった。部屋に入ると、ヒユはリヴィングのソファに横になって眠るように目を閉じていたが、物音に気付いてすぐに起き上がった。虚ろな目で僕を見たが、とくに何も言わなかった。

「友達と会っていたんだ。彼の家にいたんだ」と尋ねられる前から僕は言い訳をした。

「それは嘘ね」とヒユは唇の端に笑みを浮かべながら言った。「あなたに友達なんているはずないもの。それも朝まで部屋に置いてくれるほど親切な友達なんてね」

 僕は冷蔵庫を開けてオレンジジュースを取り出してグラスに注いで飲む。

「勝手にすればいいわ」とヒユが言った。「あなたがそうやって反抗期の子供みたいに好き勝手な行動に出たいのならそうすればいいわ。私は何も言わないわ。言う必要がないわ。いずれあなたは自分の行為のむなしさ、そのみっともなさに気がつくはずだから。どうせあなたは私に腹を立ててへそを曲げているんでしょう。あの食品会社の支店長に焼きもちを焼いているのでしょう。いいえ、違わないわ。だって顔に書いてあるもの。あなたの顔はそれほどわかりやすいのよ。あなたが認めなないのは、単にあなたが自分で気づいていないだけよ」

 僕は黙っていた。ヒユからの非難に対して、僕はたいていそうやって沈黙するのみである。

 

 でも僕の言い訳はまるっきりの嘘というわけでもない。一つだけ彼女は間違っている。つまり僕にだって友人ぐらいはいる。Tという名前のその友人と、僕はゲームセンターで出会った。『Ultra Street Fighter IV』というゲームにおいて、Tはそのゲームセンター内では最高峰のプレイヤーだった。その店に通うプレイヤーの中で、Tに安定して勝つことのできる人は存在しなかった。そして僕は、大げさに言えば彼にあこがれてそのゲームを始めたのだ。それ以前の僕は格闘ゲームになど特に興味を持ったことがなかったし、もちろんプレイしたこともなかった。

 僕は多くの時間をゲームに注ぎ込んだ。何しろ当時から時間だけはあったのだった。そのゲームは不思議なほど僕を夢中にした。無謀にも僕は何度もTに対戦を挑んでは破れた。1プレイは50円だったのだが、お金はどんどん飛んでいった(もちろんヒユが稼いできたお金である)。Tとは何度も対戦したが、一度も彼と互角に対戦できたという実感を得たことはなかった。

 それでも我々は友人になったのだ。もちろんほかにもゲームセンターでできた知り合いはいる。しかし友人と呼びうるのは彼ぐらいのものだった。我々には共通点があった。つまりTもまたヒユと寝たことがある。

「彼女なら指名したことがあるよ。なるほど、あれが君の彼女だったんだな」Tはなぜか納得したように言った。

 もちろん共通点はそんなことばかりではない。僕たちは年齢が同じで、血液型が同じで、そして何より『USF IV』における使用キャラクターが同じだった。使用キャラクターについては僕が真似したのだ、もちろん。

 我々はゲームの実力が大きく隔たっていたにもかかわらず友人になった。ときどき彼は僕にゲームについて指導してくれた。

「練習あるのみだよ」彼はよくそう言った。「練習だけが上達を約束するものだよ。対戦格闘ゲームというジャンルの良いところは、練習の余地があると言うことだよ。僕は何より最初にそこに引き付けられたんだよ。ゲームを練習する、ということが新鮮に感じたんだね。この手のゲームに、生まれつきの能力の差なんてものは、ほとんど関係ないと思うよ。反射神経とか手先の器用さには人によって差があるのかもしれないけど、最も秀でた人と、だいぶ劣った人とを比べてみても、このジャンルにおいては、それは反復練習によって十分にカバーできる範囲のものなんだよ。少なくとも僕はそう信じているよ」

 僕はそれは才能がある側の人間の理屈ではないかという気がした。同じだけの練習を積んだ場合、結局能力が秀でたほうが有利なのではないか。しかし僕は彼にそういうことは言わなかった。彼の言葉をありがたく熱心に傾聴していた。そして言われた通り、毎日練習に励んだのだった。僕が人生で何かを真剣に「練習」したことなどなかったのだが、ゲームに対しては僕はごく自然に当たり前にそれを行っていた。

「不幸なんだよ、僕は」Tは言った。「何もかも忘れるために、ゲームの練習に没頭しなくちゃならなかったほどに、不幸だったんだよ」

 彼の長い指は信じられない器用さで動く。その動きはあまりに素早く、ときにはほとんど滑稽にさえ見える。彼はグレン・グールドみたいに深く背中を曲げてプレイする。その独特な姿勢はトレードマークのようになっている。僕はその姿勢さえも真似たことがあった。しかしそうするとひどく操作がしづらかったのですぐにあきらめた。

「『コマンド』っていう概念が好きなんだよ。左手でコマンドを作って、右手でボタンを押して技が成立するっていう、他のジャンルにはない操作システムが好きなんだよ。そのシステムのためにこそ、僕は格闘ゲームがもっとも面白いジャンルであることを信じる。『ストⅡ』の頃のブームは遠い過去のことになってしまって最近ではゴーストタウンみたいに寂れる一方のジャンルだけど、遊んでてこんなに面白くて気持ちいいジャンルってないと思うよ。なにしろ両手を使うから忙しくて楽しいし、それだけ器用さと集中力が必要だし、難しいからこそ、できたときの達成感は大変なものだよ。もちろんそのぶん負けると悔しいし腹が立つんだけどね」

 Tに倣って同じキャラクターを使用してもプレイスタイルまでは真似できない。彼のスタイルは最も模倣することが困難な種類のものだた。つまりひどく正統的で生真面目でストロング・スタイルなのだった。基本に忠実で、相手の油断や技術の不足を突くような行動は取らず、相手に何かを期待するような行動をせず、画面で起こっていることすべてを見逃さず相手がなす行動のすべてに対して正確に対処する。運にも偶然にも頼らず、相手に何も期待せずに、状況に対する最善の行動を選択する。はたから見ているとそれは相手よりむしろ自分との戦いに見える。僕はTが対戦する画面を後ろから眺めながら、「克己」とかいうあまりなじみのない言葉を思い浮かべたりしたものである。電子音がけたたましく鳴り響く騒々しいゲームセンターの空間に、その言葉はまるで似つかわしくないもののように思われた。Tにしたところで彼は特に克己的な人格の持ち主というわけでもない。克己的な人間はおそらく金で女を買ったりしない。彼はゲームに対してのみ、過剰なほどにストイックで真摯で厳格なのだった。


 

「僕にだって友達ぐらいいるさ。尊敬できる人物なんだよ。友達でもあり、僕にゲームを教えてくれる先生的な存在でもあるんだよ」

 数日後に、僕はヒユにそのように言い返した。いつもそうなのだ。数時間とか数日とか、ひどい場合には数年も過ぎてから、言うべきだった言葉ことを思いつく。即座に言い返そうとしても、ろくに言葉が出てこないのだ。

「彼から僕はゲームを教わったのさ。立派な男だよ。ことゲームにおいてのみ真剣なところが、とても信頼できる。歳も、血液型も僕と同じでね、わりにハンサムな男だよ。痩せてて、なんだか『読者モデル』みたいにスタイルがいいんだ。君も彼のことをよく知っているはずだよ」

 僕はしゃべりすぎてしまったような気がしていた。とくに最後の言葉は口にする必要がなかった。しかし言葉はすでに放たれていたのだったし、ヒユが聞き逃すはずもない。

「それは私のお客の一人っていう意味かしら」

 ヒユは勘がよいのですぐに理解する。僕は肯定した。

 僕がだいたいの人となりについて話すと、ヒユはすぐにTのことを思い出したらしかった。

「一度だけ、相手したことがあったわ。そうね、まあ普通の人だったわ。あのぐらいの年の男の典型を出ていなかったわ。体も平凡、話す言葉も平凡、気前が良いわけでもなく、それなりに緊張していて、いくつか不慣れな、少し間の抜けた行いをしたわ」

「どうして覚えていたの?」

「おかしいかしら? お客のことなら覚えていることも忘れちゃうこともあるわよ。あなたが説明したから、思い出してしまっただけだよ。たまたま覚えていたのよ。別に特徴がないからってすぐに忘れてしまうわけでもないし、ひどく独特だからっていつまでも覚えているわけでもないわ。何しろたくさんの人を相手にするんだから。そのうちの誰が引っかかって誰がこぼれおちてしまうかは、自分でもわからないことだわ」

 僕は黙っていた。

「あなたは何か不自然さを感じたのかしら? 私が彼と特別な関係にあるんじゃないかって。そうだわ、どうやらそうみたいね。例によって顔に書いてあるもの。ねえ、あなたは自分で思っているより嫉妬深い人間だと思うわ」

「何もないよ。そういうんじゃないよ。それは深読みというものだ。ただの好奇心だったんだよ」

 それからもときどきヒユはTを客として迎えたときの話をした。おそらく僕の反応を面白がっていた。

6. 人間の病理について

 

 ヒユに対してはっきりした愛情を感じたことはない。ヒユに対してだけでなく、かつてついぞ何に対しても、人だろうと動物だろうと物だろうと、僕は愛情らしき感情を覚えたことなどなかった気がする。

 おそらく僕の内部には朽ち果て、腐敗し、崩れ落ちつつある部分がある。古い空き家みたいな暗く乾いた空虚を抱えている。そうだ、それでもかつて、ヒユとの付き合いが始まったばかりのころには、自己嫌悪や嫉妬心は今よりも生々しくまだそこにあったはずなのだ。彼女から、Tとの「プレイ内容」について事細かに聞かされたとき、僕はそのことを思い出した。ヒユと日々を過ごすうち、いつしかすり減らすように僕はその感覚を失っていったのだった。

 僕はおそらくあえてそれを失う必要があったのだ。なるべく苦しまずに生きるために、その感情を徹底的に凍りつかせる必要があった。生きやすいように、感情に煩わされずに生活できるように、念入りに、着実に時間をかけてその生命力を奪ってきたのだ。痩せ細り弱りゆくよう仕向けたのだ。それにはある種の努力が必要だった。徹底的にある感情から目を背け続けるのは簡単ではない。いわば僕は部分的に死んだ人間である。

 ときどきヒユは僕の死んだ部分をよみがえらせようとする。それに息を吹き返させようとするのだ。それが僕を苦しめることをヒユは知っている。

 断っておくがヒユは徹頭徹尾意地悪な人間というわけではない。もしそうならば僕のような人間を何年も家に置いておいてくれるはずもない。ただヒユは、他人の弱点や触れてほしくない部分をすぐさま見つけ出す能力を持っている。恐るべき鋭敏さで、短時間のうちに、正確に、周到に覆い隠された弱点を見つけ出し暴き出してしまう。そしてその部分を執拗に熱心に責め立て、虐め、いたぶるのだった。

 好きでやっているわけじゃない、とヒユは言う。本能とかそういう領域に近いもので、やらずにいられないのだ、意思とか思考を超えた働きなのだ、と彼女は言った。もちろんそれはヒユが自ら説明したことなので、もしかしたら嘘なのかもしれない。実際にはたっぷりと悪意を抱えているのかもしれない。

 しかし僕が身近で観察したところによれば、ヒユのそんな性質は、彼女が認識している通り、不可抗力のものだった。そんな性質は彼女に何の利益ももたらさないし、それどころかそのために彼女自身もひどい目に遭ったりしていた。彼女は友人を失ったり、大損をしたり、厄介なトラブルに見舞われたりした。そういう場面を僕は身近で見てきたのだ。もし好きでそんなことを行っていたのだとしたら、よほどわけのわからない、ほとんど正気を保っていない人間だということになってしまう。つまりヒユもまた病を抱えているのだ。

7. ヒユの狂言

 

 マンションのインターフォンが鳴った。ドアフォンのモニターには人の姿は映っていなかった。カメラを避けて立っているらしい。しかし受話器を通して聞こえてきたのはヒユの声だった。

「ねえ、すぐに降りて来て……ひどい怪我をしちゃって、助けて、血が止まらないの。このままだと……」

 僕は一も二もなく部屋を飛び出した。不安と恐怖とが渦巻いて手が震えていた。エレベータのボタンを連打し、一階へと向かった。

 五分後にはヒユは笑っていた。もちろん血も流れていなかったし、苦しんでもいない。血相を変えてエレベータから飛び出してきた僕の顔を見て、彼女は大笑いしていた。要するにすべては嘘で狂言だった。ヒユは僕をからかっていただけなのだった。しかし彼女がそうやって僕を心配させるような狂言をうつのは、初めてというわけでもなかった。

「そんなに怖かった?」とヒユは言った。「私が死んじゃうんじゃないかって怖かったんでしょう」

「心配だったんだよ。何かあったんじゃないかって……」

「それだけじゃないでしょう。わかっているのよ。ただ心配だったっていうだけじゃないのよあなたは。今私に何かあったら自分は生きていけなくなる、物質的に、物理的に生きていけなくなる、家賃も払えなくなるし、食べるものもなくなって飢え死にするしかなくなる、そんなことを考えて、怖くなったんだわ。だからそんなに必死な顔してやって来たんだわ」

「そうじゃないよ。僕は、……」しかしそのあとの言葉は出てこなかった。心臓の鼓動は、全力疾走したあとみたいになかなか収まらなかった。

「そうじゃなくないわよ。あなたが心配していたのは私じゃなくて、あなた自身の生活なのよ。ただ自分のことだけが問題だったのよ。あなたの生活は完全に私に依存しているんだからね。その生活が破綻してしまうことが怖かったんだわ」

 僕は黙っていた。ヒユは僕に有効な反論ができないことを知っている。ついさっきまで、僕の頭の中には来月の家賃とか食料とかそういう生活上の問題のことなどは頭から消えていた。僕はただ純粋にヒユの身を心配していたのだ。しかしもちろん彼女にそのことを証明してみせることはできない。僕にだって純粋に他人を心配することはできる。そういう感情はまだ残っているのだ。

「あなたのその顔が久しぶりに見たくなったの。大変だ、金づるを失ってしまうっていう、その顔」

 ヒユはおかしそうに言うのだった。

8. 冬ごもり/ニーチェ

 

 クリスマスが過ぎ、大みそかまであと数日というある日、僕とヒユは商店街を歩いていた。商店街は人ごみでひどくにぎわっていたのに、どことなく静けさが漂っていた。つまりいつもの年末の空気だった。年末年始はヒユの仕事も休みなのだということだった。
「お正月が終わるまで、冬ごもりをするの」とヒユは言った。
「冬ごもりって何さ」
「一歩も外に出ないで過ごすってこと」
 その冬ごもりのために必要な食料品の買い出しのために、ヒユは僕を連れて商店街にやって来たのだった。お茶の葉や、年越し蕎麦の麺や、蕎麦に入れるための具や、そしてお餅を買った。ヒユはいちいち値切った――値切ろうとした。つまり一度たりともヒユが提示した価格は店側には受け入れられなかった。僕はヒユとそれぞれの店の店主や店員とのやりとりをただ眺めていた
「あなたも何か言いなさいよ」お餅を買った後でヒユは言った。「黙って横でぼおっとしてるんじゃなくてさ。あなたが援護射撃をしてくれたら、多少はこちらが有利になるかもしれないじゃない。あなたがそうやって、ぼんやりした顔で私の隣に立っているから、相手はぜんぜん言うことを聞いてくれないのよ。さっきの男なんて、ひどいもんだったわ。まるで子供をあやすみたいな態度だった」
「でもああいうのはもうやめたほうがいいんじゃないかな、今時値切りに応じてくれる店なんてないんだよ」
「世知辛い世の中になったものだわ! 消費税も上がるっていうし……」
「消費税はもう上がったよ。こないだ上がって、10パーセントになったんだよ。こないだって言ってもずいぶん前だよ」
「そうなの? ……ひどい話ね」
「どうして家から出ないで過ごそうなんて思ったの?」
「無粋な質問だわ! そうしたいからに決まっているじゃない。私はそういうのが好きなの。年末から年始にかけて、街があわただしくなったり浮かれているときに、家の中でじっとしているのがね。冬眠する熊みたいに。今年はいい機会だからそれをやってみようって」
 僕らはそのような会話を交わしながら歩いた。

 実際に次の日から、ヒユは眠り続けた。ときどき起きだして、トイレに行ったり、僕が作ったサンドウィッチやらおにぎりやらをいかにも気がなさそうに口にしたり、冷蔵庫のミネラルウォーターやお茶を飲んだりして、すぐにまたベッドに戻る。そうやってひたすら眠っていた。
 僕は一人で年末を過ごした。本棚から『世界の名著・ニーチェ』を取り出す。いつも年末になるとその本を読む。初めて読んだのが年末の時期で、それ以来の習慣なのだった。
 当時、数年前のことだが、僕はアパートの水道を止められて、生きるか死ぬかの境地にいた。もうかえって本を読むぐらいしかやることがない、といった状況に置かれていた。それがちょうど年末から年始にかけてのことだった。僕は買って以来読まずに放置していた『ニーチェ』を手に取り、水を飲む代わりに本を読んだのだった。
 そして僕はその書物に夢中になった。体を震わせ、涙を流しながら読んだ。文章にそれほどまでに感情移入したことはなかった。読みながら年をまたぎ、正月中も読み続けた。そして読み終えたときには、僕という人間は変容していた。僕はある未知の何かを手に入れていた。それは乳色に輝く卵のような形の物体だったかもしれない。とにかく新しいものが僕の中に生まれ、僕の内部に備わっていた。必ずしもその書物がはらむメッセージのすべてに共鳴したわけではなかったし、そもそも書かれていることすべてを正確に理解したわけでもなかった。僕にとって重要だったのは、ニーチェの思想や哲学そのものではなかった。僕はその読書によって、きわめて個人的な、貴重な何かを手にしたのだった。
 僕は運命という言葉を思った。そうだ、あれは運命的な体験だったのだ。何かに導かれるように、いつか読むつもりで積み上げていた数冊の書物のうちから、もっともとっつきにくそうなその本を選び出したあのとき、実際に何かが僕を導いていたのではないかという気がする。
 そのあとから、僕は窮地を脱した。滞納していた家賃は両親に泣きついて肩代わりしてもらった。アパートの水道は出るようになったし、僕はアルバイトをはじめた。

 今でも僕はその本が自分を救ってくれたのだと信じている。だから『世界の名著』第46巻は僕にとって忘れがたい書物なのだった。僕は年末の時期以外にはまずその本を手に取らない。それは僕がその本に対して払う敬意のようなものである。
 箱の硬さと分厚い本の重みが、いつも僕にある種の感慨を催させる。僕それらの手触りにいまだに馴れない。その感触は僕にとっていつも新鮮なのだった。毎年僕は、初めて手に取るような気分でその本をひもとく。

”時をもつ者にとっては測定することができ、よい秤にとっては量ることができ、強い翼にとっては飛びつくことができ、神のように胡桃を割る者にとっては見抜くことのできるもの、――わたしの夢のなかで世界は、そういうものとしてわたしの前にあった。――” 『世界の名著・ニーチェ』p. 279

 なんて格好良い……ニーチェは詩人だ。大昔の文学青年たちが軒並みニーチェにあてられて夢中になってしまったのも無理はない。
 リビングのソファに腰かけて本を読んでいると、突然ヒユが姿を現した。彼女はふらふらと歩いて冷蔵庫に向かい、中から麦茶を取り出しグラスに注ぎ、ゆっくりと一気に飲み干した。それから彼女はリビングとダイニングの境目に立って、ぼんやりとした目つきで僕を見据えながら、言葉を発した。――少なくともそれは言葉ではあるようだったが、僕には聞き取ることができなかった。あえて表記するならそれは「シウラマアル」というように聞こえた。その短い言葉を彼女は二度発した。一度目と二度目の間に、返事を期待するような合間があった。返事などしようがなく、僕にできるのはただ彼女を見つめ返すことだけだった。そのあとも彼女はその場に立ち尽くして表情のない目つきで僕を見つめていたが、やがてまたふらふらと歩いて姿を消した。少し後で寝室のドアが閉まる音が聞こえた。
 僕はヒユが口にした言葉について考える。あのとき彼女の意識はおそらくまだ眠りの沼におおかた沈んでいたのだろう。立ったまま、歩きながら、まだ眠っていたのかもしれない。彼女は夢の言語で語り掛けていた。
 ヒユの冬眠は続いた。まさか本当にこれほどまで徹底的に彼女が眠り続けるとは思っていなかった。いつ寝室を覗いても、すこやかな寝息がひそかに聞こえてきた。
 ヒユは彼女自身にも説明のつかない多くの謎を持ちきれないほどたくさん抱え込んでいる。共に暮らす僕もまたその謎の一端を引き受けることになる。彼女の内部には巨大な空洞があって、そこには広大で複雑な迷宮が広がっている。暗く入り組んで無数の分岐に分かれている。彼女自身もときどき、その迷宮の中で行き迷っているのだ。
 僕の中にも迷宮はある。しかしおそらくヒユのものほど広大でも複雑でもない。

9. 大晦日/お正月

 

 朝が来て目を覚ます。12月31日の朝だった。カーテンの隙間から光が漏れている。部屋に日が差し込むところを目にする機会は、普段の僕の生活にはないに等しい。「冬ごもり」の期間、僕は毎日夜に眠り、朝に起きていた。つまり普段と反対だ。細長い光が瞼を焼くほどに熱く感じられる。僕は窓に背を向け光を直視しないようにしながら体を起こした。ヒユはまだ隣で眠っていた。

 そのうちにだんだん目が光に順応してきた。僕は半ば習慣的に壁のカレンダーに目をやり、そしてぎょっとする。前日にも前々日にも、ちゃんと黒い×がその上に書かれていたのを見て。もちろんそれはヒユの習慣である。でもヒユはいったいいつ起きてそこに×をつけたのだろう? ヒユはずっと眠っていたはずだ。「冬ごもり」に入って以来、彼女が覚醒しているところを見たのは二度か三度ほどしかない。

 僕はベッドから降りて窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間をぴったり閉ざした。それから寝室を出てダイニングに行き、食事を作って食べた。トースト二枚、目玉焼き、焼いたベーコンとアスパラガス、レタスと玉ねぎとハムのサラダ、野菜スープ、ヨーグルトとバナナ。僕はいつも寝起きにたくさん食べるのだ。目覚めたとき、いつも僕はなぜかひどく腹を空かせている。

 食事を終えて僕はまた本を読んだ。何度か寝室を覗いたが、ヒユは眠り続けていた。午後、僕は思い立って寝室に入り、ヒユの頬をつねってみた。もしそれによって彼女の眠りを破ってしまったらただでは済まされないであろうことは覚悟しながら、決死の思いでそれを行ったのだった。しかしやはり彼女は目を覚まさなかった。彼女を迷宮から救い出すことはできなかった。僕はひどくヒユを遠くに感じた。手を触れられるほど近くにいながら、眠るヒユは地底の奥深くにいるのだ。どんな光も届くことのないその場所をさまよい続けているのだ。

 静かな寝室でヒユと二人きりでいながら僕は完全に孤独だった。僕は椅子に腰かけて目を閉じ、宇宙の果てを想像していた。そうしていくばくかの時間が過ぎるうち、僕はほとんど完璧といっていい曇りのない完璧な集中の境地に到達した。まるで自分の体が、宇宙空間のどこかにひっそりと浮かぶ岩塊と、一本の糸で結び付けられているような感覚を得た。その細い糸を辿って、僕は人知れず地球を脱出し宇宙へと旅立った。気がつくと僕はあらゆる文明を超越した遥かな高みに一人で立っていた。その時僕は人間ですらない一個の自由で包括的な存在と化していた。誰も得たことのない視力を備えて、あらゆるものを神と同じ視点で見下ろしていた。僕はあらゆるものから自由だった。いつも僕をしばりつけ閉じ込めているすべてのものから解放されていた。そんな抽象的で圧倒的な場所から、僕は何かを持ち帰り、代わりに別の何かをその場所に置き去りにした。ヒユの穏やかな寝息の音がその間ずっと耳に聞こえていた。それが僕の感覚を刺激する唯一のものだった。

 

 夜の10時過ぎ、ヒユが突然台所に現れた。僕はその時年越し蕎麦を作るためために忙しく働いていたのだった。ヒユはふらふらと歩いてソファへ向かい、そこに座った。そしてテーブルの上に置かれたステレオ・コンポのリモコンを手に取って、そこに並んだボタンをしばらく見つめていたが、何もせずに元の位置に戻した。

「静かなほうがいいわね。大みそかは静かなほうがいいのね」ヒユはそんなことを言った。

 台所に鍋から上がる湯気がもうもうと立ち込め、僕は換気扇をつけた。いつも僕は換気扇をつけるのを忘れる。わざと忘れることもある。湯気が台所中に立ち込めるのを見るのが好きなのだった。

 蕎麦はすぐに茹で上がった。ヒユに言わせると、蕎麦などというものはほとんどゆでる必要がなく、沸騰したお湯にさっとつけるぐらいでいいらしい。彼女はろくに手伝いもせずテーブルに肘をついてぼんやりしていた。僕は麺の水気を切り、出汁を満たした器につけ、その上にシイタケやエビやネギや天かすやかまぼこを盛り付けた。部屋はまるっきり静かだった。僕らは一言も交わさず蕎麦を食べた。食べ終えると、ヒユはまた寝室に眠りに戻った。

 

 1月1日にはお雑煮を食べたが、そのほかにはお正月らしいことは何もしなかった。ヒユはひたすら眠り続けていた。僕にしたところで、ヒユに比べればまだ多少は活動的ではあったとはいえ、が、基本的に僕もまた一つの場所からほとんど動かずに、ぼんやりしたり、本や漫画を読んだり、ヒユが眠る寝室とは別の部屋で小さな音で音楽を聴いたりした。本当に冬眠みたいな日々。部屋のカーテンは一度も開くことはなく、テレビの電源は一度もつけられることなく、まともな光は七日間一度も部屋に差し込まなかった。薄暗い部屋の中で僕らは沈黙の時間を過ごした。

 眠り続けるヒユがときどき死んでいるように見えて、僕は心配になって彼女の頬や腕に手を当てたりした。温かみは一応は感じられたが、それはほんのわずかなものでしかなかった。脈拍の音も微弱だった。寝息だけが雪みたいに部屋に響いている。とても静かだった。マンションごとすっぽり地中に潜ってしまったのではないかという気がした。時間は信じられないほどのろのろと流れた。世界でどんなことが起こっていたとしても、それはすべて我々とは遠く隔たったどこかよそで起きる出来事だと思えた。その数日間、僕は家賃のことさえ考えなかった。

 

 1月4日の早朝、僕は部屋を出てマンションのロビーにある郵便受けを見に行った。それが「冬ごもり」開始以来はじめての外出だった。郵便受けの中にあったのは、何枚ものチラシやダイレクトメール、それから公共料金の引き落としの通知、ヒユ宛に届いた何通かの年賀状(僕宛のものは一枚もない)。僕はそれらを抱えて部屋に持ち帰り、ダイニングのテーブルの上に置いた。

 その日の午後、ヒユは何事もなかったように目を覚ました。そして彼女の様子は完全に普段通りだった。夜になると彼女は仕事に出かけて行った。

10. ドトールでの幻覚

 

 なぜかその日は起きたときから(冬ごもりを終えて、また夕方に目を覚ます生活に戻っていた)食欲がまるでなかった。食べ物のことを考えるだけで胃と頭が痛むほどだった。食欲という言葉を思うだけで吐き気がした。すべての食べ物と、食事という行為に憎しみに近い感情を抱いた。僕は決して小食なほうではない。それどころかヒユが呆れるほどよく食べる。「働きもしないのによく食べるものだわ」と、彼女はときどきそんなことを口にする。

「こう見えても僕だって働いているんだよ。いろんな仕事をしているんだよ。家事だけじゃない。たとえば漫画を描いたり、ゲームを練習したり、散歩したり……、」

 ヒユは黙っている。そんなのは仕事とは言わない、とは言わない。言うまでもないことだと思っているのだ。ヒユのほうは小食で、食事はリンゴ一つだけとか、お菓子で済ませるとか、そういったこともあった。僕はしばしば彼女の小食ぶりを心配したものである。それだけしか食べなくてどうして生きていけるのだろう、と常々思っていたのだが、彼女は特に問題なさそうにしている。「もっと食べたほうがいいよ」とか「栄養が偏るよ」とか言われることを彼女はひどく嫌った。その手の言葉を口にするとものすごい形相で反論するので、いつしか僕は何も言わなくなっていた。

 僕にとっては、腹が減らないということはちょっとした一大事だった。ヒユを送り出した後、部屋でしばらくぼんやりしていたが、やはり何も食べようという気が置きない。窓の外はだんだんと薄暗くなっていった。夕方と夜との境目当たりの時刻だった。

 僕は顔を洗い、服を着替えてマンションを出て、街を歩きはじめた。とにかく何かを食べよう、何か口に入れれば食欲も戻ってくるだろう、と考えて、そのまま商店街まで行き、目に付いた「ドトール」に入った。

 店内はひどく空いていた。そして僕は店員たちからなぜか招かれざる歓迎されざる客のような扱いを受けた。店員たちはひどく不愛想で、僕をまるで不治の伝染病患者を見るような目で見るのだった。しかしそういうことは僕にとって特に珍しくもなかったので、さほど気にしなかった。 

 僕はスモークチキンと薄切り玉ねぎとレタスとたっぷりのタルタルソースを挟んだサンドウィッチを注文した。普段ならよほど食欲を刺激されるはずの食べ物だったが、依然として食欲は湧いてこなかった。僕はテーブルに置いたそれに手を触れることなく、しばらくの間いろんな角度から眺めまわしていた。食品をそのようにまじまじと観察したことはなかった。食べ物とは僕にとって食欲を満たすためのものであって、観察する対象ではなかったのだ。コーヒーにさえろくに手をつけずにサンドウィッチをいろんな角度から見回していると、だんだんその食べ物が食べ物には見えなくなった。パンの生地は漆喰の壁のようで、レタスの葉は緑色の布のようだった。特殊な虫眼鏡を覗くみたいに細部がグロテスクなまでに鮮明に拡大されて見えた。そしてだんだん目の前のサンドウィッチは巨大化していった。あるいは自分の体がどんどん縮んでいく気がした。いつしかサンドウィッチは途方もなく巨大な、軍艦みたいに巨大な物体として、僕の目に映っていた。僕は唖然としながらそれを見上げることしかできない。その物体の前では僕は虫のように微小で無力な存在でしかなかった。もちろん食欲はどんどん遠のいていった。そんな大きな物体が胃におさまるわけはないのだ。

 そんな幻覚に襲われたのはしかしほんの一瞬のことだった。再び気がついたとき、僕の目の前には手つかずのスモークチキンサンドがまだ置かれていて、それはもう軍艦には見えなかった。ただのサンドウィッチだった。

 顔を上げると、カウンターの奥にいた女性店員が慌てたように目をそらした。その表情には疑問とかすかな嫌悪が浮かんでいるように見えた。店員はそれを隠そうとしたがうまくできないらしかった。

 僕は深呼吸をし、それから無意味に何度か小さくうなずいた。とにかく何も食べないでいるわけにはいかない、と僕は自分に言い聞かせた。そして思考と想像力をいったん殺してサンドウィッチを手に取って一口齧ってみた。それは全く味がしないということはなかったにせよ、本来味わえるはずののおいしさを味わっている感じもしなかった。僕はそれ以上食べ物に手をつけずに残した。

 店を出るころには、店内はにぎわいだしていた。

11. ゲーマーのプライド

 

 ゲームセンターにはTがいた。彼はいつものようにゲームをプレイしていたが、画面にはそれまでに39連勝したことを表す表示が浮かび上がっていた。39連勝するには単純に計算しても2時間近くかかる。そして彼は僕が見ている前で40勝目を挙げた。彼は集中していて、僕の姿に気づきもしなかった。そのあとさらに4勝して、ようやく負けた。

 現代のゲームセンターはたとえば90年代のように不良や落ちこぼれのたまり場となった殺伐とした暴力や悪意の予感に満ちた場所ではないが、だからと言ってクリーンで行儀のよい場所とも呼べない。マナーやルールを守らない人や、対戦相手に文句を言ったり挑発したりする人や、ちょっと唖然とするような非常識で失礼な人物などに、出くわすことがある。僕はそうした変わった人々が特に好きだというわけでもないのだが、そういう人たちの集まりが生じさせるちょっとした混沌は愛している。その空間は世間から良くも悪くも遊離している。どうやって生計を立てているのか不明な人、どんな人生を歩んできたのか想像もつかない人、そうした人に出くわすことがある。しかしどんな人間であっても、たとえ社会的には底辺に近いところに位置するような人であったとしても(もっともそういう人は意外なほど少なかった。どちらかと言えば富裕な人のほうが多かった)、ゲームの腕前さえ確かならば認められるし尊敬されるという、そのわかりやすい価値観も気に入っていた。そんな環境の下で僕は格闘ゲームが強くなった――強くなったと信じた。もちろんTには足元にも及ばなかったにせよ、たいていの相手には勝てるか、良い勝負をするようになっていた。僕は練習熱心だったし、練習そのものを好んだ。ゲームの練習は苦にならなかった。僕はーム内で必要とされるあらゆる技術を自分のものにしたいと望み、着実に一つずつ身に着けていったのだった。

 ゲームのような遊びであっても上達して上手くなるとそれなりにプライドのようなものが生まれる。だから腕に覚えのあるプレイヤーほど負けることを嫌う。そして負けてしまったときには、彼らはしばしば言い訳めいた言葉を口にする。運が悪かったとかアーケード筐体の調子が悪かったとか体調が悪かったとか、そういったことを理由にして、負けたという事実から目を背けようとする。もちろん僕も例外ではない。

 Tだけは決して言い訳をしなかった。彼の口からその手の発言を聞いたことはない。Tは言い訳する連中を軽蔑していた。

「ゲーマーに言い訳がましい人間がとくに多いのは、彼らが幼稚で未熟だからだよ。負けず嫌いというより、負けたことをちゃんと認められないんだ。認めようとしないんだ。だからことあるごとに言い訳をする。ああいうのはプライドが高いとは言わない。単に人格的に未成熟なんだよ」

 それは僕にとっても耳に痛い言葉である。

 44勝した後に負けたTは、いつもそうなのだが、負けても悔しそうにさえ見えなかった。そういうこともあるさ、という顔をしていた。しかし実際そういうことはあるのだ。どんなに強くて上手くてもいつかは負けないわけにはいかないのだ。しかしその事実を受け入れるのは簡単ではない気がする。

 2時間以上も集中してゲーム筐体に向かい合っていたのに、Tには疲れた様子もなかった。台を離れて初めて僕の姿に気づいたTは、やあ、来てたの、と言った。彼は僕を飲みに誘い、僕は付き合うことにした。僕は1プレイもしないまま、夜も遅いのにいまだ騒々しいゲームセンターを出た。

 もっとも僕に飲酒の習慣はないので、Tが酒を飲むのにただ付き合うだけである。そして僕の食欲はまだよみがえらなかった。彼と僕はとある居酒屋に入った。彼は唐揚げとポテトサラダとシュウマイをつまみにビールを飲んだ。僕は水を飲みながらその様子を眺め、また店内の様子を眺めていた。

「彼女の金で夜遊びしたり飲み歩いて酔っぱらったりすることに抵抗を覚えているんだよ。だから君は酒を飲まないんだろう」

 僕は首を振った。「違うよ。受け付けないんだよ。アルコールは僕にとっては異物でしかないんだよ」

 彼はごくごくとビールを飲み干した。新しいビールがジョッキに注がれた。彼はいかにもおいしそうに唐揚げを齧った。

「食べないの」とTは言った。

「食欲がないんだ」

「へえ、珍しいね。いつもはよく食べるのに」

「たぶん、一時的なものだよ」

「僕は今日は特に腹が減ってるよ。よく働いたからね」

「働いたって、44連勝のこと?」

「まさか。違うよ。言葉通りの意味だよ。会社の人手が足りなくてね、ちょっとした肉体労働をしなくちゃならなくなったんだよ」

 僕は自分がTの仕事について知らなかったことに思い当たった。考えたことさえなかったのだ。彼がどんなふうにして生活を成り立たせているかといったことは僕の関心にはなかった。我々はただのゲームを通じて知り合った友人だった。もっとも彼のほうは僕が女の稼ぎで生活している男であることは知っている。僕が自分で話したのだ。

「じゃあもっとちゃんとした食事をしたほうがいいんじゃないの」

「ちゃんと夕食ならさっき食べてきた。それでもまだ、腹が減っているんだよ」

 Tは今度はフライドポテトを食べはじめていた。

「どうして今夜の僕には食欲がないんだろう?」

 Tは笑った。「その問いに僕が答えられると思うか? 知らないよそんなことは」

「さっき君が、酒について言ったことが正しいのかもしれない。つまり僕は罪悪感を覚えているんだ。ヒユの金だから、というところが知らないうちに引っかかっていたんだ。ねえ、人の無意識というやつは得体が知れず広大であるらしいからね。僕は罪悪感なんて感じたことはない。少なくとも自覚する限りでは。でもやっぱり、何かを感じていたんだろうな。その後ろめたさが僕の食欲を奪ったんだ」

「あんなのは冗談だよ。もう忘れてくれよ。確かに僕は下手な心理学者みたいなことを言ったよ。さっき言った後で僕は後悔していたよ。冗談だったとしてもくだらなかった。いつそのことを謝ろうか、考えていたぐらいだよ」

「でも当たっているような気もするよ。似非心理学が真実を突くことだって、ないとは言えない」

「食欲がないなんてことに、いちいち理由や説明を当てはめようとすることが、すでにくだらないんだよ。そんなのはだって誰にだって起こりうるありふれた現象なわけだからね」

 話しながらTは皿を一枚ずつ平らげて行った。さらに彼は焼きそばと手羽先を注文した。

「何か口に入れてみればいいじゃない。この手羽先を食べるといいよ。僕がおごるよ。ここのメニューは悪くない。はじめて来たんだけど、この店は当たりみたいだ」

 僕は何も言わず何も考えずに手羽先を箸でつまんで齧ってみた。それが鳥を焼いて調理したものであるという認識を得ることはできたが、それ以上の感興はなかった。つまり美味しいともまずいとも思わなかった。

「それだけじゃない。ほとんど異物みたいな感じがするぞ! 食べることとは、こんなにも大変なことだったのだろうか」僕はそんなことを言いながら、もう一つの手羽先を口に運んだ。

「君は飲んでないのに酔っぱらっているみたいに見えるよ」とTは言った。

 

 店を出るとTは急に眠そうに見えた。「うちに帰って眠る。眠らなくては」と彼は言った。

「君の家はどこにあるの?」と僕は尋ねた。それほどに立ち入った質問をしたのはおよそ三年間の付き合いの中ではじめてのことだった。

「ああ、最近引っ越したんだ。あの川のそばの、リバーサイドなんとかっていう(いまだに覚えられないんだ。忌々しい長ったらしい名前なんだ)やたらに細長いマンションだよ」

「今度遊びに行ってもいいかな」

「もちろん。いつでもいいよ。そうはいっても眺めは悪くないよ。もっとも君が窓からの眺めなどに興味を持てばの話だが」

 僕はTと別れた。

12. 街の色

 

 夜中にマンションに戻ると、エントランスの扉のガラス越しに、四人ほどの若い男がロビーのベンチに座って何か話し込んでいるのが見えた。彼らは煙草を吸いながら大笑いをしていた。僕はエントランスをくぐらずに駐車場に回り込み、非常階段を使って13階まで上がった。

 この街の治安はそれほど良くはない。というかどちらかと言うと悪い。たとえば自転車などは鍵を二つ以上かけていないと、すぐに盗まれてしまう。暴力団とかやくざといった反社会的勢力は割と身近な存在でもある。銃撃事件が起こったこともある。今のところ、僕は危険な目に遭ったことはない。せいぜい自転車の盗難ぐらいで、暴力沙汰に巻き込まれたことは今のところはない。生まれつきの用心深さと危険察知能力によって、僕は無用な危険を回避してきたのだ、と信じているが、ヒユに言わせればそれは単に僕が「臆病なだけ」ということになる。確かにそういう言い方もできる。実際に、僕は少しでもたちの悪そうな連中を目にすると、必要以上に恐れをなして、近づきさえしないのだ。だから僕は今夜も、ロビーにたむろしていた髪を金や赤に染めてごみや吸い殻を床中に散らかしていたたちの悪そうな若者たちを避けて階段を使ったのだ。階段の段差は142段もあった。その数は数えるたびにいつも異なっている。今日はたまたま142段だったというだけで、いつもそうだというわけではないようだった。不思議なことは世の中に満ちている。

 ヒユは帰宅していなかった。僕はリビングの窓辺に立って暗い外を眺めた。Tが僕に、君は窓からの眺めになど興味はないだろう、という意味のことを言ったのは、高いところからの眺めなんて普段から見慣れているだろう、という意味だったのかもしれない。しかし考えてみればTは僕の住所を知らないはずだ。彼は僕が売春婦と暮らしていることは知っていても、どこに住んでいるのか、部屋が何階にあるのかなどは知らないはずだった。そのことを彼に話した記憶はない。しかしもしかしたら、何かのはずみに口にしたのかもしれない。そのことについて僕はしばらく考え込んだが、思い出せるはずもなかった。

 窓からは水道会社のビルが見えた。その建物は道路を挟んでマンションのすぐ向かいに建っているのだ。夜中なのでたくさんある窓はどれも真っ暗で、街灯が箱型の巨大な建物をぼんやりと浮かび上がらせている。ずっと向こうには観覧車が見える。その観覧車のそばには細い川が流れているはずだ。それは街を南北に走る、市の水源となる川なのだ。Tが住んでいるマンションもきっとその川沿いにあるのに違いない。その気になれば彼の住居を特定することも可能かもしれない。「リバーサイド」からはじまるマンションはその川沿いにいくつかあるのかもしれないが、Tが建物の特徴を説明したときの言葉を手掛かりにすれば、おそらく簡単に見つかるだろう。

 乾いた灰色の街は夜の闇の中でも印象が変わらない。鉄鋼と製鉄によって発展したこの街には、どんなものにも鉄の色が染みついている。この土地で暮らしていると、ときどきひどく寒々しい気分になることがあるが、それもはその色のせいだと思う。海岸沿いにあるあの工場群の煙突が吐き出す煙が、建物もアスファルトも電車もモノレールも同じ灰色に染めてしまうるのだ。冬になると実際の気温よりもずっと寒く感じられるのも、その灰色のせいだ。あの灰色に比べたら、夜の漆黒のほうがずっと温かく感じられる。

 ヒユは明け方に帰宅して、機嫌が悪かった。「入り口のオートロックの扉がまた故障してたわ。鍵を差し込んでもうんともすんともしないの。どうしてこんなに頻繁にそんなことが起こるのかしら? まったくここの管理会社ときたら……」

「ロビーに変な連中がたむろしていなかった?」

「知らないわ。誰もいなかったわ。でも、そういえばやたらごみとか吸い殻とかが散らかってたわね。そう、それもあって私はイライラしたのよ。どうしてちゃんと掃除しないのかしら、本当に辟易するわ、なんて管理がずさんなのかしら?!(以下管理会社に対する不満、愚痴が続いた)」

 ヒユがこんな風に不機嫌なとき、僕は余計なことは言わずにひたすら沈黙するのみである。ロビーを散らかしたのはあのチンピラみたいな若者の群れに違いなく、つまりそこが汚されたのは夜中のことなので、まだ管理会社はそのことを把握してさえいないはずだった。そのことについて僕は管理会社を擁護したかったが、そんなことをしたらヒユの怒りがますます燃え盛るのは明らかだった。だから僕は黙っていた。黙っていたら黙っていたで、その沈黙に対してヒユがかみついてくることはある。しかし不用意な発言をして、それに対するしつこい追求を喰らうよりは、まだよほど被害が少ない。ヒユには一般論は通用しない。ヒユが敵とみなしたものを擁護しようものなら、僕にもちょっとした危機が訪れることになる。だから黙っているのが得策なのだ。

 僕はシーフードパスタを作った。ヒユの怒りの対象は今や管理会社だけにとどまらずあらゆるものに向かいはじめていた。不機嫌が過去のあらゆる不快な出来事を吸い寄せるというあの循環にヒユは陥っていた。仕事の愚痴だけでなく、過去の学校時代の教師に対する不平や、彼女の両親への不満まで口にしはじめた。辟易する、という表現を彼女はその日気に入っていた。途中から数えただけでも一連の愚痴の中にその表現は17回も出てきた。彼女はその言葉を、幼児が覚えたての言葉を繰り返すみたいに何度も口にしながら、ありとあらゆるものに呪詛を投げつけていた。腹を立てているとき、彼女の語彙はひどく乏しい。

 ヒユはパスタを食べながら愚痴を続けていた。僕は窓辺に立ち、彼女の声を聞きながら、13階からの眺めを見下ろした。そして今この時刻に同じように窓から街を眺めているかもしれない誰か見知らぬ人物のことを思う。

13. ヒユと出会った頃

 

 初めて会った時からヒユは売春婦には見えなかった。職業を明かされた後でも、僕はそのことがなかなか信じられなかったほどだった。髪の毛は黒くまっすぐで、服装はシンプルで、眼鏡さえかけていた。彼女は育ちも成績もよさそうな女子大生といった風に見えた。

 ある日、僕とヒユはデパートの屋上にいた。冬の終わりの日曜日のことだった。買い物を終えたあと、屋上で一休みしていたのだ。屋上はちょっとした遊園地のようになっていて、子供たちがそこらじゅうで大声を上げながら遊びまわっていた。僕らは屋上を囲むよう張り巡らされた鉄の柵のそばで眼下の景色を眺めていた。ヒユの手にはスターバックスのカップが握られていた。その頃、僕は僕は彼女の職業だけでなく、年齢も住所も家族構成も、何ひとつ知らなかった。彼女が何らかの仕事をしていて、その職業によって少なくない収入を得ているらしい、ということは知っていた。それは彼女が身に着けている衣服や装飾品から推察できた。それに彼女はいつも僕に食べ物や飲み物をおごってくれた。僕はすでに彼女に、自分が働きもせず親から金を受け取って遊んで暮らしていることを、取り繕うことも隠すこともせずに伝えていた。僕はヒユの前では僕は正直だった。というより正直にならないわけにいかなかった。ヒユにはどこか、他人に対して、正直であることを要請する何かがあった。そして彼女の前で正直であることには、なぜかある心地よさのようなものがあった。ヒユの何がそんな影響を自分に及ぼすのか、それが当時の僕の彼女に対する関心の最たるものだった。僕はそれを探りあてるために彼女と会っていた気がする。

 そのにぎやかなデパートの屋上で、はじめてヒユは自身の職業について言及した。彼女が仕事の同僚についての何かささやかなエピソードを話して、それで僕は、あたかもそのときはじめてそれについて疑問を抱いた、というふりをしながら、さりげなく彼女の仕事について尋ねたのだった。

 ヒユは少し考えた後で答えた。そのときの彼女の言葉はひどく抽象的なものだった(当時のヒユはなぜか抽象的な表現を好んでいた)。

「受け継ぎ、しかるべきのちに他人に受け渡す仕事」。彼女はそんな言葉で仕事について説明した。

 僕はもちろんいろんな質問をしたが、結局詳しいところは謎のままだった。僕が彼女の職業を知ったのはもっとずっと後、彼女と一緒に暮らすようになってからのことである。

 

 初めてヒユの部屋を訪れたとき、そこはテレビなどで紹介される「ごみ屋敷」のような様相を呈していた。そして彼女はそのことについて、特に悪びれる様子も見せなかった。ヒユが家事については壊滅的な能力しか持ちえていないことを僕は知った。彼女のそんな面については、今もさほど変わりはしない。

 部屋にはわけのわからない匂いがたちこめていた。化粧品や香水や芳香剤の香りと、ごみや埃や黴などが生み出す臭気が混ざりあって、そのような混沌とした匂いを形作っていたのだった。部屋にも廊下にも、足の踏み場はほとんどなかった。ヒユはリヴィングに僕を案内した。脱ぎ捨てられて放り出されたままの洋服、「シャネル」や「アニエスベー」や「グッチ」や「UG」などの紙袋、無造作に積み重ねられた雑誌や本、紙くずやティッシュペーパーがいっぱいに詰まったいくつものビニール袋などの中に埋もれるように、四角いガラステーブルとクリーム色のソファが置かれていた。彼女がそうするよう勧めたので、僕はソファに腰かけた。

 そのあと、ヒユは飲み物をふるまおうとしてくれていたが、僕はとりあえずそれを断った。そしてまず掃除をするべきだと主張した。ヒユは、なぜかやや面食らったような顔つきをしていたが、結局は僕の言葉に従った。

 

14. 捨てること

 

 僕は毎日彼女の部屋に通い、部屋を掃除した。当時から僕がヒユに提供できるようなものといえば、あり余る時間しかなかったのだ。彼女に気に入られようとして掃除を引き受けたのではなかった。僕の中にはただ、彼女の部屋をまともな状態に戻したいという欲求しかなかったように思う。そして僕にとって彼女の部屋を掃除するのは苦痛でも重荷でもなかった。どちらかと言えば楽しんでさえいた。僕は別に掃除好きというわけでもないし、他人の世話を焼くのが好きなわけでもない。今思うとおそらく僕は何でもよいから何かエネルギーを傾ける対象を欲していたのだ。

 ヒユはどんなものでも捨てずに大事にとっておく習慣があるらしかった。そのせいで部屋は散らかってしまうのだ。掃除の過程で僕には不要ながらくたとしか思えないいろんな物体が山ほどでてきた。みんな捨ててしまおう、と言うとヒユは拒んだ。彼女はそれぞれの物の用途や、それに宿った思い出や思い入れなどを熱心に語るのだった。しかし僕は譲らなかった。

「一度きりしか使わなかったものや、何年もその存在さえ忘れて放置していたもののために、君の部屋はこうやって占拠されているんだよ。馬鹿げたことだと思わないか? そんな無駄なものを置く空間を確保するために、月々の家賃を支払っているんだよ。それは愚かなことだよ」

「捨てしまったらあとになって絶対に後悔するの。これまで何度もそういうことがあったもの。捨てた直後にどういうわけか、必要な機会が訪れるのよ。いつもそうなの。だから捨てられないの」

「そういうことはあるよ。それはわかるよ。でもそんなことも言っていられない。とにかく物が多すぎるんだよ。このままじゃこの部屋は、ごみとガラクタにふさがれてしまって、文字通り足の踏み場もなくなってしまうよ。だいいち使いもしないものを持っていたって仕方がないだろう」

 ヒユはまだ憮然としていた。

「どうしても必要ならまた買えばいい。そうすれば後悔しなくてすむ。後悔なんて無意味だからやめるべきだよ。それが君に必要なことだよ」

「そんなことできるわけないわ。どうしたって後悔はしてしまうもの」

「できるさ。つまり何も思い出さなければいいんだ。思い出すという行為そのものをやめてしまうんだ。その機能を殺してしまうんだ。そしたら後悔もしない。後悔することは堕落と退行に結びついている。思い出とそれに伴う後悔が、人を堕落させる最大の要因なんだよ。崩壊したこの部屋にそのことは現れている」

「そんなの無理だわ。人はほっといても思い出すし、後悔してしまうわ。記憶ってそういうものでしょう。ある音や匂いや感触によって、脳は勝手に刺激されてしまって、意思とは無関係にいろんなことを思い出してしまうのよ。それをやめるなんて不可能だわ。それにね、後悔したり反省したりすることって人間には必要なのよ。人が成長するために必要なの」

「そんなことはないよ。そんなのは思い込みみたいなものだよ。どっかの誰かが勝手に作った勝手な説だよ。そんなのに従う義務はない。何もかも思い出さず忘れてしまったほうがずっといい。反省なんて意味ないし、後悔なんてもってのほかだよ。ただ元気がなくなるだけだよ。あんな無意味なものはない。今すぐやめよう。やめようと思えばやめられるものだよ」

「じゃああなたは後悔しないの。何も思い出さないの」

「僕だって後悔するし、思い出すこともあるよ。でも僕は人よりあまり思い出さないと思う。何か思い出しそうになったら、別のことを考えたり、何か肉体に負荷をかけたり、何かに集中したりして、頭から追い払うようにしている。そうやって記憶を封じるんだよ。要するに慣れと訓練だよ」

「あなたはそんなことを言うけどね、もし思い出すという機能がなければ、あなたは日常生活だってままならないはずだわ。人間の行動は記憶に支えられているのよ。聞いたり話したりする言葉だって、歩いたり走ったり、何かを手に掴んだり、道具を使ったりとかの普段の行動だって、すべてはわざわざ意識することもない膨大な量の記憶に支えられているのよ。あなたが本当に思い出すことを止めてしまったというのなら、あなたは今こうして私と話すことだってできないはずだわ」

「僕が言うのは、つまり追憶のことだよ。失ったものを数えたり、それらに思いをはせたりすることだよ。僕はそういう感情を殺したんだ。氷漬けにしたんだ。感傷につながるすべてを僕は殺したんだ」

「嘘だわ。そんなことできるわけがないわ」

「できるよ。僕だってできたんだ。いや、完全にではないけど、ある程度まではできるようになったんだ。意志の力だよ。意志さえあれば誰でもある程度のところまで行けるものだよ」

「簡単じゃなさそうだわ。というより、ひどく難しそうに聞こえるわ」

「きっとできるよ、努力するんだよ。まずは部屋を綺麗にすることだよ。それがはじまりなんだよ」

 僕はそのように彼女を説得した。 

 それから一週間ほどで部屋は綺麗になった。ヒユは僕の清掃の手際の良さにとても感心していた。彼女にはそれは「能力」であり「才能」であるという風に映ったみたいだった。そんなに大げさなものではない、誰にでもできるし誰もが日常的にやっていることだ、とは言わずに、甘んじて僕は称賛を受けた。


 

 僕はヒユの前では正直であり続けた。一度の嘘さえつかなかった。彼女との付き合いの中で僕は、人は何か理由があったり、必要に駆られたりして嘘をつくのではなく、つきたいからつくのだ、ということを知った。それで僕は彼女の前では嘘をつきたい気分には一度もならなかったのだ。ヒユの何がそんな感化を及ぼしたのだろうか? ヒユ自身は清廉な人格の持ち主というわけでもないし、決して正直者ではないし、たびたび僕を欺いたりもするし、そのうえ夜の街で体を売る存在である。しかしヒユが売春婦だと知った後では、不思議なことに、僕はそれ以前よりも彼女に惹かれていた。彼女の内部には空洞がある。彼女の職業について知ったとき、はじめて僕はその存在を知った気がする。僕が惹かれたのは正確には彼女ではなく彼女が抱えるその空洞だった。果てしなく、あらゆるものを吸い込むその深い闇に、僕もまた吸い寄せられていた。その空洞の闇の奥深くには未知なる巨大な生き物が潜んでいて、ヒユはせっせとそれに餌を与えて育てているのだ。それが僕がヒユに対して抱いた総合的な印象だった。

 彼女の瞳は『罪と罰』のソーニャみたいに愛と慈しみにあふれてはいない。しかしヒユは僕にある道筋を示したのだし、僕はそれを今も辿っているのだった。

15. 泣く女

 

 パスタを食べ終えたヒユはすでに元通りになっていた。つまり機嫌は直っていた。僕は窓を眺めるのを止めてコーヒーを作った。僕がコーヒーカップをテーブルのヒユの前に置いたときには、ヒユは小さな声で「ありがとう」とさえ言った。ヒユはコーヒーを飲みながらどことなくぼんやりしていた。

 僕はリビングのソファに腰かけ、テレビのリモコンを手に取り、スイッチを押しそうになってやめた。ヒユがテレビの音を嫌がる可能性があったためだった。時と場合によって、ヒユはテレビの電源を入れることに非常な嫌悪を示すことがある。

「音楽を聴いていいかな」と僕はヒユに尋ねてみた。ヒユは何も言わなかった。僕が質問を忘れたころになって、ヒユが言った。「『メル』をかけて」

 僕は言われたとおりにCDを手に取った。『メル』というのはアーティストの名前である。ぴったり3分の曲が10曲、タイトルはいずれも『Untitled』、アートワークは真っ白、ライナーノーツの文字はひどく小さくて薄くて読みづらい。つまりそういったスタイルのアーティストである。CDをセットして再生ボタンを押すと雨だれの音に似た電子音が部屋に満ちた。ヴォリュームを最大にしてもごく小さくしか聞こえない。

 ヒユはぼんやりしていた。相変わらず。音楽が耳に届いているのかどうかもわからなかった。僕とヒユの音楽の好みは不思議なほど一致した。ヒユは電子音だけで作られた音楽を特に好んだ。人間の声が入った音楽は、ほとんど憎悪していた。歌が入ったCDは家には一枚もない。僕もまた、ヒユほど極端ではないにしても、インストルメンタル音楽のほうが好きだった。

 どうして急にヒユが黙り込んでしまったのか、やはり不機嫌は直っていないのだろうか? そのとき僕は、音楽の隙間から奇妙な音が聞こえてくるのに気付いた。それは電子音ではなく人の声だった。それはヒユの泣き声だった。彼女の青ざめた白い頬には涙が伝っていた。嗚咽は少しずつ大きくなり、彼女は肩を震わせはじめた。目は閉じられ、長い睫毛がかすかに震えていた。そんな風にヒユが泣くのは珍しいことではない。そして僕はヒユが涙を流すところを見るのが嫌いではなかった。その様子には何か僕の心を落ち着かせるものがある。

 僕は音楽とヒユの嗚咽に耳を澄ませながら、雨だれが窓ガラスを伝うのを見るように、ヒユの流れる涙を見ていた。

 まだずっと付き合いが浅かったころには、僕はヒユが泣くと取り乱してしまって、いろいろ余計なことを言ったりやったりしたことがあった。そのような言動や振る舞いは、彼女が泣き終えてから非難の対象になった。「どうしてあんなことをしたの(言ったの)。どうして放っておいてくれなかったの」彼女はそういうことを言って、僕を叱責し糾弾した。それで僕はヒユが泣いているときには放っておくのが一番良いのだという結論に達した。それは考えてみれば当然のことのようにも思える。誰だって泣いているときにあれやこれやとかまってほしくはない。もっとも、僕自身は泣いたことなどもう何年もなかった。

 『メル』の短いアルバムが終わるのと同時にヒユは泣くのを止めた。彼女は立ち上がり、「少し眠るわ」と言った。僕は頷いた。

 

 歯を磨いた直後のことだった。突如として強い食欲が僕を襲った。ようやくまともな食欲が戻ってきたことを喜ぶどころではなかった。その食欲があまりに激しかったために、僕はほかのことは考えられなくなってしまって、ほとんど理性を失いそうだった。眠気を覚えてはいたが、食欲のほうがずっと強く、もう眠るどころではなかった。僕は戸棚をあさり、そこにあったものをみんな食べた。すなわちインスタントラーメン、ポテトチップス、バターピーナッツ。どう考えてもまともな食事ではなく、間違いなく健康にも悪いだろう。しかし僕にはそんなことを考慮する余裕はなかった。

 

 次の日、ヒユとの間にちょっとした諍いが持ち上がった。彼女が自分のために買っておいたポテトチップスが戸棚から忽然と消え失せてしまったことについて、僕に尋ねたのだった。僕は正直に白状した。当然彼女は怒りだしてしまった。「土曜日の午後は、私はソファに寝そべって好きな音楽を聴きながらポテトチップスを食べるの。そうするって決めているの。いつもそうしていたじゃない。あなただって知っていたでしょ? 一週間それを楽しみに生きていたのよ。どうしてそんなことしたのよ。私はあなたはその楽しみを奪ってしまったのよ」

 僕は謝った。そしてすぐに同じものを買いに行こうとしたが、ヒユはもういいと言った。

「もう遅いわ。今から買ってきたってもう間に合わない。土曜日の午後の、いちばん素敵な時間がもう過ぎようとしている。そうよ、大切な瞬間というのは、油断していると一瞬で終わってしまうのよ。あなたが台無しにしたのよ。あなたはそれだけのひどいことをしたのよ。そのことを知りなさい。そして反省しなさい」

 そのあとヒユは一人でどこかに出かけてしまった。

16. 新しい習慣

 

 真夜中の街を歩いて湾岸へと向かう。それが新しい僕の習慣になる。その場所で一晩過ごしたあの夜の空気の感触のようなものが、僕は気に入ってしまった。何度も同じ時刻に同じ場所で同じように過ごした。何もせず、防波堤に腰かけて海や対岸や空を眺める。その間、誰とも出くわさなかった。

 夜明けの直前のある時間、消えかけの星が小さな泡のように見えることがあった。泡が布に吸い込まれるみたいに、星々は空の白みに消える。その時間帯のその瞬間にしか見ることのできない様相というものは存在する。その時刻にこの場所にいなければ決して知ることができなかった、星が泡みたいに見えるなんてことは。海の様子も昼間や午前中とはぜんぜん違う。海面が暗い鉛色の絨毯のように見える瞬間がある。考えてみれば、どんなに見慣れた場所でも、我々がその景色を目にするのは限られた一瞬だけなのだ。季節や時間帯によってある場所がどのように陰影や空気の質感を変化させるか、多くの場合、我々はそのほんの一部分しか知ることはできないのだ。湾岸の景色について、僕が少しなりとも知っていると言えそうなのは、冬の終わりの夜明け前のほんの一瞬についてのみなのだ。生活とはとても狭い範囲で限定されたものなのだということを僕は知る。

17. 『Civilization VI』

 

 頭から毛布をかぶって椅子に座り、無表情な目つきでディスプレイを見つめる一人の男。それはほかでもない僕の姿。より深い純粋な没入感を得るために、とにかく何かをかぶることが必要なのだ。それで僕は毛布をかぶる。『Civilization VI』は恐るべきゲームである。それがいかに恐るべきものであるかについては、販売プラットフォームである『Steam』のレビュー欄で、世界中のプレイヤーが言葉を尽くして語っている通りである。つまりそのゲームは人を中毒にする。時間があっという間に過ぎる。生活に支障をきたす。などなど……。自らプレイするまでは、僕はそうした言葉を信じなかった。多くの人に起こる現象だからといって、自分の身にも同様に起こるとは限らないと思っていた。何となくとっつきにくそうに見えて、自分がそのゲームにうまく夢中になれるとは思えずにいた。しかし結局、僕は彼らが語るとおりの体験をした。麻薬にもたとえられるその依存性を体感した。実際のところそのゲームはたいして面白くはない。しかしひとたびはじめてしまうと止めることがなかなかできない。たとえば一時間だけ遊んでやめる、などといったことは絶対にできない。そして食欲や睡眠や時間の経過などに対して興味を失ってしまう。彼らは全く本当のことを語っていたのだ。僕は身をもってそのことを知った。

 湖底から浮上してパソコンをスリープさせる。壁の時計を見ると、いつものことながら、そこに示された時刻が信じられない。僕の数時間はいったいどこへ消えてしまったのか? そして部屋が自分の部屋に見えない。誰か他人の部屋に迷い込んでしまったような気がする。僕の脳は現実を正確に認識できない。意識はゼリーみたいに軟弱化してしまっている。

 僕は椅子にもたれ、首を背もたれに乗せて目を閉じる。両手をお腹の上に置き、静かに呼吸を繰り返しながら、しばらく動かずにじっとしている。そうやって、意識がしかるべき硬さを取り戻すのを待つのだ。そのときの気分は不思議と快くないこともない。しかしあまり長くは耐え難いものでもある。せいぜい三十分から一時間程度しか続かないことを知っているからこそ、耐えられる種類の気分だった。僕は目を閉じたままひたすら待つ。

 ようやく正気に返ったときには、まるで脱皮した後みたいにすがすがしい気分になっている。そして僕は、ゲームを遊びはじめる前までは頭を悩ませていたはずの様々な悩みや不安が、いつしかすっかり消え去っていることに気づくのだった。

18. 水没自転車・1

 

 このところヒユには悪いことが重なるようだった。今日もまたヒユは真剣に腹を立てていて、それについては僕が尋ねなくても彼女は自ら理由を話してくれた。つまり愛用の自転車が盗まれたのだ。ヒユは赤い軽自動車も所有していたが、それとは別に自転車に乗ることも好んでいる。その自転車が盗まれたのだ。ヒユは防犯登録をしていたが、前述のとおりこの街では自転車の盗難は非常にありふれているので、警察に届け出たところでほとんど意味はない。たいていの場合あきらめるしかない。そしてヒユはまたしても怒りと落ち込みのためにふさぎ込んでいて警察に届け出るどころではなかった。

「初詣に行くべきだったんだわ」とヒユはため息をつきつつ言った。「あれを怠ったから、今年は悪いことばかりなのかもしれないわ。神様に見放されているんだわ」

「確か昨年も行かなかったはずだよ。昨年も今年と同じように、部屋に閉じこもっていたよ。でも君は昨年はそんなことは気にもしていなかった」 

「今からでも行ったほうがいいのかもしれないわ。このままだとこの先何が起こるか」

「でももう二月なんだよ」

「いいのよ。遅いも早いもないわよ。受け入れてくれるわよ。何しろ相手は神様なんだから」

 我々は近所の神社に出かけた。神社の構内は閑散としていた。平日の午後にそんな場所を訪れるのは僕らだけだった。ヒユは賽銭箱に五百円玉を投げ入れた。その金額の大きさに彼女の意気込みが感じられる。それから垂れ下がっていた太い綱をつかんで勢いよく思い切りがらんがらんと鐘を鳴らした。僕のほうはお金は投げ込まず、ただ手のひらを合わせただけである。

 神社を出て僕らは川べりを歩いた。奇妙なことに、いや、あるいは自然なことなのかもしれないが、ヒユの機嫌はずいぶん直っていた。そのあたりでは川幅が広く、およそ20メートルはあった。寒い日だったが天気は良く、空は澄み渡って青かった。僕らはいくつかの橋を通り過ぎた。犬を散歩させる人やジョギングをする人とすれ違った。川では亀が泳いでいた。

「この川が終わるところまで歩き続けたい気分だわ」とヒユが言った。しかしもちろん川の果ては歩いて目指すには遠すぎるところにある。僕は川べりに並ぶマンション群を眺めていた。そのうちの一つがTのが住むマンション、あのリバーサイド、何とかマンションであるはずだ。やたらに細長いマンションは、僕が発見しうる限りでは三つあった。そのうちの一つの、どこかの一室にTが住んでいるということになる。

「ねえ、あれ」ヒユが川の真ん中あたりを指さした。川の水面から、自転車のかごらしきものが飛び出していた。川に自転車が沈んでいるのだ。それほど珍しい光景というほどでもない。しかしヒユはその場に立ち止まった。

「あれ私の自転車じゃないかしら」

 まさか、と僕は言った。そして笑おうとした。しかしヒユが全く真剣であることに気づいて、すぐにその笑いを引っ込めた。

「間違いなく私のだわ。かごと、ハンドルの形が同じだもの。」

 僕は注意して見てみたが、よくわからなかった。だいいち僕はヒユの自転車の特徴や形を正確に記憶していない。赤い塗装が施されていた、ということしか覚えていない。

 ヒユはそれ以上歩こうとしなかった。柵に手をかけて、身を乗り出すようにして水の中の自転車を見つめていた。

「よく似た別の自転車じゃないかな。たまたま通りかかった川の中に落ちてるなんて、おかしいよ。あまりにもできすぎだよ。そういう都合のいいことはめったにないよ」

「そんなにおかしくないわ。だって私が自転車を盗まれたのもこの近くなんだから」

「そうなの? でもどうしてそれが、川の中に……」

「盗んだ奴が投げ捨てたのよきっと。そうに違いない。もういらなくなって、面白半分に川に投げ込んだのよ。自転車を盗むような人なら、それぐらいやるわ」

「君は失くしたショックで君は少し混乱しているんじゃないかな。無関係の自転車が自分のものに見えてしまうほど混乱しているんだよ。だってあんな一部しか見えないのに、間違いなく自分のものだって、本当に言い切れるかなあ? 僕は無理だと思うな!」

「わかったわよ。そんなに言うんなら、もっとちゃんと確かめてみましょうよ」

「どうやって」

「あれを拾い上げるの。水から出して、岸に引っ張り上げて確かめてみればいいわ。そうすればすべてが明らかになるんだから」

「無理だよそんなの」

「またはじまった! あなたはいつもふたことめには無理だって言うわ。無理だとか駄目だとか、そういう姿勢のせいで、あなたはいろんなものを台無しにするし、いろんな機会を逃してしまう。そうやって自分自身を損なっているのよ。そうした考え方は直したほうがいいわ。そうしないとそのうち手遅れになっちゃうよ」

「川に入るのは簡単じゃないよ。流れもあるし、ひどく深いところもあるかもしれない。水も冷たいだろうし、下手したら溺れて流されたりしてしまう危険もあるんだよ」

「この川は海に近いから、潮の満ち引きのために時間帯によって水位が変化するの。たぶんもう少ししたら、もっと浅くなるはずだわ。それまで待ちましょう。ちょうどあそこに(ヒユは川べりの一角を指さした)カフェもあることだし。あそこのオープンテラスでコーヒーでも飲みながら待てばいいわ」

「二月だよ。こんな寒い日に川に入るなんて無茶だよ。それに自転車っていうのは重いからね。君はあれを引っ張り上げて、あの位置から川の流れに逆らいながら、岸まで運ばなきゃいけないんだよ。そんなのは、もう相当大変だよ」

「何言ってるの? 川に入るのは私じゃなくてあなたよ。あなたがあの自転車を取りに行くのよ」

 僕は必死で抵抗したが、いつものことながら、結局は押し切られてしまった。ヒユは頑固なときにはほとんど病的なほど頑固なので、ちょっとやそっとの反論などまるで意味がない。そして僕のほうは、立場的な負い目もあって、彼女に対してそこまで強気にはなれないのだった。

19. 水没自転車・2

 

 川が潮の満干の影響を受けるのは事実だった。僕らがカフェでコーヒーを飲んでいる間に、忌々しいことに本当にヒユが言ったとおりに川の水位は下がり、午後三時過ぎには、川底に沈んだ岩の一部が露出するほどにまでなっていた。例の沈んだ自転車は今では車体の半分ほどが覗いていた。かごとハンドルだけでなく車輪やサドルの部分まであらわになっていた。「頃合いだわ」とヒユが言って立ち上がった。僕らはカフェを出て再び川沿いの道に戻った。

 それでもなお、僕は寒いとか人が見ているからとか水が冷たいとか川底にガラスの破片とか釘とか危険なものが落ちていて怪我するかもしれないとか言って抵抗したが、もちろんヒユは聞き入れなかった。

「早く準備をして」と彼女は言った。

 僕は覚悟を決めて川岸に立ち、靴と靴下を脱ぎ、ズボンをまくり上げた。そしてコンクリートの岸辺につかまりながら川に降りた。冷たい水が足に触れた瞬間、僕は人生を憎み神を呪いたい気分になったが、逃げ道はなかった。僕は水の中を歩きはじめた。水は浅く、最も深いところでも膝の上までほどしかなかったが、もちろんだからと言ってそれは容易な道のりではなかった。寒いのはもちろん、変なものを踏みつけてしまわないかという不安もあった。足の裏が柔らかい泥と小石に触れる。その感触自体は、心地よいと言えなくもなく、どこか懐かしい気分にさえなったが、水の冷たさには慣れようもない。僕は20メートルほど歩き、やがて自転車のところまでたどり着いた。傾いて横倒しになったそれは、後部がわずかに泥に埋まっていた。僕は左手でハンドルを握り、右手をサドルにかけて、泥から引っ張り上げた。飛沫が衣服にかかった。結局僕が履いていたジーンズはずっと上までたくし上げていたにもかかわらず濡れてしまった。水はそんなに浅くはなかったのである。僕はそのまま両手で自転車を抱えて岸へ向けて引き返した。想像したよりずっと自転車は重く冷たい。まるで水を吸って膨張しているのではないかとさえ感じられる。

 岸に着くとヒユが自転車を引っ張り上げるのを手伝ってくれた。それでつい先ほどまで水の中に沈んでいた自転車は、無事引き上げられて川岸のコンクリートの地面の上に置かれた。

「ご苦労様、はいハンカチ」とヒユが言ってハンカチを差し出した。僕は受け取って両足を拭いた。靴と靴下をはき、ズボンを元通りに戻したが、まだ両足は冷たいままだった。氷の芯が中に通っているみたいな気がする。僕はずっと震えていた。

「やっぱり私のだわ。間違いないわ」ヒユが言った。

「本当に? 車種が同じなだけの、他人のものじゃないの」

「私のだわ。それを示す証拠があるの。ここを見て(と言ってヒユはサドルの横の部分の小さなキズを指さした)。こないだ倒しちゃったときに、ここが破れたの。間違いなく私のだわ」

「それならまあ、よかった。もし違ってたら僕は報われない」

「それにしても、ひどい人がいるものだわ! 盗んだ挙句、川に放り投げるなんて。よくもそこまで非道になれるものね。信じられないわ。許せないわ」

「でも無事に戻ってきたことんだから、よかったじゃない」

「まあそうね。そういうことにしておきましょ。あなたもよく頑張ってくれたわ。ありがとう」

 ヒユは珍しくもそんなねぎらいの言葉をかけてくれた。僕はほとんど耳を疑っていた。

「さっそくご利益があったってことだわね。あそこの神社の神様は仕事が早いわ」

 

 僕は濡れたジーンズを履いたままで帰らなくてはならなくなった。

「まあいいじゃない、そんなに歩くわけでもないし、誰も気にしないよ」

 しかしヒユはまっすぐには帰らなかった。彼女は自転車を押して歩きながら、交番に立ち寄ると言い出した。

「この自転車が盗まれたこと、しかも川に放り投げられていたことを、警察に報告しなくては」

 警察が真剣に取り合ってくれるとはとても思えなかったが、僕は何も言わなかった。そして黙ってヒユについて行った。

 交番もまた川沿いにあった。

 ヒユは交番にいた巡査に自転車を見せ、そして一連の顛末を説明した。いかに彼女が自転車を大切にしていたか、盗まれたときどれだけ悲しかったか、盗んだ挙句に川に捨てた人物がどれほど非道で許されがたい人物であるか、そうしたことを熱心に訴えていた。若い巡査は、相槌を打ちながら調書に何か記していたが、どこかうんざりしているような様子も見えた。うんざりするのも無理はないのかもしれない。この街では自転車の盗難はありふれている。いちいちそんな犯罪にかまっていたら、それこそ人手がいくらあっても足りない。警察にとってもどうしようもないのだろう。

 濡れたジーンズはまだ乾くはずもなく、僕は冷たさを感じ続けていた。実際のところ僕は早く帰りたかった。タイヤのスポークやチェーンに川の藻がまだこびりついていたので、僕は二人が話す間、それを手で取り除いていた。

「ぜひとも犯人を捕まえてください」という言葉でヒユは長い話を締めくくった。

 巡査は言った。「あなたのご立腹はもっともですし、お気持ちは理解できますし、個人的には心からの同情をささげたいですが、しかし残念ながら犯人を見つけることはおそらくほとんど不可能です。何しろ自転車の盗難というのは件数が多すぎるんです。誰にも目撃されず何の証拠も手掛かりも残さずに自転車を盗み出すことなど、驚くほど容易にできてしまう。人口100万のこの街で、毎日何十件もそういう盗難が起こっているのです。そんな状況ですから、そのなかから犯人を見つけ出すことなんてことは、お判りいただけると思いますが、もう絶望的な作業です。砂漠に散らばった塩粒を拾い集めるようなものです(これは以前の巡査部長が好んで使っていたたとえなんですよ。へ、へ、へ!)。あなたの自転車は一応は戻ってきたのですから、そのことだけでも幸運だったと考えるべきです。盗難された自転車の99パーセントは見つからないのですよ。そしてこの件についてあなたができることといったら、すべては過ぎたことなのだと割り切って、これからは決して盗まれないように、施錠と防犯を厳重にすることだけです。それしかできることはないです」

 ヒユは簡単には引き下がらなかった。自転車の指紋を採取するべきだとか、もっと広く熱心に捜査をするべきだとか主張した。巡査はいちいちそれらの意見に対して穏当に反対意見を述べていた。そんな不毛な(ヒユの熱心さと怒りとを思うと、そのような表現は不適当に思われるが、しかしやはり不毛としか言いようのないものだった)やりとりが15分ほど続けられたあとで、ようやくヒユはあきらめた。親切な巡査は、どうか気を落とさないように、と別れ際にヒユに言った。僕からも巡査に改めて礼を言い、我々は交番を去った。

「私が自分で見つけ出して、そいつに個人的な刑を、つまり私刑をくらわすしかないわ」マンションへ戻る道を歩きながらヒユはそんなことを言った。

 ヒユは怒りと不満と義憤に燃え盛っていた。そんな状態の彼女に何か意見しても、あまり効果はない。それに僕が言いたいようなことはすでにあの交番の巡査がみんな言ってしまっていた。帰りに通りかかった商店街の中の小さな屋台風の店で、僕らはたい焼きを買って帰った。

20. 泥棒たちの天国

 

 帰宅してすぐに僕はシャワーを浴びに行った。ヒユはベランダに自転車を持って行き、そのまま雑巾やらタオルやらクロスやらで自転車の清掃をはじめた。藻は取り除かれていたとはいえ、ステムやホイールの塗装の上にはまだ泥や土の汚れが付着していて、ヒユはそれを拭き取っていたのだった。シャワーを終えて僕が部屋に戻って来てもヒユはまだ清掃を続けていた。僕はソファに腰かけて開け放ったサッシの向こうで腰をかがめて熱心に自転車を磨いているヒユのヒョウタンのような後姿を眺めた。

 ヒユの後姿がヒョウタンのように見えるのは、下半身だけは妙にどっしりしているからである。ほっそりした上半身から視線を下半身へと向けてゆくと急に裏切られたみたいに大きな曲線が腰骨の上あたりから現れて両方に大きく広がり、そのままなだらかに太ももからふくらはぎへと続いている。ヒユは背が高くなく、手足は比較的短い。だからしゃがむとヒョウタンみたいに見えるのである。ときどきヒユの横顔が覗いた。それは真剣さと、そして自転車に対する愛情に満ちた、つまりヒユがその赤い自転車にしか向けない表情だった。彼女は自転車よりは自動車に乗る機会のほうが多いはずだったが、どういうわけか自転車のほうにより深く愛情を注いでいるらしい。彼女は清掃に半時間ほどもかけた。その間、窓は開け放たれたままだったので、部屋はすっかり冷えていた。しかしヒユは寒さを感じていないみたいだった。それから彼女は奥の部屋で着替えてから戻ってきた。

 僕はコーヒーを準備し、たい焼きと一緒にテーブルに並べた。

 「それにしても納得いかないわ」ヒユはコーヒーを飲みながらまだ怒っている。僕はたい焼きの頭にかじりついた。たい焼きという食べ物は興味深い。いつも食べるたびにそんなことを思う。どうしてタイなのだろう。語呂がよいからだろうか? きっと調べればもっともらしい理由が出てくるのだろう。インターネットで検索すればすぐに答えは出るのだろう。何にしてもどんな経緯があったにしてもあんこを収めるのにふさわしい魚として最終的に鯛を選び出した先人に敬意を払わずにはいられない。そこにあるそこはかとないユーモアに微笑しないではいられない。

「それじゃあ自転車なんて盗み放題じゃない。他人の自転車だって、そうしようと思えばどれだって自分のものにできるってことじゃない。法の裁きを受けることすらなく。それじゃあ自転車泥棒がのさばって、この街はそういうあくどい泥棒たちの天国ということになってしまうじゃない」

「残念だけど、実際にそうなんだよ。限りなくそれに近い状態なんだよ。あの巡査の人が言っていたみたいに。腹の立つことではあるけれど、どうにもできないよ。警察だって忙しいんだから、そんなにありふれた、そのうえ比較的重要度の低い犯罪にいちいちかまけている暇はないんだよ。自分で守るしかないね。施錠を厳重にするしかないよ」

「もうあの子は家から出さないわ」あの子というのは言うまでもなく赤い自転車のことである。「あんな目に遭うのだったら、このままベランダに置いておくわ」

 ヒユの表情は不満げなままだった。僕は頷いた。ほかにふさわしい反応を思いつくことができなかった。それはヒユの判断であり、ヒユの問題であって、ある程度以上から先は僕が関与できるものではない。

21. ユッカとチョコレート

 

 赤い自転車はそれ以降ベランダに置きっぱなしにされることになった。マンションのベランダはそれほど広くはない。自転車は周囲のがらくたに囲まれて窮屈そうに見える。いつのまにかまたベランダにはわけのわからない物体があふれかえっていた。何度片付けても知らない間にそこに物が増えているのだ。ヒユが、どこにしまうべきか判断のつかないものや、捨てるつもりのものを、一時的にそこに置いておくつもりで、そのまま忘れられて置き去りにされてしまうためだった。

 僕は窓を開けてベランダに出た。古い体重計や分解されたスチールラックや木製のチェストやプリンタなどが放置されていた。キャノン製の真っ黒な、十年ほど前のモデルのプリンタだった。どうして彼女がプリンタなど必要にしたのだろう、思いながら僕はそれらを片付けた。

 いくつか鉢植えが並んでいる。僕がそのようなものを買い求めた記憶はないので、ということはそれらもやはりヒユが飾ったものだということになる。植物の大半は枯れていたし、枯れていないものも、いかにも息も絶え絶えといった様子で、植物とはいえ同情を催さずにはいられないほど気の毒な様子をしていた。しおれて黒っぽく変色した花びらが植木鉢のまわりに虫の死骸みたいに散らばっていた。土が盛られているだけで植物の姿は影も形もない鉢もあった。そうかと思えば、ある鉢の植物はひどく育ちすぎていた。ベランダを片づける作業の途中で、育ちすぎたその植物の葉が僕の腕に触れた。僕は痛みを覚えて手を止めた。触れたところを見てみると、手首のやや上のあたりから血が赤い球体のようににじみ出していた。その危険な植物の名前は「ユッカ」といった(僕はあとでインターネットによって名前を調べた)。細長く尖った葉が何枚もあちこちに飛び出している。葉は硬く、先端は刃物のように鋭利だった。試しに指で葉の先に触れてみたところ、軽くそっと触れただけなのに指先に痛みが走った。思わず僕は手を引っ込めた。

 部屋に戻って水道で血を洗い流してから、ハサミを持って再びベランダに出た。そして「ユッカ」の葉先を一枚ずつハサミで切り落とした。その作業を行う途中にも、何度か僕は手を刺された。切り落とされた二等辺三角形の葉が何枚もベランダの地面に散った。僕はそれらを箒で掃き塵取りに入れた。葉はけっこうな重量があった。そのままだと葉先が指定ごみ袋のビニールを突き破ってしまうので、僕はそれらの葉を新聞紙でくるまなくてはならなかった。

22. 醜い子供

 

 春先のある日の午後、僕は一人で川べりを歩いたり走ったりしていた。ときどきそうやって体を動かしたくなるのだ。その欲求がその日もだしぬけに僕を襲っていた。それで僕は上下ジャージに身を包みランニングシューズまではいて、川べりをジョギングしていたのだった。しかし習慣的に走っているわけではないのですぐに息が切れてしまい、結果的にほとんど歩くのに近いひどくのろのろとした走りになってしまうのだった。それでもそうやって運動をしていると真人間のような気分になることはできる。

 僕はTに出くわした。正確に言うと道路沿いにある公園で、僕は彼の姿を見かけたのだ。Tのほうは僕に気づかなかった。そして彼はひとりではなかった。Tは5歳か6歳ぐらいの小さな男の子の遊び相手をつとめていた。二人はどう見ても親子にしか見えなかった。Tは男の子に鉄棒を教えたり、ボール遊びをしたりしていて、見るからに親密だった。

 我々はお互いの私生活に立ち入らなかったので、僕は彼についての個人的な事柄をほとんど何も知らない。未婚か既婚か、子供がいるのかどうかも、何一つ知らなかった。道路を往復しながら僕は何度も公園の前を通りかかり、その度に彼らを何となく眺めた。子供はTに明らかになついているようだったし、Tはいかにも父親然として見えた。

 

 僕は午後四時ごろに帰宅した。ヒユは起きていて、ソファに寝そべって本を読んでいた。彼女は僕をちらと見てお帰りと言ってまた読書に戻った。

「何を読んでいるの?」

「何でっていいでしょ」 

 彼女は本から目を離さずに答える。僕はダイニングの椅子に腰かけて、ぼんやりする。部屋は沈黙に包まれる。僕はTのことを考えた。彼ぐらいの年齢の男が結婚して子供がいたとしても何ら不自然なことではない。何しろ彼は僕と同い年なのだ。僕は自分が子供を作ることを考えてみる。たとえばヒユとの間に子供が生まれるときのことを想像してみる。もちろん今のところその可能性はない。どういうわけかその子供は、映画館のあの醜いチケット売りの女に似ている。僕は考え込んでしまう。そんな醜い顔をした子供を愛せるのか、可愛がれるのかどうかについて。そうした思考によって、もちろん僕はだんだんと暗い気持ちになってゆく。

 少しして、ヒユは読書を中断して本をお腹の上に置き、一つ息をついた。そして急に思い出したみたいに僕の顔を見た。

 どうしたの、と彼女は尋ねた。「何だか元気がないみたいよ。というか、あなた今日は本当にひどい顔をしているわ。普段よりずっとひどい」

「子供のことを、考えていたんだ」と僕は答える。

「どんな子供?」

「すごく醜い子供なんだよ。誰でも一目見るだけで嫌いになっていじめたくなるような、ひどい顔をしているんだ。ほとんど化け物のようだよ。僕はその子の父親なんだ。父親だから、一緒になっていじめるわけにはいかない。むしろかばわないといけないんだ。でも本当は、僕も心の中では同じように我が子をひどく憎んでいるのにだよ、そういうことを考えていたんだ。それで全くやりきれないどうしようもない気分に襲われていたんだよ」

「なんでそんなこと考えたのよ」

「いや、別に理由はないんだけどね。ちょっとした思い付きでね」

「生まれた子がとても醜いって、そういうのって呪いみたいだね。あなたは呪いのことを考えていたんだね」

「呪い……、そうかもしれないな。そういう言葉が合うのかもしれないな。僕は遺伝について考えていたんだけど、でも遺伝というのも言い換えれば呪いのようなものだからね。僕の血に、僕の遺伝子に、何か良くないものが含まれていて、それが自分の子供に遺伝することを怖れているんだろうな。それはどこかよそから来たもの、遥かな過去から受け継いだ悪しき遺伝子だよ。僕の先祖はどこかでそうしたものを受け取ったんだ。不浄なものが一族の血に混じったんだ。それが大昔から連綿と受け継がれてきて、僕のなかにも息づいているんだ。これまではそれは表出しなかった。でも僕が産んだ子供に、ついにその特徴があらわになってしまう。過去から届いた呪いがついに形をとる。僕はそのときの気分を想像したんだ」

「打つ手なしね。遺伝だものね」

「そうだよ。だからこそ僕は苦しめられるんだ。そしてそれは、単なる想像じゃない気がするんだ。もし現実に僕の血を引く子供が生まれたら、やはり僕はその子に呪いの印を見出してしまいそうな気がするよ。男の子でも女の子でも、可愛くても醜くても、賢くても知恵遅れでも、どんな子供であってもね。僕はたぶん、そういう人間なんだよ。だから子供を作ることを考えるといつも怖くなる。風のうわさでは、かつての僕の同級生の七割ぐらいはすでに結婚して子供もいるという話だよ。そういうことを聞くと僕はまったく唖然としてしまうんだ。彼らはなぜ恐ろしくないんだろうって」

「私も似たような夢を見たことがあるわ」

「どんな夢?」

「私の場合はね、あなたの話とは立場が反対なの。私のほうが呪われた子供なの。私はいろんな人から憎まれて嫌われて、虐められて虐待されて拷問を受けるの。友人も近所の人も、両親まで一緒になってそれに加担するの。夢に出てきたその両親は、私の実の良心じゃなかった。まったく知らない人だったんだけどね。それで、私は夢のなかで思うの。私がこうして憎まれ嫌われるのは仕方がない、私が人々を刺激している。私の中にある何かが彼らの憎しみを呼び覚ますのだからって。だから彼らは私を虐めないわけにはいかないんだって」

「ああ、それは悪夢だね」

「そうでもないわ、不思議なことに。私にとってはそれは決して悪夢ではないの。どうしてかっていうとうまく説明できないけど、とにかく自然なのよ。その夢の世界のありようが。憎まれ虐められて虐待されることが、私にはふさわしい在り方だと思えるの。だから私はなすがままなの。罰せられるがままなの。夢の中の私は少しも苦しんでいない。怖がりもせず、怒りも憎しみもない。私は周囲の人々の悪意をただ黙って受け止めている。とても自然に、静かに。私はいつも目覚めたあとで思うの。現実においても、あんな風に自然でありたいってね」

 彼女の夢の話を聞きながら僕は何となく部屋の中を見渡していた。いつもより室内がどこか薄暗い気がした。

「お酒でも飲む?」とヒユが言った。

 前述のとおり僕に飲酒の習慣はない。しかしその日はヒユの言う通りにした。僕は彼女が注いでくれたウィスキーを飲んだ。たちまちのうちに、僕は錯乱と幻視のとりこになった。

 後で聞いたところによると、酒に酔った僕はさらにわけのわからないことを口走り、また何もない空間に向けて語り掛けたり、笑いかけたりしていたということである。そのような騒ぎが一時間ほども続き、そのあとで僕は疲れ果ててベッドに倒れこんだらしい。僕にはその間の記憶は一切残っていない。

「やっぱりあんたは飲まないほうがいいわ」とヒユがあきれた口調で言った。「手が付けられないわ。私も最後のほうには真顔になっていたわ。あんなに長い一時間はこれまでの私の人生になかったと言ってもいいぐらいだわ。あなたはやっぱり心の奥に手の付けられない邪悪なデーモンを抱えているわ。そうとしか思えないわ」

 まるでアルコール中毒患者を扱うように、それ以来彼女は僕から酒を遠ざけた。部屋にあった酒類はすべて捨てるかヒユが飲んで消費した。僕はヒユに、あの夜のことは例外的なことでもう二度と酒など口にするつもりはないし、飲みたいとも思わないから、そこまでする必要はないと言ったが、彼女は用心に用心を重ねた。泥酔した僕を相手にした一時間の体験が、ヒユにはよほどこたえたみたいだった。

23. 母について

 

 次の日の午後、マンションのインターフォンが鳴った。モニターには僕の母が映っていた。母はときどきこうしていきなり僕のもとを訪れる。もっとも母は、あらかじめ僕と連絡が取りたくても取れないのだ。なぜなら僕は携帯電話やスマートフォンといったたぐいのものを所持していない。かつて一度いざこざがあって、ヒユが僕の契約を解約してしまったのだ。あなたにはそんなもの(電話機の類)は必要ないわ、とさえヒユは言った。月々の料金の支払いはもちろんヒユ任せだったので、僕としては従うしかない。そして確かにヒユの言う通り、僕の生活にはそれは必要なかったのだ。やり取りする相手はいないし、それに加えて携帯電話機器が発するあの振動音とか電子音の類を、僕は嫌っていた。もう携帯電話もスマートフォンも肌身離さず持ち歩く必要がないのだ、と思ったとき、僕は不思議なほどほっとしたものだった。その状態が気に入ってしまったので、もう二年半も携帯電話なしの日々を送っていた。そして不都合や不自由はまったく覚えなかった。マンションの部屋には固定電話もないので、母が僕に用があるときにはこうして直接訪ねてくるしかない。しかし用事などはめったにないのだし、両親は同じ都市の、そう遠くはない地域に住んでいるので訪ねてくるのにもそれほどの苦労はない。

 ドアを開けるなり母は言った。「用事があってね、ちょっと近くまで来たから寄ったんよ。これ渡そうと思って」 

 母は白い段ボールの箱を僕に手渡した。

「これ何」

「リンゴ。もらったんよ」

「リンゴかあ、ありがとう、リンゴは大好物なんだよ」

「あんたはいいわ。あんたの好みはいいわ。ヒユちゃんに食べさせてやり。私はあの子のために持ってきたんよ。あの子はどうしたの? 今おらんの?」

「いるけど、寝てるよ」

「ヒユちゃんはリンゴ好きなんかね」

「ああ、たぶん好きだと思うよ。果物ならたいてい好きみたいだから」

「じゃああの子に食べさせてやって。おばちゃんがよろしくって言ってたって伝えといてね。あんたは食べなくていいから」

「僕も食べるよ。食べたいんだよ」

 母はそのまま帰っていった。僕はリンゴの箱をテーブルの上に置いた。

 母はヒユのことを知っているし、何度か会ったこともあるし、僕がヒユに養ってもらっていることさえ知っている。そのことについて、つまり僕がいわゆる「ヒモ」であることについて、かつて母は僕を厳しく非難したものだったが、最近では何も言わなくなった。それもヒユのおかげである。彼女が僕を擁護してくれたのだ。

 僕と一緒に暮らすことで、自分は精神の安定を保つことができている、とヒユは言った。家事もよくしてくれて手助けしてくれるし支えてくれている、自分は「ちゃんとした仕事」をしているので(仕事についてはヒユは母に語らなかった)生活に支障はない、と彼女は説明した。

「だから息子さんは、お母さまが考えていらっしゃるほど、無価値で役立たずなごくつぶしではないのです。どうかそのことをご理解していただきたいのです」

 ヒユの言葉が本心だったのかどうかは僕は知らない。しかし意外なことに母は説得されてしまったようだった。それだけでなく、母はヒユのことをずいぶん気に入ってしまったようだった。どうやらヒユにはそういう能力というか才能があるらしい。その気になれば容易に人に気に入られ自分の味方にしてしまうことができる。とにかくヒユのおかげで、僕と母親との関係は良好なものに戻っていた。それまでは母は僕が社会的に無価値な存在でいることをいつも嘆いていた。そしてこれまでに僕に費やした教育費について愚痴をこぼしていた。

 昔から母は僕の教育に熱心で、いろんなことを習わせた。ピアノ、習字、学習塾、水泳、そろばん。また母自ら料理の手ほどきを施されたりもした。そんなにお稽古事三昧の男の子というのはなかなかいるものではない。少なくとも当時の僕の周囲にはいなかった。おかげで僕は子供時代、習い事に忙しくて、ろくに友達と遊んだ記憶がない。友達がテレビゲームの話題で盛り上がっていても、僕はテレビゲームなど買ってももらえなかったので話題にも入れない。ゲーム機を欲しがる僕に対して、母は「うちにはそんな余裕はない」と傲然と言い放ったものだった。僕も半ば無理だと知っていたのでそれ以上しつこくねだることはなかった。しかし経済的な意味でなら、余裕がなかったはずはないのだ。何しろあれだけ僕に多くのお稽古事を習わせるお金があったのだから。それらの月々の月謝は馬鹿にならない金額だったはずだ。

「余裕はない」という言葉は、経済的なことを意味していたのではなかったのだ、とずっと後になって僕は理解することになる。つまりあのとき母は僕に、「(お前の人生にとって)そんな(くだらないことをして遊んでいる)余裕はない」と言っていたのだ。

24. 友達同士みたいな親子

 

 『花園シネマ』のラインナップが変わっていた。今月の三本立ては『ダイダロス』『楽園の門』『鉄の時代』だった。いつもの醜い女から僕はチケットを買う。その日は僕が一万円札しか持っていなかったこともあって、彼女はお釣りのために五千円札一枚と千円札を四枚も用意しなくてはならず、そのことは彼女をひどく苛立たせたようだった。どうして映画を見に来るのに一万円札しか持ってこないのか、そのような不満を口に出すことはなくても、彼女の表情がこれ以上ないほど雄弁に物語っていた。彼女がチケットとお釣りを乗せた小皿をほとんど放り投げるように僕の前に差し出した。お釣りとチケットを受け取りながら、僕は思わず「すみません」とつぶやいていた。ああ、この意味のないこの言葉をまた口にしてしまった。口にするたびに自己嫌悪に襲われ、もう二度と言わないようにしようと誓いながら、しかし次の機会はいずれ必ずやってくると言う、あの呪われた言葉である。よりによってこの女にそれを言ってしまうとは。彼女のほうはもちろん最後まで一言も発しなかった。

 僕はいつものように映画を見た。スクリーンを見つめながら、僕はどういうわけかTと彼の息子(あれは息子であるはずだ。あるいは甥っ子とか親類かもしれないが、彼らの間にあった空気の感じのようなものは、僕には親子のそれにしか見えなかった)とのことを考えていた。つまり人には秘密があるといったようなことだった。人と人が知り合う、僕はTと友人でいるつもりでいたが、まだ彼のほんの一部しか、ほんの一端しか知らない。そんな当たり前のことを思い知った。あのチケット売り場の女のことだってそうだ、彼女だって、ただ無愛想で醜いだけの女性ではないかもしれない。チケット売り場の小部屋にいないときは、とても善良で愛想のよい女性なのかもしれない。

 映画館を出ると外は夕暮れ、いわゆる「逢魔が時」だった。何となくこの間の川べりの公園に行ってみると、そこにTがいた。彼はやはり例の5歳ぐらいの子供を連れていた。僕を見て、Tは「やあ」と言った。「どこかに行ってたの?」

「映画を見に行ってたんだ。その帰りだよ」

 少年は不審そうに僕を見上げていた。Tは「お父さんのお友達だよ」と僕のことを彼に紹介した。少年は僕に挨拶をして、僕も挨拶を返した。

 僕は驚いたふりをするような表情を作りつつ、「君には子供がいたんだね」と言った。

「そうだよ。もちろんいるよ。いや、もちろんというのは変だけどね」

「じゃあ君は結婚していたの」

「そうさ。まあ話す機会がなかったんだよ。君だって別に興味ないだろう? 僕はね、ごく若いうちに結婚したんだよ。大学を出て、割とすぐに」

「へえ、知らなかった。ぜんぜんそういう風に見えないね」

「どういう意味?」

「つまり、自由そうに見えてたから」

「うん、まあ、そんなものだよ。人は見かけによらないってやつだよ」

 ということはTがヒユと知り合ったとき、彼はすでに結婚していて子供もいたのかもしれない。ヒユは一度会ったきりらしいし、それが何年前のことなのかはわからない。しかしそうしたことについて尋ねるのは出過ぎた行為だった。

 僕らはベンチに座り、Tの子供はブランコのほうへ駆けて行った。「息子さんは何歳?」

「6歳。春から小学生だよ。よくここに遊びに連れてくるだよ。僕は仕事柄、一日中家にいることが多いから、幼稚園の送り迎えとか、一緒に遊んだりとか、そういうのは僕の役目なんだ」

「君はどんな仕事をしているの?」

「いや、僕は霞を食って生きているわけではないよ。ちょっとした設計さ。建築関係なんだ。コンピュータを使って製図するんだ」

 Tの息子は一人でブランコのそばで遊んでいた。少年はなぜかどことなく深刻そうな顔つきで、ブランコの台を支える鎖を揺らしていた。どのぐらいの力をかけるとどれぐらい揺れるのかを試しているように見えた。彼は熱心にそれを行っていたが、急に顔を横にそむけた。その視線の先を追うとそこには黄色い小さな蝶がひらひらと舞っていた。彼はブランコに向けていたのと同じ熱心さで蝶を眺め、やがてそれを追いかけはじめた。

「君と息子さんは何だか友達同士みたいに見えるね」と僕は言った。

「ああ、そうなんだよ。よく人からも言われるよ。妻からもね。僕は、たとえば君に対するみたいに息子に接してしまうんだ。ほとんど立場が対等なんだよ。それがいいことなのかどうかわからない」

「どうして悪いんだ? 少しも悪くはないと思うよ。仲がよさそうでいいじゃない」

「でもこのままだといけないんじゃないかっていう気もするんだ。あんまり友達みたいだと、そのうちだんだん息子は僕のことを見くびるようになるかもしれない。父親というのは、もっと怖い存在でないといけないんじゃないか。たとえば僕の父はそうだった。でも、父がそうだったからこそ、僕はあまり怖がられる父親にはなりたくないという思いがあるんだよ」

「深く考える必要はないと思うよ。もちろん僕は父親になったことはないから、こんなこと言う資格はないのかもしれないけど、友達みたいに接してくれる父親は、子供としても楽しいんじゃないだろうか。どのみち正解はないんだから、君にとって自然なのが一番いいよ」

 そんなことを話しているうちに少年が戻ってきた。そして父親に空腹を訴えた。

「そうか、じゃあそろそろ帰らないとな」とTは言った。

 僕は二人と別れた。

25. 同じ車両に乗り合わせた人々

 

 平日の午前中の遅い時刻、僕は一人で電車に乗っていた。窓の外の景色は電車の進行方向の右手側と左手側とではずいぶん異なっていた。右手側には中古車販売店やショッピングセンターや古着屋やスポーツ用品店など比較的新しい建物が多く立ち並んでいるのに、左手側に視線を転じると、山と田んぼと雑木林と畦道しか目に入ってこないというありさまだった。

 細長い一列の座席が車両内の両端の壁に沿って据え付けられている。乗客は少なく、車内はひっそりとしていた。すぐそばにはポンチョのような黒い服を着た老婆が座っていた。老婆は正面を見据えていたが、しかし向かいの窓の外を見ているわけでもなさそうだった。その顔には、すっかり忘れていた大事な用事を今思い出したばかり、といった表情が浮かんでいた。そして身じろぎ一つしない。向かいには茶色いダウンコートを羽織った中年の男がスポーツ新聞を広げて、いやに熱心そうに読んでいた。新聞の一面に大きな文字で印刷された見出しをつい読んでしまいそうになって、僕はすぐに目をそらす。その男から一メートルほどの間隔を空けた隣には、髪を赤く染めた派手な服装の若い男が座っていた。彼はMacBook Airを膝の上にのせて画面をじっと睨んでいる。耳にイヤホンをつけ、ときどき思い出したみたいに太い指でキーボードを叩いた。

 出入り口のドアのすぐ横には一組のカップルが座っていた。男のほうは丈の長い黒いトレンチコートを着ていて、脚が長く、ほっそりとした体形をしている。耳の下あたりまで伸びた髪の毛は真横にまっすぐに毛先が切りそろえられていた。顎の線は細く、色白で、髭も生えていない。見ようによっては女性にも見える男だった。女のほうも同じようにこぎれいな身なりをしていた。白いブラウスにピンクのカーディガンを羽織り、下はシンプルなジーンズだった。女は男の肩に頭を預けて目を閉じていたが、眠っているわけではなさそうだった。男が時々何か小さな声で語り掛けると、そのたびに女は目を開けて、声を立てずにくすくす笑い、また目を閉じた。彼女は一度、顔の上に落ちかかった自分の髪の毛を指で払った。そのときに見えた女の手の甲には、思いのほか年老いた印象があった。皮膚はくすんでいて張りがなく、骨の形が薄く浮かびあがっている。それはほとんど老婆の手のように見えた。男が明らかに若かったので、女のほうも同じぐらいだと僕は思い込んでいたのだったが、実際には女は男よりもずっと年上だったらしい。彼女は想像したよりずっと年老いていた。閉じた目の瞼や首筋にもよく見ると細かい皺が寄っていたし、ジーンズとパンプスの隙間から覗く足の甲の青白さにさえ、老いの徴候を感じさせた。清潔な若々しい服装によって、彼女はそのこと上手に隠していたのだ。不思議なことに、そのことに気づいたあとではその二人組の男女に対する印象がすっかり変わってしまった。仲睦まじく幸福そうに見えた彼らは、今ではどこか不幸とトラブルの予感さえ漂わせていた。

 電車は知らない街を走っていた。こんなことは何度繰り返しても同じだ、と僕は思う。この電車は僕をどこへも運んで行かない。目的の駅を乗り過ごしてしまった僕は、そのまま意味もなく同じ電車に乗り続けていたのだ。

 時刻は正午に近づいていた。次に停車した駅で僕は電車を降りた。

第2部 夜の目

26. 字を書くこと

 

 僕はいつものドトールにいた。僕は一つ何かが気に入ると、しつこく何日も、何週間も、長い場合には数年にもわたって、同じことを繰り返す癖がある。あれ以来、あのサンドウィッチが軍艦みたいに見えた神秘体験の日以来、僕は夕方のドトールに入り浸ることが気に入ってしまい、毎日同じ時刻にその店で過ごすようになっていた。すでに二週間以上も通っている。商店街を見下ろす二階の窓際の席が僕のお気に入りだった。本を読んだり、ただ何もせずにぼんやりと僕は道行く人々を眺めたりした。

 その日、つまり五月の第三週目の金曜日の午後のことだが、僕は文章を書いていた。それは正確には文章とは呼べないもので、単なる文字の羅列だった。食べ終えた皿を脇にどけてテーブルにノートを広げ、思い付きで購入した3000円の万年筆を使ってひたすら紙の上に文字を書きつけていたのだった。ペン先は滑らかに紙の上を這い、インクが流れ出る感触は心地よく、その感覚は僕を静かに刺激していた。

 当初の目的はただ書き心地を試すことにあったので、言葉や文章を紡ぐつもりはなく、したがってそこに書きつけられたものは、日本語でもアルファベットでもない未知の文字か図形のようなものばかりだった。それでもそのうちに、手を動かすことによって脳の言語野か何かが刺激されたのか、僕の頭には言葉があふれかえっていた。そしていつしか僕はそれらの言葉をひとつひとつ書き写していた。それは脳の内部にふわふわと浮かぶ文字をつかみとってノートにめがけて気まぐれにでたらめに放り投げるといった感じの作業だった。それぞれの言葉はつながりを持つことなく好き勝手に紙の上に踊っていた。それは一応は日本語ではあったもののどう考えても文章と呼べるものではなかった。錯乱し恐慌をきたした挙句に自殺した精神病患者が死に際に残したメモのごとく、それらの文字は意味をなしていなかった。

 いつの間にかノートを3ページも消費していた。1ページあたりのだいたいの文字数を数えてみたところ、約1400字だった。それが3ページ。一度の中断もせずに僕はそんなにたくさんの無意味な文字を書いていたのだった。我ながらそのことにいくらか唖然としていた。万年筆の書きなれないペン先のためか僕の文字は普段とはだいぶ違っていた。文字の特徴や癖がひどく強調され、また欠点があからさまになっていた。そのこともあって、それは誰か別の人間が書いた字のようにも見えた。

 傍らに置いたコーヒーカップには、まだ中身が三分の一ほど残っていたが、すっかり冷えてしまっていた。コーヒーを飲むことも途中から忘れてしまっていたのだ。それは日記でも手記でもなく、詩でも散文でもない、僕はあえて正式な文法から逸脱し続けた。逸脱することに僕は快感のようなものさえ見出していた。幼児がでたらめに言葉を喋るみたいに僕は文章を書き続けていたのだった。全く無意味な文字が黒々と紙を埋めている。僕は我ながら半ば感心していた。そのノートには僕の内部に渦巻く混沌のようなものが、反映されているようにも思える。

 

 それ以来ことあるごとに僕は同じことを行った。つまり文字を書いた。文房具屋で万年筆の専用のコンバータとインク瓶を買いひたすら書き続ける。文字を書くという行為の中に僕はある種の快感を見出していた。しかしその快感が、万年筆で文字を書くことそのものの心地よさのためなのか、それとも文章を書くという行為の中にひそむものなのか、見分けがつかなかった。

 その排泄にも似た行為をどれだけ続ければ終わりを迎えるのか、どれだけ書けば自分の中から言葉が枯渇してしまうのかが知りたかった。毎日3ページを目安に書き、基本的にその間は一度も中断しなかった。書きはじめると手は止まらなかった。それは当然のことで、僕は何か考えているわけでも何かを組み立てているわけでもなくただ脳が排泄し吐き出すにまかせていただけなのだ。だから何も考える必要がなかったし、何も考えずにすんだ。そして当然のことながら次々に吐き出され紙の上に書き留められる文字列は一度も正式な日本語の文法にかなった文章として成立しなかった。ときどき読み返してみると、自分でも唖然として困惑するほどに、すべての文章が完全に意味不明ででたらめだった。

 もし僕が突然交通事故か何かのために死んで、遺品の中にこのノートが発見されたら、読んだ人は僕という人間についてどう思うだろうと、僕はときどき想像した。それは愉快な想像だった。そんな風にしてノートはもうすぐ終わろうとしていた。

 

27. ある婦人との出会い

 

 マンションの部屋や公園のベンチやデパートの中の休憩所や図書館など、様々な場所で書いたが、もっとも勢いよく筆が進むのはやはり、ドトールの二階席のいつもの窓際の席なのだった。それでその日も僕はその場所でいつものように文字を書いていた。隣の席に誰が座っているのか、どれぐらいの時間が過ぎているのか、そうしたことは僕の関心の外側にあった。ノートの紙とそこに書き出される自分の文字以外に僕の視界に入るものはなかった。既定の文字数を書き終えるころには、だいたいいつもマンションに帰るのにちょうどよい時間になっている。突然、僕のすぐ真横から人の声が聞こえてきた。

「あなたはいつもここでこうして物を書いているのね。あなたは小説家なのね」

「違います」と僕は反射的にその声に返事をしていた。返事をしたあとではじめて顔をあげて横を見ると、隣に座っていたひとりの女性が、僕を見つめていた。その女性が僕に話しかけていたのだ。見たところ女は僕より倍ほど年を取っていた。母と子供ほどの年齢差だ。もちろんその女性に見覚えはなかった。

「小説家なんかじゃない」と僕は繰り返した。

「毎日ここに座って、何か書いていたじゃない。あんたは小説を書いていたんでしょう」

「僕はたわむれに文字を書いていただけです。間違っても小説家などではない。僕は何者でもない。どこにも雇われずに、彼女の稼ぎで生活しているだけのただの一人の人間です」

 女は少し目を細め、感心したようにも呆れているようにも見える表情を浮かべた。女は身なりがよく、金のかかった服装をしていた。指には大きな宝石のついた指輪がはめられていたし、黒いブラウスはいかにも上等なものだった。浮浪者にも不審者にも見えない。座席には小さなエナメルのバッグ、テーブルの上にはコーヒーカップが置かれている。彼女はそのカップを手に取って一口飲んだ。

 都会においてこのような見知らぬ人物と出会うことに、僕はすでに慣れていた。驚いたり慌てたりする段階はすでに過ぎていた。何度もこれまで僕はこの街でこんな風に奇妙な人物に出くわしたものだった。それは時にはトラブルへと発展した。少なからぬ被害を被ったこともあったし、傷ついたこともあった。夜と昼とを問わずわけのわからない人物があちこちをうろうろしている。そんな街なのだった。

「目が赤いよ。眠らなかったんでしょう。睡眠不足なんでしょう」

 僕は首を振ったが、女の言ったことは当たっていた。僕はその日は一時間ほどしか眠っていなかった。確かに目に疲労を覚えていた。しかしそんなことはこの女には関係のないことだ。

「いきなり話しかけて、ごめんなさいね」と彼女は言った。「息子に似ていたのよ。あなたの横顔がね。あんまり似ていたものだから、驚いてしまって、思わず声をかけたの。というか、あなたは知らないでしょうけど、私はさっきまで、息もできないほど驚いていたのよ。本当に息子じゃないかと思っていたの。息子は本当はが生きてて、私のもとに帰ってきたんじゃないかと思ったの」

 これは何なのだろう、作り話なのだろうか? 何かの詐欺話の導入なのだろうか? しかし女は詐欺師のように見えない。詐欺師らしい風貌のイメージが僕の中に確固としてあるわけではないが、少なくともこんなに身なりの良い上品そうな婦人を真っ先に思い浮かべたりはしない。こんなに裕福そうな女が、何のために僕のような男を、ただカフェで文字を書いていただけの、平凡で見栄えのしない行きずりの男を、詐欺に陥れなくてはならないのか? 僕は警戒を解かなかったが、少し興味を覚えてしまい、尋ねずにいられなかった。

「息子さんは、どんな方だったんですか」

「息子も小説を書いていたのよ。彼はたくさんの書きかけの小説を残して死んでしまったの」

「何度も言うようですが、僕は小説なんて書きませんよ」

「あまりに突然のことだったわ」女はお構いなしに続けた。「息子は前触れもなく死んでしまった。28歳だったわ。28歳と11か月。29になる誕生日の前日に、死んでしまったのよ」

 僕は窓の外の商店街を眺めていた。人々はその商店街を横切って、それぞれの仕事場に向かったり、あるいは仕事から帰宅したりする。見るからに夜の職業に従事していることがわかる派手な風貌の女が多く通りかかった。反対側の角にある花屋のシャッターはまだ降りたままだった。朝日が街路に影を作っていた。

「それ以来長らく、私は混乱を抱えながら生きていたわ。静かに、ひそかに、ずっと混乱し続けていたわ。よくわからなかったの。息子がこの世にもういないっていうことが、よく理解できなかった。どこかに長い旅行に出ているんだって、そんな気がしてならなかった。だってあまりに予測のつかない、突然の死だったから。私は涙さえ出なかったわ。悲しみさえなかった。悲しみが追いついてこないっていうか、そんな感じね。あなたを見かけて、そのときの気分をふいに思い出したの」

「息子さんは何という名前で活動されていたんですか。本は出ているんですか」

 女は何を言っているのかわからないという顔をした。 

「本って? 何のこと?」

「小説家だったんでしょう」

「小説家ではないわ。そういうのじゃないわ。彼は小説家だったけれど、本が出版されたことはなかった。原稿が活字になったことさえたぶんなかった」

「はあ、なるほど」

「小説を書く人誰もが、本を出すことを望んでいるわけでもないもの。そうでしょう?」

「わからない。知らない」

「息子が小説を書いてたのを知ったのは、息子が死んだ後だったの。部屋から原稿が山ほど出てきたのよ。細かい小さな文字で埋め尽くされたノートや原稿用紙やルーズリーフがね。息子の持ち物は、ほとんど処分してしまったんだけど、そのたくさんの原稿は今も捨てられないの」

「どのような作品なのですか。あなたは読んでみたのですか」

「私は読んだことはない。読みたいんだけど、読めないの。つまり物理的な意味で読めないの。文字が、虫眼鏡が必要なほど小さくて、それにあまりに独特で特徴的で、しかも乱雑だからね。ひどく読みにくいのよ。これまで何度も挑戦したけれど、1ページも読み通せたことがないわ。少なくとも日記や論文などではなく、小説なんだろうなっていうことだけは、何とか見当はついたの。ところどころに題名らしきものがあって、それは判読できたから」

 僕はそういう文字で埋め尽くされた紙やノートの束を想像してみた。僕はそういうものをどこかで見たことがある気がしたが、おそらくそれは僕がこれまで書いたノートと、似たものであるのかもしれない。

「あなた興味はない? 自分にそっくりな人が書いた小説」

 僕は曖昧な返事をした。しかし女が言ったとおり、読んでみたい気はしていた。彼女はそのあとしばらく黙って何か考えていた。

「ねえ、ところであなたって何歳なの?」

 僕は肩をすくめた。

「そういうところも息子に似ているわ。そういうところっていうのは、20歳にも見えるし30を過ぎているようにも見えるところ。息子もそうだったの」

 会話は途切れてしまった。僕はコーヒーを飲み干し、窓の外を見下ろし続けていた。そこからの眺めは退屈させない。どれだけ眺めていても飽きない。ひっきりなしに人が現れては去ってゆく。その流れを見つめていると、僕の頭は空っぽになる。

 気がついたときには、隣の席に女の姿はなかった。

 

28. 架空の都市

 

 次の日、ドトールの同じ席で、僕は同じ婦人に合った。「見つけたわ」と彼女は言った。そして僕の前のテーブルの上に分厚いノートを置いた。

「せっかくだから読んでみなさいよ」と彼女は言った。

「何ですかこれは」

「昨日話したじゃない。息子の小説よ」

 僕はノートを手に取り、ぱらぱらとめくってみた。黒々と虫のように微細な文字が文字がびっしりと隙間なくページを埋め尽くしていた。僕は適当な一節を読もうとして、すぐにあきらめてしまう。なぜならその文字は細かいだけでなく、まさによく言う「みみずがのたくったような」文字で、要するにひどく読みにくいものだった。どのページも同じように、ろくに行間もなく文字が連なっていた。

「面白そうだ」と僕は言ってみた。

「それ貸してあげるわ。返すのはいつでもいいわ」

 婦人はそれだけ言ってすぐに帰っていった。

 

 次の日の夜、ヒユを送り出したあと、僕は夜の街に出かけず、部屋にこもってそのノートに書かれた小説を読んだ。まず僕はそれぞれの文字の形と特徴を覚えなくてはならなかった。それはちょっとした暗号を解読するのに似ていた。僕は苦労して字の形とつづり方の癖を覚えた。そして一文字ずつ、壁から削り取るみたいに文字を追った。幸いなことに書かれていた文章の内容そのものは難解なものではなく、むしろ読みやすいものだった。ただいくらか形容詞や副詞などがたっぷりと過剰なほどに文章を修飾してはいた。

 その文章は架空の都市について記述していた。それが正確な意味で小説なのかどうかわからない。それはただその都市を描写し説明するだけの文章だった。空想の都市は「不壊音」と名付けられていた。何と読むのかはわからない。婦人の息子氏は、固有名詞にいちいちルビなどふってくれてはいない。おそらくこの文章は他人が読むことを想定して書かれたものではないのだ。

 苦労して解読したところによると、「不壊音」とは隆起した大きな三角形の台地の上に広がる「文明の香気から遥かに遠ざけられた」小都市である。背の低い建物が地面を埋め尽くすように立ち並び、あちこちにある工場からは四六時中いつも煙がもうもうと立ち込めて空を覆っている。陰気な顔つきをした住民は、男も女も一様にずんぐりとした熊みたいな体型をしていて、目つきは嫌らしく、誰も彼も異様に歯が大きく、舌が長い。そうした肉体的特徴が住民の大半に共通している。

 彼らはいつもひどく小さな声で話し、絶えず人のあらを探し、よそ者にはひどく冷淡である。ときどきただ楽しみのためだけに生き物や動物を殺す。いやに油っこい肉料理を好んで食べる。その料理は「不壊音」の特産品であるらしい。しかし何の動物の肉であるかは息子氏は記述していない。

 街に自然が極端に少ないのは、住民が緑色のものを嫌っているためである。街路樹も森も雑木林も雑草さえもほとんどない。彼らは徹底して自然を排したのだ。家の庭さえコンクリートで舗装されていて、花壇とか植木のようなものなど皆無である。多くの家は昼間でも窓もカーテンも閉ざしている。台地を囲うように流れる川によって都市は隔てられている。人々はめったに橋を越えることはない。「不壊音」の住民は移動することを極端に嫌う。

 街の北部には塔があって、そこに暮らす塔の主は、街よりさらに北方に広がる荒野を絶えず見張っている。その荒野に時々「悪しき連中」が現れるらしく、それを警戒しているのである。悪しき連中の実態については、やはり記述はない。

 

 僕は「不壊音」の描写に、僕が住む街の面影を見出した。僕がちっぽけな生を営む舞台であるこの街は、息子氏が生まれ育った故郷でもあるのだ。工場の煙についての描写は、僕が波止場から見た巨大な煙突の煙を思い出させた。「不壊音」の上空を運行する乗り物についての記述は、モノレールを思わせた(僕が住む街にもモノレールが走っているのだ)。しかし小説中のその乗り物はレールの上を滑って移動したりはしない。その乗り物は鳥をかたどって作られていて、実際に鳥のように空中を飛んで移動する。運転手はいない。毎日正確に決まったルートを往復し、決してそれから外れることはない。人々は運賃を払ってあちこちに点在する駅から乗車する。乗り物はどうやら生物であるらしい。そんなことを仄めかす記述がある。その生物はしかし自由な意思を持つことはなく、乗り物として生きている。

 だんだん僕は息子氏の文字を読むことに苦痛を覚えなくなった。それ以上に僕はその文章を読むことに夢中になっていたのだった。そこに描き出された世界に、つまり「不壊音」に愛着を覚えつつあった。混沌とした膨大な量の文字の中から、ある一つの未知なる、それでいてどこか見覚えのある世界がおぼろげに立ちのぼり、だんだんと明瞭な形をとりはじめていた。それは失ったはずの記憶を取り戻すのにも似た感覚だった。僕の魂は「不壊音」の内部をさまよい、そこにとどまり続けようとしていた。それでもやはり、その文字を長時間読み続けるために多大な体力と集中力を消費したためか、読みはじめて数時間が過ぎたころには、僕は深い疲労を覚えていた。僕は名残惜しさを覚えつつもノートを閉じ、ベッドに横になった。

 

29. 新しい「仕事」

 

 いつものドトールのいつもの席で僕はぼんやりしていた。半ば待ち受けてもいたのだったが、例の婦人は同じ時間に現れた。店に入ってきた彼女は僕を見てかすかにうなずいたように見えた。彼女はアメリカンシナモンコーヒーを注文して僕の隣の席に座った。

 僕はご婦人のご子息の小説について話した。難解なところもあるが概して面白く読んだこと。すると彼女は驚いたように言った。

「あなたはあれが読めたの。あの文字が? ひどく読みにくかったでしょう。私だって何度も挑戦したけれど、そのたびに挫折したのだわ」

「はじめは苦労しましたけど、慣れると何とか読めるようになりましたよ。もちろん、相当な集中力が必要ではありましたが」

 婦人は感心したみたいに目を見開いて僕を見た。「あなたには何というかそういう能力があるのかしら。読みづらい字を読むのに慣れていらっしゃるの?」

「能力なんて何もないです。ただたぶん、時間が有り余っているだけなんです。それに費やせるだけの時間と労力があったというだけのことだと思います。僕は暗号を解読するような感覚で、読むことを楽しみました」

「でも見ず知らずの無名の人間が書いた、面白いか面白くないかもわからない、誰かのお墨付きをもらっているでもない、価値があるのかどうかもわからないようなものに、そんなに時間を費やすなんて、ずいぶん勇気がいることじゃないかしら。苦労して読んだはいいけど、結局面白くもなんともないどうしようもないものだったってことがわかっただけ、という結果に終わる可能性だってあるんだから。努力を払う価値のないようなものであるかもしれないのに。得るものなんてないかもしれなかったのに」

「僕はそういうことは考えないんです。退屈なものやつまらないものに触れてしまっても、それで時間を無駄にしたとは思わないんです。つまらないと思っても、つまらないと思えただけでも意味がある、と考えてしまうんです。だから僕は何だって平気なんです。どんなものだろうと、作品自体に面白さとか価値があろうとなかろうと、僕には関係ないのです。自分自身の心の働きにだけ興味がある、と言い換えてもいいかもしれません。結局のところ僕は傲慢で一人よがりな人間なだけだと言えます。他人の創作なんてみんな自分を刺激するための材料でしかないのです」

 婦人に僕の言おうとしたことが伝わったのかどうか、僕にはわからなかった。彼女は真剣そうな顔つきで、僕の言うことを聞いていた。

「とにかく、あなたは息子の小説を読んだのね」

「読みました。息子さんの作品は単純に面白かったです。ずいぶん楽しんで読みました」

「どんな小説だったの」

 僕は架空の都市について書いた文章について、簡単に説明した。

「私も読んでみたいものだわ。でもできないの。あれは私にとって、言ってみればラテン語を読むのに等しい行為だったわ。つまりちんぷんかんぷんだったわ」

「よければ僕が文章をパソコンに入力して、それを印刷して持ってきましょうか? それなら読めるんじゃないですか」

 婦人は驚いたような顔で僕を見た。「え? そんなことできるの? そんなこと考えもしなかったわ。それだったら読めるでしょうけど、でも、あなたにも手間だろうし」

「いや、手間じゃないですよ。だいたい、僕はそれを行おうと考えていたんです。いつでも読み返せるように、より読みやすい形にしておこうかと思って。すべての文章を活字に置き換えるつもりでいたのです。そのことについて、つまり息子さんの小説を書き写すことについて、あなたに許可をもらおうと考えていもいたのです」

「もちろん、許可なんて取らなくても、それはかまわないわ。あなたがそうしてくれたら、私はとても助かるわ。でも本当にいいの? そうとうな分量があるはずだけど。あれを書き写して、印刷までするなんて、ずいぶんな手間だと思うわ」

「さっきも言った通り、僕は時間とエネルギーをあり余らせているのです。そういう手間のかかる作業は、むしろ欲しているぐらいなんです」

 婦人はしばらくテーブルに肘をついて考え込んでいた。しばらく後で彼女は口を開いた。

「それなら、厚かましいかもしれないけれど、他の原稿も頼んでいいかしら?」

「他のとは?」

「息子が書いた文章、全部。あのノート一冊だけじゃなくて、ほかにもいっぱいあるの。山ほどあるの。文字が埋め尽くされた紙の束が、まだ押し入れにいっぱい眠っているのよ。そして私はそれらのうちの一文字も読めない。それも書き写して、印刷していただけないかしら? もちろん、じゅうぶんにお礼はするわ。それともやっぱり無理かしらね。相当に大変な作業のはずだから」

「いいですよ」と僕は自分でも意外なほど気安く引き受けていた。

 

30. 彼女の不機嫌

 

 僕は一時期プログラミングを学ぼうとしていたぐらいだから、パソコンは使える。文字を入力するだけのことならさほどの苦労もない。かつては一日に20時間近くインターネットやパソコンで遊ぶ日々を送っていたこともあった。

 僕はさっそく「不壊音」についての文章をパソコンに打ち込んでみた。ただ書き写すだけだから、それほどの労力は必要ないだろうと考えてはいたが、一時間も続けると思いのほか疲労を覚えていた。他人の文章、それもひどく読みにくい独特な文字で書かれた文章と、自分が入力した文字が表示されるモニターを交互に見ながらの作業は、思いのほか骨が折れるものだということを知った。

 突然ヒユが部屋に入ってきた。キーボードを叩く僕を見て彼女は言った。

「何をやっているの」

 僕は喫茶店で出会ったご婦人のこと、そして持ち掛けられた謝礼付きのちょっとした「仕事」について、ヒユに話した。そのことを話したのは彼女に婦人から頼まれた作業を引き受けるべきかどうかについて相談するためではない。ただその日にあった出来事を話しただけだった。いわばただの世間話だった。ヒユは基本的に、僕がどこで何をしてどんな風に過ごそうとそれに関与することはない。彼女は僕にただ金銭を与えるだけである。基本的に僕は放し飼いの犬のような扱いを受けている。

「どうしてそんな妙なことに首を突っ込むのよ」

「だって別に僕にとって困ることは何もないからね。それに僕もその小説が気に入ったんだよ」

「家事はどうするのよ、あなたがそんなことにうつつを抜かしてたら……」

「これまでと変わらないよ。家事は全部僕がやるよ。別にどこかに通勤するわけでもないのだし、僕の自由時間を削ればいいだけだから」

「あなたがそんなことに手を出すなんて思わなかったわ」

「手を出すって、そんな大したことじゃないよ。文章を打ち込むだけだよ。君には別に何の影響もないはずだよ」

「あなたはこれまでの生活が不満だったの?」

「まさか? どうしてそういう発想になるんだ」

「お金のことに不満があるのね? それなら気にしないで言いなさいよ。遠慮しなくていいのに」

「そんなんじゃないよ」

「私はあなたにどうしても働いてほしいって望んでいるわけじゃないのよ。今のままでも別に構わないのよ。それなのに、どうしてあなたはそうやって反抗するの?」

「反抗だなんて? だって僕が一日のうちのちょっとの時間、部屋でちょっとした作業をするだけのことが、そんなに問題かな? 繰り返しになるけれど、君の生活に影響なんてないはずだよ」

「私が言いたいのは、どうしてあなたは好き勝手にそんな妙な人と知り合いになるのかってことよ。それが気に入らないの」

「僕だって誰かと出会うことはあるよ。そのご婦人は、ドトールで偶然隣に座っていたんだ。あっちが声をかけてきたんだ。息子さんに僕が似ているんだってさ。ありふれた人物じゃないけど、そこまで怪しがることもないよ。見るからに上品で、裕福そうな人だし」

「私は心配しているのよ。あなたがまた変なことに巻き込まれているんじゃないかって」

「そんなおかしなことにはならないよ。出会った経緯は、確かに多少風変りだったかもしれないけど、あの女性はたぶんまともな人だし、悪意に満ちたことを企みそうにはないよ。ただ本当に息子さんの小説を読みたがっているだけなんだよ」

「それであなたは本当にそのわけのわからない仕事を引き受けるつもりなの?」

「そうだよ。面白そうだしね」

 ヒユは僕にティッシュ箱を投げつけた。それは僕の右肩に当たって床に落ちた。そのあとヒユはふさぎ込んでベッドに横になり、そのまま眠ってしまった。

 

 それから三日ほどかけて、僕は最初のノートを一文字残らず書き写し終えた。パソコンは寝室に置いてあったのだが、ヒユが寝室にいる時間に仕事を行うと、彼女はキーボードを叩く音がうるさくて眠れないし気に入らないと言って文句を言って、ひどく機嫌を損ねるので、僕はパソコンを別の部屋に移動させなくてはならなかった。

 なぜヒユがあんなに機嫌を損ねたのかわからない。しかしヒユと生活を共にするということはつまり、そういう果てしない謎と疑問との闘いなのである。数多くの出来事がこれまで彼女の機嫌を損ねてきた。その原因について、彼女が自ら説明することもあったし、しないこともあった。説明してくれたとしても、その理由が理解できることのほうが少なかった。今夜のように全く理不尽に非難を受けることのほうがずっと多いのだった。ヒユの不機嫌は謎に満ちていて、いまだに僕はその法則を読み解けずにいる。

 

31. 暗号解読

 

 入力した原稿を紙に印刷しようとして、僕は自分がプリンタを所持していないことに思いあたった。かつてベランダのがらくたの中にあったヒユのプリンタを思い出したが、それはとっくの以前にすでに処分してしまっていた。それで僕は新しくプリンタを購入するために、近所にある「ベスト電器」へと向かった。

 売り場の店員に、なるべく安くてコンパクトなものがよいと告げると、店員は適したものを選び出してくれた。とくにそんなことを口にしたわけでもないのに、店員は、僕がひどく緊急の要件でなるべく早く大量に印刷する必要がある、と解釈したらしかった。もちろん早いに越したことはないので、僕としても別に否定する理由はなかった。

「これが一番いいです」と店員は言って「エプソン」というメーカーのシルバーのモデルのプリンタを提示した。「早いんです。ジャッジャッって感じで、気持ちいいほど早いんです」

 僕は言われるがままにその商品を購入した。

 店員の言葉に嘘はなかった。それは本当にジャッジャッと勢いよく用紙を吸い込んでは吐き出し、用紙が途中で引っかかったり、インクが滲んだりかすれたりといったこともなく、黒々とした文字が綺麗に印字されていた。小気味よい作動音を立てながらプリンタは快調に作動した。なんだか元気いっぱいの子犬のようだった。

 

 次にドトールでご婦人と会ったとき、彼女は分厚いドキュメント・フォルダーを二冊抱えていた。「これが息子の小説。全部。あなたが前に読んだものと同じ、あの手書き文字で書かれているわ」

 僕はフォルダを受け取った。手に取ってみるとずっしりと重く、相当な枚数が中に入っていることがうかがえた。

「原稿用紙とかノートとかルーズリーフとかメモ用紙とか、いろんな紙がごちゃ混ぜになっているわ。おまけに前後のつながりもバラバラになっているかもしれない。だからあなたはただ書き写すだけじゃなくて、まずそれらのバラバラの文章の断片を、正しく並べなおす作業もやってもらうことになるかもしれない」

 かまいません、と僕は答えた。実際のところそれは予想のついたことでもあった。

「できたら、二か月間ぐらいで終わらせてほしいの。ちょっと事情があって……、でも決して急ぐ必要はないから、気にしないでほかに用事があったら、そっちを優先してくれていいから。それよりもっと時間がかかりそうだったら、その場合は言って下さい。なにしろどのぐらい時間がかかるのか、私には見当もつかないからね。きっとかなり、大変な仕事だろうから」

 僕は了承した。そして、最初に預かっていたノートの入力を終えたことをご婦人に伝え、印刷した原稿を渡した。彼女は驚いていた。「大したものね。その分だと意外と早く済むのかしらね。あとお礼のことだけど、今半分だけお支払いしますわ。みんな完成したあとで、残りの分を払います」

 ご婦人は封筒を差し出し、僕は受け取った。

 僕らは別れた。僕は重い二冊のフォルダを抱えてマンションに帰った。

 

「本当にやるつもりなのね」

 僕が持ち帰った紙の束を見て、ヒユが言った。

「やってもいいかなって思えるよ。だってあのご婦人の謝礼ははずんでいたよ。前金で半分くれたんだけれど、封筒には5万円も入っていたよ。僕は自分でお金を稼いだんだよ。こんなことは3年ぶりだよ」

 ヒユは何も言わずに部屋を出て行ってしまった。彼女はまだ不機嫌だった。

 

 僕はすぐにその仕事に集中した。実際のところそれは大変な集中が必要な作業ではあった。最初のノートに書かれていた文字は、まだ比較的読みやすいほうだったのだということを知った。あのご婦人が解読をあきらめたという理由も理解できた。ひどいときの字は本当に判読が困難で、長い間文字を睨んでも何が書いてあるのか見当がつかないこともしばしばだった。奇怪な形にねじれながら交差する何本かの線が「猫」という文字であると突き止めるために一時間以上を要したり、ほんの18文字ほどのごく短い文章を正確に解読するのに半日かかったりした。そんな調子なので、婦人の言う通りそれは思いのほか困難な仕事であることがわかった。ときどきにっちもさっちもいかずにもうあきらめてしまおうかという気分になることもあった。

 暗号めいた文字の解読を楽にするために、僕は息子氏が書いたそれぞれの文字の特徴を別の紙にメモした。「の」の字は「へ」の字とほとんど見分けがつかず、「え」の字は蛇の絵みたいに見える。一般にひらがなよりは漢字のほうがずっと読み取りやすい。前後の文章から、あるいは文字の全体の輪郭から、漢字は大体の見当をつけることが容易なのである。問題なのは息子氏の文章にはひらがなのほうが圧倒的に多いことだった。おそらくあまりに興が乗ってスピードに乗って書いていたために、画数の多い漢字をいちいち書くのがまどろこっしかったためだろうと推測された。誰でも普通は漢字で書くような言葉を、読みづらいひらがなで書かれると、とたんに読み取りにくくなる。また、画数の多い漢字と少ない漢字で構成される熟語の場合、片方は漢字で片方は平仮名かあるいはカタカナということがあって、それもまた厄介だった。たとえば彼が「魅力」という文字を書くとき、「魅」はカタカナで、「力」は漢字のままなので、それは「ミカ」と読めなくもない。「ミカ」という女の名前らしき固有名詞は作中に出てこないし、すぐに魅力のことだと見当はつくにせよ、当初はそういったことに困惑させられた。

 息子氏の文章そのものは読みづらいものではない。そのことは僕にとっては幸いだった。もし息子氏の文章が、ひどく回りくどかったり晦渋で抽象的な文章だったりしたら、僕の苦労はさらに倍加したことだろう。だから最初に直面した苦労を乗り越え、彼の文字の書き方の法則や癖を一通り押さえてしまうと(それだけで十日ほどを要した)、どうにかつっかえることなく読み進めることができるようになった。

 

 一週間が過ぎたころ、僕が解読し終えたのは全体の5パーセントにも満たなかった。この調子でずっと進むとしたら期限の二か月には間に合わない。次にご婦人に会ったときに、僕はそのことを率直に伝えた。

「焦る必要はないわ」とご婦人は言った。「別に厳密な締め切りというわけでもないし、私は特に急いでいるわけでもない。ただあなたには期日があったほうがいいんじゃないかと思って。いつまででもいい、って言われると、だらだらしちゃうでしょう?」

「ええ。そうでしょうね」と僕は言った。確かに期限が区切られていたほうがやりすくはある。

「それにしても息子さんは、ずいぶんたくさんの小説を書かれていたのですね」

「そうね。私もびっくりしてしまったわ。あんなにたくさん、本当にいつ書いてたんでしょうね。そんなそぶり、ぜんぜん見せなかったのに。よく本を読む子ではあったけれどね。不思議なものね、小さい時からずっと一緒に暮らしていた子供なのに、まだそんな未知の部分が残っていたのよ。そのことを死んだ後で知るなんてね」

 

32. 『オンディーヌ』その他

 

 一言も口を利いてくれないというほどではないにせよ、ヒユの機嫌はそれほど好転もしていない。ヒユは僕が「仕事」をはじめたことがなおも気に入らない様子だった。不可解なことにヒユは、毎月僕に手渡す金額を5000円も増額しさえしたのだった。

「これは厳密な意味での労働ではない。頼みごとの延長のようなものなんだよ。たまたま金銭の授受は発生したけれど、僕にとってお金は目的ではなかった。僕のほうも単純に興味があったんだよ。息子さんの小説がどのようなものか。読んでみたかったんだ。そういう名もない、僕とそれほど遠くない境遇に合った青年が、どんな物語を書いたのか」

 僕はヒユにそんな風に説明した。

 婦人との出会いも、彼女の息子さんが小説を書いていたこととか、そういったことすべてが現実離れしていて、まるで空想の中の出来事みたいに思える。その非現実性こそ、僕がご婦人の頼みを申し入れた一番の理由だったかもしれなかった。結局僕はヒユが言う通り凡庸な人間であって、凡庸ゆえに非日常を求め、その予感にすぐ飛びついたというわけだ。

 

 仕事は進めれば進めるほど困難さを増すようだった。チラシの裏やノートブックやルーズリーフなどいろんな紙に書きつけられたそれらの大量の原稿は、婦人が説明した通り、まったく整理されていなかった。支離滅裂のように思える文章もあったし、文章と文章の内容のつながりを全く見いだせないことがあった。急に主人公の名前が変わったり、知らない登場人物が現れたりした。おそらく息子氏は、作品を書く途中で別のお話のエピソードを思いついて、前のお話は放り出して次の話をいきなり次の行から書きはじめたのだろう、と推測された。別のお話がいきなりはじまったかと思うと、数十行あとにまたもとのお話に戻ったりする。あるいはまたさらなる別のお話へと飛んでいく。ろくに改行も空白もなく、そんな風に文章は行ったり来たりするのだった。息子氏はひどく移り気なのか、飽きっぽいのか、それともアイデアと想像力があふれかえっていたのか、そうしたことは実に頻繁に起こった。僕はそれらのバラバラになった断片的な文章を一つの作品にまとめ上げなくてはならない。つまり単に文字を書き写すだけでなく、編集作業まで行わなくてはならなかった。確かにはじめに考えていたほど容易な仕事ではないと僕は思った。

 

 夕方にヒユを送り出してから明け方まで、僕はわき目もふらずに仕事に没頭した。疲れるとベランダに出て外を眺めたり、部屋を出てマンションの階段を往復したりした。

 息子氏の小説はそれぞれ文体も、主人公も異なっていたが、いつも舞台は「不壊音」なのだった。

 僕はそれぞれの作品の一人称や、登場人物の名前、出てくる固有名詞(多くは彼が自ら考案したものと思われる未知の固有名詞だった)などから、それぞれのページがどの作品に属するものかを推定し、それぞれにまとめていった。

 毎日机に向かった。それは感覚的にはまさしく「仕事」だった。僕が行う、およそ3年ぶりの仕事らしい仕事だった。僕が最後に行った労働とはスーパーマーケットの荷物の積み込みのアルバイトで、それは半年間続いた。しかしそれ以降、なぜかヒユは僕が働くことを禁じるようになった。その理由はやはり不明である。

 僕はその禁止を破って仕事をする。誤字脱字を修正したり、文章の順序を並べ替えたりしながら、パソコンに大量の文字を打ち込んだ。いくつかの短い小説が、あるべき(と思われる)形に復元された。

 最初に出来上がったのは『オンディーヌ』という題名の短い小説だった。

 その作品はドビュッシーの前奏曲集第二巻の中の一曲から霊感を授かって書かれたものであるということだった。そのことは小説の冒頭に、メモのように記されていた。主人公は入浴好きの女だった。それ以外に登場人物はいない。女のモノローグによって、恋人や友人の存在はほのめかされるものの、それらの人物は一度も物語には現れない。睡眠時間より長い時間を彼女はバスタブの中で過ごす、と書かれている。お湯と泡に包まれながら裸の女はそこで歌ったり泣いたり笑ったり独り言を言ったり、叫んだり物思いにふけったり眠ったりする。

 続いて僕は『ラモオの夢』いう題名の作品を完成させた。ラモオという名前のせむしのピアニストが主人公である。ピアノに向かうとき彼は人間には見えない。彼の手足は短く、胴体は丸くずんぐりとしている。ただでさえ短い首を肩の間に埋めるようにして、彼は演奏する。そのさまが、まるで燕尾服に身を包んだ巨大な芋虫のように見えることから、彼は芋虫とか芋虫ピアニストとかいうあだ名で呼ばれるようになった。

 その異様な風体の芋虫ピアニストが、これもまた短い十本の指によって紡ぎだす音色は、比類のないものだった。演奏を聴いた聴衆は、その音楽が優れていることは認めつつも、それに対して感動したり感銘を受けたりするよりはむしろ、混乱に近い状態に陥ってしまう。ステージの上の醜い不格好な芋虫男と、ホールに響き渡る絢爛たるきらめきを放つ真珠のような音像のあまりの落差に、脳が一時的に麻痺して思考停止状態に陥ってしまうのだった。演奏が続く間は人々の麻痺は解けない。世が世なら芋虫ピアニストは火あぶりの目にあっていたかもしれない。現代においてさえ彼のことを魔女だとか魔女の生まれ変わりだとか音楽の悪魔だとか真剣な顔で呼ぶ者はいた。

 演奏が終わった後もたいてい聴衆は放心したまましばらく動けなかった。だから芋虫ピアニストのコンサートでは、曲の終わりに拍手が全く起きないことも珍しくはない。

 

 それら二つの作品はいずれも、主人公の水死によって終わっていた。『オンディーヌ』の浴室の女は最後にバスタブいっぱいに張った泡と入浴剤でいっぱいにまじりあった水に潜る。水面は赤や黄色といった原色の花弁で覆われ、窓からは午後の日差しが差し込み、そんな中で女はすでに肺活量を超えて息ができなくなったあとも、なお水に潜ったままでいる。多くの水を飲み込み、鼻からも目からも水が入って来て、彼女の肉体は水で満たされる。やがて女はバスタブよりさらに深く潜り、ついに深淵に到達する。バスタブより深いさらに底、はるかな海底に黒々と口を開けている闇の穴を彼女は目にする。その奥へと向けてさらに深く潜ってゆくのだった。女の死はそんな風に、抽象的に超現実的に描写されていた。

 『ラモオの夢』の芋虫ピアニストは自室に巨大な水槽を購入して設置し、その水槽に「溺れる芋虫」と書いたプレートを貼る。そして水槽に梯子をかけて登り、誰も見るもののない水槽の中で、ひとり溺れ死ぬ。

 

 作品を書き写すうち、だんだん息子氏の文字群が暗号のようには見えなくなる。僕は無名のアマチュア小説家だった息子氏が辿ったであろう創作の軌跡を追体験した。それは見知らぬ人物に手を引かれて未知の怪しげな場所に連れていかれるときの気分に似ていた。

 

33. 消えかけの月

 

 いつものドトールでご婦人と会ったとき、僕はプリントアウトした『オンディーヌ』と『ラモオの夢』の原稿を手渡した。

「若い頃は小説をたくさん読んものだわ。もっとも誰でも若いころはそうなのかもしれないけれどね。私も昔はそうだったわ。あなたと同じように、つまらない小説でも一向にかまわなかった。それなりに楽しめてた気がする。そういう小説からでも、何かしら得ていた気がするわ……今思うと、それもただの勘違いだったのかもしれないけど」

 婦人はカプチーノを一口飲んだ。

「仕事は順調?」

「ええ。最初は大変でしたが、でも慣れてくるとだんだん楽になりました」

「よかったわ。でもまだずいぶんあるんでしょう」

「そうですね。いまやっと、十分の一が終わったぐらいでしょうな」

「プリンタの用紙とかインクとか、足りないようだったら言ってちょうだいね。その分の費用は私が払いますから」

「ええ、でも……」

「遠慮しなくていいのだわよ。あなたに大変なことを頼んでいるんだから。じゃあ、また今度。私、早く帰ってこれ読んでみたいわ」

「そうですね。じゃあ」

 

 エネルギーを注ぎ込むべき対象があるというのは悪くない気分である。思えば僕はいつもそういったものを探していたのだったが、見つけられたためしがない。だんだん僕は息子氏の文章を読むことに慣れて、以前ほどの困難さを覚えなくなっていた。次々に小説はテキストデータに移し替えられた。外出する機会が減った。『花園シネマ』にも行かなくなった。ドトールでご婦人に進捗報告をする日以外は、僕はどこにも出歩かなかった。

 仕事のペースは速くなることも遅くなることもない。比較的丁寧な文字で書かれている箇所を書き写すときにはやけにはかどったが、そうでないときには遅々として進まなかった。総合的に見ると進み具合は毎日同じ程度だった。

 しかし「仕事」は僕に喜びらしきものを与えてくれる。混沌とした原稿が、謎が解き明かされるように一枚ずつ読み解かれまとめられて一つの作品へと形を取り戻してゆく過程には、快感が潜んでいた。息子氏は美しいものばかりを書くタイプの小説家ではなかった。むしろ彼は醜いものや不格好なものに美を見出す性質を備えていたらしい。萎れた花、工場の排水、海岸に打ち寄せられた空き瓶、空気の抜けたボール、折れた傘、そうしたものを、まるで宝石や王冠について語るように描写した。息子氏は言葉によって、誰にもかえりみられることのない、誰からもないがしろにされるものに、新たな生命と色彩を与え、彼の小説世界の内部で息づかせていた。

 

 明け方、仕事を終えた僕は窓辺に立って外を眺める。そんなとき、空に浮かぶ消えかけの月はまるで別の星から見るもののように目に映った。

 

34. 『穴を掘る』

 

『穴を掘る』の舞台は19世紀、主人公は山奥で孤独に暮らす自称仙人である。昔にはそういう人間がたくさんいたのだ、と息子氏は物語の地の文で主張していた。

 仙人は、彼は「ペボロン」という名前だったが、山で暮らすうちに森の動物たちと親しくなる。動物たちの声に耳を傾けるうち、彼らの言葉が理解できるようになり、やがて自らも言語を習得して会話まで交わすようになる。

「世の中の悪に嫌気がさしたのだよ」あるとき動物たちに、どうして人間が人里を離れて山奥に暮らしているのか、と尋ねられてペボロンは答えた。「だから悪の届かない場所に行きたかったのだよ」

 動物たちは口々に言う、今のあなたが善をなしているとは言えない。むしろ反対に、あんたは悪のほうへと近づいたのかもしれない、人は人の群れを離れて生きることなど本来はできない、誰にも頼らない独居とは、実は社会の中で正常に暮らす多くの人々の目には見えない支援の上に成り立っているのであって、あなたは自分以外の人々に背を向けているつもりでも、実際には彼らに依存しもたれかかっているのに等しい状態なのだよ。あなたは社会から与えられてきたものだけを享受するばかりで、しかもそれさえ決して自分一人だけの力で手にしたものでもないのに、それに甘んじていて、そしてあなたのほうは、社会に対して何も還元していない、あなたは依存している、依存しきっている。悪のほうへむしろ近づいてしまったというのは、そういう意味だよ。依存と悪とはとても近い関係にあるのだからね。

 ペボロンは動物たちからそのように諭されてしまった。

 ペボロンは穴を掘る。動物たちから諭された後、ペボロンはひたすら穴を掘るばかりの人になった。地下水を探り当てるまで穴を掘り続ける。穴を掘って自力で井戸を作るという行為は孤独に生きることの象徴だと考えたのだった。彼はろくに飲まず食わずで土に潜った。その頃ペボロンはすでに食欲など超越しかかっていたので、めったに空腹を覚えなかった。

 ついに地下水を掘り当てたとき、それと同時にペボロンの限界が、すなわち終わりがやってきた。土からは冷たい地下水が染み出し、ペボロンはそれに口をつけようとした。そのときはじめて彼は自分がどれほど渇いていたかを知った。それを飲もうとして水に顔を浸したとき、すでにペボロンには飲むための体力さえ残っていなかった。そしてそのまま息絶えてしまう。 

 

「あの子は自分が死ぬときのことを知っていたのかしらね。自分がいずれ溺れ死ぬことを知っていたのかしらね。そうとしか思えないほど、小説中に幾度も水死の場面が出てくるのね。水死というモチーフに取りつかれていたみたいね。それともあの子は自分が書いた物語に、はからずも導かれてしまったのかしら」ご婦人はそんなことを言った。

「息子さんは溺れて死んだのですか」と僕はやや驚きつつ尋ねた。すると婦人のほうもなぜかびっくりしたような顔になって、そして「さあ……どうだったかしらね」と言った。

 それきり、ご婦人はほとんど喋らなかった。しばらくして彼女は無言で席を立って店を出て行ってしまった。

 

35. ヒユにかかってきた電話

 

 最近ヒユは自転車には乗らなくなってしまった。あの盗難と水没がいまだに深くこたえているのだ。以前なら自転車で行っていた場所へは、すっかり行かなくなってしまったし、好きだったはずのサイクリングもやめてしまった。赤い自転車は長い間ベランダに放置されている。

 その日の午後もヒユは歩いてどこかに出かけていた。僕が一人でリヴィングにいると、テーブルの上のヒユのスマートフォンが鳴りだした。彼女はそれを置き忘れて外出していたのだった。

 僕はテーブルの上でカタカタと振動する薄い長方形の物体をしばらく眺めていた。画面は下を向けて伏せられていたので、誰からの電話なのか、確かめることができなかった。ヒユの代わりに電話に出て応対するなどという考えは僕の頭には浮かばなかった。正確に言うと、頭に浮かばないことはなかったけれども、そんなことをするつもりはなかった。もしそれをやった場合、ヒユはきっと僕のことを許さない。以前にも一度同じことがあった。あまりに長く電話が鳴り続け、彼女はやはり置き忘れて外出していたので、仕方なく僕が電話に出たのだった。そのときの電話はヒユが当時勤めていた店の店長からのものだった。電話の内容には特に問題はなかったが、ヒユは僕が「他人の電話に勝手に出た」ことを大変に問題視した。要するに激怒したのだった。僕は平謝りするしかなかった。

「それはやってはいけないことだわ。最低限のマナーだわ」とヒユは言った。

 確かにどんな理由があったとしても、良かれと思ってやったことだったとしても、僕は電話には出るべきではなかった。だから同じことを繰り返すわけにいかない。

 今回の電話は、異常なほどしつこく長い時間鳴り続けた。途中で一度鳴りやんだが、二分ほどの間をおいて再び鳴りだした。テーブルの表面と機械の振動が作る低い音を聞くうち、だんだん落ち着かない気持ちになった。その音が何か嫌な予感のようなものを助長するように思われてきた。たとえばこの電話が、ヒユの親族の何かしらの不幸ごとを伝える電話だったとしたら? それでもやはり僕はこの電話を放置し続けるべきだろうか? 放置することと勝手に出ることと、どちらが倫理的に正しいのか? 僕は機械を裏返して発信元を確かめたい衝動と戦っていた。そしてまた僕は別のことを考えてもいた。つまりヒユが外出先で事故か何かに遭って、警察からヒユの携帯に電話がかかってきているのではないか、と思ったのだった。しかしよく考えると、スマートフォンを置き忘れて外出したヒユの電話に、警察が電話をかけるはずはなかった。僕はいくらか混乱しているらしい。振動音が脳をかき乱してさらに混乱を深めている。

 電話はすでに五分以上も鳴り続けていた。どうして留守番電話に切り替わらないのだろうと僕はいぶかしく思った。ヒユはそのサービスに登録していないのだろうか? していなかもしれない。なんとなく彼女は留守番電話を嫌いそうな気がする。僕は壁の時計を見つめながら、あと一分続いたら電話に応対しようと思った。そしてそう思いながら、一分どころか数分が経過した。僕はソファから立ち上がって体を伸ばしたり、ベランダに出て外を眺めたり、洗面所で顔を洗ったりした。しかし電話は鳴りやまなかった。このまま無視し続けることが正しいことなのかについてまたしても考えてしまう。どちらを選ぶにしても間違っている気がする。板挟みな気分のまま、さらに数分が過ぎた。僕はソファに座ってテーブルの上のスマートフォンをまた見つめる。それは確かに僕に手に取られることを望んでいる。電話に応対しない限りその振動がおさまることはないのだ。僕は膝の上に肘をつき、組んだ両手の上に額を乗せた姿勢で、目を閉じた。どうしてヒユは帰ってこないのだろう? だいたいあの女はどこへ出かけたのか。ヒユが徒歩で外出するとき、たいていは近所をうろつくだけですぐに帰ってくる。こんなに遅いことはあまりない。めったにないと言ってもいいぐらいだった。そんな珍しい長時間の外出の間に、これほどしつこい電話がかかってくるとことが、果たして単なる偶然の一致なのだろうか。その二つの事柄には関連があるのではないか。やはりヒユに何かが起こっているのだ。僕は振動音を聞き続けながらそのような結論に達した。僕は心を決めて顔を上げた。するとその瞬間にあたかも僕の思いを察したかのようにスマートフォンの振動は停止した。

 なすすべもなくそのまま機械を見つめ続けたが、それが再び鳴りだすことはなかった。スマートフォンのカバーには花びらを思わせるのモノトーンの幾何学的な模様が描かれている。僕はその模様を形作る白と黒の線の一本一本に視線を滑らせながらじっと待っていた。しかし次に聞こえたのはスマートフォンの振動音ではなく、玄関のドアが開く音だった。続いてビニール袋の擦れる音、そして聞きなれたスリッパの足音。

「ねえ、こないだのたい焼き、おいしかったからまた買ってきたよ」ヒユはビニール袋を掲げながら言った。いつになく機嫌がよさそうに見えた。

 ああ、と僕は返事をした。「ずいぶん遅かったね?」

「そうかしら? でも一時間ぐらいでしょう? 天気が良かったから気持ちがよくて、いろんなところに歩いて行ってたの。歩くのって悪くないわ。私いつも自転車か車で、歩くことなんてなかったから知らなかったけど、思ったより楽しいんだね。歩いているうちにだんだん気持ちよくなって、何だかどこまでも歩けそうな気がしたわ。」

「無事に帰って来てくれてよかった」と僕が言うと、ヒユは冗談だと思ったのかフフフと笑った。

「でも確かに、そんなに危なくないこともなかったわ。さっき交差点でパトカーとか救急車が集まっていたわ。車同士がぶつかったんだって。タイミングが悪かったら、私も巻き込まれていたかもしれないわ」

 電話が鳴っていたよ、とは僕は言わなかった。ヒユがスマートフォンを手に取ったのは、それからおよそ一時間後のことである。ソファに寝そべって雑誌を読んでいたヒユは、あるとき思い出したように体を起こし、テーブルの上のスマートフォンに手を伸ばした。画面を見ても彼女の顔に変化は起きなかった。面白くもなさそうに何度か画面をタッチした後、再び画面を下にしてテーブルに置き、また雑誌を開いた。

 

36. ある日記風の文章

 

 それはノートに15ページほど、およそ30000字ほどの文章だった。一人称で書かれていた。その文章が小説なのかどうか僕には判断がつかなかった。架空の固有名詞は一度も出てこない。そして僕が住む街に実在する地名や店名がそのまま出てくる。息子氏の家やその周辺の景色についての描写や、彼が日常的に接していた人物たちについて、また彼の身の回りで起こった出来事などについて記されていた。文章中には息子氏の母親、つまり僕に「仕事」をもたらしてくれたあのドトールのご婦人と思われる女性も登場した。彼女は文中で「母」と表記されていた。

 数行の短い文章が日付ごとに区切られていた。現実の日付に即しているように思われたが、息子氏は月日だけで西暦を記していなかったので、何年前なのかはわからない。

 記述はおよそ一か月ぶんに及んでいた。僕はそれを息子氏の日記だと思ったし、そのつもりで読んでいた。その文章はずいぶん克明に書かれていた。必要以上に克明だった。息子氏がその日に見たもの、訪れた場所、出会った人々、彼らが口にした言葉、読んだ本、食事、考えたこと、その他様々な事柄が、実に詳細に描写されていた。起床と就寝の時刻、見た夢、食事の内容、支出の内訳、そういったものまで記されていた。あまりに克明すぎて違和感を覚えることもあった。息子氏は一日の朝から夜中の間に起こったすべてのことを、細大漏らさずみんな書いたりしていた。どんなささいなこともないがしろにせずに書いていた。ふつう日記というものは、たいてい一日の終わりに書くものであるはずだ。だからその記述が本当に日記なのだとしたら、息子氏は恐るべき記憶力の持ち主だということになる。それは体験しながら逐次記述しない限り書けないような文章だった。しかしその文章は間違いなく、かつて僕と同じ街に暮らしていた一人の青年の、ありのままの生活の記録だった。読み進めるにつれて、それが創作ではないことを、僕は確信するようになっていた。

 他人の日記を読むことがそんなに面白いとは知らず、僕は夢中になって読んだ。息子氏の生活圏は、僕のそれとほとんど重複していた。もしかしたら僕はかつて息子氏とすれ違ったことだってあったかもしれない。まるで自分の分身が書き残した記録を読むような気分だった。その文章を書き写す作業は、これまでで最も早く順調に進んだ。一晩のうちに僕は10000字近くの作業を終えていた。 

 

 ある日の日記で、息子氏は彼の母親、つまりご婦人に言及していた。その文章はご婦人の左腕に今も残るという3センチほどの傷跡についてのもので、その傷がいつどこでどのようにしてできたかについて書かれていた。

 息子氏が4歳の時、彼は過って牛乳瓶を床に落として割ってしまう。床に散らばった破片をご婦人が集めていたとき、息子氏は瓶の破片の一つを手に取って、母親の肘の下あたりに向かって後ろから切りつけたのだ。息子氏は、自分は故意にそれを行ったと書いている。

「母の肉体にも血が通っていて、傷つけるとそれが流れ出すことを僕は知りたかったのだと思う。今思い返すと、その意図は僕の幼い意識の中に確実に存在していた」

 ご婦人はもちろん、息子氏がわざと自分を傷つけたとは考えなかった。傷つけた当人である4歳の息子氏は、母親の腕から血が流れるのを見て泣き出してしまったという。

「母は今もあのことを単なる事故としかみなしていないはずだ。しかしあのとき、僕は明確な意思をもって母を傷つけたのだし、そのことは動かしようのない事実だ。その記憶が今もときどき僕を苦しめる。そしてふとした機会に母の左腕の肘の下にある傷跡が目に入るようなとき、僕はそれから目をそらすことができない――」

 

 次にご婦人と会ったとき、僕はご婦人の左腕を見てみた。しかし息子氏が書いていた傷跡は見ることができなかった。彼女は黒い長袖のブラウスを身に着けていて、腕は手首までみな隠れていた。考えてみれば、ご婦人が腕が露出する服を着ていたところを見たことはない気がする。

 

37. ヒユの甥

 

 ある夜、ヒユが言った。「子供を預かろうと思うんだけど」

「子供?」僕は驚いて聞き返す。

「預かるって言っても、ほんの三日間のことよ。兄の子供なの。その子をこのマンションに預かるの。兄が仕事で大阪に行かないといけないの。大阪のホールで、委嘱作品の初演があるんだって。それで……」

「何だって? 今なんて言った? イショク?」

「委嘱作品の初演。兄は作曲家なの。言ってなかったっけ?」

「初めて聞いたよ。だいたい君にお兄さんがいることも知らなかったよ。作曲家なんてすごいね。実在するんだね、そういう職業の人。しかも、こんな身近に」

「でも全然無名なのよ。いわゆる現代音楽ってやつだからね。ふつうの人はまず見向きもしない種類の音楽だから。それで、それはいいんだけど、とにかくその兄の子を、私が預かることになったのよ。今度の連休にね。兄は離婚してて、一人で育てているから、面倒見る人がいないのよ。いいでしょ」

「もちろんいいけどね」

「あなた、子供と仲良くできるの?」

「もちろん」と僕は答えたものの、子供と接した経験などろくになかった。

 一週間後、その少年はヒユに連れられて僕らのマンションへやって来た。

 

 僕はこんにちはを言った。少年は同じ言葉を返した。

「いくつ?」

 少年は手のひらを広げて、5歳、と言った。

 ヒユが昼食にハンバーグを作った。それが少年の好物なのだということだった。僕らは昼食をとった。ヒユが気を遣ってしきりに話しかけていた。僕は無言だった。

 昼食を終えて、僕はゲームで遊ぼう、と少年に言ってみた。部屋には『PlayStation 4』や『Nintendo Switch』が一応あったし、さらにこの日に備えて僕は新しいゲーム・ソフトを買ってきてさえいたのだ。いかにも子供が好きそうな、任天堂の有名なキャラクターの名前を冠した大人気レーシング・ゲーム。ゲームさえあれば間が持つだろうし子供も退屈しないし間も持つだろうと僕は安易に考えていたのだ。ところがどうだろう? 少年はゲーム・ソフトにさほど関心を示さない。それより外で遊びたい、と彼は言った。海が近くにあると聞いて、そこに行くのを楽しみにしていたらしい。

「海はあるけど、君が思っているような海じゃないよ、きっと。砂浜とかはなくてね、泳ぐこともできないし、狭いし……」僕は簡単にその場所について説明した。少年はひとしきり聞き終え、それでも行きたい、と言った。

 僕は海に少年を連れて行くことにした。ヒユは夜からの仕事のためにこれから眠るので、ついてこない。

「誘拐犯みたいに見られないように気を付けてね」とヒユは僕に言った。僕にとってもそのことは懸念ではあった。

 僕らはマンションを出て海のほうに向かって歩いた。途中狭い通りを通りかかったとき、建物と建物の隙間の狭いスペースに、傘が開いたままたくさん並べられていた。少年は立ち止まり、興味深そうにそれらの傘を見ていた。彼はそちらに歩み寄ろうとさえしたので、僕は肩に手を置いて制した。そのたくさんの傘の内側には誰かがいる。おそらくそれは路上生活者の住処だった。少年は制止を振り切るようなことはせず、それきり好奇心を捨てたようだった。僕らはそのそばを通り過ぎた。

 住む場所を失うことの恐怖は僕にとっても無縁ではない。今でこそ僕はたまたまヒユと一緒に暮らしているから、映画を見たりゲームセンターに行ったりしながら、表面上は安定した生活を続けられてはいる。ヒユと出会う前には、餓死の危機は決して自分と無縁のものではなかった。何しろ水道を止められるほどだったのだから。僕は住むところを失って孤独な死体として発見される可能性だってあったのだ。傘に囲まれて生きる路上生活者と僕とを隔てるものなど、ほとんど何もない。しいて言うなら僕はただ運がよかっただけだったということになる。

 少年がいきなり駆け出したので僕は我に返った。彼はコインパーキングの金網に手をかけて、その向こうをじっと見つめていた。視線の先を追ってみたところ、駐車していた白いベンツの下に猫がうずくまっていた。暗がりの中に緑色の二つの目が浮かんでいた。金網を挟んで猫と少年との間には3メートルほどの間隔があった。猫のほうもじっとこちらを見ていた。金網を乗り越える手段はなかった。やがて少年はあきらめて手を離し、僕らは歩くのを再開した。

 

 雲はひとかけらもなく、空は青く透き通っていたが、海面は乾いた鉄の色をしている。僕が普段海のそばにやって来るのはたいてい夜中だが、どの季節のどの時間帯でも、どんな天候でも、この街の海沿いの風景はある種の寒々しさをまとっている。

 突堤で釣りをする人々がいた。彼らは無表情に釣り竿の先を見つめている。五月だったが、風はかすかに冷たかった。僕は少年に寒くないかどうか聞いたが、彼は首を振った。少年はコンクリートの岸辺をうろつきはじめた。落ちないように気を付けて、と僕は少年に言った。

 雑草が生い茂って土がむき出しになった部分があって、少年はそこに屈みこんで、地面を探し回るような仕草をしていた。僕は海や対岸の景色や空を眺めていた。そのまま十分ほどが過ぎて、少年は立ち上がった。手にはひとつの石を持っていた。それは黒くて丸い、直径5センチほどの石だった。表面は見るからにすべすべしていて、日差しを浴びて黒い光沢が浮かんでいた。少年がアスファルトの上にそれを転がすと、石はボールのようにころころ転がった。

 少年は、こんな風に抵抗なくスムースに地面を転がる石は少ないのだ、という意味のことを僕に語った。

 君は石に詳しいんだね、と僕は言った。たくさん集めているのだ、と少年は答えた。

 僕も一緒になって石拾いに興じた。同じほどに丸く滑らかな石を探そうとして、少年の言葉が正しかったことを知った。彼が見つけた黒い石は、確かに奇跡のような物体だったのだ。それに比肩しうるほど転がりやすい石は一つも見つからなかった。そのあとも少年はいくつかの石を拾って集めていた。できることならそこにあるすべての石を一つずつ拾って点検したがっているように見えた。彼のポケットには石がいっぱいに詰まった。

 帰宅途中、僕は少年を連れて駅前のデパートの七階にある本屋に行った。僕は少年に、欲しい本を一冊だけ買ってあげるよ、と言った。一冊だけ、と聞いて、少年は少し考えていたが、それはせいぜい10秒ほどのことで、すぐに彼は決然とした足取りでどこかを目指して歩き出した。しかし欲しい本がある書棚をうまく見つけることができないようで、しばらく迷っていた。何の本が欲しいのかと尋ねると、石の図鑑だと少年は答えた。それで僕はカウンターに行って、該当する書籍がありそうな売り場を店員に尋ねると、店員は少年と僕をその場所まで案内してくれた。書棚には多くの石についての書物が並んでいた。『河原で見つかる石』『石の世界』『子供が探せる河原や海辺の石』『宝石図鑑』『不思議な石図鑑』。少年は数冊を手に取り、ページを開いた。鉱石や宝石、透き通った石、そんな様々な種類の石がカラーの写真つきで掲載されていた。少年はしばらく迷っていたが、やがて一冊を選び出した。『石の事典』という題名の本だった。字は小さくて図版は少なく、子供向けの本ではなさそうだった。難しそうな本だね、と言うと、少年は、でも面白そうだよ、と言った。僕らはレジに向かった。

 

38. アニメを観る少年

 

 帰宅して僕はヒユに少年と過ごした時間について報告した。

「職務質問とか通報とかされなかったの?」

「大丈夫だったよ。そんなに不審に見えなかったはずだよ、きっと」

 ヒユは肩をすくめた。「でもまあ、あなたにしてはよくやったわ。珍しく、まともなことにお金を使ったのね」

 少年は書店で買った本をたいそう気に入っていたし、帰り道でもエレベータの中でも、部屋に帰って来てからもずっと読んでいたのだった。彼はその日河原で拾った石を床に並べて触れたり眺めたりしていた。

 

 食事を終えたあと、少年はテレビをつけていいかと僕に尋ねた。いいよ、と僕は答えてリモコンを手渡した。少年はリモコンのスイッチを押したが、テレビはつかなかった。僕は立ち上がってテレビのコードを探し出してそれをコンセントに差した。僕もヒユもどういうわけか、テレビ局が垂れ流す番組に興味を持たないので、普段その機械はまるっきり死んでいるのだ。

 これでつくはずだよ、と僕は言って、少年が再びスイッチを押した。画面が明るくなり、たちまち騒がしい音声が流れ出した。好きなチャンネルにしていいよ、と僕は言った。

 少年はテレビのリモコンを操作して望むチャンネルに合わせた。しばらくコマーシャルが流れていたが、やがて番組が始まった。アニメ番組だった。番組が始まると、少年は、まるでテレビが彼の偉大な師であるかのように、姿勢を正してテレビと向き合っていた。僕もその横で画面を眺めた。僕はもちろんそのアニメについて何も知らない。屈強な体格をした髪の長い若者が主人公で、彼は「勇者」であるらしかった。勇者は剣を佩き銅か鋼でできたような青っぽい鎧を身に着けていた。目つきが鋭くて声が低く、見ようによっては悪役にも見える。そのようなキャラクターデザインの勇者は深海を旅していた。深海魚をモデルにしたと思しきグロテスクな怪物と戦う回だった。それは確かによくできた映像で、子供が夢中になるのも無理はない。コンピュータ・グラフィクスの技術がいかんなく発揮されていて、子供の観るものだからといって手を抜いたようなところがない。グロテスクな怪物は、ぐねぐねとした異様に滑らかな描画によって、生き生きとした活力を与えられていて、ときに主人公以上に存在感を放っていた。敵役でありながらそのキャラクターは魅力を備えていた。事実少年は怪物が長い触手のような腕で人々に襲いかかる場面では、感嘆の声らしきものを漏らしていた。もちろん少年は一貫して勇者の側を応援していたはずだったが。

 番組の筋自体は、僕が子供のころに見ていたヒーローや戦隊ものと同じ定番の展開をたどった。つまり番組の前半部でいったん主人公は窮地に陥るが後半で巻き返し結局は勝利をおさめる、といったものだった。展開事態に目新しさはなくてもその映像の躍動感に僕もまた魅了され結局退屈を覚えることもなく最後まで少年と一緒に見てしまっていた。実際に僕は悪役の深海魚型の怪物にほとんど魅了されていた。それは忘れられない形をしていた。それは全身に宝石のような巨大な球体がちりばめられたアンコウのような怪物で、しかもいろんな形に変形する。

 番組が終わると少年はテレビはもういいと言った。「遠慮しなくていいのだよ。好きなだけ見ていいんだよ」と僕は言ったが、少年は首を振った。そして、もう寝る、と言った。実際に少年はとても眠そうに見えたので、僕は彼を寝室に連れて行った。少年が滞在する間、僕は別の部屋に布団を敷いて眠ることになっていた。少年は買ったばかりの本を持ち込んでベッドにもぐりこんだ。

 

39. 『宇宙アイスクリーム』

 

 次の日、僕は少年を連れて『花園シネマ』に行った。というのも『鉄の時代』という映画の中に、不思議な石が出てくるシーンがあったことを、思い出したためである。主人公が洞窟の中で色とりどりの輝く綺麗な石を拾う場面だった。そのことを話すと少年は見に行きたいと言った。

 花園シネマに来てみると、『鉄の時代』の上映はすでに終了していた。期間は四月までで、僕はラインナップが一か月で変わることを忘れていたのだった。

 ごめんね、映画はもうやってないんだって、と少年に告げると、でも映画は見たい、と少年は言った。ちょうど『宇宙アイスクリーム』というSF映画の上映時間が近づいていたのので、チケットを買うことにした。

 窓口の例の醜い女は、僕が子供を連れているのを見ても普段と態度を変えなかった。そのことについて、僕はなぜか奇妙な安堵感を覚えた。そして彼女に対する評価を改めさえした。彼女は少年の存在にちゃんと気づいていたはずなのに、それでも表情を変えることなく、普段通りの異常なほどの無愛想さで、大人と子供それぞれ一枚ずつのチケットを差し出したのだった。

 ロビーで上映時間になるのを待つ間、僕らはトイレに行った。トイレの中で隣に立った少年が僕に、さっきのチケット売りのあの女の人はどうして怒っていたのか、と尋ねた。

 僕は首を振った。怒っていたわけじゃないよ、少し機嫌が悪かったんだと思うよ、誰にだってそういう日はあるよ、と言うと、少年は頷いた。

 『宇宙アイスクリーム』という映画には石など一切出てこなかったが、少年は夢中になって観ていた。

 

 映画館を出たあと、僕と少年は近くのたこ焼き屋でたこ焼きを買い、それを食べるのにちょうどいい場所を探していた。途中横断歩道で信号を待っているときある人物と出くわした。その人物は僕のほうをちらちら見ていて、僕はその視線に気づいてはいたのだが、なるべくそちらを見ないようにしていた。すると相手が声をかけてきたのだった。彼の顔をよく見てみると、それはどこかで見た覚えのある顔だったが、僕はすぐには思い出せなかった。相手は自らの名前を名乗り、それから僕の名前を呼んだ。それで僕はやっと思い出した。ずっと以前、僕が2年間ほど勤めていたレンタルCDショップで同僚だった男だった。ざっと計算したところ、そのころから5年近く経っている。彼は以前は長く伸ばしていた髪の毛を短くしていて、そのせいでなかなか気づかなかったのだ。僕は5年という時間を思ってちょっとびっくりした。まるで10年も前のことのような気がする。

「久しぶり」と僕は言った。

「君は子供がいたんだ? やあ、こんにちは」と彼が言って、少年は軽く頭を下げた。

「僕の子じゃないよ。知り合いの子供を預かっているんだ」

 僕は少年に、この人は僕の友達だよ、と教えた。少年は頷いた。

「ああそうなんだ。驚いたよ。こんな大きい子供がいるなんて思わなかったから。昔は、結婚もしていなかったはずだしね」

「今もしていないよ」

「どこかへ行くところ?」

「映画を見てきただ」

「そうか。俺は面接の帰りなんだ。仕事の面接だよ」

 彼は近況を語った。例のレンタルCDショップがつぶれてしまったあと、いろんなアルバイトを転々としているということだった。いずれも長くても半年しか続かなかったという。

「結局、あの店が一番よかったよ。一番性に合っていたよ。あの店長は、いい加減な奴だったけど、悪い人じゃなかったし、仕事自体もまあまあ楽しかった。今思えばということだけどね、もちろん」

 僕は同意した。離れてみないとわからないことというのはあるものだ。当時はそんなことは思わなかったが僕にとってもその二年間は決して悪い時期ではなかった。僕は家賃32000円のアパートに住んでいたが、特に暮らしに不満もなかった。奇妙に凪いだ無風の日々だった。変わった出来事も起きず、新しい人物とも出会わず、思い煩うべき問題もとくになかった。僕は今でもなにかのはずみにその時の気分や空気の感じを思い出してしまうのだ。当時に聞いていた音楽は今も好きなのだし、アパートの庭に生えていた春に花をつけるスモモの木や、近所に住む老人の家からしょっちゅう聞こえていた異常な音量のラジオの音まで、懐かしく思い出してしまうのだった。

 僕らは挨拶をして別れた。そのあと通りかかった公園のベンチに座って、僕と少年はたこ焼きを食べた。

 

40. 純粋にひたすらに芸術的な行為

 

「兄が迎えに来るのは明後日になるんだって。お土産くれるみたいよ、大阪の」

「ああ、もう明後日にはあの子は帰っちゃうんだね。何だかさみしい気がするな」

「明日はあの子を連れてドライヴに行きましょう。私も休みだし」

「よさそうだね」

「ところであなたって兄に会ったことあったっけ?」

「ないよ、もちろん」

「たぶんあなたは兄と気が合うと思うわ。」

「へえ、そう?」

「兄は私より6つ年上なの。九大を出て、一度公務員になって、30の歳に退職して、それから音楽家になったの」

「なんだかすごそうな人だね」

「とても優秀だし、それにまともな人なのよ。家族の中で一番まともな人だと思うわ。私が娼婦を志したとき、それは16の頃のことだったんだけど、兄だけが理解してくれて、応援してくれたわ」

 僕の顔にはよほど巨大な疑問符が浮かんでいたのかもしれない。ヒユはすぐに説明した。「そうね、確かにそれってまともどころかその反対だよね。妹が娼婦を志していることを知って反対するどころかそれを後押しするなんてね。でもそのときの私には、彼の示してくれた理解が嬉しかったし、とてもまともな人だと思ったの。そのときにはじめて思ったのよ。職業に貴賎なし、とか、口ではみんな言うけれど、でもみんな本心では差別しているでしょう。そうじゃない? でも兄はそうじゃなかったのよ。彼ほど差別意識のない人はいないわ。そういう意味なのよ、まともと言ったのは」

 うん、と僕は言った。

「きっとあなたは彼と気が合うわ。意気投合しちゃうわ。あなたは社会的には虐げられてて、しかもまともな友達一人いないし、働きもしないし、ときどきひどく奇妙なことを言ったりやったりして人を呆れさせたり苛立たせたりするけれど、でも兄と同じ種類のまともさを、まだ保てているような気がするわ。物事を平行に見ることができていると思うわ。あなたは私の見るところ、偏見というものが普通の人より少ない」

 ヒユは買いかぶりすぎているような気がした。僕はある種の物事に対しては偏見に満ちている。僕はフラットに物事を見ているわけではない。僕はたぶんそのような境地にはいない。しかしそれは彼女の意見なのだし、それにヒユが僕のことをほめてくれることなどめったにないので、特に反論もせず黙ってその言葉を受け止めていた。

「それまでは、つまり売春婦を志すまでは、私は自分はまともじゃないんだと思っていたわ。まともじゃない女にふさわしい仕事を探すつもりでその職業に行きついたの。私はそういう考えをあるとき兄に話したの。お前は間違っている、って兄は言ったわ。お前はまともじゃなくはないし、頭がおかしいわけでもなければ色情狂でも淫乱でもない。ただひたすらに正直なだけなんだよ。度を越えて正直だったりする人が、時に異常に見えたりすることはよくあるよ、と兄は言ったの」

 ヒユのお兄さんは国内のある有名な作曲賞を受賞しているということだった。ヒユはその音楽賞のウェブサイトをスマートフォンに表示させて見せてくれた。各年度の受賞者の写真と受賞の言葉が載っていて、その中にヒユのお兄さんはいた。

 指揮者の男性と二人で映った写真があった。受賞当時は34歳だったらしいが、それより若く見え、非常にハンサムだった。白いシャツに黒いジャケットを羽織り、目を細めて笑顔でカメラを見つめている。背が高くて痩せている。僕が漠然と抱いていた「作曲家」に対するイメージとは似ていない。彼は若い俳優みたいに見える。

 動画サイトや彼のウェブサイトで音楽も視聴することができた。

「結構すごい音楽家なのかな。賞を取るのって、大変なことなんだろう」

「そうね。兄はとても才能があるのよ。でも音楽だけでは生活できないの。だから職業音楽家というわけではないの。いまどき、作曲だけで生活できる人って、現代音楽の作曲家の中にはほとんどいないらしいわ。映画音楽とかやってる人ならまだしもね。兄は普段は大学の非常勤講師をしているの。現代音楽の作曲家なんて儲からないのよ。儲かるはずはないわ。CDさえ出ないんですもの。仮に出たとしても現代音楽のCDが何枚売れると思う? 1000枚も売れたら大ヒットという世界なのよ。そういう人たちはお金や名声のために音楽を作るわけではないのよ。ただひたすら自己の満足のために、自らの内的な欲求を叶えるために、何か月も、場合によっては何年もかけて、何十段もあるスコアに一つずつ細かな音符を書いていって、そして一つの作品を完成させるのよ。そういうのって、純粋にひたすらに芸術的な行為だと思うわ」

 僕はヒユのお兄さんの音楽を聴いた。15分ほどの複雑で難解なオーケストラ曲。わかりやすいリズムもメロディーもなく、ただ音色のみがある、という楽曲だった。もし何事もなければ、つまり作曲したのがヒユのお兄さんでなければ、その音楽はただの騒音にしか聞こえなかっただろう。しかしそのとき僕はその澄んだ繊細な響きの中に何か価値あるものを聞き取った気がした。美しいと思えなくもなかった。

 

41.  モノレールの謎

 

 昼間僕と少年は街を散歩した。マンションへ出て左に曲がり、交差点を通過すると大きな駅が見えてくる。駅から飛び出したレールの上を、モノレールが走っている。少年はその乗り物を興味深そうに見上げ、やがて尋ねた。あの乗り物はどこで作られるのか?

「工場があるんだよ。どこかにね、そこで作るんだ」と僕は答えたが、僕にしたところでモノレールがどこでどのようにして作られているのか知らない。モノレールの作り方など頭に浮かんだこともなかった。

 完成したモノレールは、どうやってあんなところまで運ぶのか、どうやってレールに取りつけるのか、壊れた場合、あるいは古くなって廃車になった場合、それらはどこへ運ばれて、どんな運命をたどるのか、そういったことを、少年は次々と僕に質問した。少年はその年頃の男の子の例にもれず、乗り物に対して強い興味を抱いているのだ。もちろん僕に正確なことが答えられるはずもなかった。僕は大部分を想像で補いながら答えた。

「広い墓場があるんだよ、モノレールのね。そこでは死んだモノレールが並んでいるんだ。抜け殻になったモノレールは恐竜みたいだよ。それが広くて暗い場所に、列を作ってたくさん並んでいるんだ。そして死ぬのを待っているんだよ。大きな機械がモノレールの箱をつぶしてぺちゃんこにしちゃうんだよ」

 僕の言ったことは、おそらく大部分間違っていたはずだが、少年は熱心そうに聞いていた。そして少年が抱いた疑問は僕にも伝染してしまった。死んだモノレールはいったいどこへ行くのだろうか?

 

 夕食を終えてヒユが出かけたあと、少年はリヴィングのテーブルにミニカーを並べて遊んでいた。それらの配置を両手で動かしながら、何か一人でつぶやいていた。それは子供らしい遊びに見えた。そう見えなくてはならなかったはずだった。しかしそのとき僕は少年のそうした仕草の中に何かしらの作為のようなものを見出した。まるで少年が子供っぽさを演じているように見えたのだった。彼は笑みを浮かべたり、考え込むような深刻そうな表情を浮かべながら、テーブルの上に築き上げたミニチュア群像劇を監督し演出していた。 

 その様子を眺めながら僕は子供のころのことを思い出していた。僕にはきょうだいがいなかったから、いつも一人で遊んでいた。もともと一人っ子だったわけではなく、三つ年上の姉がいたのだが、姉は僕が二歳のときに事故で死んだ。道路で三輪車に乗っていたところを4WDが突進してきて、姉はその直撃を受けて死亡したのだった。運転していた当時25歳の男も車ごと塀に激突して死んだ。男の遺体からは薬物反応とアルコール反応が検出されたという。僕はあまりに幼かったので何も覚えていない。

 母はめったに遊び相手になってくれなかった。母は子供らしさのようなものをひどく嫌い軽蔑していたようなきらいがある。子供のころ、僕は今日の少年と同じように、ミニカーや積み木やらを使って一人で遊んでいたことがあった。積み木や人形同士を戦わせたり会話させたりしていた。するとその様子をそばで見ていた母が、僕に聞こえるか聞こえないかの声で言ったのだった。「やめなよ、わざとらしい」

 僕は長い間、自分は何か別の言葉と聞き間違えたのだと思った。母がそんなことを言うはずはないと考えていたのだった。母は僕に多くのお稽古事を貸したものの基本的には優しかった。わざとらしい、というその言葉には、僕がそれまで母の声に感じたことのない冷たい響きがあった。

 しかし母は確かにその通りに言ったのだ。聞き間違いなどではなかった。彼女は僕の子供らしい遊びをわざとらしいと指摘したのだ。問題は、その言葉が真実を突いていたことである。確かに僕はそのとき、ある種の演技を行っていた。このような子供っぽい遊びに興じる僕の姿に、母は僕のことを愛おしくかわいらしいと思うに違いない、という考えが、まるでなかったとは言えない。もちろんそんなことはあとになって考えたことだ。確かにしかしあのとき、そんな計算が僕の頭の片隅にはあった気がする。僕はいわばある種の子供らしさを装っていたのだ。

 少年がもし演技していたとしても、それはかつての僕の演技よりずっと上手だった。僕よりもずっと狡猾で周到だった。その演技のどこにもほころびはなく、わざとらしさとは無縁だった。僕が少年の態度に見出したある不自然さは、おそらく他の誰の目にも見えないものなのだろう。僕のような種類の人間にしかおそらく見えないものなのだろう。

 

 僕も少年のミニチュア群像劇に付き合わされる。少年が筋書きを僕に説明した。主人公はダンプカーで、ダンプカーはほかのミニカーたちから仲間外れにされていじけて洞窟(洞窟は少年が拾い集めた石で作られていた)の奥にこもりきりになる。世をすねた孤独なダンプカーは洞窟の奥である計画を立てる。自らを虐めて追い込んだほかの車たち、すなわちポルシェやカウンタックやフェラーリなどといった、ダンプカーを迫害したミニカーたちを、襲撃し破壊することを企てていたのだった。そんな破滅的で絶望的なお話だった。

 これからその復讐の場面がはじまるので、ダンプカーに襲われるほかのミニカーのたち役を僕が受け持つことになったのだった。

 少年が動かすダンプカーが洞窟から出てくる。ついに恐るべき襲撃が開始される。僕は両手でミニカーたちを動かしながら、それらが追われてあちこち逃げまわるさまを表現した。しかしダンプカーの怒りはあまりに凄まじく、逃げ切ることなどできるはずもない。そしてみなつかまってめちゃくちゃに壊されてしまう。遊びの途中、少年はときどき声をあげて笑った。

 スーパーカーたちは結局一つ残らず破壊され(もっとも本当にミニカーを壊すわけではない)、ダンプカーはめでたく復讐を遂げる。そのあとでダンプカーは再びひとりで洞窟にこもる。激しい戦いによって、ダンプカーもまた深く損傷していたのだった。やがて洞窟の奥で、エネルギーがついえたダンプカーは静かに壊れて死んでしまう。それが劇の終わりだった。

 何か飲みたくはないかね、と僕は少年に尋ねた。

 うん、と少年は答えた。

 何がいい、と尋ねると、なんでも、と少年は答えたが、すぐに言い直した。いや、ジュースがいい。

 我々はキッチンに行って、冷蔵庫からオレンジジュースを出してグラスに注いだ。少年は飢えて渇いた人のように熱心にオレンジジュースを飲んでいた。その様子を見て僕は思う。僕には母のように、子供のわざとらしさを指摘することなどできそうにない。

 

 そのあと僕らはゲームをした。例の任天堂のレーシング・ゲームである。せっかく買ったゲームなので、きっと面白いからぜひ遊んでみてほしい、と僕は半ば頼み込むような形でお願いしたのだった。少年は付き合ってくれた。少年もゲーム機を持ってはいるが、あまり遊ぶ機会はないらしい。僕のほうも、レーシング・ゲームに対する経験値はほとんどなかった。だから二人で競い合うとかなりの良い勝負になった。我々は勝ったり負けたりを繰り返しながら比較的楽しく遊んだ。画面上では僕と少年は全く拮抗したライバルだった。

 

42. 夜にしか会えない生き物

 

 夜中、僕がパソコンに向かって例の仕事をしていると、背後で物音がした。眠っていたはずの少年が起きてきて部屋の入り口に立っていた。

 目が覚めたの、と僕は言った。

 少年はぼんやりとした顔で頷いた。いつもこんな時間まで起きているの、と彼は僕に尋ねた。

「そうだよ。僕は、あんまり眠らなくても平気なんだよ」

 へえ、と少年は言った。便利なんだね。

 「便利」というのは少年のお気に入りの言葉であるようだった。彼はことあるごとに様々な事象を便利という言葉で表現した。その言葉には快適とか親切とか気が利くとかいった意味まで含まれていた。

 何をしていたの、ゲーム? と少年は尋ねた。

「ちょっとした仕事だよ。パソコンを使って、文字を入力するんだ」

 トイレに行きたいんじゃないの、と僕は尋ねた。少年は頷いた。僕は部屋を出て彼についてトイレに行った。

 少年はヒユが夜に出かけることについて何も尋ねなかった。そのことを不思議がる様子もなかった。そのことはすでに少年も了承済みであるようだったので、ヒユ自身か、あるいは彼女のお兄さんが少年に伝えたのだろう。いったいこんな子供にどんなふうにしてヒユの仕事について説明したのかが僕は気になった。まさかありのまま伝えているはずもないだろう。もしありのままに伝えていたとしても、少年にその仕組みや成り立ちのようなものが、理解できるのだろうか。

 寝室に戻る途中にリヴィングの前を通りかかったとき、少年は突然立ち止まった。彼はその場に立ち尽くしたまま、リヴィングの内部にじっと目を凝らしていた。僕は少年の視線を追ってみたが、リヴィングには別に注意して見つめるほどのものは何もなかった。普段と変わらない、ただの暗い部屋だった。ガラスのテーブルとソファが置かれ、壁を背にして大きなテレビがある。テレビの真っ黒な暗い画面はナマズみたいにのっぺりとしていた。夜中のリビングはとても静かだった。少年の視線は、彼の目の高さよりもずっと上、カーテンレールのあたりに注がれていた。そこには何の変哲もないカーテンが垂れ下がっている。昼間でも日の光をさえぎってしまう分厚い黒いカーテン。

 眠らなくても平気ってことはさ、と少年は虚空に浮かぶ何かを見つめたまま言った。「夜にしか会えない生き物に、たくさん会えるってことだよね」

 そうだね、と僕は答えた。

 不自然なほど静かだった。いつもならたとえ深夜といえども音があったはずだ。都会に特有の、どこから生ずるのかはっきりしない振動に似た低い音が、絶えず空間を満たしていたはずだった。そんな音は今どこにもなかった。暗い沈黙の中で少年はその何かから視線をそらさなかった。暑くも寒くもない季節の室温を肌に感じながら、僕は何か冷たくぬめぬめしたものが腕のあたりを通り過ぎた気がして、思わず肌をこすった。

 少年と僕がそこにとどまっていたのは、時間にして一分ほどのことだった。そのあとで僕らは寝室に戻った。ベッドに入るやいなや、少年は嘘みたいにすぐに眠ってしまった。

 僕は仕事を再開しようと机に向かったが、あまり集中できなかった。

 

43. お花畑にて

 

 僕らはヒユが運転する車に乗って南へと向かっていた。ヒユが何も言わずに、車をひたすら南へと走らせたのだった。どこへ行くのかは僕も少年も知らなかった。尋ねてもヒユは教えてくれない。ただ「楽しみにしてて」と言うばかり。

 車の中で少年はずっと無言だったが、走り出して40分ほど経過したころ、気分が悪い、と言い出した。車に酔ったらしかった。そのとき車は山と山の間に無理やり作ったような道路を走っていた。やや開けた場所でヒユは車を停め、僕らは車から降りた。少年は確かに青ざめた顔をしていて、ひどく汗をかいていた。心配になったが、しかしあまり心配しすぎるのも負担になってしまうような気がしたので、僕はただ横から様子を見守るだけだった。

 道路沿いに小さな川が流れていた。それはコンクリートで囲われた、川というより用水路と言ったほうがいいようなゆるやかな水の流れだったが、よく見ると小さな魚が泳いでいた。天気は良く、日差しは新緑をみずみずしく輝かせている。どこかで雲雀がさえずっていた。少年は川に掛けられた幅1メートルほどの細い橋の欄干に腰かけて、うつむいてぼんやりしていた。僕は彼の横に立って川面を睨んでいた。ヒユは少年にときどき声をかけたり、汗を拭いたり背中をさすってやったりしていたいた。

 15分ほどたつと、少年の顔色はだいぶ良くなり、汗もひいていった。彼は嘔吐することもなく立ち直った。そのあともしばらく、僕らは車には戻らず、その人けのない川辺にとどまっていた。

「昔は私もよく車に酔ったものだわ。それでこの子が酔ったって聞いて、変な言い方だけど懐かしくなっちゃったわ。血は争えないものねえ! ねえ、もう平気になった?」

 少年は頷いた。彼はすでにすっかり元気になって、川を見下ろしたり、草花を眺めたり、急に走りだしたりさえしていた。僕もヒユも少年もリラックスしていて、そこから立ち去りがたくなっていた。その場所は静かで温かく、どことなく見捨てられた楽園といった雰囲気があった。

「いいところね」とヒユは言った。

「ここはどのあたりなんだろう?」

「さあね……でもどこだっていいじゃない」

 少年は川沿いの道路を歩きはじめていた。日差しは温かく川面はきらきらと輝いている。僕らが車を降りて以来、ほかに車は一台しか通りかからなかった。近くの畑か田んぼで作業をするものと思われる軽トラックが一台きりだった。道は川に沿ってまっすぐ伸びて、遠くに連なる山々にまで続いている。川を隔てた向こうには、黄色い花々が広い範囲に咲き乱れていて、その間を蝶が飛びまわっているのが見えた。絵に描いたような平和な風景。何だか遠足に来たみたいな気がした。自然のほかには文字通り何もなく、少年が車に酔わなかったら、絶対に足を止めることのないような場所だった。一度通り過ぎてしまったら二度と思い出さないような場所だった。

 僕もヒユもあまりしゃべらなかった。さわやかな空気を呼吸しながら、静かに陽の光を受け止めていた。少年の姿が花畑の中で見え隠れしている。普段の今ぐらいの時刻、こんな午前中の時間帯には、僕は眠っているはずだった。起きていたとしても外にいることはまずない。僕は久しく青空も太陽も見ずに暮らしていたのだ。見知らぬ土地の景色を眺めながら僕はそんなことに思いあたった。

「お弁当でも食べたいわね」とヒユが言った。ヒユも僕と同じことを考えている。ピクニックか遠足のような気分でいる。

 そのあと僕らは再び車に乗り込んだ。実際の遠足のようにお弁当を用意していたわけではなかったので、昼食を買うために市街地に向かったのだ。ヒユが、せっかくなら何かテイクアウトのものを買ってあのお花畑の近くで食べようと提案し、僕も少年も賛成した。それで僕らはマクドナルドに行って三人分の昼食を買い、それからまたもとの川沿いの花畑のそばに戻ってきた。

 車のバックドアを開いて、僕らはトランクに腰かけてフライドポテトやハンバーガーを食べた。昼食の間にもやはり車は通りかからなかった。聞こえるのは鳥の声だけ。景色はまるっきり僕らのためだけに準備されたもののように思えた。時間はゆっくりとゆるやかに流れてゆく。

 食べ終えた少年は橋を渡ってまた花畑に向かって駆け出して行った。彼はそのまま花の陰に隠れて見えなくなってしまった。傍らではヒユが車の壁に身を預けて目を閉じていた。そして何か独り言を、僕にぎりぎり聞こえない程度の声でつぶやいていた。それはヒユの癖だった。ヒユが満ち足りてリラックスしているときの癖である。花畑の中の少年はときどき姿を現してはまた隠れた。太陽は頂点を過ぎ、少しずつ西へ向けて傾いていった。

 僕らのドライヴはその場所で終わった。僕らはすっかり満足してしまい、それ以上どこかへ向かうことがもはや無意味に思えた。車は来た道を引き返した。

 

44. 室内キャンプ

 

 出来たらあそこでキャンプまでしたかったわね、などと口にするほどに、ヒユはあのお花畑が気に入っていた。そして僕も少年も同じ思いでいた。しかしもちろんキャンプセットの備えなどなかったので、それでそのままマンションに戻って、室内で「キャンプごっこ」をしよう、ということになった。夕食はカレーがいい、と少年が言って、僕もヒユも同意した。キャンプの夕食と言えばカレー、これは世代を問わず、洋の東西を問わず常識だからだ。僕らはスーパーに立ち寄って食材を買い込んだ。カレー粉、牛肉、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、バター。少年がショッピング・カートを押す役目をなぜかひどく熱心に志願したので、僕らは彼にその役割を任せた。

 家に帰り着いたのは夕方に差し掛かろうとする時刻のことで、僕らは休憩もそこそこに準備を開始した。米を研いで火にかけ、野菜と牛肉を鍋に放り込んで炒めて煮る。夕食の開始のタイミングを夕方と夜の境目の時刻に合わせるために、我々は急がなくてはならなかった。

「キャンプでの夕食は完全には夜になっていてはならない」それはヒユの言葉である。「日が暮れるか暮れないか、その中間の薄闇の中で食べるのがいいのよ。タイムリミットは、たぶんあと一時間ちょっとってところね」

 僕らは急いだ。少年も何か手伝いたそうにしていたが、しかしカレーの調理の工程などは単純なものなので、手伝ってもらうようなことはなかった。ヒユは少年にカーテンを開け放つよう命じた。「太陽が今どのあたりにあるか見てきて」

 この部屋のリヴィングの窓からは西日が差し込む。少年がカーテンを開くと、すぐにそのオレンジ色の光が、室内にふんだんに流れ込んだ。

「あの太陽が沈む前に」とヒユが言う。

 窓から差し込んで隣のダイニングの奥までも届く西日は、家具やカーペットや天井に鋭く強い光を浴びせた。いつ見てもその光にはどこか残酷なものがある。すべてを解剖し中身をえぐり取ってみんな晒け出してしまうナイフのような残酷さ。光は、いろんな物体の表面を薄く覆う目に見えない膜のようなものをはぎとって、普段はその下に隠れている部分を強制的にむき出しにしてしまうかに思える。そしてカレー作りの作業に没頭する我々もまたその光を浴びていた。

 下ごしらえを終えて鍋を火にかけてしまうと、後はご飯が炊けるのと具材が柔らかくなるのをただ待つしかない、という時間が訪れる。その間、僕はまな板や包丁を洗い、簡単なサラダを作り、食器を三人分セットした。少年は窓際に立ち尽くしたまま離れず、傾く太陽をひたすら見つめていた。

 午後4時45分。具材はすっかり柔らかくなっていた。ヒユが真剣な面持ちで鍋の前に立ち、手にしていた円筒形の瓶からカレー粉をスプーンですくいあげて、鍋の中に振り入れた。その動作を行う彼女の身の周りには集中が湯気のように漂っている。既定の量のルーを入れてしまうと、ヒユは鍋の中身を何度か大きくゆっくりとかきまぜて蓋を閉じた。

 室内には香りが満ちていた。それは確かに遠い昔にどこかで嗅いだことのあるはずの、宵の時刻のキャンプ場に立ち込める匂いだった。西日の光は一瞬ごとに深みを増してゆき、気がついたときには夕日に変わっていた。

 窓辺に立ち尽っていた少年がふいに顔を台所のほうに向けた。そしてゆっくりとした足取りでまっすぐテーブルに歩み寄り、席に着いた。炊飯器の電子音が鳴る。鍋はコトコトと音を立てている。香りは徐々に濃厚になっていった。窓の外を見ると、オレンジと白のグラデーションが空を彩って、建物はシルエットだけを残した暗い影と化していた。ヒユが理想とする時刻は近づいていた。

 もうもうと湯気を立てる白米をざっとかき混ぜ、それぞれのお皿に盛った。ヒユがカレーの鍋の火を止めたのは午後5時12分のことだった。さらに数分ののち、サラダと、インスタントのコンソメ・スープとともに、三人分のビーフカレーがテーブルに並んでいた。

 作るのに比べると、食べるのはほとんど一瞬だった。カレーの出来栄えは完璧に近いものだった。我々はじゅうぶんにそれを味わいながらも、引き延ばされ刺激され続けていた食欲のために、誰もゆっくり食べることなどできなかった。少年が最も早くに食べ終わり、僕とヒユはそれにやや遅れてほぼ同時に食べ終えた。すべてのお皿が綺麗に空になった。食べ終えたとき、窓の外では一日の最後の光が弱弱しく街並みの彼方に消え入るところだった。

 食べ終えたあと、長い間僕らは椅子に腰かけてぼんやりしていた。空の色はみるみる暗くなってゆき、やがて完全な闇へとに変わった。少年が立ち上がってカーテンを閉ざして、それで僕らのキャンプは終了したのだった。

 

45. 少年との別れ

 

 次の日の朝、ヒユのお兄さんがマンションにやって来た。彼は写真で見た通りの端正とした風貌をしていた。物腰が柔らかく、礼儀正しい人物だった。僕が考える「芸術家」らしい特徴は少しも見られなかった。奇抜なところも気難しそうなところもなかった。全く感じの良い、欠点の見当たらない人物だった。そういう人と対面するとき、僕は半ば無意識のうちに、相手が自分に対してきっと抱くはずの軽蔑や不信感を探ろうとしてしまうのだが、どれだけ探してもそれは見つからなかった。お兄さんは僕がヒユの稼ぎで生活している人間であることをおそらく知っているはずだった。それについて彼は何かしら思うところがあるかもしれない。しかし仮に僕に対してお兄さんが何かしら否定的なイメージを抱いていたとしても、彼はいささかもそれを表にあらわさなかった。

 お兄さんは僕らにラーメンとかお好み焼きセットとかたこ焼きの形の饅頭とかといったお土産をくれた。いずれも大阪でしか買えないものらしい。

「息子がご迷惑をおかけしませんでしたか」とお兄さんが僕に尋ねた。

 いえ、少しも、と僕は答えた。

「この人のほうが、一緒に遊んでもらってるみたいだったわ。一緒に石を拾ったり、ゲームをしたりね」とヒユが言った。

 ゲームもらったんだよ、と少年が例のレーシング・ゲームのソフトのパッケージを父親に示した。父親は驚いて、いいんですかこんなものもらって、と言ったが、僕は構わないと答えた。

 少年は別れ際に丸く黒いすべすべした小さな石を僕にくれた。

 僕は別れを告げて親子は去って行った。それで僕はまたヒユと二人の生活に戻った。

 

46. 醜い女、不在

 

 僕は久しぶりにひとりで映画を見に行った。するとチケット売り場には、これまでいつ行ってもそこにいたあの醜い女ではなく、別の女性がいた。若く醜くはなく肥ってもいない女性で、彼女は僕に「いらっしゃいませ」と言い、チケット購入を求めた僕に対して愛想よく返事さえした。チケットを渡した後には「ありがとうございました」とまで言った。あの醜い肥った女と比べるとまるで天使のようにも思える友好的で丁重な対応だった。普段とはあまりに異なるそうした一連のやりとりによって僕は居心地の悪さのようなものさえ覚えていた。扉をくぐってロビーのベンチに座って開場を待つ間にも、落ち着かない気分がつきまとっていた。あの女が今日いなかったのはなぜなのか。仕事を辞めたのだろうか、それともただ休みなだけだろうか? いずれにしても僕がこの映画館『花園シネマ』に通い続けた一年と十か月ほどの間に、彼女がチケット売り場の小部屋の中にいなかったことはなかったのだ。いつもあの女は  そこにいた。

 僕は苛立ちを覚えていた、自分があの女のことについて考えてしまうことそのものに対して苛立っていた。どうしてあんな無愛想で醜い女の不在について僕がここまで考え込まなくてはならないのか? 彼女が僕にとって何だと言うのか。どう考えても、自分の心の中をどれほど注意深く点検しても、僕はあの女に対して好意などひとかけらも抱いていなかった。よく通っていた店の店員が突然いなくなるとか、ずっとそこにあり続けると思っていたものが突然なくなるといったことは、珍しいことでもなんでもない。ひどくありふれているといってもいいほどだった。どうしてそのことをいちいち気にしないといけないのか。

 扉が開いたので僕はホールに入った。座席に腰かけてしばらくすると映画がはじまった。僕はスクリーンを見つめる。映画を観る間だけはすべてを忘れることができる。普段であれば。しかしその日は何も頭に入ってこなかった。見知らぬ人々が理解できない言語で会話を交わし、理解できない目的のもとに何かを行っていた。僕は何も理解しないままただそのさまを眺めていた。なにもわからないうちにスタッフロールが流れはじめたので僕は立ち上がり、逃げるように『花園シネマ』を後にした。

 次の日にも、その次の日にも、週が変わっても、醜い女は戻ってはこなかった。よほど僕は新しい従業員に、前にいた醜い女について尋ねてみようかと思ったが、結局しなかった。

 

 パソコンに向かって文字を打ち込みながら、少年からもらった黒いすべすべした石をときどき手に取る。それに触れると不思議なほど心が落ち着く気がする。少年が去ってからしばらく、僕は意外なほど物足りない感じを覚えていた。大勢でにぎわっていた場所が突然無人になったみたいな寂しさだった。

 ある日僕とヒユは二人でもう一度あのお花を目指して出かけた。ヒユは以前に通ったルートを正確に記憶していた。僕らは無事に同じ場所にたどり着いた。そのお花畑は一度きりで消えてしまって二度とたどり着けない幻想の場所ではなかった(僕はそういうロマンティックなことを考えていたのだった)。

「よく道を覚えていたね?」と僕は感心しつつ言った。

 ヒユは何をほめられているのかわからないと言った顔をしていた。

 花はまだ鮮やかに咲き誇っていた。そして相変わらず静かで人けがなかった。こういう言い方は少年に失礼かもしれないが、僕は彼があのとき車酔いを起こしてくれたことに感謝さえした。この花畑を見つけたことは人生に起こった良いことのように思える。ヒユも同じ思いであるらしかった。

 僕はデジタルカメラで黄色い花畑を写真に撮った。ヒユの後姿もときどき映りこんだ(ところで彼女は、正面から写真に撮られることをとても嫌う)。

「秋にまた来てみたいね。あの子も連れて」とヒユが言って、僕は同意した。

 

47. ナイト・ダイビング

 

 午前2時の駅はうずくまる大型の動物みたいに見える。ロータリーの二階の広場で、若者の集団がたむろしていたが、今夜なぜか僕はそういった人々に対して恐怖を覚えない。彼らもまた深夜の静けさに飲み込まれてしまっていた。彼らは騒いだり大声をあげることもせず、奇妙にもの静かだった。そのために不気味に見えはしたが、僕はかまうことなくすぐそばを歩き去った。

 終夜営業のファストフード店の照明が窓から街路にまで光をこぼしている。外から覗き込むと夜中であるにもかかわらず席は3分の1ほども埋まっていた。窓際の席に座った客たちは誰もがどことなく退屈そうな表情を浮かべてハンバーガーを齧ったり、あるいはスマートフォンの画面を見つめたりしていた。僕は商店街を歩く。パン屋もパチンコ店もいつも通っていたドトールもシャッターが下りている。舗装された路面を靴底が叩く硬い音だけが響き、その音だけを聞きながら、僕は碁盤目状の商店街を通り過ぎた。昼間は人でにぎわうその場所も夜中にはほとんど人けがない。時々素性の知れない連中とすれ違うばかりだった。しかしもちろん僕もまたそういう人間のうちの一人なのだ。彼らにも僕の姿は同じように得体の知れない不審な男としか見えないに違いない。ある若い男は、道路の端に座り込んで一点を見つめていた。その男は若く見えたが、髪も靴も妙に清潔だったので、おそらく浮浪者ではないだろうと僕は判断した。だからといって何者なのか、そこで何をしているのかはわからない。酔っぱらっているわけでもないらしい。彼はひざを曲げて地面に座り込み、不自然なほど大きく見開いた目で錆びたシャッターを見つめていた。

 商店街をから抜け出したとき、地獄に住む悪鬼のように屹立する背の高い影が眼前に現れた。一瞬ひるんだが、よく見るとそれは、ただの道沿いに立ち並ぶ背の高い街路樹の影だった。道路脇に白い車が停まり、後部座席のドアが開いていた。車の傍らに一つの人影が体をくの字に大きく折り曲げるようにして立っていた。声にならない声と、深くあえぐような苦しげな声とともに、何か重くドロドロした液体がアスファルトに落ちる音が聞こえてきた。僕はその横を通りすぎ、川のほうへ向かって歩いた。信号の蛍光灯、川面に揺らめくLEDの街灯、走りすぎてゆくタクシーのヘッドライトが、暗いところで光って見えるクラゲみたいに赤や緑にきらめき、目の中でかすかに揺れた。揺らめく光に取り囲まれながらなおも歩いていると、いきなり背後で高く軋るような音がした。魔界に住む異形の三つ目の猿の鳴き声みたいな音だったが、それはただの自転車のブレーキの音だった。後ろからやってきた自転車は僕の右側を通り過ぎていった。その自転車の後部のかごには、なぜだかペットボトルをたくさん詰めた袋が積まれていた。どこまでも伸びる道路の上の白いラインに沿って、僕はひたすらに歩き続ける。何度かの曲がり角を曲がったところで観覧車が視界に入った。ライトアップはすでに消され、ただの暗い大きな円形の物体として、空の一部を占領している。僕はその真下まで行き、歩きながらひとしきり暗い観覧車を見上げ、また別の道を通って駅のほうへと引き返した。商店街・駅・観覧車、僕が歩いた軌跡はその三点を結ぶいびつな輪を描いた。商店街・駅・観覧車。商店街、駅、街路樹、どこからか響くパトカーのサイレン、明かりの下でたむろする人々、無人の街路、遠くに小さく見える製鉄所の煙突、排気ガスの匂い、光る川面、酔っぱらいの笑い声、観覧車、公衆電話の陰で抱き合う男女、走りすぎるバイクの群れ。ぐるぐるぐるぐると何度も輪の上をたどる。夜空を見上げるとそこに星はなかった。今、僕が空を見上げる直前まで、そこにファンタジックで巨大な魚が泳いでいた気がする。それはきっと深海魚みたいにグロテスクで複雑な形をしていた。残念ながら僕はその魚を見逃してしまった。すでにそれはとっくにこの街を過ぎて、今ではどこか遠くの空を漂っているのだろう。僕は循環を続ける。ぐるぐるぐる………循環は鼓動に似たあるリズムを体内に生み、僕はそのリズムに溺れのめりこむ。リズムが体内で響き、血を巡らせ、内臓を揺さぶる。そのリズムはいつしか都市の鼓動と重なっていた。その鼓動、真夜中の都市にだけ聞こえるひそかな命脈の音。僕は血管のように張り巡らされた街路をめぐる一粒の血液でしかない。

 

48. 伝説の凶悪クジラ

 

 そんな真夜中の散歩の途中、あるディスコ風の店の前を通りかかった。大きな音が外まで漏れている。キックドラムの音が店の外にまで響いているのだ。店の前に置かれた細長い黒板には『AW2 LIVE!! 神秘の音色が未知の世界へと誘う』と書かれていた。

 大勢の人間が発する歓声のような音が店内から聞こえた。僕は吸い寄せられるように店のドアを押した。そのとたんに、かすかに聞こえていたキックドラムの音が何倍にも増幅されて僕のみぞおちのあたりを刺すように響いた。とげとげしい電子音が耳に流れ込んできた。フロアを埋め尽くす人々の影の向こうに、スポットライトの光を浴びて、コンピュータや電子機器やシンセサイザーに囲まれた二人の男の影が見えた。

 僕は人をかき分けてカウンターまで行き飲み物を注文した。カシス・オレンジ。ステージではスキン・ヘッドの男が、乱れ撃つようなリズムに乗せてオルガンの音色でシンセサイザーを弾いていた。もう一人の髪の長い男はコンピュータを操作している。彼らが『AW2』であるらしい。誰もが踊り、騒いでいた。足音がフロアを揺らし、悲鳴のような声があちこちから起こった。

「なに突っ立ってんのさ」隣に立っていた知らない女が言った。「踊らないの? 踊らないと邪魔だよ。踊りなよ。そうしないと追い出すよ。踊らない人がいるとAW2が気を悪くするよ」

 女はエー・ダブリュー・ツーと発音した。僕はわかったよ、と言った。そして適当に足を動かしたり手を動かしたりしてみたところ、それを見た女が高い声で笑った。近くにいた人たちも一緒になって笑った。

 轟音のただなかにいて僕はどことなく、眠りに落ちる直前の感覚によく似た気分を覚えていた。踊ったり跳ねたり歌ったりわめいたりする連中に囲まれて、僕の意識は遥かなる海の上を漂っていた。四方を水平線に囲まれ、日差しが照らして鈍く重い緑と銀にきらめく海面のすれすれに、海鳥のように浮かび、そしてどこかへ向けて移動を続けていた。いつしか音楽は刺々しいビートから柔らかく冷たい音色の静かなものへと変わっていた。音色の変化に伴って、僕の周囲に広がっていた水面もまた色合いを変化させていた。AW2が遠くへいざなう、あのキャッチコピーは正しかったんだと僕は思った。まさしく僕は見知らぬどこかの海へと導かれ、海辺の岩陰にたむろする海の精霊たちと愉快な、そしてやや淫らな遊びに興じていたのだった。それはまるで海底に眠る巨大な凶悪クジラの存在を、絶えず感じながら、その恐怖を忘れようとするために、一時的なはかない快楽に身をゆだねるような、そういう感覚だった。そうした場合、恐怖が間近に迫っているからこそ快楽は強められるのであって、そして実際に僕はそうやって強められて増幅された快楽に包まれていた。全身を撫でる柔らかい無数の針の先端が少しずつ皮膚に埋もれていくような感じだった。そんな甘美な陶酔のさなかに、僕はすぐ足元の海面に、凶悪クジラの二つの目が白く光っていることに気づく。結局逃れるすべはないのだ。島のような巨体を持つ凶悪クジラが暴れだしたら、人間にできることなど何もない。僕はあきらめに支配される。しかしそのあきらめの気分さえ、快楽をさらに強め、高めるための要素となる――すべての幻想が突如として闇に飲まれてしまった。音が止んだのだ。音楽は終わっていた。いつの間にかステージ上は無人だった。抜け殻のような楽器がライトに照らされているばかりだった。二人のミュージシャンの姿は消えていた。

 店にいた人たちの会話を盗み聞きして得た情報によると、『AW2』は二人そろってひどく変わり者で、超俗的で非凡な、一種神がかり的な人たちなのだということだった。ライヴの前には鶏の生き血をすすっているらしいとか、どちらかは人を殺したことがあるらしいだとか、どちらかは英国のとあるやばいカルト悪魔崇拝の宗教に最近入信したらしいだとか、そういったことが語られていた。それらの噂話が事実であるかどうかはともかく、その音楽は僕に強い印象を残した。

 

 数日後、ヒユに『AW2』のライヴのことを何気なく話してみると、驚いたことに彼女もそのミュージシャンについて知っていた。「そりゃ知ってるわよ。だってこの街の出身じゃない」

「そうなんだ。そんなに有名なの」

「海外のレーベルからCDを出しているのよ。世界のあちこちにファンがいるらしいよ。そりゃすごいよ。大した才能よ。兄もファンだって言ってたわ」

「君のお兄さんは、現代音楽の作曲家なのに、ああいう電子音楽も好きなの?」

「作曲家だからって、何もクラシックばっかり聞いているわけじゃないわよ。兄はあらゆる音楽に関心があるんだから、当然あらゆるジャンルのバンドやミュージシャンを知っているわ。それにね、AW2の人たちは二人とも、もともとはそっち側の人間なのよ。つまり兄と同じような種類の音楽を志向していたことがあったの。二人とも音大で作曲を学んでいたんだって。そういう専門教育を受けていないとできないような、高度で複雑な和音の使い方とか曲の作り方をしているんだって、兄が感心してたわ」

 僕はさっそくインターネット通販でAW2のアルバムを注文した。

 

49. 墓参り

 

 6月、僕は両親が住む家に帰った。それは一応実家と呼んでよいものであるはずだった。僕が生まれたときから約18年間住んだ家である。いつも僕はお尋ね者みたいに人目をはばかって、こそこそと、夜の時刻に帰る。誰かが出迎えてくれることもあるが、両親とも眠っていることもある。両親は僕が夜間に帰ってくることは知っているので、その時間には玄関のドアを開けておいてくれる。だから僕は帰省しても、両親と顔を合わせるのは次の日の朝ということもしょっちゅうである。母はバイタリティにあふれた女性である。50を過ぎてから突然英語を勉強しはじめたり、また最近ではマラソンをはじめたのだと言っていた。

 僕がこの時期に帰省する理由は墓参りのためだった。6月の17日が姉の命日なのだった。

 姉は高台の上にある墓地の中腹に骨になって眠っている。姉を亡くしたとき、僕はまだものごころがついていなかった。人間というより動物に近い、まともな意識を持たない存在だった。だから僕は姉の顔も声も思いだせない。彼のことをろくに認識しないうちに姉はこの世を去ってしまったのだ。そのことについて、僕は長い間釈然としない思いを抱えていた。理解もできなかった。何かが間違っている、と思い続けていた。その混乱は今でも晴れていない。何かひどく理不尽なものがそこにはあって、それはおそらく人生というものが本質的にはらむ理不尽さなのだった。姉に降りかかった運命についてはじめて僕が知ったときに覚えたのは、悲しみというよりは怒りに近い感情だった。その感情は、姉の死という事実にではなく、その理不尽さに対して向けられたものだった。

 僕は一人で墓地に行った。我が家の墓はすでに綺麗に掃き清められていた。僕は墓の前に立ち、手を合わせて15秒間目を閉じた。

 帰宅すると家には誰もいなかった。父は会社があるので昼間はたいてい家にいないし、母もまたどこかに出かけているようだった。僕は縁側がある部屋に入り、陽だまりが照らす畳の上に横になった。その温かみは懐かしいものだった。僕は目を閉じて鳥の声を聞いた。

 梅雨の時期だったが、家の中は不思議なほどからりとしていた。この家には昔からそういうところがある。季節と、あるいは天候と、室内の感じに、どこか食い違いのようなものがあるのだ。僕は縁側のある部屋の床に横になってぼんやりした。畳の感触は心地よく、久しぶりに落ち着いた気分になった。その部屋は僕が家の中で一番気に入っていた場所だった。およそ30分ほど、眠りとの境目のあいまいなところをうろうろした後で目を開け、体を起こすと、目の端で何か黒く丸いものが動いた。一瞬びくっとしたがすぐに思い出した。それはこの家でもう10年以上も飼っている黒猫だった。猫は歩いて窓のそばの陽だまりの中に入ると、そこに丸くなって座った。僕は近づいて猫の背中を撫でた。猫は僕に見向きもしない。

 僕は窓の外の庭を眺める。庭にはどこからともなく近所の野良猫が集まってくる。母は猫という生き物に対して一筋縄ではいかない感情を抱えている。つまりひどく愛してもいながらときに憎むこともある。猫たちの来訪を快く歓迎することもあれば、ほうきやらハンガーやら、とにかく手近にあるものを掴んで大声を上げながら追い払ったりもした。猫たちがどんな扱いを受けるかはただその日の母の気分にかかっていた。運が良ければ猫たちは魚の切り身のタラやら煮干しやらのごちそうにありつけるし、運が悪ければ背中や足や尻尾を負傷することになる。それでも長く家で飼っているその黒猫に対してだけは、一貫した愛情を注いでいた。

 庭はひどく狭い。家を囲む塀と縁側との間には、子供が一人体を伸ばして寝転がったらふさがってしまうほどの幅しかない。そんな狭いスペースに、母は花壇や植木などを並べている。野菜を育ててもいる。一本だけある柚子の木は冬になると実をつける。母は柚子を収穫するのを好んでいた。鼻歌を歌いながら枝切ばさみを使って黄色い果実をかごに入れる母の姿は、僕には見慣れたものだった。

「いつかあんたが出世して、この家を立派な三階建てに建て替えてくれる日が来るのさ」母は「三階建て」に妙にこだわっているように僕には感じられた。日本では三階建ての家というのはあまりお目にかからない。たいていの家庭は二階建てで事足りるし、階段の上り下りも大変なので三階など持て余してしまう。どうして母はあんなに三階建てにこだわっていたのだろう。単に大きな家というのではなく「三階建て」の部分を強調していた。家を建て替えることについての夢のような理想を母はかつて頻繁に口にしたが、三階建てというキーワードが省かれたことは決してなかった。それは明らかに母にとって特別なものを意味しているらしかった。単に大きくて広いというだけでは物足りなかったのだと思われる。なぜ三階建てにそんなにこだわるのかについて、尋ねたことだってあったはずだ。しかし母はいつもはっきりした答えを返さなかった。「とにかく三階ってところが大事なんだよ」とか「豪邸といえば三階建てって決まってるからさ」とかいうばかりで、具体的なことは言わない。

 

50. 幽霊

 

 いまだ建て替えられることもなく、その見込みもないまま同じ場所に佇むその家で僕は久しぶりにのんびり過ごした。夜になって父が帰宅した。我々は親子として簡単な挨拶を交わしたが、特にそれ以上の会話があるわけでもない。食事と入浴を終えると、僕は部屋に戻り、書棚から引っ張り出してきた古い本を夜中まで読んでいた。九時過ぎごろから雨が降り出して、強くも弱くもない勢いを保ったまま真夜中を過ぎてもまだ降り続けていた。いつまでも帰らない不愉快な訪問客みたいなしつこく執拗な雨。僕はときどき本を置いて目を閉じ、雨粒が雨どいに落ちるぼたんぼたんという音に耳を澄ませた。しかしいつまでたっても眠気は覚えなかった。何しろ普段であれば、真夜中はしっかりと覚醒して活動している時間帯なのだ。おそらくこのまま眠らず朝を迎えることになるだろうと思いながら僕は読書を続けた。それから数分ほどして声が聞こえてきた。

 僕がその部屋でその声を聞くのは初めてのことではない。はじめて声を耳にしたのは、僕がまだ幼いころのことだった。母は、それはあんたのお姉さんの歌声だよ、雨が降る日に帰って来て、縁側に腰かけて歌うんだよ、と言った。僕の姉は縁側に腰かけて雨を眺めながら鼻歌を歌うことを好んでいたらしい。

 確かにそれは歌声だった。雨音と聞き分けのつかないとぎれとぎれの歌声だった。僕は体を起こして、部屋と縁側とを仕切る障子を見た。障子は閉ざされていて、その下半分はガラスになっているのだが、その向こうは暗く、何も見えなかった。でも障子の向こうの縁側に誰かがいることはわかる。自分以外の存在の気配が部屋の空気中にかすかに混じっている。<彼女>が縁側に腰かけて歌っているのだ。

「あんたのお姉さんは即興で節を作って歌ったものさ。あの子は歌うのが好きだったからねえ! 歌詞をつけることもあったよ。たいていは意味不明な言葉ですらないでたらめな音声だったけれどね! でもそれは綺麗で、そしてとても静かな声だったよ。ちょうど雨音のしとしととかぴたぴたという音を真似するような、ひそやかで、柔らかくて、綺麗な歌声だったんだよ。それは私が知る限り雨音にもっとも近い人間の声だったよ」と母は言ったものだった。

 歌は続いている。僕は障子を開けなかった。本を閉じて横になり、目を閉じてじっとしていた。歌声は雨の音と重なりながら静かに、ごく自然に夜の部屋に響いていた。耳を澄ませているうちにいつしか眠っていた。

 

51. 雨の庭

 

「昨夜も歌が聞こえたよ」と僕は朝食の席で母に言った。

 母は頷いた。「いかにも、あの子が好きそうな雨だったからね」

 僕らは黙って朝食を食べた。

「一度こんなことがあったよ」と母がだしぬけに言った。「子供のころ、私が居間で本か何か読んでたら、縁側のある部屋から、あの子の歌が聞こえてきたんだ。だから私は、ああ、雨が降っているんだなと思った。そう思うと歌と一緒に雨の音も聞こえてきた。私はかまわず本を読み続けていたんだ。しばらくして窓の外を見てみると、雨が降ったあとなんてどこにもなかった。塀も道路もまるっきり乾いていたんだ。空は曇っていたけれどね。でも確かにさっき雨の音が聞こえたなって。屋根に雨粒が当たる音、庭の細い水に水が流れる音、そういう音を、私は確かに聞いていたんだよ。さっき雨が降ってたよね、って、あの子に聞いたら、あんたのお姉さんは、さあ、どうだったかしら、って、どこか大人びた言い方で、あいまいな答えをしたわ」

 朝食を終えると母は着替えて、簡単な化粧をしていた。

「あんたいつ帰るの」と出かける前に母が尋ねた。

「夕方に帰るよ」

「夕食も食べていきなよ」

「ああ、でも今日は夜に用事があるから」

 母は無理に引き留めることもせず、そのままどこかへ出かけて行った。

 

 一人になった僕は家中の戸棚やタンスの中を漁り、古いアルバムを探した。姉が写った写真が何枚か収められている。姉はこれといって特徴のない少女だった。父よりは母に似ている。髪の毛はおかっぱにしていて、いかにも小学生という感じ、スカートと白いブラウス、目は細く、やや吊り上がっている。子供にしては頬の線にふくらみが乏しく直線的で、わずかに不健康そうな印象があった。どこかの空き地のような場所で、姉が一人で写った写真があった。遠くの背後には道路が見え家の塀と電柱と黒い乗用車が見える。姉は右腕を曲げて手を軽く握り、顎の下に当てていた。何かについて深く思い悩むような深刻そうな表情を浮かべている。

 別の写真では、姉が友達と思しき女の子と二人で映っていた。砂場で遊んでいるところをやや上から映したものだった。見知らぬ少女は笑顔でカメラを見つめていたが、姉は見向きもせずにうつむいて砂遊びに没頭していた。姉の両手の間には小高く盛り上がった砂の山があった。じょうろとスコップと小さなバケツが傍らに置かれていた。

 写真で見る限りでは姉はいろんな表情を浮かべる一人の比較的平凡な少女でしかなかった。どうしてもそこに暗い影のようなものを見出してしまうのは、のちに幼くして死んでしまうことをすでに知っているからだろう。姉の時間は小学一年生で止まってしまっている。彼女はその年に7歳で死んだのだ。

 僕は縁側に座って庭を眺める。昨夜からの雨は降り続いていた。土や木の葉や敷石をそっと濡らすだけの音もなく降る雨だった。こんな日には猫たちも姿を現さない。僕は一人で雨の庭を眺めた。まだ歌声が耳に残っている。

 

52. 分身との対話

 

 僕はモノレールに乗り込んだ。現在の生活には倦んでいるつもりでいたのに、何日か離れただけでそこに戻りたくなる。生まれ育った家の空気は、直ちに過去へと結びついていて、それが僕を消耗させるらしい。

 マンションに戻ると、ヒユは仕事に出かけるところだった。ヒユは僕を見て「お帰り」と言った。その普段と何も変わるところのないそっけない言い方を聞いて、僕はなぜか少しほっとした。自分がヒユを必要としているのだということを、そういうとき僕は感じる。ヒユは僕の過去には全く結びついていないし、僕の過去についてもほとんど知らない。彼女と一緒にいるとき、僕は過去からの連鎖を断ち切ることができる。少なくともそんな気分にはなれる。

 ヒユはすぐに出かけて行ってしまい、僕はまた一人になった。

 

 ヒユを送り出した後、僕は一人でトランプ遊びをした。なぜかは知らないがテーブルの上に一揃いのトランプカードが置かれていたのだ。僕はもう一人の人格と七並べをした。もう一人の人格はひどく狡猾で意地悪だった。彼がずっと9のスペードを止めていて、僕はまるっきり打つ手なしといった様相を呈し、結局負けてしまった。そうやって一人で勝負事を行うときにはたいてい相手に設定したほうが勝ってしまう。トランプでも将棋でもオセロでもそれは同じだった。昔からの癖のようなものだ。子供のころからそうだった。僕は洗面所に行って顔を洗い、服を着替え、髪の毛に櫛を入れてから外に出た。

 僕の対戦相手、僕の分身、僕のもう一つの人格、その存在が僕に告げるところでは(そいつは時と場所とを選ばず僕に語り掛けてくる。耳をふさいでいても、聞きたいと思っていてもいなくても)、僕はまるっきり凡庸な人間であるらしい。彼に言わせると、僕は凡庸さを憎みそれから逸脱しようともがいてはいるが、いろいろなものの不足と欠如のためにそれが叶えられずにいる。そういう人間こそ最も凡庸なのであって、僕はその典型のような存在なのだということだった。いろいろなものというのはつまり才能とか能力とか、器用さとか勇敢さとか、社交性とか会話能力とか、想像力とか忍耐力とかそういったもので、そうしたものすべてが、必要な基準に達していないらしい。そして今日は僕の分身は僕の容姿に対して批判を加えた。奴に言わせると、僕は人から好かれる外見をしていない。他人に良い印象を与えることなどまずありえないような、特異な親しみのもてない外見をしているというのだった。目つきは鋭く、虹彩には光が乏しく、また眼球が滅多に動かないので人に不安を抱かせるし、ことによると不愉快にもさせる。髪は基本的に長く伸びて、いつも毛先が痛んで跳ねているし、薄い唇は(君はその部分を自分の顔の中では最も気に入っているみたいだけれどね、と分身は言う)形こそ悪くないにしても、あまりに薄く、また血色に乏しいために、不健康な印象を強めている。鼻にいたっては小さくて地味で、何度か目にしたくらいでは、ろくに誰の記憶に残らない代物である。

 僕は力なく反論する。「ずっと前のことだけど、僕の顔について、ヒユが割と好意的な評を下してくれたことがあったよ。なんでも大昔の、80年代に人気のあった、あるアイドルの顔に似ているらしい。歌手だったかな? 名前は忘れてしまったけれど、とにかく芸能人なんだよ。芸能人に似ているのなら、それほど悪いものでもないんだろう」

――問題は顔立ちそのものじゃないんだよ。表層じゃないんだ。君の顔の奥というか内側にあるものが問題なんだよ。それが君の顔から生気を奪っているんだよ。

「もっと具体的に言ってくれないかな」

 分身は沈黙する。彼はこういうとき、つまり僕がもっと詳しく知りたいと思うことについては、意地悪くも必ず答えを返してくれないのだ。それはわざとやっているのではないかと思うぐらいだ。

――君はその容姿と顔だちを引きずってこれからも生きていくことになるのさ。僕は君のむなしい努力を眺めていることはそんなに嫌いじゃないんだよ。まあ健闘を祈るよ。君が君なりに人生を良きものにしようと悪戦苦闘するところをこれからも眺めたいと思っているよ。

 つまり分身はそういう意地の悪いことを言って僕がうろたえたり傷ついたりするのを喜ぶようなやつなのだった。そんなものは追い出してしまえばいい、と誰もが言うだろうし、自分でもそう思うが、そいつはいつの間にか僕の中にいついてしまっていて、どこから入ってきたのか、いつからそこに居座っているのかも不明で、要するに僕の手に負える存在ではないのだ。それはやはり僕自身の一部なのであって、僕が自らを殺さない限り、そいつが死ぬこともないのだろう。 

 用事がある、と母に言ったのは嘘ではなかった。予定のない生活を送る僕にもその夜は本当に予定があった。今夜また例のディスコティック風の店で「AW2」がライヴを行う。その情報を僕はききつけていたのだ。数十分後には僕は轟音のただなかにいた。その音楽はその夜も期待を裏切らなかった。彼らの音楽は僕を解放したのだし、ライヴが終わったときには僕の分身はどこかに身を隠していた。

 

53. 仕事の終わり

 

 すでに僕は息子氏のすべての作品を入力を終え、あとは全体の誤字・脱字の修正をする作業を残すのみとなっていた。その作業にひたすらかかりきりになり、そして約一週間ほどみっちり働いて、その日の早朝、ついに終了したのだった。僕は×印だらけのカレンダーに目をやる。ご婦人が提示した期日まであと二日だった。

 僕は久しぶりにパソコンの電源を落とし、朝の街を散歩した。空気はすでに夏のそれだった。僕が「仕事」に没頭していた間に、季節はとっくに夏に移行していたらしい。「仕事」が終わってしまったことについて、ある種の寂しさを感じていたことを認めないわけにいかない。今では僕は息子氏の作品に、ほとんど惚れ込んでいると言ってもよかった。入力作業をしながら、僕は彼が築き上げた世界の中をさまよい遊びまわっていたのだし、想像裡に描き出されたあの架空の都市「不壊音」の景色を愛した。

 二日後にドトールに行くと、ご婦人はすでにいつもの席にいて、僕を待っていた。僕は仕事が終わったことを彼女に伝え、原稿を手渡した。

「一応全体をチェックしましたが、まだ誤字とか脱字があるかもしれません」

「いいのよ、それくらいは。それは仕方のないことだし、たいした問題でもないわ。あなたにはとても感謝しているわ。どうもありがとうね。大変だったでしょう」

「大変でしたけど、楽しくもありました。でも僕はこんなに長い期間、一つのことに集中した経験がなかったので、我ながら、よく投げ出さなかったのと思いますよ。それにしても、あなたは心配にならなかったのですか? 僕がいきなり仕事を放り出して、最初のお金だけもらって逃げてしまうかもしれないとは、考えなかったのですか」

「もしそうなってても、それならそれで別にいいのよ。もともと変な話なんだし。少し損をするだけのことだわ。でも今の問いかけにこたえるなら、考えなかったわ。あなたはきっとやり遂げてくれるって信じていたわ。あなたが投げ出すだろうとは思わなかったわ。どうしてそんなことを信じることができたんでしょうね。あなたはその仕事を途中でやめるわけにいかないことが、私にはわかっていたの」

「へえ」

「でもその通りでしょう?」

 僕は同意した。ご婦人は僕に約束の謝礼を渡し、原稿の束を抱えて帰っていった。

 そうやって僕の「仕事」は終わってしまった。

第3部 静かに堕落する季節

54. コカ・コーラ中毒


 

 夏が近づくにつれ、僕が飲むものはコカ・コーラばかりになった。昼となく夜となく僕はひっきりなしにコカ・コーラを飲んだ。前触れもなく突然、僕はその飲み物にとらわれてしまったのだった。

 ソファやベッドに寝転がり、僕はコーラにまみれた頭でいろいろなことを考えたり思い出したりしては、そのそばから忘れ去っていった。一時間後には一時間前に何を考えていたか思い出せないありさまだった。僕の脳はコーラの海に漬かっていた。

 ヒユはそんな僕の様子を見て呆れたように首を振る。「歯が溶けちゃうわよ」とヒユは言った。その言葉を聞いて僕は懐かしい気分になった。子供のころ、大人たちはコーラを飲みたがる子供に対して歯が溶けるといってたしなめていたものだった。我々子供たちは、歯が溶けるイメージについて恐れをなしながらも、どこかでそれは冗談のようなものなのだろうとみなしていた。

 僕は歯が溶ける様を想像してみる。アイスクリームやバターや氷のように歯が溶けゆく様を想像する。すべての歯がドロドロに溶けて、口の中には舌だけが残り、歯がなくなったぶんだけ可動範囲を増したそれは、赤い蛇のようにより自由にうねうねと動き回るのだろう。食べることはすべて舌のみによって行われる作業になる。そうなると、食べられる物はずいぶん限られてしまうだろうな……

 夏のはじめの日々を、僕はそんなことを考えながら過ごした。近所のスーパーやコンビニエンス・ストアでコカ・コーラを買い占めるほどの勢いで買った。一度などはそうやって同じ商品を買い占めることについて、ある店の店長から注意を受けたことさえあった。その店長は、買い占めによって「本当にコーラを必要とする人」にコーラが行き届かなくなる可能性がある、と僕に言ったのだった。それを聞いたとき、僕は「本当にコーラを必要とする人」にぜひ会ってみたいと思った。それはまさしく今の僕のような人間ではないのか。しかしひょっとするとあれは冗談だったのかもしれない。

 僕はコーラを買い続け飲み続けた。その飲料に対して嫌気がさすことはぜんぜんなかった。僕は自分の限界を探ろうとしていたのかもしれないが、それはまだよほど遠くにあるようだった。

 

 文章を書こう、と突然思った。ある暑い日の午後のことである。僕は冷房の効いた部屋で、ソファに寝転がって目を閉じていた。書くべきだ。書かなくちゃならない。そうだ、ずっとそのことは思っていたのだ。何かを書かなくてはいけない、と思っていたのだ。かつて没頭していた、あのわけのわからない、文章未満の文字をひたすら書き記すといった無益な行為などではなく、もっとちゃんとした意味のある、まともな文章を書かなくてはならない。息子氏の作品群が僕に深く影響を及ぼしていた。僕は彼が残した文章を入力しながら、確かに彼と会っていたのだ、とまどろんだような頭で、今僕はそんなことを思う。僕は何度も彼と対面し、対話を繰り返し、彼の思考や夢の断片に触れ、彼という人間の奥深くにまで入り込んでいたのだ。そして僕はその過程で息子氏から、何か貴重なものを受け取った気がする。それは奇妙な光を放つ、ゆがんでグニャグニャとしたひどく柔らかく温かい、おそらく他のどこでも見つけることのできない、名状しがたい何かだったが、とにかく僕はそれを受け取り、そして自らの体内に取り込んだのだった。そうだ、その物体は、僕が息子氏の小説をパソコンに入力する作業を行う途中にも、どんどん育っていった。僕はそれが栄養を摂取し、呼吸しながら、すくすくと成長してゆくのを感じていた。すべての文書が完成し、仕事を終えた後でも、それは僕の中を去らなかった。僕の内部にはもともと、それを収めるのにちょうどよい形のくぼみのようなものがどこかにあって、そこに綺麗にぴったりと嵌め込まれているらしい。

 その得体の知れない物体が、僕に文章を書くよう命じていた。でも一体何を書けばいいのか? 僕は自分の内部を見渡し、そして書くべきことも、書きたいものも何も自分が持たないことを知る。

 僕は目を開け、辺りを見渡した。初夏の午後のリヴィングのあちこちに、空き瓶や空き缶やペットボトルが散らばって転がっていた。僕がひたすら飲み続け飲み干したコカ・コーラの残骸。そうだ、コカ・コーラに捧げる文章を書けばいいのだ、と僕は思った。そこからはじめればいい。興味があること、自分にとって重要な物事について書けばいいのだ。差しあたって現在僕が強く関心を向けているものといえばコカ・コーラをおいてほかにない。ということは、僕はそれについて書かなければならない。息子氏はひたすら自分が書きたいものだけ書いた。だからこそ彼の小説は僕を勇気づけ僕に感化を及ぼしたのだ。そういう文章にだけ価値がある。そうでない文章、つまり小手先の技術で物事の表層をなぞっただけの文章など、それがどれほど見事な文章であろうと、僕は読みたいとは思わない。

 どんなふうに書くべきか、それについては今のところ何の考えもなかった。でもとにかく、最初の一文字か一文を書いてしまえば、続きはあとからひとりでに生まれるだろう。今僕はそんな気がしている。はじめて何かが書けそうだという気分だった。あるいは気のせいかもしれない。カフェインと糖分に浸されてぶよぶよになった脳がただ僕を欺いているだけなのかもしれない。いずれにしても、かつてこんな気分になったことはなかった。少しでも何かが書けそうだと思ったことはなかった。その思いには忠実であらねばならないという気がする。それで僕は体を起こしてソファから立ち上がり、パソコンのある部屋へと向かった。

 

 

55. 夏の海にいた女

 

 7月の終わり頃、ヒユと海に行った。ヒユは泳ぐのが好きで、しかも得意なのだ。だから毎年夏になると昼間に半ば無理やり時間を作って海に行くのだ。彼女は夜通し働いて帰ってきた後、少しだけ眠って出かける。僕が住む街には海水浴場はないので、僕らは車に乗って大きな橋を渡って対岸の隣県へと渡り、さらに車で一時間ほども北上したところにある、ある寂れた港町を目指す。ひどく小さな町だが、そこには思いのほか綺麗な海水浴場があって、我々は夏になると最低でも必ず一度はその町を訪れるのだった。

 橋を渡って隣県に入ると、人々の気質ががらりと変わる。そのことは何より自動車の運転に表れる。僕が住む県のドライバーの多くは、荒っぽい運転をするし、交通事故の検挙率も全国で上位に入る。しかし海を挟んだ隣県においては事故はずっと少なく、ドライバーの運転も穏やかで常識的である。直線距離にして10キロほどしか離れていないのに、どうしてこんなに違うのかしら、とヒユは言う。僕にもその答えはわからない。県民性とかいう、オカルトめいた漠然としたものに根拠を求めるしかない。

 しかしヒユもまた、海へ来ると人が変わってしまう。いつものどこか醒めたような感じがなくなって、ほとんど子供のようにはしゃぎだすのだった。水着姿のヒユは普段よりいっそう娼婦には見えない。そこにはいかがわしさも淫靡さも、色気のようなものさえほとんどない。胸には盛り上がりらしきものはろくになく、ビキニの青い水着は、ただそういう役割のものだからという感じで、ヒユの裸身を簡単に包み隠している。細い肩の角ばった感じは大人の女というよりは小学生の男の子のようだし、かろうじて腰骨は女性らしい曲線を描いてはいるものの、臀部の盛り上がりもやはり控えめなのだった。彼女は処女のように見えさえする。僕はそのさまを見ていつも感心してしまう。ヒユに言わせると、そういう無垢さ(無垢に見えるさま)が、彼女を人気の娼婦にしているらしい。

 海水浴場は人であふれてはいたが、ひどく混雑しているというほどでもなかった。ヒユはひたすら泳いでいた。一度海に入るとめったに陸に上がってこなかった。ヒユはそんな風に地味な平凡な見た目をしていながらも不思議に人目を惹くらしく、男たちに頻繁に声をかけられていた。そういう連中の相手をするのを避けるために彼女は水から出てこないのだ。

 僕はほとんど海に入らず、砂浜に座ってコカ・コーラを飲み続けていた。ときどき砂の上にその飲み物をわざと少しこぼしたりした。小さな染みができて、熱に蒸発してすぐに消えた。

 戻ってきたヒユが僕の隣に座る。長い時間泳いでいたにもかかわらず、彼女は疲れているよう見えない。顔にはいつになく明るい微笑みさえ浮かべていた。彼女がそれほど屈託なくなるのは夏の海水浴場にいるときだけだと言っても言い過ぎではなかった。僕はヒユにコカ・コーラの缶を手渡した。彼女はぷしゅんと音を立ててプルトップを引き抜き、ごくごくと音を立てて飲んだ。水滴の残った濡れた白い首筋が波打つように動いている。僕は飲み干したアルミ缶を手の中でつぶした。

 少しすると、ヒユはまた立ち上がって、小走りに海に向けて駆け出して行ってしまった。取り残された僕は海を眺めた。そのとき僕のすぐ横を、誰かが通り過ぎた。その動作がひどくゆっくりでまた静かだったために、僕は注意を引かれた。一人の女だった。もちろん知らない女である。通り過ぎていったその女の背中を、僕は見るともなく見た。女はワンピース型の水玉の水着を着ていて、ひどく痩せていた。後ろ姿は線を引いたみたいにどこか直線的で、凹凸というものがなかった。女は後ろで束ねた黒く長い髪をゆらゆらと揺れしながら、ゆっくりと滑るように裸足で砂浜を歩き、そのまま海に入った。

 女は泳ぎはじめた。たくさんの海水浴客の中に紛れて、その女だけは白っぽく仄かな光に薄く包まれたみたいに浮かび上がって見える。僕は何度かよそ見をしたが、その光のせいで女の姿を見失うことはなかった。

「幽霊みたいだ」と僕は独り言を言った。しかし女はおそらく幽霊ではない。ほかの人々に彼女の姿は見えていた。なぜなら女が近づくとみんな避けて道を開けていた。僕はコーラびたしになった淀んだ頭で、幽霊について考えた。真夏の海岸に幽霊が現れるのかどうかについて。大いにあり得そうな気がするし、しかもそれは普通より怖い感じもする。昼間の明るい日差しの下に現れる幽霊、そのイメージはどこか魅惑的だったので、僕はしばらく想像の世界に遊んだ。再び海に目をやると、いつの間にか幽霊めいた女の姿は消えていた。人ごみの中に、あの奇妙な光をまとった人物はひとりも見当たらなかった。それで僕は代わりにヒユを眺めた。彼女のほうはまだ元気に泳ぎ続けている。僕は立ち上がり、新しいコーラを買いに行った。

 新しいコーラを飲みながらぼんやりしていると、またさっきの知らない女が、いつの間にか僕が座るシートのすぐそばに立っていた。顔を上げると女と視線が合った。その女は無言で僕を見下ろしていた。間違いなくさっきの幽霊女だった。顔だちを記憶していたわけではなかったが、束ねた髪の長さも水着の柄も体型も同じだったので、そう判断しないわけにいかない。彼女はひどく色が白く、目が小さかった。白目の部分の少ない、まるで黒い穴が二つ開いているみたいな目。そんな目と視線が合ってしまって、僕は少しぞっとした。何か言おうとしたが、言葉は出てこなかった。すると女のほうが先に言葉を発した。彼女は一度だけ囁くように何か言ったのだった。それはまるでたんぽぽの綿毛がそよぐような声で、つまりろくに聞き取れなかった。

「何ですか?」と僕は聞き返した。

「体を壊しますよ」と女は言った。

「コカ・コーラのことですか」と僕は言った。これまでヒユから、コーラの飲みすぎについて同じことをさんざん注意されてきたのだ。だからこの女もまた健康上の注意を促しているのに違いない、と僕はとっさに思ったのだった。しかしその指摘がもっともだとしても、でもどうしてこの女が、僕のコカ・コーラ中毒についてわざわざ注意しなくてはならないのか。どう考えてもその女に見覚えはなかった。

 そのあと、僕も女も何も言わなかった。僕は目をそらし、コーラを飲み続けていたが、その間もずっと視線を感じ続けていた。見ないふりをしていると、そのうちに女はそのまま無言で歩き去り、どこかに消えてしまった。もうどちらを向いてもあの奇妙な白っぽい光は目に入らなかった。僕は何となく不安定な気分のまま、まっすぐに水平線を見据えていた。

 気がつくとヒユがそばに立っていた。彼女は濡れた体をタオルで拭いながら、なぜか僕を睨みつけるように見つめていた。彼女はやがて口を開いた。

「あなたさっき誰と話してたの」

「知らない人だよ」

「知らない? 知らない女の人に声をかけたの?」

「え? ……違うよ。向こうから話しかけてきたんだ」

「本当に?」

「うん」

「何て言ってきたの」

「コーラを飲みすぎないようにってさ」

「嘘でしょ。どうしてそんな嘘つくの?」

「嘘じゃないよ。そんなに飲むと体を壊しますよって、言われたんだ」

「どうして知らない人があんたの体のことなんて気にするのよ」

「僕だってわからないよ。だから僕もびっくりしてたんだ」

「本当に知らないの?」

 僕は首を振る。ヒユは無言で僕の隣に腰を下ろした。どういうわけか僕は後ろめたい気分になっていた。僕は飲み干したコーラの缶をまた潰した。同じように潰れた缶が7つ、砂の上に一列に並んでいる。僕はそれぞれの潰された形を同じにしようといつも試みるのだが、それはいつもまるで異なる形にぐしゃぐしゃになるのだった。8つ目のそれもまた、これまでのどれとも違う形に潰れて、列に新しく加わった。

 いきなり手が僕の腹部に触れた。夏の間、僕のお腹はずっとぶよぶよだった。息子氏から受け取った気がしたあの名状しがたい物体は、この腹の中に潜んでいるのではないかと思ったことさえあった。それともそれは単なる肥満の徴候だったのかもしれない。その腹の肉を、ヒユが爪を立てて思い切り掴んだのだった。かなりの力だったが、部位が部位だけに、痛みはほとんどなかった。ヒユの手は意外なほど冷たく、夏の日差しの中で熱を持っていた僕の体にとっては、その感覚はどこか心地よくもあった。ヒユは素手で肉をちぎり取ろうとするかのように力を込めて、右にねじったり左に引っ張ったりしていた。僕は抵抗しなかった。もちろん腹の肉はちぎれたり引き裂かれたりはしない。ただ彼女の爪の跡が残っただけだった。やがてヒユはあきらめて手を離した。

 そのあと僕らは長く無言だった。


 

56. 肥ること

 

 いつかはコカ・コーラとも離れなくてはならない。そのことを思うと奇妙なほど辛い気持ちになる。夏になったこと、例の「仕事」を終えた開放感が、僕をコカ・コーラへと耽溺させていた。今の僕はコーラを飲むために生きていると言えた。一時間もそれを口にしないでいるとひどく落ち着かなくなって、ほかの何も考えられなくなった。『花園シネマ』で映画を観るときでさえ僕はコカ・コーラを飲むようになっていた。それまでの僕は映画を見ながら何かを飲んだり食べたりする習慣はなかったのに。久しぶりに行ったゲームセンターで、Tと顔を合わせたが、彼は僕を見て、少し肥ったのではないか、と言った。確かに体重が増えつつあることは、わざわざ体重計に乗るまでもなく自分でもわかる。考えてみればこれまでの人生で僕は一度も肥っていたことなどなかった。自分はどうやっても肥ることのできない体質なのだと信じていた。だからTの言葉に、本来なら驚いたりショックを受けたりしてもいいはずだった。それなのに僕は何とも思わなかった。まるで心までもが、あの傷つきやすく繊細だった僕の心までもが、コーラの緑色の海の中にどっぷりとつかって、分厚いその液体に阻まれて何も届かず何も感じなくなっているみたいだった。

「あなたそのうち水風船みたいな体型になるんじゃないの」とヒユは言った。「いえ、今の時点ですでにそうなりかけているわ。どこもかしこもぶよぶよでしまりがなくなっていってる。本当に水風船みたいに、つつくと穴が開いてコーラが噴き出してきそうだものね。これからもっとひどくなると思うわ。もっとぶよぶよとだらしなく膨らんでいくんだと思うわ」

「夏が過ぎれば元通りになるさ」僕はいつもそのように言った。

 しかし物事はもちろんそんなに簡単ではない。すでに夏は後半に入っていたが、贅肉は増し続け、僕のコカ・コーラへの欲求がやむことはなかった。

 僕の体脂肪と体重は以前より、つまり「コカ・コーラ中毒」以前よりそれぞれ3割ずつほども増していた。体重計に表示されたその数値を見て、初めて僕はシリアスな危機感を覚えた。肥りつつある。そのことが明確に数字に表れている。

「肥ることは醜い」とある日ヒユが言った。「肥ることは醜い」彼女はそのほかに何も言わなかった。その言葉はしかし僕には重く響いた。僕はことさらに美醜にこだわるたちではないが、だからといって醜い状態でいて平気なわけでもない。

 

 人生で初めて痩せることについて真剣に考える必要が生じた。手始めに僕は、冷蔵庫と戸棚に備えてあったコカ・コーラをみんな捨てた。合計で5本のペットボトルと24本の缶の中身を、すべて流しに捨てた。

 僕は毎日一時間川べりをジョギングするようになった。もうコーラは飲まず、代わりに水筒に入れたお茶や水を飲む。一時期は、川の水さえコカ・コーラに見えることがあった。

 空いた時間にはゲームセンターでゲームをする。コカ・コーラのことを考えないようにするために。僕はあらゆることを頭から締め出してゲームに没頭した。中毒から脱け出そうとする思いが、ゲームに対する僕の集中力を異様なまでに研ぎ澄ませていたのだった。勝っても負けてもどちらでも構わなかった。そして僕のプレイスタイルは変わった。ストイックだね、などと人から言われるスタイルになった。操作の精度が上がり、これまでは10回に1回しか成功しなかった高難度の連続技も2回に1回ほどの割合で成功させられるようになった。いつしか僕はそのゲームセンターにおける上位のプレイヤーへと成長していた。かつてTがやっていたような連勝数を重ねることもあったし、一日に一度しか筐体にお金を入れない日もあった。一度プレイをはじめて、それから勝ちっぱなしで負けなければ、対戦相手が途切れない限りひたすらプレイすることができるのだ。

 コカ・コーラを断つことによって僕はあえて大げさな言い方をするならゲーマーとしての新しい「境地」に達したのだった。コカ・コーラのおかげで僕は少し向上したのだとも言える。

 そんな生活のおかげで、体重は一応少しは減った。これから先ちゃんと痩せられるかどうかは僕の意志にかかっている。しかし僕はもう一滴もあの飲料を口にしなかったし、飲みたいとも思えずにいた。あの異常な傾倒は一時だけ熱病のように僕を襲った後で、どこかに消えてしまったようだった。

 

57. モノレールの墓場

 

 モノレールはどこからやって来てどこで終わるのか、それが用済みになった場合、どこへ運ばれるのか。ヒユの甥の少年があのとき口にした疑問が、その日、モノレールの座席に腰かけていた僕の頭にだしぬけにまたよみがえった。そしてその疑問が追及する価値のあるものに思えた。僕は降りるときに駅の職員に尋ねてみた。廃車になったモノレールはどこにどんなふうに葬られるのか。

 駅員は、僕が口にした「葬られる」という言葉について、ちょっと変な顔をしながらも教えてくれた。「外国に引き取られて再利用されるか、解体されるのだよ。解体されてスクラップになる。古いモノレールはK駅の基地に運ばれてそこで解体される。立派に走っていた、いや滑っていたというべきですかね、そんなモノレールも、バラバラにされちまうというわけだよ!」

 駅員の男は赤い顔をして、まるで酒に酔っているみたいに妙に陽気だった。

 解体作業の現場を見たことがあるか、と尋ねると、彼は、もちろんあるよ、何度もね、と答えた。そして何か思い出すような顔をしていた。

 僕は礼を言って去った。

「解体現場はいわば墓場みたいなものだからね。それなりの覚悟をしていかなくちゃいけないよ」去り際に駅員はそんなことを言った。

 

 次の土曜日に、僕はモノレールの基地を目指してモノレールに乗る。

 僕は考え続けていた。どうしてあの駅員は墓場などと表現したのか、そして「覚悟」とは、具体的にどういったことなのか。僕にはしかるべき覚悟が備わっているのだろうか? しかし答えが出るはずもなく、モノレールは目的のK駅に到着していた。

 僕は駅を出て歩き出した。あとは歩くだけなのだ。駅員の男に言わせると、「迷いようのないほどわかりやすい道」をたどって歩くだけでいいらしい。「だってあの巨大な基地は、駅を降りた時点で、きっとあんたの目に見えているはずだからね」

 そのとおり、基地はもう見えていた。迷いようがなかった。そちらに向かってただ歩を進めればよい。なぜか奇妙に冷ややかな感触を背中にずっと感じていた。誰かの手がずっとそこに乗っているみたいだ。その冷ややかさが僕から体温を奪う。熱気が揺らめくような真夏の街路を歩きながら、僕は汗をかかなかった。自分の胸のうちにあるものが期待なのか不安なのか、それさえ判断がつかない。

 基地はブロック塀の上に金網を張り巡らされて囲まれていた。無人だった。トラックやダンプカーが出入りすることもなく、人の気配がない。世界の果てに来た気分だった。建物は目の前に立ちはだかっていた。僕は基地の敷地内にまで足を踏み入れる必要はなかった。というのも外から金網越しに基地の内部の様子を眺めることができたからである。それで僕は道路に立って広々した基地の構内を眺めた。構内にはなぜか人けがなく、あたりは静かだった。ひたすら蝉が鳴き続けている。

 目的の物体を僕は目にしていた。すなわち廃車になったモノレール。それはただそこにあった、かつては一日に何往復も都市の上空を行き来したその乗り物は、今ではただの大きな鉄の箱として、基地の場内に置かれていた。そのあとそれがどう処分されるのかは知らない。どこかへまた運ばれるのか、それとも解体されるのを待つだけなのか。クリーム色の塗装は剥がれて色あせ、ところどころに黒いマジックで塗りつぶされたような跡があった。何だかその鉄の箱は長い年月を生きて友人も恋人も妻も子供もなくし人に嫌われ疎まれながら孤独のうちに老いて死んでゆく老人を思わせた。

 いつしか汗は引いていた。そしてこめかみの奥に鈍い痛みを感じていた。僕らは結局同じ旅人なんだな、と鉄の箱を眺めながら僕は思う。いや、実際に口に出していた。「この暗い街を、煙が立ち込める鉄の色をした街の上空を、お前は何度となく往復した。そうさ、僕も似たようなものなんだよ。いわば僕もレールに乗って規則的な往復を続けているだけなんだよ。それが僕の生活なんだ。ああ、モノレールよ、僕には君が他人のような気がしないよ! 僕がその上を歩くレールは、君のあのしっかりとした鉄骨とコンクリートと馬鹿でかいねじやらボルトやらで作られたあのレールほどは立派じゃないというだけだよ。でも僕らのやっていたことは同じようなものだった。とても似ていた」

 暑さを感じなかった。それは僕のもとを去ってしまっていた。容赦なく降り注ぐ日差しの下で僕の体はほとんど冷えていた。こめかみと指先に冷気がまとわりついて離れなかった。

「僕も一度くらいはお前に乗ったこともあったのかもな。なんとなく見覚えがある気がするよ、その色……。それともただの思い違いかもしれない。やっぱり乗ったことなんてないのかもな。考えてみればお前の色や姿をちゃんと見たことなんてなかったからね。いずれにしても、今日ここでお前の姿を見て、いろんなことを思い出してしまったよ。思い出というやつは危険なものだよ! それはときに人を苦しめるためだけに、よみがえってきたりするからね。だから僕はいつからか、そのことを自らに禁ずるようにさえなったんだよ。何をって、思い出すという行為そのものをだよ。過去は僕にとってはすべて過去なのだし、過去でしかないんだよ。所詮ね。今日こうしていろんなことを思い出してしまったのは、それは例外だよ。お前のその姿が、どうやらいつになく僕を感傷的にしたらしい。夏だしね。あの熱い太陽が干からびた思い出や記憶を暴き立てるんだ。僕にとってはそういう季節なんだよ。ねえ、ところで今日は会えてよかった。僕はもう行くよ。またろくでもないレールの上を行ったり来たりする日々に戻るよ。お前はもうそこから解放されたんだったね。お前はこれから本当に死ぬんだったね。じゃあ今度こそ、本当にさよならだ」

 僕は背を向けてその場を去った。

 

 駅に戻る途中の道路を歩きながら、僕はしかるべき熱を感じた。冷気は徐々に去り、感覚は回復しつつあった。アスファルトの照り返しが目を刺し、汗が首筋を伝う。ビュンビュンとそばを走り過ぎてゆく車を目にして、僕はほっとした気分になった。それらの自動車たちは間違いなく生きている。生きて道路を走っているのだ! あの錆びて身動きの取れない鉄塊とは違う。排気ガスをひっきりなしに吐き出しエンジンの音を響かせながらいずれの自動車もどこかを目指して走っている。あたりに生命力が横溢しているみたいな気がした。空の青色も、へばりついたみたいに動かない雲も、響き渡る蝉の声も、みな生命力に満ちていた。僕はようやく人間らしい気分を取り戻した。

 駅のホームにはベンチにひとり老婆が腰かけているだけで他に人の姿はなかった。その老婆はおそらく僕が来る前からずっとそこに座ってモノレールを待っていたのにだろうと思われた。老婆はどことなくそんな雰囲気をたたえていた。僕は老婆と二つ席を隔てて同じベンチに腰を下ろした。

 数分ほどして、老婆がいきなり声をかけてきた。「具合でも悪いんかね」と老婆は僕のほうを向いて尋ねた。老婆は笑みを浮かべていた。長年顔にこびりついたまま離れなくなってしまったといったような、そんな笑みだった。僕は首を振った。

「あなた、顔が青ざめとるよ」

「暑くて、それに寝不足なんです。でも平気です」と僕は答えた。

「水は飲んだかね? 水分を取らんといけんよ。そうしないと、あなたみたいに若くても、この暑さだと倒れてしまうよ。下手したら死んでしまうかもしれんよ」

「その通りです!」と僕は言った。「その通りです」しかし続く言葉は出てこなかった。実際のところ僕は特に具合が悪いというわけでもなかった。ただあたりに横溢する生命力の奔流に、目と頭をくらまされていただけだった。その感覚に、僕は慣れていなかったので、うまく耐えられなかったのだ。老婆にそうしたことを説明したかったが、言葉は出てこない。文章が頭の中で実を結ばない。日本語の文法を忘れてしまったみたいだった。それで僕は、口の中でごにょごにょとわけのわからないことをつぶやいた。その言葉らしきものは、老婆のいるところまで届くことなく地面に落ちたが、老婆はすべてを察したみたいに一度だけ深く頷いた。彼女の皺だらけの赤茶けた顔、真夏だというのに毛糸の黒い帽子をかぶり、真っ白な縮れた髪の毛がその下にわずかに覗いていた。そのあと我々は無言のまま椅子に腰かけていた。数分ほどしてモノレールが到着した。僕は立ち上がった。ドアが開き、僕は乗り込もうとしたが、老婆のほうは立ち上がる気配を見せない。

「乗らないのですか」と僕は尋ねた。老婆は笑ったような顔のまま、首を何度か横に振った。その駅は終着駅であり、モノレールは一本しかない路線を往復するばかりなのだから、乗車する以外に選択肢はないはずだった。この便をあえて見送って次以降の便に乗る合理的な理由は僕には思いつかない。しかし僕にはそれ以上言うべきことはなかった。

 僕はそのままモノレールに乗り込んでシートに腰かけた。ドアが閉まりモノレールは発車した。窓から外を見ると、老婆はまだベンチに座って石のように静止したまま、虚空を睨んでいた。モノレールが速度を上げ、その姿はたちまちのうちに視界の外へ追いやられてしまった。

 

 帰宅したとき、ヒユはリヴィングで『メル』を聴いていた。その音楽を耳にするのはひどく久しぶりな気がしたし、音の表面を覆っていた薄皮が剥がれたみたいに、以前より新鮮に、かつ明瞭に聞こえた。それは思いのほか美しい音楽だったのだ。

「おかえり」とヒユは言った。

「Kまで行ってきたんだよ」聞かれもしないのに僕は言った。そうやって外出先の報告を行うことに、自分がひどく慣れていないことに気づいたが、とにかく僕は話し続けた。「廃車になったモノレールを見学しに行ったんだ。広い基地の片隅に、用済みになったモノレールは寂しげにぽつんと佇んでいたよ。奇妙に静かな場所だったよ」

「面白かったの?」

「ああ、まあね。とにかく僕はそこで何かを知ったんだよ。学んだんだよ」

 

 その夜、僕は夢を見た。巨大な工場に、死んだゾウみたいにモノレールの車両がいくつも並べられている。車両にはいずれも黒い油の汚れのようなものが付着していた。ガラス窓はみな取り払われていて、四角い枠の向こうに座席のシートが見える。干からびた内臓を思わせるどす黒い色に変色したシートはもとは何色だったのか見当もつかない。車内は暗く、奥のほうは完全な闇に包まれていた。

 誰かが僕を案内していた。僕はその人物のあとについて歩いている。そして巨大なその工場のさらに奥深くへと立ち入ろうとしているのだ。工場は広かった。まるでドーム球場みたいに広かった。夢の中で僕は怯えている。何かをひどく恐れ、震えおののいている。僕は暴力の気配を感じる。気配が血の匂いのように空間に立ち込めている。早くしないと見つかるかもしれない。誰に見つかるのか、何を早くしないといけないと思っているのか、それは夢の中の僕にはわからない。知らない誰かは無言で僕を導き続ける。僕にはその人物の背中しか見えない。

 

 ――あそこは確かに墓場だったな。目を覚まして、僕はそう思った。死がまつられる場所だった。モノレールの墓場だった。ひとりで基地でモノレールを眺めていたときに感じたあの冷気の記憶が、まだ指先とこめかみにかすかに残っていた。僕はそれからしばらく、夢の中で感じた死の気配をベッドの上でひとりで反芻していた。

 

58. ヒユの兄のコンサート

 

 チェロとコントラバスによる、低くうごめく音型の伴奏が、沼の底から引きずり出されるみたいに少しずつ形をとりはじめ、ようやく耳に聞こえる程度の音量になったころ、女性声楽家が突然金切り声をあげる。曲はそうやってはじまる。明瞭なリズムもなく、正常なハーモニーもない。雪だるまのような体型の女性声楽家が発する声は、一応はメロディーらしきものを形作っていたが、それはしかし人が容易に口ずさめるようなものではなかった。12音よりもずっと多様な、人の声にしか出せないような微妙な音程を駆使し、なおかつ広範囲に音域が変化する異常な旋律だった。声楽家は叫んだり囁いたりといった唱法を使い分けながら、ときには針で突き刺すように鋭く、ときには溶けかけのチョコレートのように滑らかにその旋律を歌った。『逆光――あるいは追憶の砂場』という題名のその楽曲は、その女性声楽家のために書き下ろされた作品だということだった。彼女の卓越した歌唱能力を最大限に引き出すことを目的として、ヒユのお兄さんが作曲したものだった。

 声楽家の歌声は豊かな倍音と残響を伴っていた。ホールの真ん中あたりの席で聴いていた僕は、途中何度も後ろを振り返った。後方から声が聞こえたような気がしたのである。同じような行動をとっていた聴衆は他にもいた。まばらにあちこちに座っていた人々は、僕と同じようにしきりに後ろを振り返っていた。ステージ後方には何もない。つまり後ろから聞こえたように思えたその音もまた、ステージの上の太った声楽家が発した声なのだった。

 

 コンサートが終わった後、僕とヒユはヒユのお兄さんと食事をともにした。

 4か月ぶりに少年とも再会した。4か月しか経っていないのに少年は以前より成長していた。語彙が増えていたし、口調もどことなくわずかに大人びていた。口のなかでつぶやくようにではなく、はっきりと言葉を発音をするようになっていた。

 レストランで僕らは地中海料理を食べた。ヒユのお兄さんとヒユはワインを飲み、僕はひたすら水を飲みながら、パエリアを食べた。

 僕はコンサートの感想を伝えた。作曲家は自然にさわやかに称賛を受け止めた。おごるでもなく、謙遜するでもなく自然に。彼は全くスポーツ選手のようにさわやかでありながら知的で、僕の作曲家とか芸術家に対して抱いていた勝手なイメージや偏見(つまり見栄っ張りで傲慢で非社交的で頑固であるとかいったような偏見)を、一人で完全に覆してしまった。静かなピアノ音楽がスピーカーから流れていた。二人はワインをひっきりなしに飲み、二人とも同じ程度にほんのわずかにだけ酔っぱらったような様子が見られた。その普段よりほんの少しだけ口数が多くなるという酔い方は、二人ともとてもよく似ていた。

 お兄さんがタラのチーズ焼きをほおばりながら答えた。「息子にも音楽を教えようとしたこともあったのです。この子はとても耳がいいのです。耳がいいと言っても、いわゆる音感という意味ではなくて、言葉通りの意味で、遠くの音や小さな音をとてもよく聞き取ることができるのです。そのことは、この子が生まれて割とすぐに判明しましたよ。非常に微細な音までこの子の聴覚はとらえているらしい、と私たちは発見したのです。私たちというのは、僕と、別れた妻のことです。私にさえ聞こえない音の存在とを時々息子は主張しますよ! ねえ、そうだろう」

 少年は頷いた。本当に聞こえるんだよ、と彼は言った。

「どんな音?」と僕は少年に尋ねた。

 何か動くような音がする、と少年は答えた。

 僕は少年が河原の石を拾い上げては、それらを一つ一つ耳に当てていたときの横顔を思い出していた。

「この子には本当に聞こえるんだと思う。私も息子と同じことをしましたよ、何度も。しかし私には石の声もそれが発する音も聞き取ることはできなかった。ひんやりした感触が耳に伝わっただけでしたね! 私ももちろん耳の良さとか聴覚には自信をもっていますが、それを聴きとるには私の能力は不足していたようです。大人が失ってしまったものを子供が持っている、なんて言い方をすると陳腐ですが、そういうものはたぶん本当にあるのでしょうな」

 

 レストランを出ると、お兄さんは彼の自宅マンションに僕とヒユを案内した。七階の1LDKの小奇麗な部屋には物が少なく、目立つものといえば大きなテーブルと、立派なステレオシステムぐらいだった。リヴィングの壁の一面は本棚で覆われている。少年は寝室に引っ込み、ヒユもまた何かよくわからないことを言いながらソファに横になって目を閉じた。そのまま彼女はすぐに眠ってしまった。

 お兄さんは棚からワインを取り出して僕に勧めたが僕は断った。そして代わりにグレープジュースをもらった。僕らは二人でテーブルに向かい合ってそれぞれの飲み物を飲んだ。

「ヒユはいい子ですよ」とお兄さんは言った。「頭もいいしね。ちゃんと勉強したら、結構立派になれたはずです。でもヒユはあなたもご存知のような仕事についた。かつて妹は、両親に主張したのですよ。はっきりと、当時の彼女にできる限りの熱意を込めて、自分の言葉で、体を売る職業に就くことを志願したのですよ。そのときには実の兄である私でさえ、妹のことが神々しく見えたものですよ。もちろん両親は反対しましたし、それ以前にひどく面食らっていましたが、両親でさえ、娘の情熱のようなものには、ある種の敬意を払わなくてはならないと感じたのか、無下に退けたり嘲笑ったり怒鳴りつけたりすることはしなかったのです。馬鹿なことは言うな、とか、どうか考え直して、とかそういった言葉が、普通の場合だったら口にされていたはずです。しかしそうはならなかった。我々はみんなある種の奇妙な、こういった表現がふさわしいか知りませんが感動のようなものをさえ覚えていたのです。我々は未知の、何か崇高な、それこそ女神か何かを見るように、17歳の娘を見ていたのです! そういう光景が想像できますか? きっとできないでしょうね!」

 僕はできないと答えた。

「無理もないですよ。私だってそうだったのです、あの日妹を見るまではね。知らなかったのです。下品にさえ聞こえるはずの考えが、高貴なものとして響くなどということが、ありうるなんてね。ヒユはそれを実現した。どうして彼女にそんなことができたのだろう? その答えは今もわからない。でもそのとき、私はヒユの味方に付きました。両親も結局はヒユの意思を尊重した。尊重しないわけにはいかなかったんだ。なぜならあの瞬間のヒユは、すでに両親をも、私をも上回る存在だった。それよりはるかに高いところにいて我々を見下ろすいわば聖なる存在だった。両親は立場上は説得してやめさせなくてはならなかった。そして彼らは実際にそうしようとした。でも妹の意志は変わらなかったし、両親もまた、ヒユの考えを変えることなど不可能であることをよく知っていた。最終的に彼らは折れたのです。そして妹は高校を卒業して、大っぴらに夜の繁華街で売春婦として働くようになったのです。それ以来私は妹のことを信頼しているのです。ヒユが下す判断は基本的に尊重し信用します。ヒユがあなたを選んだということは、あなたは妹の信用を得たということで、だから私もあなたを信用することにしているのです」

 いったいヒユは僕の何を評価しているのだろうか? それは今はじめて頭に浮かんだ疑問ではなかった。確かに僕はかつてヒユのマンションの部屋を清掃し人間らしく正常な状態に戻す手助けをした。でもそれだけだ。ほかに何を僕が彼女に与えたというのだろう。何を与えうるというのだろう。ヒユは僕の中に、何かよきものを見出しているのだろうか? しかしそのような疑問はいつも、「結局はヒユは僕を選んでくれたのだし、僕に経済的な援助さえ施してくれているのだし、確かにときどきつらく当たりはするけれども基本的には僕のことを信用していることは伝わってくるのだから、それでいいではないか」という考えに収束されて、それ以上の思考を続けられなくなってしまう。それにどうせどれだけ考えたところでわかるはずのない問題なのだった。他人のことはどうしたって、どれほど親しくなってわからない、という当たり前の結論に行きついてしまう。

 

 別れ際にヒユのお兄さんは僕に、彼の作品が収録されたCDと、自筆スコアのコピーくれた。彼の手書きの文字と音符は印刷されたもののように整っていた。

 

59. よく似た女

 

 夜の町で一組の男女を見かけた。僕が思わず足を止めてしまったのは、その男女のうちの女のほうが、ヒユに似ているように思えたからだった。僕はそのとき二車線の車道を挟んだ反対側の歩道にいて、しかも夜のことだったので、顔や人相がはっきりと見て取れたわけではなかった。しかしその女の背格好は、ヒユにとてもよく似ていた。一緒にいた男のほうは、背が高くスーツを身に着けてて、いかにも自信に満ちた態度をしていた。僕は反射的に、かつてヒユが口にしていた「食品会社の支店長」のことを思い出した。僕はその男の人となりを知らない。しかしそのとき見かけた男は、ヒユの話から僕が漠然と想像していた人物の姿と、不思議なほど似ていた。それほどハンサムなわけでもないが身なりが整っていて、わずかに軽薄そうな印象がある男。二人は特に楽しそうな様子もなく、だからといって退屈そうなわけでもなく、並んで何か話しながら歩いていた。二人とも一度もこちらに顔を向けなかった。僕が彼らを見ていたのはほんの数秒間ほどのことだった。二人はそのまま歩き去り、人ごみに紛れて見えなくなってしまった。よほど後をつけようかと思ったが、迷った挙句思いとどまった。

 

 あれが本当にヒユだったとしても、僕がそのことについてどうこう言う権利はないのだ。いま目にしたようなことはヒユの職業であり仕事であり日常なのだ。ヒユの仕事とはそういったようなことで、そんなことは僕は理解し受け入れているつもりだった。僕が部屋から送り出して夜の街に消えていくヒユは、その仕事のために出かけていくのだ。これまでそれについて痛みも嫉妬も覚えたことはなかった。ヒユの仕事についてあえて考えたり想像したりをしないようにしていたわけでもない。詳細に考えたり想像することがあっても、そのことは特に僕を苦しめなかった。ヒユがTを客として迎えたときの話を聞かされても、僕の心には波風一つ立たなかったのだ。単なる一つの出来事してしか認識しなかった。僕はヒユの職業意識に対して尊敬の念のようなものさえ抱いていたのだ。

 最後にヒユがあの「食品会社の支店長」とやらについて話したのはいつだっただろう? そういえば久しく聞いていない。さっきの男がやはり、その人物だったのだろうか? しかし僕はやがてそのことについて考えるのをやめた。

 気が付くと僕はいつもの海のそばに来ていた。そこへ行くつもりはなかったはずだが、自然と足が導いていたらしい。黒い鉄のような海面がかすかに揺れ、湿っぽい風が吹きすぎてゆく。僕は金網越しに暗い煙突を見上げた。その煙突はこの街にあるものの中で僕が最も愛するものかもしれなかった。ランプの小さな光を見つめながら僕は街から逃げ出すことを想像する。ヒユのもとを去って、どこかよその土地のよその家で生活をはじめることを想像する。そうやってヒユから「解放」されるところを、以前はもっと頻繁に想像していたはずだった。真剣に逃げ出すつもりがあったわけではないし、何か耐え難い思いを抱えていたわけでもない。いわば習慣とか癖のようなものだった。それでもその想像の中には、なぜかかすかな希望の予感があった。その想像をやめてしまったのは、あの醜い女が『花園シネマ』のチケット売り場から去ってからのことだ。あれ以来僕は解放や脱出の可能性について思いを巡らせるのをやめた。そのことに思い当たったとき、今さらながら不思議な感じがした。

 気がつくとあたりに朝もやが立ち込めていた。夜と明け方の間にあるはずの時間が抜き取られてしまったみたいに、いつの間にか朝になっていた。

 

60. 一人の部屋

 

 普段ならとっくに帰っているはずの時刻なのに、部屋にヒユの姿はなかった。僕はシャワーを浴びて、冷蔵庫の中から適当なものを取り出して飲んで食べた。そしてソファに腰かけてぼんやりしていた。なぜか眠ることができず、僕は手近にあった本を手に取り、それを読みながら、ひたすら時間をつぶしていた。午前中の部屋は静かだった。僕は何度か玄関のドアを開いて、廊下を見渡した。部屋から出てエレベータ乗り場まで行き、階数表示をしばらく見つめたりもした。まるで母親の帰りを待つ子供だった。

 ヒユの帰りが遅かったことなんて何度でもある。午後3時か4時ごろまで帰ってこなかったことだってある。そのたびに僕がこんな風に心細くなっていたかというと、もちろんそんなはずはなかった。僕はほとんどそのことを意識さえしなかったはずだった。

 リヴィングのソファの上でうとうとするうちに、正午を過ぎていた。浅い眠りから覚めても状況は変わっていなかった。同じ無人の部屋の眺めがそこにあるばかりだった。タンスの横の壁紙に、いつできたのかわからない黒い小さな点のような何かの痕跡があって、僕は横になったまましばらくそれをじっと見つめていた。ヒユはまだ帰ってきていない。寝室をのぞかなくても、玄関に靴があるかどうか確かめなくても、部屋の空気の感じで彼女がいないことはわかる。僕は立ち上がって洗面所に行って顔を洗った。

 

 夜になってもヒユが帰ってこなかったことがこれまであったかどうか僕は思い返してみた。それについては長く考えるまでもなかった。ない、一度も。僕は唐突にコカ・コーラが飲みたくなった。断酒ならぬ「断コーラ」をはじめてから、すでに一か月以上が経過していて、最近ではその飲料のことを思い出すことさえなくなっていたのに。何かのはずみに思い出したときでも、特に飲みたいという気持ちは起きなかった。だから僕は克服したと信じていたのだ。僕は冷蔵庫を開け、そこに求める飲み物が収められていないことを、知っていながら一応確認した。

 僕は財布を持って部屋を出た。喉の奥がざわつくようなあの感じがまたよみがえっていた。エレベータに乗り込んで一階まで降りるまでの間にも、喉の渇きとは異なる、それを超えた強い欲求を感じ続けていた。

 エントランスをくぐってマンションの外に出ると、僕はすぐさま駆け出した。100メートルほどの距離を走って近所のコンビニエンス・ストアに飛び込み、まっすぐに飲料売り場へと向かい、1.5リットルのコカ・コーラのペットボトルを手に取り、レジに向かった。

 店を出るやいなや僕はペットボトルのふたを開けてそのままがぶ飲みした。飲みながら歩いてマンションに帰り、てエレベータに乗って部屋に戻るころには、ボトルの中身の半分がすでになくなっていた。

 残りのコカ・コーラも数分のうちに一滴残らず飲み干してしまった。空になったペットボトルをテーブルの上に転がし、またソファに腰かけた。実際のところ、またそれに手を出してしまったことに対する罪悪感とか、中毒がまた戻ってくるかもしれないことに対する不安よりは、満足感のほうがずっと大きかった。

 ペットボトルを一本飲み干したあとでは、あれほど強く襲った渇望は消え失せてしまった。

 空のペットボトルを眺めながら思う。ヒユはいったいどこで何をしているのだろう。前にも似たようなことがあった、ヒユが携帯電話を置き忘れてどこかに行ってしまったときのことだ。今度こそ、彼女の身に何か起こったのではないか? 事故とか、事件とか、そうだ、この街はとにかく物騒な街なのだ。

 しかし僕は携帯電話もスマートフォンも持たないので、彼女と連絡を取る手段がない。パソコンでメールか何か送るという手もあったが、あまり気が進まなかった。なぜだかパソコンに向かう気分になれない。パソコンを立ち上げ、メールソフトを起動し、キーボードを叩いて……そういった一連の動作について思うと、ひどくおっくうに感じられた。

 

61. 夢における殺人

 

 僕は迷っていた。このまま待ち続けるべきなのか、彼女と連絡をどうにかしてでも取るべきなのか、それとも気にせずにどこかに出かけてもよいのかどうか。僕には出かけるべき用事など何もなかったし、暇つぶしに散歩する気にもなれない。今外に出て、いったいどこへ行けばいいのか、何も思いつかないのだった。

 ソファに横になって眠るともなく目を閉じた。夢に似た想像の中を僕はさまよっていた。僕は『花園シネマ』の前にいた。あの醜いチケット売り場の女が窓口の小部屋の中にいて、いつものように仏頂面で椅子に腰かけていた。夢の中の僕は、初めて彼女に「大人一枚」とは異なる別の言葉を口にした。

「また会えたね? 会えてよかった」と僕は言ったのだった。醜い女は反応しなかった。観念が揺らぎ価値が転倒する夢の世界においても、やはり彼女は僕を無視した。女は何もかもうんざりといったような不機嫌な表情を崩さず、うつむいたまま手を動かして何かの作業をしていた。窓が小さすぎるために僕にはその作業の内容が見えない。僕はこぶしで窓ガラスを思い切り叩いた。女は眉一つ動かさない。立て続けに叩いても、まるで何事も起きていないかのように無視していた。ガラスはびくともせず、割れることもなく、傷さえつかずに、しかし僕の手からは血が流れていた。いつの間にかもう片方の手にはハンマーが握られていた。こぶしでガラスを割ることをあきらめた次の瞬間に、重い鉄製のハンマーが僕の手の中にあった。夢ならではの理不尽さがそんな展開を可能にしたのだった。僕はそのハンマーを思い切りガラスに叩きつける。一面にヒビが走り、窓の全体が白っぽくなって、そのために女の顔が見えなくなった。僕は繰り返し何度も叩きつけ、ついにガラスを破壊した。その次の瞬間には、なぜか僕は女とともに小部屋の中にいた。女はやはり椅子に腰かけたまま作業を続けていた。背後に立った僕はゆっくりと腕を持ち上げ、女の脳天にハンマーを振り下ろす。


 

62. 夕方の街

 

 僕は窓を開けて部屋の空気を入れ換え、それから部屋に掃除機をかけた。女を殴って殺したときの感触が手にまだ残っていた。固く握りしめた柄の手触り、赤黒く錆びたヘッドの鉄の色、頭蓋骨を砕くときの木の実を割るみたいに意外なほどあっけない感触、頭蓋骨が砕ける音、飛び散る血と脳漿、ぐしゃぐしゃになった女の頭は血まみれ、乱れた髪の毛と血とが重なってなんだかスイカみたいに見えた。それから女は膝を折ってその場に倒れたのだ。僕の足元に女はひれ伏した。それからどうしたのだったか、すぐに目が覚めたわけではなかった。何か無意味な、思い出すに値しない出来事がいくつか起こり、それから僕は夢の外に出たのだ。

 夢が生々しく鮮明だったので現実の記憶みたいに思えた。よほど『花園シネマ』に電話をかけようかと思った。夢と現実の区別がつかなくなっていて、それが実際に起こったことではないという確信を抱けずにいた。しかし何度も言うようだが僕は電話機を持たない。あの映画館の電話番号も知らないし、近所に公衆電話もない。僕は掃除に集中した。すべての部屋の床に念入りに掃除機をかけ、浴室とトイレを掃除し、戸棚や押し入れやタンスの中を整頓し、壁や天井をクロスで拭いた。例の壁紙の黒い小さな点も拭き取った。

 

 夕方になってもヒユは帰宅しなかった。僕は待つのをやめて着替えて外に出かけた。街を歩きはじめて十数分後には『花園シネマ』の前に立っていた。窓口のガラスに向かって「大人一枚」と告げるとガラスの向こうから返答があった。それはもちろんあの醜い女の声ではない。あの女は決して返答などしない。僕は彼女の声を一度も聞いたことがないのだ。僕はチケットを受け取って館内に入った。

 いいじゃないか、何を困ることがある? あのいけ好かない不愉快な醜い女が死んだところで何も困らない。もし本当に彼女を殺したのが僕だったとしても、その何が問題だというのか?

 僕は一本だけ映画を観て、それは決してつまらなくはなかったのだが、映画館を出るころには内容はすっかり忘れてしまっていた。そのあとゲームセンターに行くと、Tが一人でゲームをしていた。彼はひどく難しいコンボ技の練習をしていて、僕は乱入しようかと思ったが、彼があまりに集中していたので、迷った挙句結局やめた。そして後ろから彼が練習する姿を見ていた。Tはコンピュータを相手に、制限時間いっぱいに同じ操作をひたすら行っていた。彼は僕に気づいていなかったし、画面のほかにはどこにも視線を向けなかった。画面上ではTが操作するキャラクターがよどみなく動いていた。難易度が低く設定された相手のコンピュータはほとんど殴られるがままである。ゲームセンターには人が少なく、乱入者は皆無だった。僕は結局Tが練習するところを15分間ほど覗き見ただけで、何もせずにゲームセンターを出た。

 ある角を曲がったとき、道の向こうからやって来た自転車に乗った老人と、僕は出会い頭に衝突した。自転車はそれほどスピードを出しているわけでもなかったので、僕には怪我もなく、せいぜい膝のあたりに痛みを覚えた程度のことだったが、しかし僕は歩行者で、相手の自転車は歩道を走っていた上に前方不注意なので、明らかに相手のほうが悪い。だから僕は、危ないですよ、気を付けてください、と老人に向けて言った。すると相手は、いきなりライオンみたいな吠え声を発したと思うと、右手で僕の肩を強く突いた。その衝撃で僕は後ろによろめき、倒れそうになったが、すんでのところでこらえた。老人はそれきり僕のほうをろくに見ることもなく、何も言わないまま、自転車をこいで去ってしまった。振り返りもしなかった。

 

63. 真夜中の暴力

 

 食事をしたり、買い物をしたり、ファーストフード店でハンバーガーを食べながら本を読んだりしているうち、夜中になっていた。僕はまた街を歩き出した。それはいつも以上に長く目的のない散歩だった。そのうちに市街地から離れ、海沿いに広がる工業地帯に足を踏み入れていたた。10トントラックが何台もすごいスピードでそばを走り抜けていった。

 かつて毎日のようにこの工業地帯に通っていた時期があった。僕は運送会社の荷物の積み込みをするアルバイトをしていたのだ。ヒユと出会うずっと前のことだ。その頃は、まだまっとうに働こうという意思を持っていたのだ。ほとんど生まれて初めて自ら応募して採用された仕事だった。夜中に走る10トントラックを見ると当時のことを思い出してしまう。仕事の内容のためにトラックドライバーと接する機会は多かった。ドライバーたちは、その肉体的な頑健さと、そして年齢に関係なく誰もがみなどこかに無邪気さを残していて、そのせいで一様に好人物に見えた。少なくとも僕には彼らが因習や常識や既成概念といったような、物事や生活をつまらなくする種類のものごとから、自由であるように思えたのだ。彼らと接していて嫌な気分にはならなかった。彼らは荒っぽく、口が悪く声が大きく、髪の毛を派手な色に染めていたりしたが、良い意味で単純で、屈託のない人たちだった。

 そんな認識はロマンチックに過ぎるのかもしれない。単に物事の表面しか見ていなかっただけなのかもしれない。今と同じほどに僕は当時も愚かで、そのうえ今よりずっと若く、いろいろなことについて完全に未熟だった。しかし今でも僕はああいう人たちが嫌いではないし、憧れのようなものさえ抱いている。できることなら彼らのように生きたいと思うこともある。

 歩き続けるうちにそのかつて働いていた運送会社の前を通りかかった。開いた入り口の門からトラックが出て行き、また別のトラックが構内に入ってゆく。ベルトコンベアの作動する音が聞こえてくる。作業員がトラックのドライバーと一緒になって積み荷を降ろしていた。それらをベルトコンベアに乗せ、構内のそれぞれの割り当ての位置に散らばった別の作業員たちが、流れてくる荷物を引き込んで配達地域ごとに仕分けるのだ。そういった仕事が朝まで夜通し続く。

 バイパス道路の下の歩道は暗い。大型の自動車が走りすぎるガシャンガッシャンという重い音が頭上から降り注ぐ。街灯の薄明かりが道路の裏側の排気ガスに汚れたコンクリートを照らしている。僕はまた少し寒々しい気分になる。

 歩行者である僕は深夜の道路ではひたすらに無力で卑小な存在だった。だいたいそこは歩くのにふさわしい道ではないのだ。人はこんな時間にこんな道路を歩いたりするべきではないのだ。歩道と車道が隔てられているとはいえ、運転者にとっては、歩行者である僕はひどくうっとうしい存在であるに違いない。見えにくいし下手すると事故につながる危険な存在なのだ。おそらく車内で僕に悪態をついていることだろう。

 製鉄所や工場や倉庫などの大きく武骨な建物が立ち並び、道路を走るのは大型の車両ばかり、普通の乗用車はめったに通らない。僕は歩道の端に立ち止まり、自分をこんな場所まで導いたものについて考えてこんでしまった。それはやはり嫉妬心だったのだろうか。ヒユにとてもよく似た女性と知らない男が二人で歩いているところを見て心を乱していたのだろうか? あれがヒユだとはっきりしたわけでもないのに。僕は道沿いの建物の塀のそばに立ち尽くし、車道を通り過ぎてゆくトラックを一台ずつ眺めていた。僕は時計を持っていなかったが、ファストフード店を出た時刻と歩いた距離とを考え合わせると、午前2時近いはずだった。そんな時間にこんなところで一人で立ち尽くす人間などまずいない。僕の姿は幽霊のように見えるかもしれない。

 こんな場所に用などあるはずもなかった。しかし引き返す気にもならない。その色褪せた暗い景色の中に自分が埋没することを望んだ。再び歩き出してしばらくすると、どこからか物音が聞こえてきて、僕はまた立ち止まる。建物と建物の隙間に細い路地のような空間があって、その奥のほうから物音は届いていた。笑い声や怒鳴り声のような人の声も混じっている。近くの製鉄会社の敷地を照らすライトが、遠くに人影をおぼろげに浮かび上がらせていた。人影が三つ動いている。三人の足元には黒い塊のようなものが横たわっていた。どうやら彼らは地面に転がったその黒い塊を蹴ったり踏みつけたりしているようだった。罵声を浴びせたり大声で笑ったりもしている。暗く遠かったので、僕が目にすることができたのは人の形をした影だけだった。風体や特徴は全く見て取ることができなかった。

 地面の黒い塊は声も上げず身動きもせずただ蹴られるままだった。だから僕がいる場所からは、その黒い塊は大きな砂袋とかそういったものに見えた。それが本当にただの砂袋であればいいのにと僕は思った。あの三人は、ただ何となくストレス解消か何かのために彼らがそれを蹴りつけているだけだったらいいのにと思った。しかしそんなはずはなかった。三人の罵声や嘲笑は、明らかに人間に向けられたものだったし、いい大人の男がこんな夜中に、そんな酔狂な遊びに興じているとも思えない。

 地面の黒い塊が砂袋などではないことはやがて確実になった。というのも人影の一人が屈んで、地面に横たわる黒い塊に手を伸ばし、犠牲者の髪の毛を掴むような動きをした。そして持ち上げた首に向かって何かまた大声で罵声を浴びせ、もう片方の手で犠牲者の顔を思い切り殴りつけた。ほかの二人はその様子を見て笑い声をあげ、笑いながらまた彼らも地面の人物を蹴った。犠牲者は気を失っているのか動かず、防御の姿勢さえとっていないようだった。

 いつの間にか僕は両手を固く握りしめ、体を震わせていた。いや、認めなくてはならない、僕は恐怖し、怯えていたのだった。助けなくては、と僕は思う。しかし声や態度から明らかにその暴力行為を楽しんでいる三人の見知らぬ人影を相手に、僕一人に何ができるだろう。僕はそう考えて逃げることを正当化した。僕は何もせずそのまま再び歩道を引き返した。暴漢と犠牲者の姿は見えなくなり、彼らの声や音も自動車の音にかき消されて聞こえなくなった。バイパス道路をくぐり抜け、工業地帯を過ぎ、やがて交番に着いた。以前にヒユと一緒に水没した自転車のことで訪れたことのある交番だった。

 交番に入ると当直の巡査がいた。壁の丸時計は午前2時20分を指していた。

 N製鋼の脇の路地で、人が暴行を受けているのを見ました、と僕は巡査に告げた。巡査が詳しい事情を尋ねたので、僕は説明した。「救急車を呼んだほうがいいと思います、ひどく殴られたり蹴られたりしていたから」と僕は言った。

 巡査は了解したと言った。「しかしあなたは賢明でしたよ。変に正義感とか勇気とかを発揮してそいつらに立ち向かったりしなくてよかったですよ。そういうのは勇敢なんじゃなくて無謀なだけですからね。逃げていいのです。あなたの行動は全く正しかったのです。もしあなたが喧嘩が強くて、腕に覚えがあったとしてもですよ(失礼ながら、あなたはそんな風には見えませんけれどね!)、三人の頭のおかしい興奮した連中に立ち向かったところで、まず勝ち目はないですからね。現実は漫画のようにはいきませんよ! あなたはだから自分を臆病だと恥じる必要はないのですよ。いいですか、この街は悪意と暴力であふれかえっています。あなたは今夜はじめて、たまたま知っただけかもしれませんが、こういう暴力沙汰というのはほとんど毎夜のように、この街のどこかで行われているのですよ。あなたはこれまでたまたま目にすることなく済んでいたというだけのことです。あなた今まで危ない目になんて遭ったことないんでしょう? こんな時間にのんきに散歩するぐらいだからね。それは幸運だっただけなんですよ。あなたはその幸運に感謝しなくちゃいけませんよ。もしかしたら、そんな幸運な境遇を、あなたは退屈だとみなしていたのではないですか? それは間違っていますよ。ただ運がいいだけだったんですよ。いつまでもそんな運が味方でいてくれるわけではありませんよ。危険というのはすぐそばに満ちているのですからね。さて、じゃあ、うちに帰ることですな。帰る場所はあるんでしょうね?」

 あります、と僕は答えた。

「それは結構。じゃあお休み」

 お休み、と僕も言って交番を後にした。

 

64. せせら笑う悪魔

 

 部屋に戻って浴室でシャワーを浴びた。手と顔を洗い、口の中をゆすいだ。あの深夜の工業地帯に立ち込めていたすすけたような空気と、あの暴力の気配とを洗い流したかった。そしてまとわりつくように今も背後で僕をせせら笑っている悪魔の形をした無力感も。浴室を出ると僕はリヴィングのステレオ装置の電源を入れて再生ボタンを押した。それからソファに腰かけてしばらく目を閉じていた。もっとも耳には何も届いていなかった。入れっぱなしになっていたCDが再生されていたが、僕はそれが誰の何という曲かわからなかった。何度か聞いたことがある、といった程度の曲だった。悪魔に似た無力感がまたどこからともなく忍び寄ってきた。そいつは嫌なにやにや笑いを浮かべていた。逃げられないんだよ、とその笑みは伝えている。僕は手近にあった本を手に取り読みはじめた。忘我の境地に達するのに読書ほど適したものはない、とどこかの偉い人が書いていたのを読んだことがある気がする。いや、それともその言葉は、幼いころに近所に住んでいた老人から聞いたのだっただろうか? 記憶は混濁していた。集中力も同様で、だから読書は遅々として進まない。同じ行を何度も読み返したり、数ページ読んでまた数ページ戻る、といったことを繰り返した。しかしそんな読書の仕方になぜか徒労感を覚えない。本というのはそうやって読むものなのだ、一文字ずつしゃぶりつくすようにゆっくりと読むのが正しい。そのとき僕は、真剣にそう信じていた。僕はそのまま100ページほど読んだ。ふと顔を上げると、空が明るくなっていた。

 本を置いて立ち上がり、カーテンを開いた。朝になると太陽がこの窓の右側から昇る。僕はその言葉を口に出してみた。「太陽は窓の右側から昇る」自分に言い聞かせるみたいに。なぜならその空の明るさが日暮れなのか朝焼けなのか、確信が持てなかったためだった。それほど深く僕は読書に没頭していたのだった。今、窓の外の右側が確かに明るくなっている。つまり夜は明けようとしているのだ。雲に覆われた灰色の空にオレンジや緑や黄色が混じっていた。夜が明けつつあるという事実は恐怖をもたらした。太陽が地平の果てから姿を現し、ところかまわず日差しを浴びせるさまを想像すると、ほとんど身の毛がよだつほどだった。

 僕はカーテンを閉ざした。そして寝室に行ってベッドにもぐりこみ、固く目を閉じた。二度と目を覚まさないつもりでしっかりと目を閉じた。そのまま死んだように動かず仰向けにじっとしていたが、眠りはやってこなかった。例の悪魔がベッドの傍らに立って僕を見下ろしている。僕は視線を感じる。

 どうしてためらっているんだ? 僕は声をかけさえした。

 しかしそいつは寡黙だった。僕の問いかけには答えなかった。

 眠りたいんだよ、と僕は言った。悪魔は何も答えず、意味もなく空間を漂いはじめた。部屋の中をシャボン玉みたいに漂ったり、ベッドの真上に浮かんで僕を見下ろしたりしていた。僕はずっと目を閉じていたが、目を閉じていても、そいつの動きを目で追うことはできるのだ。何しろ僕とそいつとはとても長い付き合いなのだ。しかしもう声をかけたりはしなかった。

 少し後で音がした。どこかそれほど遠くないところで、重い扉が勢いよく閉まるような音だった。僕はやはり目を閉じていたが、その音とほとんど同時に気配は消えた。悪魔は一時的にどこかに隠れてしまったらしい。おぞましい風貌の割には臆病で、ちょっとした物音にもそうやって驚いて逃げだしてしまうのだ。しかし機を見てまた必ず帰ってくる。

 

65. 嘘をつく

 

 目を覚まし寝室を出てリビングに行くと、そこにヒユはいた。午後3時だった。ヒユは平然としていた。ヒユは当たり前のように、まるで三日も前からそうしていたかのように、ソファに体を伸ばして横になっていた。僕を見て彼女は「あら、起きたの」と言った。「ずいぶん深く眠っていたみたいね」

「ああ……疲れていたんだろうね」

「あなたにも疲れることなんてあるんだ」

「そりゃあるよ」

「サンドウィッチ食べる? さっき作ったの」

「うん、ありがとう」

 僕はテーブルに向かい合って座った。ヒユに尋ねたいこと、尋ねるべきことが何かあったような気がしたが、思い出せなかった。

「あなたが眠るところを見てて、なんだか不思議な気分になったわ。ああ、この人でもみんなと同じように眠るんだなって思ってしまったわ。考えてみればあなたの眠るところをまじまじと眺める機会なんてあんまりなかったから」

 ヒユはそんなことを言いながら僕の前にサンドウィッチを乗せた皿とコーヒーを置いた。サンドウィッチのパンは綺麗に正方形に切られ、ハムとレタスと薄切りにされたキュウリがマヨネーズとともに挟まっていた。ヒユが作るサンドウィッチを僕はひどく好んでいた。しかし僕はそれには手をつけず、マグカップを持ち上げて湯気を立てるブラック・コーヒーを一口飲んだ。舌を焼くほど熱かったが、舌も咽喉も食道も焼かれるままにして胃の中に流し込んだ。眠って起きた後いつもそうであるように、僕は空腹を覚えてはいた。それなのにサンドウィッチを食べたい気分にならない。

「あの交番にまた行ったんだよ」と僕は言ってみた。「こないだ君が自転車の盗難と水没について届け出をしたあの交番だよ」

 雑誌のページを繰りながら、ヒユは顔も上げずに「へえ。何しに行ったの?」と言った。

「落とし物を拾ったんだよ」全く無意味な、つく必要のない嘘を、僕はほとんど無意識のうちについていた。どうしてそんな嘘をつくんだ、と誰かが背後から僕に問いかけていた。僕はその問いに答えられなかった。答えられるはずはないのだ。僕にもわからない。誰かが三人組にひどく暴力を振るわれているところを目撃して、そのことを通報したのだ、と正直に話したところで、僕に何のマイナスがあるというのだろう? こんな風に無意味な嘘をこれからもずっと、僕はつき続けるようになってしまうのだろうか。いちいち意識することなく嘘をつくような人間になるのだろうか。僕の口は半ば勝手に動いていた。

「財布を拾ったんだ。茶色い皮の、シャネルの財布だったよ。札入れのところには、一万円札が12枚も入っていたよ」

「わざわざ中身を見たの?」

「いや、僕は見ていないよ。僕はそのままそれを交番へ届けたんだよ。そしたらお巡りさんが目の前で中身をあらためだして、そのときお巡りさんが言ったんだよ。『えらくたくさん入っているぞ。札束だ! いち、にい、さん……、いや、これはすごいぞ、一ダースほどはありそうだぞ』ってね。お札を一ダースと表現するのが珍しくて、それで12枚入っていたんだと思い込んでしまっていたんだよ。実際のところ、正確に何枚あったのかは知らない」

「そんな大金、落とした人は気が気じゃないでしょうね」

「ああ。でも無事届けたから心配ないよ。だめもとで交番に駆け込んだその人は、きっと感謝するはずだよ」

 僕はそんなふうに、はじめのわけのわからない嘘のつじつまを合わせるためにさらにディテールを積み重ねていった。全く意味のない、ただ嘘をつきたい気分だったからという理由でついた嘘だった。

 

66. お金で買える美

 

 ヒユは雑誌を読み続けている。ヒユはいつも雑誌をひどく熱心に読む。そんなに熱心に読むべき何があるのだろうと思うほどに。

「そういう雑誌って、どんなことが書いてあるの?」と僕は尋ねてみた。

「意外と面白いのよ。あなたが馬鹿にすることなんてできないわ」

「馬鹿になんてしていないよ。ただ何が書いてあるのかなと思っただけだよ」

「どうせあなたみたいな人は、こういう雑誌なんて広告と広告の間にどうでもいい記事とわけのわからないライターだかエッセイストだかが書いたどうでもいいコラムやらエッセイが載っているだけのものだと思っているんでしょうけど、それでも結構面白いのよ。正確に言うと面白いものもあるのよ。こないだ面白い記事を読んだわ。聞きたい?」

「まあね」

「その記事によるとね、女性にとって美とは自ら得るものでも手にするものでもなく、まして生まれつきのものでもなく、ファッションとかアクセサリーとか、規則正しい生活をするだとか、運動とか食事とか、そうしたことじゃなくて、なんだかもっとみもふたもないようなことを書いてたわ。要するにどれだけお金をかけるか、美容に対して使えるお金がどれぐらいあるか、それがすべてなんだってさ。私思わず文字通り『膝を打って』しまったのだわ。それってだって、その手の雑誌の美容についての記事を全否定するようなものだわ。結局金銭に左右されるなんて? でもほとんどの人にとってそれは真実だと思うわ。だってお金に物を言わせて最近の女の子はどんどん顔を買えちゃうんだから。整形したら、綺麗な顔さえお金で買える時代なのよ! それって素晴らしいことじゃないかしら」

 よくわからない、と僕は答えた。

「その書き手の人はそういう時代の到来を賛美していたわ、男の人にしては珍しく。そう、言い忘れてたけどそのライターの人は男性だったの。だからこそ説得力がある気がしたわ。だってたいていの男の人って、整形した女って好きじゃないでしょう。あなただってそうでしょ」

「好きじゃないね。何だか不自然だしね。人間の顔のバランスって不思議だなと思うよ。目も大きくなって鼻が高くなって顎も細くなって、いわゆる美人の条件を満たしているのに、そして確かに美人と言ってもいい感じにはなるんだけど、どういうわけか以前の顔ほどは魅力もないし、いや、気に入らないとか魅力がなくなったというのは主観でしかないけれど、なんだか嫌な感じになったなという印象は抱くよね。冷たいというか、余計に年を取ってしまったみたいにも見えるよ。たいてい整形した人はみんな実際より年上に見えるよ。あとは元の顔が思い出せないほど顔が変わるのもどうかと思うよ。そういう人がかつて知り合いにいたんだよ。すれ違っても誰だかわからないんだ。そういうのはひどく不安にさせるよ。何を信じたらいいのかわからない、というような気分になるよ。だからそのライターの人には同意できないな。僕はやっぱり、内面から出る美しさ、みたいなものを信じたい気がしているよ」

「あなたも結局は古い人間なのよ。古い考え方にとらわれているのよ。美しさだってお金で買えるしお金でどうにかなるのよ。そういう時代はすでに来ている。だいたいあなただってそんなことを言いながら、こないだ皮膚科で顎のほくろを取ってもらってたじゃない。それと同じよ。お金を払って医学の力でコンプレックスを解消したり綺麗になれたりするのなら、やったっていいじゃない。そういう選択肢があったっていいはずだわ」

「僕がほくろを取ったのは美容のためじゃないよ。髭を剃るときに、カミソリが引っかかって邪魔だったからだよ」

「ねえ、ところでそれ食べないの? あなたサンドウィッチ好きだったじゃない」ヒユが思い出したように言った。僕はまだコーヒーばかり飲み続けていて、サンドウィッチに手を伸ばしていなかった。

「うん、なんだかね……、ありていに言うと、食欲がないんだ」

「へえ。そういうことあなたにあるのね。でもだったら最初からそう言いなさいよ。じゃあラップをかけて冷蔵庫に入れとくわ。後から食べたくなるかもよ」

「いや、もう少し待って。もう少ししたら、食欲が戻ってきそうな気もするんだよ。僕は今までそれを待っていたんだ」

「お好きに」と言ってヒユは雑誌を閉じ、壁の時計をちらと見た。「私はこれから、出かける用事があるから」

「どこへ行くの?」

「どこだっていいでしょ。どうしてそんなこと聞くの」

「聞いたっていいだろう?」

「今までそんなこと聞いたことなかったじゃない」

「そうだったっけね」

「今日は仕事が休みなの。だから夜まで帰ってこないわ」

 ヒユは寝室に消えて行った。15分ほど後で再び姿を現したヒユはすっかり身支度を整えていた。ヒユは白いセーター時のワンピースの上に黒いコートを羽織り、足を黒いストッキングで包んでいた。真っ白に塗った顔の化粧と長くつややかで真っ黒な髪の毛、ヒユは全くのモノトーンだった。エナメルのショルダーバッグの色もまた黒だった。ヒユが通り過ぎた後には香水の匂いが漂った。僕は玄関までヒユを見送った。「気を付けてね」「うん」それだけのやりとり、ヒユはドアを開けて出て行った。僕はヒユが部屋に残した香水の芳香の中にしばらく佇んでいた。

 さて、これから何をするばいいのだろう、と僕は思った。自分自身にそう問いかけることが、ひどく久しぶりに感じた。最近の僕にはなんだかんだと何かしらやるべきことがあったのだ。そうだ、僕は言ってみれば「忙しかった」のだ。忙しいという言葉を思い浮かべて僕は笑いそうになった。この僕が忙しいなんて? あの「仕事」に費やしていた時間を、それ以前の僕はどうやって過ごしていたのか、しばらく考えてみたが思い出せなかった。おそらく思い出す価値もないような無益なことをして過ごしていたのだろう。

 そして僕はそのあとの一時間ほどを無益に過ごした。コーヒーを新しく沸かして飲みながら、本を開いたり閉じたり、テレビをつけては消したり、窓の外を眺めたり、そうしたことをしているうちにようやく空腹を覚えたので、まだテーブルに置いたままだった例のサンドウィッチを食べた。ヒユが自分で何か料理を作る必要があるとき、作るのはたいていの場合サンドウィッチで、そしてそれはひどくおいしいのだ。しかしヒユはもったいぶっているのか、単にその機会が少ないだけなのか、滅多にそれを作らない。それは作り立ての鮮度をいくらか失っていたとはいえ、やはり十分に満足のゆく味だった。一切れ口に含んだとたんに僕は食べ物に夢中になり、また自分がいかに空腹だったかを知った。そしてむさぼるようにあっという間に食べ終えてしまった。

 それから僕は夕方の街に出た。風は涼しく夏の終わりが近いことを教えた。僕の足は自然と駅前の商店街の一角にあるゲームセンターへと向かっていた。店内に入るとゲーム機の騒々しいいつもの騒音が僕を包んだが、人の姿は少なかった。平日の午後の、最も客の少ない時間帯にやって来てしまったようだった。僕は『Ultra Street Fighter IV』をはじめた。台が硬貨を吸い込み、電子音が鳴って、ボタンを押すとキャラクター選択画面に移る。いつも使用しているキャラクターを選び、最初の対戦相手が画面に表示される。そうした一連の流れを追ううちに、やがて何も目に入らなくなり、ゲームのこと以外は何も考えなくなっていった。それはアーケードゲームを遊んでいるときに特有の没入感だった。僕という人間の人格は消え、ただゲームを操作する一組の両手のみの存在になる。頭を悩ませる問題や手に負えない嫌な気分といったものは、その間はとりあえずどこかへ追いやられている。

 コンピュータの相手との戦いの途中で画面が停止し、対戦相手が乱入してきたことを表すメッセージが画面に表示された。ア・ニュー・ウォリアー・ハズ・エンタード・ザ・リング。向かいの台で誰かが硬貨を投入して「乱入」してきたのだ。相手がキャラクターを選択し、そして対戦が開始された。その相手に、僕は比較的容易に勝った。すぐに別の対戦者が乱入してきて、僕はまた勝った。しかしその次の相手には負けた。僕は席を立った。僕の後ろにいつの間にか立っていた人物が筐体に向かい、対戦をはじめた。そうやって勝ったり負けたりのサイクルが少人数で繰り返された。いずれの人物も顔見知りだったが、しかしほとんど言葉を交わしたことはない。言葉を交わす場合だって、たとえば誰かが通路をふさいで立っていてそこを通るときに、ちょっとごめんなさい、と声をかけて、相手がああ、すみません、と返事をするとかそういった程度のもので、つまり会話とは呼べないものだった。我々のコミュニケーションはただゲームを通じてのみ行われていた。一人がやがて去り(もちろん挨拶のようなものもない)、残りのメンバーでまた延々と対戦を繰り返した。ゲームセンターで遊んでいると時間はあっという間に過ぎてしまう。時計を見ると午後8時に近づいていた。知らない間にまとまった時間がごっそり消えてしまうみたいで、そのことがかつては怖ろしく感じられたものだった。よく僕は時計が壊れているのではないかと疑ったものだった。しかし今では、時間を一息に飛び越してしまうその感じは嫌いではない。

 

67. メオちゃんの悩み

 

 夜になるとゲームセンターの店内には人が増えてきて、我々はもう少人数で回す必要もなくなった。ちょうど100回対戦した後で僕は店を出た。成績は67勝33敗というもので、それほど悪いとも言えない。店を出ると僕は商店街の中を歩きはじめた。大勢の人間が川みたいに流れをなしていて、僕は魚のようにふらふらとその中を漂いながら、ゲームの対戦で生じた熱と興奮を鎮めた。ひとしきり散歩を終えるとマンションに戻った。

 ドアを開けると靴置き場にはヒユのものではない見慣れない女物の靴があった。僕は靴を脱ぎ、なぜかこそこそと音をたてないように廊下を歩いた。ダイニングのドアを開けるとヒユともう一人の女性がテーブルに向かい合っていた。見たところ二人は同年代に見える。室内には香水とコーヒーの香りが入り混じって満ちていた。二人は同時に僕を見たが、二人とも表情は変わらなかった。ヒユが「あら、お帰り」と言った。僕は返事をして、それからもう一人の女に向けて、あ、どうも、と言いながら小さく頭を下げた。女もまた短く会釈を返した。一言で言うとひどく派手な女だった。てかてかと光る素材のパープルのブラウスを着ていて、胸が小玉メロンか何か詰めているみたいに盛り上がっている。リング状の巨大なイヤリングが耳元で揺れ、脚色された睫毛は南洋の植物のように勢いよく上に向いていた。

 ヒユは僕にその派手な身なりの女性を紹介した。彼女は「メオちゃん」という名前で、ヒユの高校時代の友人で、ある会社の事務員をしているということだった。しかしメオちゃんのほうがヒユよりよほど娼婦らしく見える。ヒユのほうが地味でずっとOLらしいのだった。しかしもちろんそうした見方は偏見ではある。

 僕は「メオちゃん」に改めて挨拶して、それからダイニングを出て行こうとした。するとヒユが呼び止めた。

「どこ行くのよ」

「いや、寝室に」

「何しに」

「別に何もないけど、ゲームでもしようかなと思って」

「そんなのいつでもいいでしょ。あなたもそこに座りなさいよ」

「でも二人で話してるときに、僕がいたら邪魔だろう」

「メオちゃんは困っているのよ。あなたもメオちゃんの話を聞きなさいよ。少しは助けになってあげたら? そうやって紳士ぶってすまして斜に構えるんじゃなくてさあ」

「そんなつもりはないよ」

「私、本当に困っているんです」とメオちゃんが言った。その声は意外なほど柔らかいものだった。「Xさんにもだから相談に乗ってもらえると、助かるかもしれないんです」

 僕が乗り気になるはずもなかった。しかし断ることが容易な雰囲気でもなかった。僕は仕方なくヒユの隣の椅子に腰かけたのだった。

 ヒユがいきさつを説明した。なんでもメオちゃんは両親から結婚を勧められ、ある男性を紹介されたのだが、本当はメオちゃんは現在の恋人と結婚するつもりでいたらしく、それで迷っているのだということだった。Sさんというその男性はあるケーキ屋でパティシエとして働いていてメオちゃんより6つ年上であるということだった。ゆくゆくは独立して店舗を構えることを目標としているという。いっぽうメオちゃんの現在の恋人は、詳しくは語らなかったが収入が不安定な職業についていて生活力は乏しい。羽振りが良いときには良いが、悪いときはゼロになる、といった仕事である。経済力の点では、Sさんと現在の恋人とでは比較にならない。

「それにすごくいい人なんです。礼儀正しくて、育ちもよさそうだし、煙草も吸わないし、誠実そうだし……」

「パティシエっていうのも、何となくよさそうな感じがするでしょう?」とヒユが言った。ヒユは甘いものに目がない。

 つまりメオちゃんの悩みというのは現在の恋人と交際を続けるか、それとも彼は別れて親の勧めるままにパティシエの男性と結婚するか、そういう古典的でありふれたものだった。そんなに派手な外見の女性が、そのような悩みを抱えていることが面白くて、僕は思いのほか熱心に話を聞いてしまったが、しかしメオちゃんは真剣に悩んでいるのだし、いつまでも面白がっているわけにもいかない。

「実をいうと今の恋人ともうまくいっているわけではないんです」とメオちゃんは言った。「最近口論とか喧嘩も多くて、ろくに口をきかない日だってあるんです。それで、パティシエのSさんと出会って以来、だんだん私はわからなくなってきたんです。本当に今の彼が好きなのかどうか、単に長く付き合ってきて情が移っているだけなんじゃないかって。もう好きだとか愛だとか、そういった感情が本当はそもそも何なのか、どういうものなのか、そういうことがわからなくなってきちゃって……」

「そんなのは誰にもわからないのよ。形のないものだからね。はっきりと言葉にできるものじゃないのよ」とヒユが言った。

「でも彼と一緒にいると、とても楽なんです。居心地がいいっていうか……Sさんに対しては、そういう居心地の良さって感じられないんです。そのことが気になって……、客観的に見て、私と同じような選択を迫られた場合、誰だってSさんのほうを選ぶと思うんです。何を悩んでいるのかというと、本当にSさんを信用していいかということなんです。彼は初対面のときから、とてもいい印象を受けたんです。でも私が不安なのはSさんの、その人当たりの良さなんです。もしかしたらあのいかにも人のよさそうな仮面の下に、何かとんでもない本性を隠しているかもしれないって、なぜかそんなことを考えてしまうんです。そういう不安ってわかりますか? 悪人だって表面上はいい人に見えることってあるでしょう? 動物をかわいがったり、子供に優しかったり……いえ、Sさんにきっと裏があるだなんて思う根拠は何もないんです。きっと本当に見かけ通りのいい人なんだと思います。これはだから私の勝手な想像なんです。勝手にSさんに対してひどく失礼な想像をめぐらせているだけなんです。私が不安なのは、まだ私はSさんのことをほとんど何も知らない、という事実なんです。でも両親は結婚をせかすんです」

「世間体とか、両親を安心させるためとか、経済的な安定とか、そうしたことは大切かもしれないけど、自分の気持ちに正直になるのがやっぱり大事だと思いますよ。あなたがさっき言った、彼と一緒にいるときの居心地のよさ、そういう言葉にならない相性みたいなものが、結局一番重要なんだと思う。単純で、しかも根本的なことだからね。他人とか社会とか世間とか、そういうことを考えて、自分の考えや感じかたをないがしろにする態度は、僕は個人的には好きじゃないな。一緒にいて楽だとかそういうのは意外に大事だと思いますよ」

「でもよくわからないんです」

「何がですか」

「自分の感じ方が正しいのかどうか。確かに今の彼とはいわゆる『波長が合う』って感じがするんですけど、それは単に付き合いが長いからだけなのかもしれないし、Sさんとはまだ知り合って間もないから、彼と一緒にいるときほど私はリラックスしていないけど、でもそういうのは時間が解消してくれるだろうという気もするし。それで、だんだん私は疑わしくなっていったんです。今の彼と一緒にいるときの『居心地の良さ』っていう、それ自体が、私の勘違いみたいなものだったんじゃないかって。それは停滞みたいなもので、その静かで動きのない、前進しない状態に、ただ慣れてしまっていただけなんじゃないかって。そんな風に彼と一緒にいたところで、私という人間はこの先発展も成長もしないんじゃないかって、思うこともあるんです」

「でも彼と別れる決心はつかないのですか?」

 メオちゃんは無言でいる。

「あなたの中では本当はすでに答えは出ているんじゃないかな。あなたはSさんに裏の一面があるんじゃないかって疑っていたけど、それは想像でしかないわけだし、たんなる言い訳のようにも聞こえるよ。結論は決まっているのにそれを明確に言葉にしたくない。つまり自分の判断と向き合うことが怖いんです。あなたはSさんか彼かの二者択一に悩んでいたわけではなく、選ぶという行為を避けていただけなんじゃないかな。何かを選ぶということは、それに伴う責任をすべて自分で引き受けるということですからね。責任を怖れていたんだ。自分で責任を取ることから逃げていたんだ。親の言いなりになっていれば、何かあっても親のせいにできますものね」

「そういうひどい言い方をするはやめて。彼女は苦しんでいるのよ」と横からヒユが言った。

「僕は真剣に考えていたんだよ。メオさんの助けになれたらいいと思って」

「あなたにメオにそんなことを言える資格なんてないわ。今あなたが言ったようなことは、誰にだってあることでしょう。誰だって迷うし、自分の判断に不安を覚えることはあるわ。誰もあえて好きで苦しんでいるわけじゃないのよ。だいたいあなたは他人にお説教できるほど立派な人なの」

「お説教なんてしたつもりはないよ。僕は……」

 メオちゃんが口を開いた。「いいのよヒユ、彼の言う通りだわ。言う通りだと思ったわ。その通りなんですXさん!(彼女は僕のほうを向いて叫んだ)確かに私の中では結論は出ていた。でもそのことと向き合うことを避けていたんです。本当は私は今の彼のことを切り捨てたくない。彼は自堕落だけどいいところもたくさんあるし、何より一緒にいてリラックスできるし……、でもSさんを選ぶ自発的な理由は、じつのところまだ見いだせずにいたんです。いい人だし、立派だし、誰から見ても立派なところはたくさんあるけど、じゃあ私が、私自身は彼について本当はどう思うのか、本当にこの先長い間、この人と一緒に過ごしていけるのか、そういうことを考えるのをあえて避けていたんです。いい人だから、立派だから、ケーキ職人だから、といった、うわべのイメージだけしか見ていなかったのかもしれません。私はもっと自分に正直にならなきゃいけなかったんです」

「でもあなた本当にいいの? Sさんとの話断っちゃうの?」

「Sさんにも両親にもちゃんと説明するわ。思うところを正直に伝えるわ。彼らもきっとわかってくれるはずよ」

 テーブルの上のスマートフォンが鳴って、メオちゃんは取り上げて画面を見た。「ああ、もうこんな時間。何だか長居してしまって、悪かったわね。そろそろ帰るわ」

 そう言ってメオちゃんはバッグを掴み立ち上がった。それからメオちゃんは思い出したみたいに僕のほうを向いて言った。「Xさん、今日はありがとう。思いがけず個人的な相談にまで乗っていただいて、いきなりでご迷惑だったでしょうに……」僕は、いえ、大したことは何も、僕のようなものが少しでも助けになれたのなら幸いです、と言った。

 そしてメオちゃんはあわただしく帰っていった。

 

 あとに残された僕とヒユは、メオちゃんが残していった僕らが属するのとは別種の世界の空気の余韻のようなものの中でしばらくぼんやりしていた。

 ヒユが友人を連れてくるのははじめてではない。同じようなことはこれまでにも何度もあったのだ。ヒユの友人たちはみな健全で標準的な人生を生きていた。昼間の一般的な仕事に就き、適度に流行に敏感で、何か過剰だったり極端だったりする性質もなく、人間関係や恋愛について、まっとうに頭を悩ませるような人たちだった。

 彼らはみんなヒユの学校時代の友達だった。話から察する限りでは、ヒユはたいそう楽しく充実した学校生活を送ったらしい。当時の友人たちとは今でも連絡を取り合っていて、ときどき顔をあわせたりもしているのだ。そういう交友関係は僕には想像もできない。学校時代の人間関係が現在も続いているなんて、僕にはほとんど異常のように思えるのだが、ヒユに言わせるとそんなのは「世の中の人々は当たり前にやっていること」で、そんなことを不思議がっている僕のほうが、よほど異常なのだということだった。

 

68. 魔王決戦

 

 僕は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いで飲んだ。

「ねえ、こないだ私が帰ってこなかった日があったでしょ」唐突にヒユが口を開いた。

「うん。あったね」

「あの日、私がどこで何をしてたと思う?」

「知らない」

「知りたいと思わないの?」

「思わない」

「どうして?」

「どうしてって、そんなの聞きたいわけないだろう。きっと傷つくことになる気がする。もう傷つくのはたくさんなんだよ」

 ヒユは笑った。「あなた今日は珍しく正直なのね。どうしたの?」

「そうかもね。ここのところずっと、何だか罪を自白したい気分でいたんだよ。こないだ人を一人殺したんだ。そのせいだろうね」

 もし僕の言葉が真実だったとしても、ヒユは容易にうろたえるような女ではなかった。

「誰を殺したの?」と彼女は言った。

「映画館のチケット売り場の女だよ。ひどく肥っていて醜くて、しかも愛想がひどく悪いんだよ。ずっと気に入らなかったんだ。ほとんど憎んでさえいたよ。それでこないだハンマーで殴りつけてやったんだ。一度殴っただけで、すぐに動かなくなったよ」

「ハンマーって、武器としては割と不便だと思うわ。重いし、リーチが短いから、油断している相手にしかまず当たらないわ」

「ゲームの話?」

「現実の話よ」

「ハンマーで殴りつけるというスタイルが、そのときの僕の気分にぴったりだったからね。これ以上ないほどに醜い、嫌な感じの女なんだ。思い切り頭を殴りつけたとき、正直なところ、僕はせいせいしていたよ」

「その女の人はきっとあなたにとって倒すべき存在だったのね。やっつけるべき相手だったのね。いわば悪の魔王みたいなものね。いつかあなたはそれに立ち向かわなくてはならなかった。そしてようやくやり遂げたのね。私が帰ってこなかったその日に」

 僕はその言葉について少し考えていた。

「あの日私がどこで何をしていたかについては、またいずれ話すわ。今はまだ私にも、うまく話せそうにないの。その準備ができていないの」 

「じゃあその話はもういいよ」

「怒ってるの?」

「怒ってなんていないよ。聞きたくないだけだよ。僕には怒ったりする資格はないよ。だって僕は生活のすべてを君に負っている立場なんだからね」

「資格なんて言わないで。そういう卑屈なことは言わないで。私の稼ぎで暮らしていることを恥じる必要はないのよ。あなたは家事とか食事とかちゃんとやってくれているんだし、ちゃんと役割分担できているじゃない。男女が逆だったら普通のことだわ。男だからってそれを恥じるのは時代遅れだし、間違っているわ。正しくないわ。あなたにそういうくだらない考え方はしてほしくないわ」

「それはわかるよ。でも僕には何も言えない。君が君の時間をどこでどんな風に使おうと君の自由だよ。ずっと僕らはそうやって生活してきたんだからね」

「でも卑屈にはならないで。怒りたいときは怒っていいのよ。あなたと私とは対等なんだから」

 うん、と僕は言った。

 確かにあの醜い女はヒユの言う通りの存在だったのかもしれない。僕にとっての悪の魔王的な存在だったのかもしれない。少なくともある面でそれを象徴していたはずだ。しかしあれはおそらく本当の魔王決戦ではなかった。僕が倒さなくてはならない本物の魔王は、まだどこかにいて、まだ見つけられてもいないのだ。現実はゲームのようにはうまくいかない。現実にはゲームよりずっと安っぽく俗っぽくつまらなくやりきれない様々な事柄が満ちていて、それらはいずれもそれなりに意味を持っていて、中にはひどく重要なものもあるし、したがって容易に解決することもなければ乗り越えることもできず、かといって見て見ぬふりをしてやり過ごすこともできず、放っておけば勝手に消滅するといったこともなく、ずっとつきまとうのだ。それらがある程度片付いて、あるいは上手く逃げ切れて、なおかつ運が良ければ、僕も魔王の城にたどり着けるかもしれない。しかしその時点で僕にどれほどの余力が残っているのだろう。

 

「ねえ、私にも麦茶をちょうだい」とヒユが言った。

 僕はグラスを取り出して麦茶を注ぎ、テーブルの上に置いた。彼女はグラスに口をつけて、しばらく何か考えていた。僕の手にはハンマーの感触がよみがえっていた。不思議なほど手に馴染む木製の柄の感触とずっしりした重みを思い出していた。そうだ、夢の中のことだったのに、あのハンマーには確かに重みがあった。

 

69.  人類と地球の問題

 

「でもあなたの気持ちもわかるわ。私も醜い人間を見ると、殺したくなることがあるから」とヒユが言った。

「そう?」

「醜い人間って殺されても仕方がないと思うわ。醜いということは、それぐらいの罪だわ。醜い人は生きてちゃいけないのよ」

「言い忘れてたけど、僕は現実には誰も殺していないよ。さっき言ったことは夢の話だよ」

「ときどき考えるの、どうして醜いのに子供を作る人がいるんだろうって。醜い人が小さな子供を連れているところを見ると、思わないではいられないのよ。子供が気の毒になってしまう。子供のうちはもちろんまだそれほど醜くない。でもいずれそうなるのよ、父親か母親の顔を見ればわかるわ。こんなに醜い見た目をしていても、やはり自分たちの血のつながった子孫を残したいと思うんだなあって、ときに私は感動してしまうのだわ。感動に打たれて、ショックを受けてほとんど体が硬直してしまうほどなのよ! だってそれってすごいことだと思うの。彼らの本能は、醜い自分たちの血を絶やさず子供に受け継がせることを望んでいるのよ。自己嫌悪に陥ることもなく、反省もせず、悪びれることもなしに、自らの醜さを、我が子に伝承させたいと思っているのよ! しかも彼らはそれで深く満ち足りているみたいに見える。幸福な家庭を実現して喜んでいるように見える。彼らは本当に心から幸福なのかもしれない、でもそれが自己満足でないと言えるかしら? 両親の醜さを受け継ぐかもしれない子供の気持ちを考えたことはないのかしら。子供に対して申し訳ないとは思わないのかしら。醜い彼らの子供はきっと醜く育つわ。そんな醜い子供も、そのうちそれなりに一人前の大人になるのよ。そして醜さが再生産されるのよ。そういうのってどこか間違っていると思うわ。歪んでいるわ」

「よくも君は……、なんてことを! なんてひどいことを言うんだ?! それは言いすぎだよ。そんな意見はひどいよ! そんなことは、決してよそでは口にしちゃいけないよ! みんなきっと君のことを、とんでもない人でなしだと思うことだろうよ!」

「あら、私がこのことをはじめて人前で口にしたと思ったの!? 私たち、"たち"っていうのは、私の仕事仲間の女の人たちのことだけど、しょっちゅうこんな話をしているよ。人の本音なんてこんなものよ。辛辣で、残酷で、みもふたもなくて、ときには耳を覆いたくなるほどのものよ。どうしたの? あなたは傷ついているみたいに見えるわ……おかしなものね! あなたの話なんて何もしていないじゃない。どうしてあなたがそんなに暗い顔をしているの? 自分のことを言われたみたいな気がしたのかしら。でも別にあなたは醜くなんてないじゃない。そりゃあ、かっこいいとも言えないけれど、少なくとも醜くはないわ」

「似たようなことを僕も考えたことがあるからだよ。だからこそ、君が話すのを聞いて、その考えがいかに醜悪で残酷なものかがわかったんだよ」

「今言ったようなことを、あんまり真剣に考えない人だけが、子孫を残すことができるのよ。そして人類っていうのは、そういう人たちが繁栄させてきたのよ。醜さに後ろめたさを持つこともなく子供を生んで、同じように醜い子供に対しても嫌悪を覚えたりせず、ためらうことなく愛情を注ぐことができる人たちだけが、子孫を残すのよ。人類とはつまりそういう能天気な人たちの集合なのであって、そしてそういう人たちは圧倒的多数を占めているのよ。今も昔も、歴史上ずっとね。私やあなたみたいに考える人は、子孫を残さないまま死んでゆく。いわば淘汰されてしまう存在なの。私は自分がそういう世界に適合しえないことを知っている。あなたもそうでしょう。あなたも私たちの仲間なんだから。結局は淘汰される存在なんだから、そんな落ち込んだみたいな暗い顔をするのはおやめなさい。今さら傷ついたってどうにもならないのよ。だいたい傷つくのなんて見当はずれだわ。運命なんだから。私やあなたは、過去に同じように淘汰されてきた無数の少数者たちと同類なの。私たちみたいな例は、歴史上最初じゃないし、もちろん最後でもないわ」

「元気の出ない励ましもあったものだね! 僕はそこまで極端に割り切ってしまうことはできない」

「私はよく思うの、人間が子孫を残すことが正しいことかどうか、それが正しいことだとは私にはどうしても思えないの。ねえ、それは正しいことなの?」

「正しいも正しくないも、それは本能なんだよ。自然の摂理なのだよ。すべての生き物には子孫を残したいという本能があって……」

「本能のことなんか知らない。そんなのは一般論でしかないわ! それが本当に本能なのだとしたら、どうして私にはそういう願望が少しもないの? 生まれてから私は子供が欲しいなんて一度も思ったことがないわ。私だけじゃなく、そういう人は私の周りにも大勢いるわ。人類すべての本能なら、私たちみたいな人たちは、人間じゃないとでもいうのかしら?」

「自覚していないだけで、君もそういう本能を備えているはずだよ。だって君みたいにそうやってかたくなに子供なんていらないと言っていた人が、何かのはずみで子供ができたりするとすごく可愛がるようになることだってある。そんな例はひどくありふれていると言ってもいいよ。つまり君の本能はまだ休眠状態にあるんだよ」

「そういうのじゃないわ。そういう次元の話じゃないの。私はそういう人たちみたいに不用意に子供を作ることもしないもの。生むことも決してない。どんなことがあってもね。だからたぶん私は、そういう人たちがとは別の種類の本能を有しているのよ。人類を否定する本能を備えているのよ。あなたもきっと同じよ。そういう人はこれからどんどん増えると思うわ」

「そんな人ばかりになったら、いずれ人類は衰退し、世界は滅んでしまうだろうね」

「そうなったっていいじゃない。もうすでにそうなりつつあるのよ。その兆しは表れている。私みたいな考えを持つ人は、あなたが想像するより少なくはないはずだし、これからもっと増えるわ。実のところみんなうんざりしているのよ。人間自ら人間についてうんざりしている。戦争とか環境問題とか宗教対立とか疫病とか、そういうものに嫌気がさしているのよ。ささないほうおかしい。みんな本当はそういうのはもう止めにしたいと思っているのよ。地球が滅びることを、心のどこかで願っているのよ」

「ある面では正しいのかもしれないけど、少し極端すぎる気もするな」

「本当の深刻な崩壊がやってくるのは、ずっとはるか遠い未来のことになるでしょうね。つまり私たちが生きている間は、醜い人たちがのさばるさまを見続けなくちゃならない。私やあなたは子孫を残すことなく孤独のうちに死んで、そうやって淘汰されてしまう。そしてかつてそんな風にして生きて死んでいった、多くの孤独な人々が作る列に、私たちも加わるのよ。それが定めなの」

「君はずいぶん悲劇的な思想の持ち主なんだね」と僕は言った。

「醜い人間に子孫を残す資格なんてない、と信じている私にとって、幸福ってどんなものだと思う? それは世界の崩壊以外ありえないの。人類が死滅した後の地球をよく夢に見るわ。今、地球上いる70億人もの人間がみんなきれいさっぱり死に絶えてしまって、そのあとの崩壊した無人の地球のことを思うの。それはとても素敵な夢なの」

 崩壊した後の地球の景色を僕も想像してみた。それは人間だけでなく、建造物も動物も植物も海さえも失われた、黒く乾いた死の星だった。

「私はたぶん人間より地球のほうが好きなんだと思うわ」

 その言葉でその日の会話は終わった。

 

70. ご婦人からの手紙

 

 久しぶりに郵便受けを覗いた僕は、あふれかえるダイレクトメールやチラシの束の中に、一通の封筒を見つけた。それは薄紫色の上品な長方形の封筒で、宛名にはマンションの住所と僕の名前が、裏側には差出人として女性の名前が記されていた。僕はそれを持ってエレベータに乗り込み、部屋に戻った。ダイニングの椅子に腰かけ、テーブルの上に封筒を置いてそれをしばらく眺めた。

 数分後にようやく、差出人の女性の名前がかつてドトールで出会って僕に仕事を依頼したあのご婦人の名前であることに思い当たった。何度目かに会ったときに僕はご婦人から名刺を受け取っていたのだ。しかしご婦人の名前について考えることは稀だったのですぐには思い出せなかったのだった。僕はご婦人のことをたいてい「あなた」と呼んでいたのだ。彼女は僕の住所を知っている。彼女があるとき僕にどのあたりに住んでいるのかと尋ねて、僕はこのマンションについて簡単に話したのだ。彼女はそれを覚えていたのだろう。

 僕は最近もあのドトールにはときどき行っていたのだが、そこでご婦人とでくわすことはなくなっていた。

 僕はペーパーカッターを探した。典雅で上品なその封筒を、手でいい加減に破いてしまうのは正しくないことのように思われたし、また滅多に手紙などもらう機会のない僕は単純にペーパーカッターを使ってみたくもあった。しかしあると思っていた場所にそれはなく、僕は部屋中を探し回るはめになった。結局見つけ出すまでに15分ほどかかった。その道具はヒユが使う鏡台の引き出しにしまいこまれていた。いつヒユがそれを使ったのだろうと不思議に思ったが、そのことを考えるのは後回しにしてカッターを手に取り封筒の封を開けた。中には二枚の薄い便箋が入っていた。僕は鏡台の椅子に腰かけてその手紙を読みはじめた。ご婦人の文字は映画の字幕のようだった。一字ずつ完璧にデザインされていた。

 

「生活の行動範囲が変わってい、あのドトールには行きにくくなってしまい、あなたとお会いする機会もなくなってしまいました。いきなりこんな風に手紙を差し上げて、驚かれたかもしれません。私はあなたに改めてのお礼と、そしていくつかのことを伝えたくて筆を執った次第です。最近、私は息子が残した小説をすべて読み終えました。相当な分量でした。いつ息子はこんなに書いていたのだろうと、私は膨大な文字群に目を通しながら、しばしば考え込んだものです。だって前にも言ったかもしれませんが、私は生前には彼が文章を書いているらしきところを見かけたことなんて一度もなかったのです。私が部屋を掃除するときでも、ノートも原稿用紙も見えるところには見かけたことがありませんでした。よほど周到に用心深く隠していたのでしょうね。

 私はあなたが書き直してくれた息子の小説を、客観的な気持ちで、自分の息子が書いたものだという先入観に邪魔されることなく、読むことができました。そしてそれらの作品を単純に楽しみました。愉快で、喜ばしい体験だった、と言っていいと思います。でも読み終えた今も、あれを息子が書いたとは信じられないでいる気持ちもあります。まるでどこかよそから運ばれてきたもののような感じがするのです。誰でも人は皆それぞれに自分だけの空洞を内に抱えているのでしょう。そして息子の空洞は私が想像した以上に深淵で計り知れないものだったようです。しかし読み終えて、私は深く満足しています。私は息子のことをよりよく知ることができました。彼の未知なる内奥に近づくことができた気もします。改めて悲しみを思い出しもしましたが、その悲しみは、決して苦しいものばかりでもありませんでした。心を覆っていた皮が一枚ずつ剥がれてゆくような、そんな感じを味わいました。今に至ってはじめて私は息子の死を、息子が存在しない世界を、正当に受け止めることができたという思いでいます。息子が死んで以来長い間、私は抜け殻のように生きていたのです。

 あなたがこの厄介な仕事を引き受けてやり遂げていただいたことについては感謝してもしきれません。今だから言えることですが、あなたにあのような大変な仕事をお願いしたとき、もしあなたがすべての作業を終えて大量の文書ファイルを印刷してくれて渡してくれたとしても、自分はそれを読まないかもしれない、と考えていました。息子の作品が、退屈で不出来な作品ばかりでがっかりするかもしれない、と考えていたのではありません。おそらく私は怖れていたのです。息子の声のようなものに直接触れることが怖かったのです。

 あなたが息子の作品についての感想を伝えてくれて、それを気に入ったし面白く読んだと伝えてくれなければ、私はきっと読まなかったのです。あなたはお世辞を言うような人ではないと思いましたし、信じてよい気がしたのです。でもあなたの言葉が私の何かを解放させるきっかけになったのは確かです。別にあれこれ考えなくても、読めばいいんだ、いまさら何を恐れることがあるのだろう……、そういった気分を抱くことができたのです。

 私ははじめからあなたのことを信用していました。初めて言葉を交わしたとき、あなたがあまりにも正直に、あまりにも屈託なく、自分は何者でもなく恋人の女性の収入によって暮らしている身分であることを、初対面の私に告げたときから、あなたにある種の興味を持っていたのだと思います。それでもやはり最も大きな理由は、あなたの姿が息子にそっくりだったことなのでしょう。あなたに声をかける前、実は私は、いつも熱心に何か書いていらっしゃったあなたを、離れたところから盗み見していたこともあります。本当に息子ではないかと思って、はじめて見たときには、私はほとんど息が止まるかと思ったのです! たとえばぼんやりしながら天井や窓の外を眺めるときの横顔が、生き写しのようにそっくりだったのです。

 長くなりました。その後もお変わりなく元気に過ごしていらっしゃることと思います。ところでもしよろしければ、一度うちにいらっしゃいませんか。あなたに息子の写真を見てもらいたい思いもあります。あなたはきっと驚くと思います。息子があなたにどれほど似ているかを知ったら」


 

 読み終えた僕は手紙を鏡台の上に置き、椅子に座ってぼんやりしていた。僕は「不壊音」に思いをはせていた。息子氏が創造した架空の都市。風変わりな人々が、それぞれに深刻な問題や、奇妙ないざこざを引き起こしながら生きて、そして死んでゆく街。いつか僕も「不壊音」について書くかもしれない。あの都市はまだほんの一部しかその全容を明らかにしていない。隠蔽された歴史、語られない出来事、忘れ去られた人々、そういったまだ書かれていない部分が多く残っているはずだ。誰かが余白を埋めなくてはならない。

 

71. 懐かしい部屋

 

 平日の午前中であればいつ来ても構わない、と婦人は手紙に書いていた。それで僕は9月のある朝、ヒユが眠りについてからマンションを出て、婦人が封筒に記していた住所を目指した。バスに乗って降り、10分ほど歩いたあと、僕は白い壁と平たい屋根の大きな家の前に立っていた。門のインタフォンを押すと戸が開いてご婦人が出迎えた。ひそかに危惧していたのだが、久しぶりに会ったご婦人は、僕の姿を見ても「あなた肥ったんじゃないの」とは言わなかったので、僕は少し安心した。勧められるがままに家に入り、ダイニングに案内された。

 広くて清潔で、そして静かな家だった。ご婦人はレモン味のカスタードとアイス・コーヒーをふるまってくれた。僕らはテーブルに向かい合って座った。「手紙にも書いたけれど、あなたには感謝しているわ。全部の作品を読み終えてから、改めて息子の書いた手書きの原稿を見てみたの。あの原稿の山をね。あなたの苦労は並大抵のものではなかったのだと言うことが改めてわかったわ。赤の他人のあなたがそんなことを熱心にやってくれたなんて、信じられないぐらいだわ。改めてお礼を言いますわ。どうもありがとう」

「十分な報酬をいただいていますから、もうお礼は結構です。それに、あの作業は僕にとっても喜びであったのです。僕もあの作業によって多くのものを得ました。あれは仕事のようでありながら、ただそれだけのものではなかった」

 僕らはしばらくそれぞれの飲み物を飲んだ。窓からは花壇のある庭が見えた。日差しが花々を明るく照らしている。

 そのあとご婦人は僕を仏間に案内した。仏壇に息子氏の遺影が飾られている。彼は笑顔で写真に収まっていた。息子氏の顔だちは、想像したほどには自分に似ているとは感じなかった。ひいき目に見ても彼のほうがハンサムである。僕より目が大きく鼻が高く、髪型が整っている。僕がそう言うとご婦人は、あなたは自分じゃわからないのよ、それにふとした時の横顔とか、目の動かし方が似ているの、と言った。確かにそうしたことは自分ではわからない。しかし僕にとっては息子氏と自分との表面的な類似は、さほど重要なことではなかった。彼と僕とは見た目ではなく内面的な部分で、より多くの共通点を有していたのではないかという気がする。彼の小説を読んでいるとよくそう思う。

 息子氏の部屋も見てみなさいと婦人が言って、僕は婦人の後について階段を上った。二階にある息子氏の部屋は簡素で整頓されていた。家具はほとんどそのままで残されているらしい。ベッドと本棚(本の数は意外なほど多くはない)、多くを埋めていたのはCDやレコードの類だった。そして大きながっしりとしたブラウンの机。その横にはステレオコンポが置かれた台がある。僕は机に近づいた。息子氏が小説を書くのにおそらく使った机。ノートや原稿用紙や書物が整然と積み重ねられている。右手の側には万年筆や鉛筆が差し込まれたペン立て、左側には国語辞典、類語辞典、幻獣辞典、科学事典、といった辞典類とともに、作曲家の伝記や楽譜や音楽理論書といった音楽関連の書物が並んでいた。

 室内のあちこちに視線を移しながら、なぜだか僕は寡黙になっていた。何だか遠い昔にどこかで一度だけ入ったことのある懐かしい部屋に戻って来たような気分だった。

「好きな本とかCD、持って帰ってもいいわよ」と婦人は言った。僕は断った。というのもこの部屋に干渉することがためらわれたのである。ここから何かを取り去ったりすることは正しくない行為のように思われた。

「いいのよ。私がいいって言っているんだから。それにあなたがもらってくれたら息子も喜ぶと思うわ」

 そう言われたので、僕は一冊だけ持ち帰った。

 

72. 続・彼女の不機嫌

 

 ヒユの機嫌は悪かった。なんでも郵便局に行ったらしいのだが、そこでとある"きわめて不愉快な出来事"が持ち上がったらしい。そのことについて彼女はひっきりなしにしゃべった。

「代金を入金するために、久しぶりにゆうちょのATMを使ったんだけど、暗証番号を忘れちゃってて、何度も入力して何度も間違えていたら、ATMがピイピイいうばかりでにっちもさっちもいかなくなって、局員の人を呼んだの。口座がロックされてたのよ。それでその局員の女のひとに、ロックを解除する手続きをしてもらったんだけどね、まあその時点で私は相当にいらいらしていたんだけれど、だってどうしてロックなんてされなきゃならないのよ? 不親切もいいところだわ。そりゃあ、暗証番号を忘れていた私が一番悪いよ。それは認めてもいい。でもだからって、どうして利用不能にならなくちゃいけないのよ。そんな理不尽なことってないわ、そう思わない?(僕は黙っていた。なぜなら何と答えようとも、ヒユはまるっきり無視して話し続けるに違いないことがわかっていたからである)とにかくその局員が、これがまたひどくて、まるっきりの『お局』(ここでは、いけ好かない嫌な感じの年増女、といった程度の意味)でね! すごく感じが悪いの。私のことをまるで知恵遅れを見るみたいな目つきで見てね、軽蔑を隠そうともしないのよ! 暗証番号を忘れるなんて、なんて馬鹿な女なんだろう、少しおかしいんじゃないか、足りないんじゃないかって、そんな目で見ていたわ。言葉つきは丁寧だったけど、まさに慇懃無礼って感じで、明らかに侮蔑と軽蔑と、小馬鹿にしたような見下した感じがあってね、しかも絶えず笑いをこらえるような喋り方をするのよ。よほどひっぱたいてやろうかと思ったんだけれど、そんなことしたらおおごとにになるだろうし、警察さえ呼ばれるかもしれないし、何よりさらに時間がかかることになるだろうから、必死でこらえてたのよ。とにかくそれで、新しく暗証番号を設定する手続きをして、その間もあのお局ときたら、ずっと馬鹿にしたような態度を崩さなかったわ。彼女が丁寧なほど、軽蔑がありありと伝わってくるの。あれは大したものだわ! あそこまでいやらしくはなかなかなれるものじゃない。とにかく嫌な感じの女なのよ。頬がたるんでて、馬鹿みたいに大きい眼鏡をかけてて、目が濁っていたわ。白髪の混じったぱさぱさの髪の毛を、後ろで大雑把に束ねているんだけれど、ところどころ痛んで切れた毛が飛び出していたわ。容姿に無頓着で、しかもあんな態度で長年あんな郵便局で働き続けてたら、そりゃああんなに醜くもなるわよ! そして積もり積もった鬱憤を、自分より若い女の客にぶつけるのよ。それがあの女の唯一の楽しみなんだわ。私はイライラしてたながらもその女が説明するままにして、ようやく30分近くもかけて、新しい暗証番号を作ったの。そして無事にお金を振り込むことはできたのだけれど、そのあともずっと嫌な気分が続いていたたわ。まったく、一日の、ほんの一時のことで、その日の残りの時間がみんな汚染されてしまった気がするわ! 大げさじゃなくて、ほんとうに『汚染』っていう言葉がぴったりなのよ。私の心は黒いドロドロの油に汚れたみたいだったわ。だからとにかく、今日は機嫌が悪いの。ごめんなさいね、あなたに八つ当たりしてるみたいになっちゃって」

 僕は思わずケタケタと笑った。「珍しいこともあるもんだねえ! 君の口から『ごめんなさい』なんて言葉を聞くなんてね?」

「そういうこともあるわよ。そういう気分なのよ。つまりこんな気分だからこそ、私は人に優しくしてみたい気分だったのよ。でもこうやって話してたら、少しはましにはなったわ。でも今思うと、やっぱりあのまま帰るべきじゃなかった。せめて何か言うべきだったわ。あんなふうに怒りを飲み込んじゃいけなかったわ。あのときは、とっとと立ち去りたい一心だったからすぐ帰っちゃったけど、やっぱりこっちからも文句の一つや二つはぶつけるべきだったと思うわ。たとえ私が悪かったんだとしてもね。そのことは心残りだわ。でもいまさら改めて怒鳴り込みに行くわけにもいかないしね。そんなのたぶんますます惨めになってしまうだけだわ」

「忘れようよ。人生はそういうことの繰り返しだよ。残念ながらこの先もそうしたことはあると思うよ。そうした問題を起きないようにすることは不可能だからね。それは吸い寄せられてくるようなものだからね」

「じゃあ私がそれを吸い寄せているっていうの」

「まあ、そうだね。そう言ってもいいかもしれないね。生まれつきの、性格というか人格というか、君の行動や考え方が、いろんなことを引き寄せて吸い寄せるんだよ。それは運命みたいなものだよ」

「ずいぶんひどいことを言うのね。でもまあ、あなたらしい考え方でもあるわ

「僕は勇気づけようとしているんだよ。だからね、運命的なものごとについて、あんまり考え込んだり苛立ったり落ち込んだりしないほうがいい、ということを僕は言いたいのさ」

「でもあなたの言う通りのような気もするわ。結局は私が原因なんだね。私の中の何かが、そういうトラブルの種みたいなのを、掃除機みたい吸い寄せているのね。そう思ったことは、何度かもあった気がする。……ところでさあ、そのあとで少し考えてみたんだけど、本当にあの女が言った通り、いえ、実際には一言も口にはしていないんだけど、いかにもそう言いたげな目つきで訴えていたように、本当に私の脳は衰えつつあるんじゃないかしらって、少し不安になったの。だって暗証番号なんて、そんな大事なものを忘れてしまうなんて、おかしいでしょ。そういうのってあれじゃないかしら、若い人でも起こるっていうじゃない。若年性の、痴呆みたいな、ああいう……」

「今は痴呆っていう言葉は使わないらしいよ。認知症って呼ぶようになったんだよ。間違って口にすると、人から怒られるかもよ」

「知ったことじゃないわ馬鹿馬鹿しい。とにかくそういう症状なんじゃないかって思ったの。ねえ、どう思う」

「そんなに深刻なことじゃないと思うよ。暗証番号を忘れることなんて誰にだってあるよ。僕も前に一度あった。まして何年も使わないままでいた口座なんだから、忘れていても無理はないよ。そんなことで脳の衰えまで心配する必要はないと思う。君は頭もいいし、物覚えもいいし……」

「そう? 少しは安心したわ。……ねえ、あなたは今日はどんな日だったの」

「そうだな、それほど嫌なことはなかったけど、だからって特に良いこともなかったな。つまりいつも通りの一日だった」

「じゃあ私に比べて幸せだったのね」

「そうともいえるね。でもとにかく忘れてしまえばいいよ。人間というのは意外に単純なものだから、何かほかのものに関心が向けば、その間は頭から追い出せるし忘れてしまえる。そうやって短い時間だけでも忘れることができたら、すでにほとんど解決したようなものだよ。次に思い出したときにはたいていなんともなくなっている。そういったことはよくあるよ。だから今夜は映画でも見に行って、いろんなことをすっかり忘れ去ってしまおうじゃないか!」

 ヒユは珍しく素直に同意した。僕らは着替えて外に出かけた。僕らは駅ビルの中にあるまともなレストランに行って、普段と比較すると豪華な食事をとった。ステーキ、キノコのソテー、焼いた鴨。ヒユはワインを開けた。僕はが飲むのはいつも通り水だけ。

「そういえばメオちゃんいたでしょう」と食事の途中でヒユが言った。

「うん」

「結婚するんだって。パティシエのSさんじゃなくて、元の彼氏と」

「へえ。おめでたいことだね」

 レストランを出て僕らは夜の街を歩いた。

 

73. 影について(エピローグに代えて)

 

 その夜、僕らが目指したのは『花園シネマ』ではなかった。川を渡ったところにある大型ショッピングモールの4階にあるちゃんとしたシネマコンプレックスである。ショッピングモールはお城と隣接している。映画の開演時刻までまだ時間があったので、僕らは少しの間、お堀の周りを散歩した。空の淵はオレンジと緑が混ざったような色に染まり、迫りくる紫色の闇と拮抗しつつ、ともに溶け合っていた。その空を背にしてライトアップされたお城の姿が浮かび上っている。夜風は心地よく、あたりには人々の話声や笑い声が泡みたいにあたりに漂っていた。人々はそれぞれ思い思いに秋のはじめの宵の時刻をくつろいで過ごしていた。

 僕とヒユはお堀の柵に体を預けて、何ということもない会話を交わしていた。すぐそばでは小さな男の子と女の子が何か笑い合いながらお堀に小石を投げ込んでいた。夜の成分が少しずつ大気を侵食し、一刻ごとに闇が深くなってゆくさまが目に見える。人々の姿はだんだんと判然としなくなり、やがて誰も彼もみな人型の黒っぽいシルエットに変わった。たくさんの人々の影がアスファルトの上で揺らめいていた。境遇も性格も性別も異なる、いろんな年代のいろんな人々がそこに集まっていたはずなのに、地面の上ではそうした差異や相違はすべて消え去り、ただ形や大きさが異なるだけの、あいまいな輪郭を備えた暗い平べったい反映と化していた。どこまで行っても、どの光の下でも変わることなく、同じ色と形を保ったまま、影の群れは幾重にも織り重なって、地面にひとかたまりの巨大な暗い領分を作り出していた。僕とヒユの影もまた、その領分の一端を担っている。

 そろそろ時間じゃない、とヒユが言った。僕らは柵から体を離し、また歩き出した。


 

終わり

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